1 -3. 名
「名を名乗らないで。私も名乗らない。それさえ呑んでくれるなら、怪我が治るまでは面倒見るよ。好い?」
名を、つまり身元も事情も、言うな、知りたくねェって事か。
「…好いも悪ィも、それ、俺の方で選ぶ余地無ェじゃねェか」
「あー、…そうかも。ここ、大分山深くだから、怪我した身で放り出されたら生き残るのは相当厳しいよ」
酷ェ事言ってる当の本人の癖に、女は何でか苦笑気味だ。
しかし、医者だっ言ェからどっかの町まで出て来られたのかと期待したんだが、やっぱしまだ山ン中だったかァ…。
「でも兄さん、そんなのモノともしないような強者だったりはしないの?」
「どこ見てンな事言ってンだ。こちとら指一本満足に動かせねェ怪我人だぜ」
「そのご立派な体を診たから言ってるんだよ。荒事にも慣れてるようだし」
…あぁそっか、体に残ってる刀傷の痕を見たのか。慣れてるってェか、ありゃァ手前の未熟さの名残だ。傷痕の数分、場数を踏んで来てンのァ確かだが…、堅気の人間じゃ無ェと見て、厄介事に巻き込まれたかァねェし、名乗ンな、ってか。
破落戸だと思われてンなら心外だ。持ってた手荷物が有りゃ身分は証明出来るんだが…
でもまァ、確かに名乗らねェ方がこっちにも都合が良いかも知れねェ。
「名乗らねェのは好しとするが、治療代はどうすりゃ好いんでィ」
「んー、じゃあ、お代の代わりに一冬分の薪運び、っていうのでどう。外に乾かしてあるのを、内土間へ運んで積み直すんだけれど。動けるように成る頃には季節も丁度好い頃合いだろうし、怪我の回復訓練にもなるし」
特に揶揄うでもふざけるでもねェ表情で女は微かに笑む。薪運びだァ? そンな長ェ間医者の世話になりゃァ、法外な額になる筈。薪を取込む位じゃ割が合わねェぞ。…真意が分からねェ。
顔を見る限り、悪意も胡散臭さも感じねェ。言葉通りなのか? けど冬支度する季節ってェと、治ンのに二月以上はかかるって事か。…いや、二月かけたって…
「…手が動きゃァな」
右腕の事を思うと、言い知れぬ酷ェ心持ちになる。合口で切り裂かれちまった利き腕。山を転げ落ちる前、現場近くで立ち回った時にしくじった。
「ああ、右腕? 傷に手拭いが巻いてあったね。腕の上の方に止血してた跡もあったけれど、兄さん自分でしたの?」
「あァ。押せェ付けても血が止まらねェから、縛った。そンでも止まらねェから後で傷へ手拭い巻き付けたら、やっと増しンなった」
「片手で巻いたにしては、しっかり巻けていて上出来だったよ。怪我をした後、指は動かした? 指先まで感覚は在った?」
「動かした。ただ、指でも手首でも動かすと痛ェし血がわーっと垂れ出すし、仕方無ェから紐は巻きっ放しにしといて、締めたり緩めたりしてた。あんまし効き目は無かったが」
うん、うんと相槌を打って聞いてた女は、
「ああ、それは、心臓へ帰る向きの血の出血だったから効かなかったんだね」
っ言って、こう、と俺の手首から肘へ向かって指を差す。
「あんなとこ縛っても、川下を堰き止めてただけ、って事か」
「そうそう」
道理でさっぱり止血出来なかった訳だ。四苦八苦したのに端から無駄骨だったとァ…。
「腕の傷は、診た限り太い血管は切れてなさそうだったし、傷の向きが幸いして、筋肉も断ち切られてしまってはいない。深手には深手だけれど、熊だの落石だのに襲われた時のような怪我と思えば…」
女はそこで、一つ溜め息を吐いて、苦し気になった表情を振り払った。
「それと比べたら、部品が足りなくなってる訳でも無いし、すっぱり全然綺麗な傷だし、大丈夫」
…それ、比べる相手が悪過ぎねェか?
