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錐嶺  作者: 瑞浪 諧
1 黒野(くろや)
8/205

1 -3. 名

 「名を名乗らないで。私も名乗らない。それさえ呑んでくれるなら、怪我が治るまでは面倒見るよ。()い?」


 名を、つまり身元も事情も、言うな、知りたくねェって事か。


「…()いも(わり)ィも、それ、俺の方で選ぶ余地()ェじゃねェか」

「あー、…そうかも。ここ、大分山深くだから、怪我した身で放り出されたら生き残るのは相当厳しいよ」


 (ひで)ェ事言ってる当の本人の癖に、女は何でか苦笑気味だ。

 しかし、医者だっ()ェからどっかの町まで出て来られたのかと期待したんだが、やっぱしまだ山ン中だったかァ…。


 「でも兄さん、そんなのモノともしないような強者(つわもの)だったりはしないの?」

「どこ見てンな事言ってンだ。こちとら指一本満足に動かせねェ怪我人だぜ」

「そのご立派な体を診たから言ってるんだよ。荒事にも慣れてるようだし」


 …あぁそっか、体に残ってる刀傷の痕を見たのか。慣れてるってェか、ありゃァ手前(てめェ)の未熟さの名残だ。傷痕の数分(かずぶん)、場数を踏んで来てンのァ確かだが…、堅気の人間じゃ()ェと見て、厄介事に巻き込まれたかァねェし、名乗ンな、ってか。

 破落戸(ごろつき)だと思われてンなら心外だ。持ってた手荷物が有りゃ身分は証明出来るんだが…

 でもまァ、確かに名乗らねェ方がこっちにも都合が良いかも知れねェ。


 「名乗らねェのは()しとするが、治療代はどうすりゃ好いんでィ」

「んー、じゃあ、お(だい)の代わりに一冬分の(まき)運び、っていうのでどう。(おもて)に乾かしてあるのを、内土間(うちどま)へ運んで積み直すんだけれど。動けるように成る頃には季節も丁度好(ちょうどい)い頃合いだろうし、怪我の回復訓練にもなるし」


 特に揶揄うでもふざけるでもねェ表情で女は微かに笑む。薪運びだァ? そンな(なげ)ェ間医者の世話になりゃァ、法外な額になる筈。薪を取込む(くれェ)じゃ割が合わねェぞ。…真意が分からねェ。

 顔を見る限り、悪意も胡散臭さも感じねェ。言葉通りなのか? けど冬支度する季節ってェと、(なお)ンのに二月(ふたつき)以上はかかるって事か。…いや、二月かけたって…


 「…手が動きゃァな」

右腕の事を思うと、言い知れぬ(ひで)ェ心持ちになる。合口(あいくち)で切り裂かれちまった利き腕。山を転げ落ちる前、現場近くで立ち回った時にしくじった。


 「ああ、右腕? 傷に手拭いが巻いてあったね。腕の上の方に止血してた跡もあったけれど、兄さん自分でしたの?」

「あァ。押せェ付けても血が止まらねェから、縛った。そンでも止まらねェから後で傷へ手拭い巻き付けたら、やっと()しンなった」

「片手で巻いたにしては、しっかり巻けていて上出来だったよ。怪我をした後、指は動かした? 指先まで感覚は在った?」

「動かした。ただ、指でも手首でも動かすと(いて)ェし血がわーっと垂れ出すし、仕方無(しかたね)ェから紐は巻きっ放しにしといて、締めたり緩めたりしてた。あんまし効き目は無かったが」


 うん、うんと相槌を打って聞いてた女は、

「ああ、それは、心臓へ帰る向きの血の出血だったから効かなかったんだね」

()って、こう、と俺の手首から肘へ向かって指を差す。

「あんなとこ縛っても、川下を堰き止めてただけ、って事か」

「そうそう」

道理でさっぱり止血出来なかった訳だ。四苦八苦したのに(はな)から無駄骨だったとァ…。

「腕の傷は、診た限り太い血管は切れてなさそうだったし、傷の向きが幸いして、筋肉も断ち切られてしまってはいない。深手には深手だけれど、熊だの落石だのに襲われた時のような怪我と思えば…」

女はそこで、一つ溜め息を吐いて、苦し気になった表情を振り払った。

「それと比べたら、部品が足りなくなってる訳でも無いし、すっぱり全然綺麗な傷だし、大丈夫」


 …それ、比べる相手が悪過ぎねェか?


