1 -4. 芯
水を飲んだのと同し要領で、それはそれは苦ェ痛み止めの煎じ薬を三口飲まされた後、蕎麦の汁粉を出された。濃い蕎麦湯みてェなモンで、とろりとした塩味で口直しになって助かった。そいつを一口一口飲ませながら、錐嶺は俺をここで診てくれてる経緯を語った。
曰く、朝、水を汲みに清水の湧く岩壁へ行ったら、俺が倒れていたと。だから、ここ、自分の養生所へ連れて来て手当てして、今は翌日の夕方だと。
「運が良かったと言って良いのか…、黒野の兄さんは、ここらで一番きれいな水に打たれてたんだよ。傷を洗ってくれてたし、冷やされたお陰もあって出血量も少しは増しになってて、…ん、全部飲めたね」
吸い口を引き抜きながら俺の口元を拭って、脇へ片す。
「でもあのままで居たら体が冷え過ぎて危うくなってたし、血も止まらないし、その臭いで山の獣に見つかってたかも知れない」
「うェ…それァ御免被るな」
破落戸に殺られるより、熊だとか山犬の群れ相手の方がよっぽど恐ェ。熊なんか、止めも刺さねェまま喰い始めるらしいからな…。
「…でもあんた、それだからって、俺を拾ってくれたってェのか?」
そう訊ねると、布団を汚さねェよう養生に敷いてた布を片付けていた錐嶺が、手を止めてこっちへ向き直った。
「堅気のモンが負う傷じゃ無ェと見て取ったんだろ? 俺が腐った破落戸だったらどうすンだ? 見たとこ、ここにゃ女のあんた独りしか居ねェみてェじゃねェか」
職癖が顔を出して、思わずそんなことを吐く。
一応俺は不埒な男じゃねェ積りだ…一応、最低限は! そらァ無防備に近寄られりゃァ、色めェた事が頭を過ったりはするが。腹じゃ何を思っちまったとしても、真っ当に振る舞うよう心掛けてる。だが、そうじゃ無ェ男はこの世にゃごろごろ居る。そんな奴らに惨い目に遭わされた女を、うんざりする程見て来た。
錐嶺は腕組みして、う~んと唸った。
「医者にしてみれば、患者かそうで無いか以外のことは関係無いと言うか…、助けられるかも知れないなら、放っておくことは出来無いよ」
「ヤ、そうじゃなくって──」
俺の言葉を遮るように、すいと片手が挙がった。
「確かにここで暮らしているのは私独りだけれど、この母屋で寝起きしてはいないし、私が独りで兄さんを運んで来た訳じゃ無いよ」
そう言って、ふと笑う。
「そもそも、私じゃとても、あすこから殿方一人を担いでは来られないよ。一番近場に居る猟師の兄さんを呼んで、手伝って貰ったんだよ。山中で、もしもの時に助けを呼ぶ為の連絡の仕方が取り決めて有って。杣(:木こり)や猟師の衆らとの間でね。それに、折々誰某彼某ここへ寄ってくれる。お蔭様で有り難いことに、山を降りなくても入り用なものは手に入るし、暮らして行けてる」
うわぁ、貢がせてンのか、この女。──と思ってたのが顔に出ちまってたかも知れねェ。
「その代わり、ここから見渡せる範囲で助けを呼ぶ合図が上がれば、私もいつでも駆けつける。それが私の仕事で、…仕事でなくてもそうするけれど。そうやって助け合うのがここでの仕来り…というか、ただ当たり前の事なんだよ」
錐嶺は静かな目でそう言って、組んでいた腕を解いた。駆けつける、ってのは言葉通りなのか。長半天の下へ履いてンのァ、染めが褪せたような薄鼠色の裁付袴。こンならすぐと山道へ出て行ける。
「町中と違って、ここは獣の領分だからね。人が暮らすには皆で協力しないとやって行けない。怪我人だって、山に放ったままにしたら、後から縁者さんが探そうにも、獣達に骨まで攫われてしまうよ」