「なのでやっぱり薪運びをお願いします」
「治ンのか、これ」
「治るよ」
全く以ってあっさりそう言う。本当かよ。俺が己で感じてる深刻さと差が有り過ぎて、頭が付いて行かねェ。
訝しんでたら、
「あー、うん、『治る』と言うか、『治す』んだよ。しっかり回復訓練して」
と付け加えて、更に続けた。
「腕より、左の足首の方が厄介だよ。骨を折ってしまってるから」
「え。足折れてンのか!?」
ヤ、だから、一寸待ってくれ、頭が追っ付かねェ。
「うん。杖無しで歩けるようになるまでに、少なくとも三月位は掛かると覚悟しておいて」
三月。三月も…。
…、待て待て。どっか遠くへ行きかけた頭を、引き戻す。やっちまった怪我はもう仕方が無ェ。それこそ、腹ァ括るしか。
「あと左脇腹の、それ」
それ? ああ、鉄砲で撃たれたとこか。堅気じゃ無さそうな怪我ってンなら、こいつが一番当て嵌まる。
「まあでも、ちゃんと動けるようになって帰って貰うよ。出来る限り不具を残さないよう、手を尽くします」
この医者、信用して良いのか。良いのか? 俺、何を見て信用出来ると思ってンだ?
…態度。表情。何か隠してるようにゃ見えねェ。首ィ動かすなっ言った時以来、張り詰めた感じが全く無ェ。笑みも、客商売の人間が四六時中顔に貼り付けてンのたァ違う。ただ思ってることが──安堵が、そのまま表れ出ただけに見える。患者が目覚めた事にほっとしてンのか。
俺の勘はとっくに、この女は敵じゃ無ェと判断して、それに従っちまってる。
「体が動いて斧が握れりゃ、次の冬の分の薪も拾って来て割ってやらァ」
「ふふふ。好い意気だね。助かるよ」
白い歯を見せて笑って言う。信用は出来そうだが、何かこう、…妙な女だ。
「そンで、あんたの事ァ何て呼びゃ良いんだい」
「猟師の衆からは『きりみね』の、って呼ばれてる。この土地の名前だよ」
「きりみね」
「そう」
「『霧』の立ちこめる高『嶺』?」
「ううん、穴を開ける道具の方の『錐』。『錐』みたいな峻『嶺』」
「あァ、成る程」
「兄さんは、黒野の出のようだから、『黒野の兄さん』で好い?」
あ。仕舞った、俺、黒野言葉丸出しで喋ってる…。
「…好きなように呼びねェ」
溜め息が出る。迂闊過ぎらァ。
「あんたみてェな御医者様でも、中本物なんか読むんだな」
己の腑甲斐無さを棚上げして紛らわす為の、詰まらねェ皮肉だった。人情本の類でも読んでなけりゃァ、こんな地方の在方で黒野言葉なんざ知らねェだろうと思って。
けど、女──錐嶺は、黙って幽かに翳った笑みを返した。苦笑いとまで言えねェその色合いが、やけに胸を騒がせる。
「さて」
気を取り直すように言って、傍らの台から錐嶺が何かを取り上げる。あ、聴診器だ。それを首へ掛けつつ、
「ちょっと触診するよ」
と言うなり立ち上がり、俺の頭を片手で掴んでおいて──
「これは痛い?」
「ぅあっ…!」
問いと同時に押し込まれた左脇腹が、カッと熱く。
「痛ェよ!」
あっ、喚くと首痛ェ…
「御免っ」
ぎゅっと左腰を掴まれる。糞、触ンなと喚く前に、一気に痛みが和らいでた。腹ん中で何かが焼けついたみてェだったのに。はぁぁ。どうにか息を吐く。
「大丈夫? 少しは退いた?」
痛くした張本人に、幾ら気遣わし気な声で言われたってなァ…、あぁ糞、分かってらァ、痛ェか確かめる為の触診だから仕方無ェんだろ。
「…先に一寸ァ心構えさせろィ」
文句言って見遣ると、苦笑して
「御免ね。でも完全に薬が抜けるまで待ってたら余計に辛くなるから、今の内にさせてね」
と言われた。容赦無ェ。
「一寸お腹をあちこち押すよ。出来るだけ力を抜いていてね」