 「なのでやっぱり薪運びをお願いします」

(なお)ンのか、これ」

「治るよ」


 全く()ってあっさりそう言う。本当かよ。俺が(おのれ)で感じてる深刻さと差が有り過ぎて、頭が付いて行かねェ。


 訝しんでたら、

「あー、うん、『治る』と言うか、『治す』んだよ。しっかり回復訓練して」

と付け加えて、更に続けた。

「腕より、左の足首の方が厄介だよ。骨を折ってしまってるから」

「え。足折れてンのか!?」

ヤ、だから、一寸待ってくれ、頭が追っ付かねェ。

「うん。杖無しで歩けるようになるまでに、少なくとも三月(みつき)位は掛かると覚悟しておいて」

三月。三月も…。


 …、待て待て。どっか遠くへ行きかけた頭を、引き戻す。やっちまった怪我はもう仕方が()ェ。それこそ、腹ァ(くく)るしか。


 「あと左脇腹の、それ」

それ? ああ、鉄砲で撃たれたとこか。堅気じゃ無さそうな怪我ってンなら、こいつが一番当て嵌まる。

「まあでも、ちゃんと動けるようになって帰って貰うよ。出来る限り不具を残さないよう、手を尽くします」


 この医者、信用して良いのか。良いのか? 俺、何を見て信用出来ると思ってンだ?

 …態度。表情(かお)。何か隠してるようにゃ見えねェ。首ィ動かすなっ()った時以来、張り詰めた感じが全く()ェ。笑みも、客商売の人間が四六時中顔に貼り付けてンのたァ違う。ただ思ってることが──安堵が、そのまま表れ出ただけに見える。患者が目覚めた事にほっとしてンのか。

 俺の勘はとっくに、この女は敵じゃ()ェと判断して、それに従っちまってる。


 「体が動いて斧が握れりゃ、次の冬の分の薪も拾って来て割ってやらァ」

「ふふふ。()い意気だね。助かるよ」

白い歯を見せて笑って言う。信用は出来そうだが、何かこう、…妙な女だ。

「そンで、あんたの事ァ何て呼びゃ良いんだい」

「猟師の衆からは『きりみね』の、って呼ばれてる。この土地の名前だよ」

「きりみね」

「そう」

「『(きり)』の立ちこめる(たか)()』?」

「ううん、穴を開ける道具の方の『(きり)』。『錐』みたいな(しゅん)(りょう)』」

「あァ、成る程」

「兄さんは、黒野(くろや)()のようだから、『黒野の兄さん』で()い?」

あ。仕舞った、俺、黒野言葉(くろやことば)丸出しで喋ってる…。

「…好きなように呼びねェ」

溜め息が出る。迂闊過ぎらァ。

「あんたみてェな御医者様でも、中本物(ちゅうほんモン)なんか読むんだな」


 己の腑甲斐無(ふげェな)さを棚上げして紛らわす為の、詰まらねェ皮肉だった。人情本の(たぐい)でも読んでなけりゃァ、こんな地方の在方(ざいかた)で黒野言葉なんざ知らねェだろうと思って。