説得力はあった。『貢がせる』なんてェ俗っぽい事を考えた手前を、恥ずかしく思う位には。山ン中じゃ、腕の立つ医者は相当貴重な筈だ。それもこんな親身になってくれる医者は。山の衆が錐嶺を大事にすンのも当たり前だろう。
「でもあれだね、黒野の兄さんは優しいね。私を心配してくれたんでしょ」
「ヤ、心配ってェか、…その…」
職癖なんだが。身元は明かすなと言われちまってるから、それは言えねェ。暫く俺の続く言葉を待ってた錐嶺が、
「有り難う」
出し抜けに礼なんぞ言って、満面の笑みを浮かべるもんだから。
惚けた。
いやいやいや、何で俺が礼言われてンだ。
「ヤ、俺の方こそ、面倒掛けちまって済まねェ。恩に着るぜ」
「着なくていい」
笑顔のまま、首を横に振って言う。
「え」
「恩に着なくて良いんだよ、そういう仕来りなんだって言ったでしょう? 持ちつ持たれつ」
「…」
持ちつ持たれつ、は分かる。俺の信条にも沿う。けど、俺が持てるモン、返せるモンが、少な過ぎる。今一つ呑み込み切れず言葉を返さなかった俺を置いて、錐嶺は「さて」と立ち上がった。
「そろそろ仰臥に戻ろうか。夜は冷えるから、これを着て貰うよ」
煤色の着物を掲げて見せる。木綿の紐付き半襦袢。
「右腕は肘を曲げない方が良いから、仰向けで先に右袖を通して、左身頃を背へ回すのにまた一寸横向きにするよ」
その説明通りに、錐嶺は丁寧且つ手早く俺を動かし、半襦袢を着せ掛けた。曰く、左腕も肘と手首を傷めてて曲げ伸ばししねェ方が良いってンだが、この半襦袢、袖付けが広く仕立ててあって、腕を無理に曲げねェでも楽に袖へ通せた。洗い立てのお陽さんの匂いがする。
その着てる最中に「あ」と錐嶺は何か思いついて、
「と、その前に、喉は乾いてる? 御水、飲む?」
と訊いてくる。ああ、横向きでねェと飲めねェから今の内に、ってか。
「や、水はもう好いンだが…」
うっく。さっきから何と無く感じちゃ居たんだが…言い出し難い…。
「もう傷の痛みが戻って来てる?」
「んー、まァ、この程度の痛さは堪えられる、何て事ァ無ェ。ただ…」
何と言ったモンか。錐嶺はじっと俺の言葉の続きを待ってる。あぁもう、俺! 腹括れ!
「…その…催して…」
はあぁぁぁ、こんな事、面倒見て貰いたかァ無ェが、体が動かねェ以上もう仕様無ェ。
…って、頭を抱える気分で言ったのに。至極何でもねェような声音で返って来た返事に、頭ァカチ割られたみてェになった。
「ああ。そのままして貰って大丈夫だよ。御湿使って貰ってるから」
使って貰ってるって。使って貰ってるって。俺今襁褓してンの!?
「尿瓶でも良いけど。どっちが好い?」
「どっちって」
どっちもヤだ、たァ言えねェぞ。後の手間を考えりゃ尿瓶か。けど俺、両手共使えねェし。あああぁ、急に切羽詰まってきた。
「尿瓶にするなら、最初の一回だけは持ち番に付くよ。手を放しても零れず使えそうか見せて貰わないと。お布団を濡らさないように養生布を腰の下に敷いてはあるけれど、それで防げるのも限度があるからね」
ぉ、ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
何か、声にならねェ何かが、喉の奥から出た。
「今回は、襁褓の片付け頼ンます…」
「うん、分かったよ。じゃ、出たら言ってね。大便は特に。すぐに拭かないとかぶれるから」
ああぁぁぁぁ。屈強な山の衆も、この姐さんにゃ頭が上がらねェに違ェ無ェ。そンで俺も、本日この時からその仲間入りか…。
そう思ってたのに、仰向けの方が良いから一寸待ってね、と言って俺を慎重に仰向けに戻した錐嶺の手が。
体のあっちこっちで起きる鈍痛に気ィ取られてたにも関わらず、それをはっきり感じ取れた。
錐嶺の手は、小刻みに震えてた。