今し方の痛みを思って身構えようとしたら、先回りしてそう言われる。宥めてる積りなのか、頭を押さえてた指がとんとんと蟀谷を軽く叩く。
「痛かったら言ってね」
…。
何度か腹を指先で押し込まれた。場所によってはぐりぐりやられた。片手で聴診器を当てつつ押したりも。けど、初めの一撃から案じた程の痛みは無かった。
「大丈夫そうだね。じゃあ次は、肋を診るよ」
胸の真ん中から、肋一本一本を辿るように押される。途中、左脇の辺りで
「ここは多分痛むと思うけど、なるべく力まないように構えてて。息を詰めないようにね」
とか言って脅すモンだから、物凄く身構えてたんだが、
「どう?」
「確かに痛ェにゃ痛ェが、それ程でも無ェな」
うんうん、と頷いて、脇下から背中の方まで辿られた。
「横向いてるついでに背中の縫った傷を診るよ。少しひりひりするかも知れないけれど、首を動かさないで居てね」
また蟀谷をトントンやってからその手が離れ、俺の胸元で何か…ああ、包帯の結び目を解いてンのか。それから、だらんと垂れたままの俺の左腕を軽く持ち上げ、肩越しに包帯の背中側を緩めて、背を覗き込…ちょっ、待っ、寄り過ぎ寄り過ぎ。さっき横向きに転がされた時もそうだったが、袖を捲くった錐嶺の腕と、腹が目の前に。思わず息を詰める。
「うん、心配する程は膿んで来てない」
片手で俺の肩を支えたまま体を離すと、俺の胸の前へ追加の枕を押し付けるように置いて支う。…息を吐く。俺の体が倒れねェように自分の腕と体で支えてくれてたんだ。
「この分なら、背中が痛くて寝てるのも辛いってことにはならなさそうだよ。良かった」
俺の背中から剥がした布を、ぱらりと床の方へ落とす。錆色に血がこびり付いてンのがちらっと見えた。う…、俄に背中がひりひり痛み出す。錐嶺が傍らの台(か何かが寝台脇にあるんだろう、俺からは見えねェが)から新しい布を取り上げると、ツンと独特の匂いが漂って来た。何か薬が染ませてあンのか。それからまた俺の左上半身を両腕で抱え込んで、もう少し背中が見えるように傾ける。
首を捩じらねェよう細かく気ィ配ってくれてンのが分かる。抱かれてる間、キツく消毒か薬の臭いがして、ぎょっとしちまった。顔を見られなくって良かった。女の良い匂いを知らず期待してた男の間抜けな面を。…阿呆だ。
背をその薬臭ェ濡れた布で丁寧に拭かれた。予告通り、あちこちひりひりした。拭き終えた錐嶺が、台の上で別の布へ軟膏を塗りつけてンのを待ってる頃にゃ、背中は焼けるようにジンジンしてたが、その薬布を背へ宛って貰うと、すうっと痛みが和らいだ。
「他の傷は目覚める前に診たけど、似たような経過で今のところ順調だよ。大した丈夫な体をしてるね」
錐嶺は笑んで言いながら、支い物にした枕を除けて、包帯を締め直した。
それから手足の検分。触られてンのが判るかどうか尋ねられた。左手と右足の指は一本一本、返事の代わりに触る指を押し返すよう言われた。
「ほんの軽くで良いからね。今はまだ指を曲げると怪我に響きそうだから」
そうやって丁寧に体中を診た後で、言った。
「左の下の方の肋骨がね、今痛くなくても、二、三日後には痛んで来るかも知れない。折れてはなさそうだけれど、きっと傷めてしまってる。他にもどこかの骨に多少の罅は有るかも知れないけど、捻挫で腫れてる所は手当てしてるし、どの道安静にしてて貰うからね、無茶さえしなければ一緒に治ると思うよ。痛み止めだけ飲んでくれる? それから少し話をしよう」
背を診るのに、敢えて腹側から見難い体勢でしているのは、黒野の警戒心が強いのを見て取った為。背中側へ自分が周るのは余計に警戒させるだろうという判断。