 けど、女──錐嶺(きりみね)は、黙って幽かに翳った笑みを(けェ)した。苦笑いとまで言えねェその色合いが、やけに胸を騒がせる。


 「さて」

気を取り直すように言って、傍らの台から錐嶺が何かを取り上げる。あ、聴診器だ。それを首へ掛けつつ、

「ちょっと触診するよ」

と言うなり立ち上がり、俺の頭を片手で掴んでおいて──

「これは痛い?」

「ぅあっ…!」

問いと同時に押し込まれた左脇腹が、カッと熱く。

(いて)ェよ!」

あっ、(わめ)くと首(いて)ェ…

「御免っ」

ぎゅっと左腰を掴まれる。糞、触ンなと喚く前に、一気に痛みが和らいでた。腹ん中で何かが焼けついたみてェだったのに。はぁぁ。どうにか息を吐く。

「大丈夫? 少しは退()いた?」

痛くした張本人に、幾ら気遣(きづか)わし()な声で言われたってなァ…、あぁ糞、分かってらァ、(いて)ェか確かめる為の触診だから仕方無(しかたね)ェんだろ。

「…先に一寸(ちった)ァ心構えさせろィ」

文句言って見遣(みや)ると、苦笑して

「御免ね。でも完全に薬が抜けるまで待ってたら余計に辛くなるから、今の内にさせてね」

と言われた。容赦()ェ。

「一寸お腹をあちこち押すよ。出来るだけ力を抜いていてね」

今し方の痛みを思って身構えようとしたら、先回りしてそう言われる。宥めてる(つも)りなのか、頭を押さえてた指がとんとんと蟀谷(こめかみ)を軽く叩く。

「痛かったら言ってね」

…。


 何度か腹を指先で押し込まれた。場所によってはぐりぐりやられた。片手で聴診器を当てつつ押したりも。けど、初めの一撃(・・)から案じた程の痛みは無かった。


 「大丈夫そうだね。じゃあ次は、(あばら)を診るよ」

 胸の真ん中から、肋一本一本を辿(たど)るように押される。途中、左脇の辺りで

「ここは多分痛むと思うけど、なるべく力まないように構えてて。息を詰めないようにね」

とか言って脅すモンだから、物凄く身構えてたんだが、

「どう?」

「確かに(いて)ェにゃ(いて)ェが、それ程でも()ェな」

うんうん、と頷いて、脇下から背中の方まで辿られた。


 「横向いてるついでに背中の縫った傷を診るよ。少しひりひりするかも知れないけれど、首を動かさないで居てね」

また蟀谷(こめかみ)をトントンやってからその手が離れ、俺の胸元で何か…ああ、包帯の結び目を解いてンのか。それから、だらんと垂れたままの俺の左腕を軽く持ち上げ、肩越しに包帯の背中側を緩めて、背を覗き込…ちょっ、待っ、寄り過ぎ寄り過ぎ。さっき横向きに転がされた時もそうだったが、袖を捲くった錐嶺の腕と、腹が目の前に。思わず息を詰める。


 「うん、心配する程は膿んで来てない」


 片手で俺の肩を支えたまま体を離すと、俺の胸の前へ追加の枕を押し付けるように置いて()う。…息を吐く。俺の体が倒れねェように自分の腕と体で支えてくれてたんだ。


 「この分なら、背中が痛くて寝てるのも辛いってことにはならなさそうだよ。良かった」


 俺の背中から剥がした布を、ぱらりと床の方へ落とす。錆色に血がこびり付いてンのがちらっと見えた。う…、(にわか)に背中がひりひり痛み出す。錐嶺が傍らの台(か何かが寝台脇にあるんだろう、俺からは見えねェが)から新しい布を取り上げると、ツンと独特の匂いが漂って来た。何か薬が()ませてあンのか。それからまた俺の左上半身を両腕で抱え込んで、もう少し背中が見えるように傾ける。


 首を捩じらねェよう細かく気ィ配ってくれてンのが分かる。抱かれてる間、キツく消毒か薬の臭いがして、ぎょっとしちまった。顔を見られなくって良かった。女の良い匂いを知らず期待してた男の間抜けな(ツラ)を。…阿呆だ。


 背をその薬(くせ)ェ濡れた布で丁寧に拭かれた。予告通り、あちこちひりひりした。拭き終えた錐嶺が、台の上で別の布へ軟膏を塗りつけてンのを待ってる頃にゃ、背中は焼けるようにジンジンしてたが、その薬布を背へ宛って貰うと、すうっと痛みが和らいだ。

 「他の傷は目覚める前に診たけど、似たような経過で今のところ順調だよ。大した丈夫な体をしてるね」

錐嶺は笑んで言いながら、()い物にした枕を除けて、包帯を締め直した。



 それから手足の検分。触られてンのが判るかどうか尋ねられた。左手と右足の指は一本一本、返事の代わりに触る指を押し(けェ)すよう言われた。

「ほんの軽くで良いからね。今はまだ指を曲げると怪我に響きそうだから」



 そうやって丁寧に体中を診た後で、言った。

「左の下の方の肋骨(あばらぼね)がね、今痛くなくても、二、三日後には痛んで来るかも知れない。折れてはなさそうだけれど、きっと傷めてしまってる。他にもどこかの骨に多少の罅は有るかも知れないけど、捻挫で腫れてる所は手当てしてるし、どの道安静にしてて貰うからね、無茶さえしなければ一緒に治ると思うよ。痛み止めだけ飲んでくれる? それから少し話をしよう」

背を診るのに、敢えて腹側から見難い体勢でしているのは、黒野の警戒心が強いのを見て取った為。背中側へ自分が周るのは余計に警戒させるだろうという判断。

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