婚約を破棄しても後悔はしませんか?
「お前との婚約は、ここで破棄することとする!」
ざわついた舞踏会で、俺はとうとう言ってやった。
背中にくっついている男爵令嬢のアザリーが小声で「ハロルド殿下、ありがとうございますぅ」と目を潤ませて微笑んだ。可愛いやつめ。
チラリと前を向くと、婚約者のミリタリアは呆然と佇んだままだ。
こいつは突きつけられた婚約破棄をどう思っているのだろう。
ミリタリアは、パッとしない女だった。
筆頭公爵家であるハルツハイム家、その令嬢であり、幼い頃より決まっていた婚約だったために妃教育は完了している。
だが、それだけだ。
俺に話しかけてきた女性には冷たく、俺が親しくしている令嬢にも「身を弁えろ」など偉そうなことを言うらしい。心の狭い女だ。
きっと見目の良い女性に嫉妬しているのだろう。
幼い頃は特に気にしていなかったが、年頃になり結婚が目の前にちらついてくると、周りは着飾った女性ばかりになり、そんな女性たちにどうしても惹かれるようになった。
そして思う。どうして俺の婚約者は、こんなにも可愛くも美しくもないのだと。
平凡な薄茶色の髪、それなりの顔立ち。
決して不美人ではない。が、本当にあの美しい公爵夫人の娘なのかと疑うほど、ミリタリアには華がなかった。
父である公爵もまた、美丈夫だと言うのにだ。もしかして養子なのではと疑ったこともある。
化粧がダメなのかもしれないと色々試してもらったが、それは変わらず。
ドレスのせいかもしれないとさまざまなデザインのドレスを大量に贈ったが、どれを着てもやはり平凡なまま、変わらなかった。
髪型も、宝飾品も、香水も、何を変えてもパッとしない。
きゃっきゃと可愛らしく笑う令嬢は、結婚適齢期となるにつれ、どんどんと周りに溢れ、ますますミリタリアが気に障ってきた。
そこに現れたのがアザリーだ。身分が低いとはいえ、その明るさと可愛らしさは他とは比べられないほどで、縋るように愛をねだるアザリーについ自ら愛を囁いてしまったのは仕方のないことだったと思う。
多少学があり、十分に釣り合いが取れる身分であろうと、目を引く容姿もなく可愛げのカケラもないミリタリアとは生涯連れ添うのは難しい。頼ってくれたり、弱さを見せてくれた方が可愛げがあるというものだ。
今もなお、婚約を破棄されたばかりだというのに——破棄したのは俺だが——泣きも喚きもしない。
こちらをじっと見つめる緑眼が忌々しかった。幼い頃にはあった可愛げは一体どこで失くしてしまったんだ。
ミリタリアは結んでいた唇をようやく開き、薄く笑った。
「ハロルド様。婚約破棄と仰いましたが——本当によろしいですか?」
「いいもなにも、俺が言ったんだ」
小賢しい。
そんなもので思い止まれるなら、こんな婚約破棄などしていない。
「念のためお聞きしますが、陛下や王妃様はこのことをご存知で……?」
「いや、俺は自分のことは自分で決める。まだ伝えてはいないが、これから伝えるつもりだ。別に反対はされないだろうよ」
「そうですか……でしたら、後悔はしませんね?」
「当たり前だ。するわけがない」
憤然と答えると、ミリタリアはす、と姿勢を正した。
ドレスの裾を軽く持ち、膝を少し曲げて頭を下げる。
王妃教育を終えているから、所作だけは綺麗だと思う。
「かしこまりました。この婚約破棄、受け入れましょう」
そう言って頭を上げたミリタリアの顔は——まさに絶世の美女。
とても美しかった。
「————は?」
どう見てもミリタリア。
髪も顔立ちもこれまでのミリタリアと変わりないはずなのに。
思わず目を擦ったが、ミリタリアはきらきらと輝いて見える。
透明感のあるカフェオレ色の髪、エメラルドのような大きな瞳、薄ピンク色に染まった頬に、赤く弾力のありそうな小さい唇。
一度見てしまえば忘れられない。女神のような。
華奢な身体に似合う小ぶりのネックレス、耳からぶら下がったパールのイヤリング。優しいミントグリーンのドレスは、腰から下へ大きく広がっていて、細い腰が女性らしさを際立たせていた。
全部俺が贈って、かつてどれも「似合わない」と吐き捨てたもの。
先ほどまでとは違い、この一瞬で衣装替えでもしたのかと疑いたくなるほど、よく似合っていた。
「……ミリタリア……?」
「はい。なんでしょう、殿下。ただもう婚約者ではありませんから、呼び方は変えてくださいませ」
「……う!」
キラキラ、と今の今まで平凡だったミリタリアが輝いている。彼女が世界の中心のようだ。
とても眩しい。
「お前、その姿は……なんだ?」
「あら、やはり殿下はご存知なかったのですね。姿が変わったように見えますか? 今見えている姿が、本当の私ですわ。人の印象に残りにくくなる魔法をかけていただいておりましたの」
姿が変わったわけではない。
ミリタリアはミリタリアのままだ。
ただ、纏う雰囲気がまったくの別物で。どこかちぐはぐだった印象が、正確に認識できるようになったとでも言えばいいのか、不思議な感覚だ。
「ま、魔法……?」
呆然としているとあちこちから手が挙がる。
何事かと思えば、手を挙げているのはどれも見知った顔だ。
「ミリタリア嬢! アルトマイヤー侯爵家の嫡男スキアーラ・アルトマイヤーと申します! 僕と婚約していただけませんか」
「私は、モノダ公爵家の次男ボクーノ・モノダだ! ぜひ我が妻となっていただきたい!」
「ふ、俺は隣国の第三王子ワーレコ・ソフサワシィ。なんと美しい。俺と共に国へ帰ろうじゃないか。必ず幸せにすると約束しよう」
こんな輩の挙手が片手では収まらない。
なんだなんだどういうことだ。
「だ、だめだ……! ミリタリアは俺の婚約者だぞ……! それを、そんな勝手に」
慌てたが、聞こえたミリタリアの鈴のような笑い声に口を閉じる。
くすくすと笑うミリタリアはやはり美しい。
「あら、今ほど婚約破棄されたかと思っておりました。ですから、ハロルド殿下の許可を得る必要はございませんかと」
この美貌を前に、これまで彼女とどうやって話していたのか接していたのかわからなくなる。
口端を上げただけの微笑みから目が離せない。
その微笑みを向けられた婚約者立候補の彼らも「はうあ」などと言いながら胸を押さえ悶えていた。気持ちはわかる。
「どうして私がこのような魔法をかけてもらっていたかと申しますと、私は本来このように少々目立つ姿をしておりますから、幼い頃はそれはもう幾度となく拐かされたのです。外へ行けばたちまちのうちに、屋敷の中でさえ隙あらば雇ったメイドに連れ去られそうになり、と両親がちょっと目を離せばいなくなったのです。両親は疲弊しましたし、私も幼いながらに面倒になっていたものですから、容姿の認識阻害の魔法をかけてもらうことにしました。こちらの魔法使いに」
ずずいと出てきた男は使用人の格好をしている。魔法使い特有の赤い目だ。
自分より少し年上に見えるが、魔法使いなんてのは見た目年齢は自在に操れると言う。実年齢はいくつなのか想像もつかない。魔法使いという存在は、自分の興味のあることにしか魔法を使わず、正体も隠していることが多いらしい。本物を初めて見た。
印象的な赤い目を除いても、背は高く、顔立ちも整っていて、十分に目を引く存在だ。
「僕は美しいものが大好きでねぇ。ミリタリアはとても美しいだろう? だからずっと見せてもらえるならと特別に魔法をかけてあげたのさ。使用人の格好をしていればそばにいて良いと言うしね。ああ、もちろん僕や屋敷の者たちには本当の姿のまま見えていたんだよ。——それから、一つ賭けもしていてねぇ」
彼のミリタリアを見つめる視線が気に食わないと思っていると、その目が俺を向く。
「美しくない容姿が原因で、ハロルド王子にもし婚約破棄された場合には、ミリタリアを口説いていいことになっている。……今日いきなり婚約をしたいと名乗りを上げた彼らなんかとは年季が違うんだよねぇ」
赤い瞳が、周囲を黙らせた。増え続けていた挙手がようやく止まる。
いい気味だと思ったが、一番の牽制相手は俺である。鋭い視線には少々たじろいだ。
「全く君は愚かだねぇ。こんなに美しいものから手を離してしまうなんて」
「お前が! お前が魔法なんかかけるからだろうが!」
「ん? 確かに魔法はかけたが、君は本当の姿を知っていたはずだよねぇ。幼い頃のミリタリアを知っているんだから。近しい人間であれば、魔法の効力も弱まったはずだよ。実際、国王や王妃にはあまり効いていないようだったし」
そういえば父も母もミリタリアを「可愛い可愛い」と褒め称えていたし、不美人だと言い切った俺に「思春期かしら……」と心配そうな目を向けられたこともある。
どれもこれも、“いずれ王妃となる”ミリタリアへ向けた親心のようなものかと思っていた。
「く……! しかし、ミリタリアの婚約者は……」
「今ミリタリアが言ったろう? 君が婚約破棄をして、ミリタリアは今フリー。教養も高い家格も兼ね備えた結婚適齢期の女性はなかなかいない。そうでなくともこの美しさ。誰も放っておかない。もちろん僕も」
首をすくめる姿さえ、さまになっている。
こいつにだけは取られたくないと思った。
「それにほら、君にはもう、そこにいるじゃないか。婚約するんだろう?」
アザリーが俺の腕に豊満な胸を押しつけながら「ハロルド殿下ぁ」とうるうるとした瞳で見つめていたが、もう何も思わない。
と言うよりミリタリアの美貌を目にしてしまってから、アザリーの何が良かったのかさっぱりとわからなくなってしまった。他の女性はみんな同じように見えてしまう。
絡んでいる腕をぱっと払った。
「いや、俺はこれからもう一度ミリタリア嬢と婚約してもらえるよう、頑張ることにする」
「あらまあ。お父様が何と仰るかどうか。本当の姿を見せた途端、婚約破棄を覆すのですから、信用は地の底ですわよ。見目ばかり気にするのかとお怒りでしょう」
「それはもっともだ。猛省し、謝罪する。そしてもう一度婚約できないか何度でもお願いに行こう。ミリタリア嬢が隣にいてくれるように」
思い返せば、婚約したばかりの頃、俺は純粋にミリタリアを楽しませたいと思っていた。
幼いながら、ミリタリアを想い、ミリタリアのことを考えて、プレゼント選びや話題づくりをしたものだ。
ころころと変わる表情がとても可愛くて、ミリタリアが城にやって来るだけで喜んでいたはずなのに。
表情ではなく見た目ばかりが気になり始めたのは、妃教育が始まって、自分も授業や鍛錬で忙しくなり、会える時間が少なくなったから——いや、これも言い訳か。
もう二度とミリタリア以外には目を向けない。
俺は生涯愛し尽くす。
ミリタリアを幸せにするのは俺でありたい。
「そう? 頑張って?」
意味ありげに微笑んで、魔法使いにエスコートされながら退出していく。楽しそうに魔法使いと話す彼女にさえ惚れ惚れした。
エスコートは俺の役目だったのに。
嫉妬と欲望で頭に血が昇っていたこともあって、退出していく二人の会話は、残念ながら俺の耳に届かなかった。
「もう魔法を解いて本当に良かったの?」
「ええ、もう力のない子供ではありませんし。それに、見せつけておきたかったものですから」
「かわいそうに。もう君以外、目に入らないと思うよ? 彼。本当にあんな男がいいの?」
「かわいらしいでしょう? 先に私から目を逸らしたのはあちらなのですから、それくらいのことしたって許されると思うわ。ふふ、どうやってお父様を説得してくださるのかしら」
「意地の悪いミリタリア。あーあ、絶対僕の方が幸せにできると思うけどねぇ」
「あら、私、お父様より年上の方にはそういった興味はございませんの。もちろん見た目は素敵だと思ってますわ」
「はは、ミリタリアは厳しいねぇ」
微笑みを交わしながら帰っていく二人の姿を見届けて、俺も足を進めた。
あまりに勝手で馬鹿げたことをしてしまった。父と母へ謝罪と、ハルツハイム公爵への面会打診、どちらも一筋縄ではいかないだろう。時間はいくらあっても足りないな。
立ち去る直前、視界の端に泣いた顔が見えた気がしたが、朧げで誰だかわからなかった。
お読みいただきありがとうございました!
ひどいやつだ