1 -2. 落下点
「体を横向きにするよ。力を入れようとせずに、楽にしていて」
こうも痛むとなると、動けても一遍限りだ。ここぞ、って時まで温存しといた方が好い。今は一旦様子を見ろ。
女は俺の体を覆ってた上掛けを剥いだ後、俺の左腕を取って、腹の上へ乗っけさせた。
「膝を曲げるね。痛かったらすぐ教えて」
右足の膝裏へ手を差し込まれ、ずいと曲げられる。…覚悟した程の痛みは無かった。左膝は、初めっから緩く曲げた格好に包帯で巻き固められてて、その下へ支い物がされてたが、更に座布団か何かを足された。
…左の足の裏の感覚がおかしい。足の先まで包帯巻かれてンのか。立てられた両膝が見える。見覚えの無ェ、煤色の裾除けに包まれてる。
…あァ、何か一寸途方に暮れる気分だ。いつ着替ェた? 俺、どンだけの間こんな無防備な状態だったんだ?
「一、二の三、で、こっちへ向けるよ。頭が一緒に回るように心掛けだけしておいて」
そう言って、女は俺に覆い被さるような体勢で肩と膝へ手を掛けると、一、二の三、と合図をしつつ、俺の体をごろんと横へ向かせる。
あちこち鈍い痛み…と、う、あ、何だこれ、目ェ回る。
血の気が退いてく感覚。堪えろ、目ェ閉じンな。
「腰を一寸ずらすよ」
と女が声を掛けてきて、俺の腰を抱えて後ろへ躄らせる。
「左足を乗せ直すね」
足を持ち上げて、その下の支い物を調えてる。全てが丁寧だが馴れた手つき。それで確かに姿勢は落ち着いた…筈、なんだが、何か、駄目だ、まだ頭がくらくら。うぇぇ。酔う。
「気持ち悪い?」
うぉ。何で判る。
「吐きそう?」
応ェに詰まってたら、更にそう訊ねられた。
「ヤ…そこまで酷かァ無ェ」
「薬の影響はもう納まってる筈なんだけれど…」
黒目がちな団栗眼で、じっと俺の目を覗き込んでくる。睨み返してェとこなんだが、…どうも目ン玉がふらふらして定まらねェ。
「貧血にしても、酷いね。自分の状態を把握出来ないから余計に気持ち悪いのかな。一寸目を閉じて、横になってる自分を頭に思い描いてみて」
「思い描く?」
「見えない分を想像して補って遣るんだよ。気持ち悪さが少しは和らぐから、やってみて」
やってみて、って。得体の知れねェ人間の前で、目ェ閉じられるモンかい。
従わず黙ってる俺に呆れたか、女は軽く苦笑いした。それから、ついと手を伸ばしてきて、俺の蟀谷をトントントンと指先で柔く叩いて言った。
「この反対側の蟀谷と右の頬は、柔らかい枕に埋まってる。木綿でさらっとしてる。右肩と胴の右側に、同じ木綿の敷き布団の感触がしてる」
言葉を聞くなり唐突に、目の前に見えてる白い敷布とその下の布団を実感する。
「右腕、見える?
腕の下に座布団みたいなものが敷いてあるでしょう。
手先へ行くほど高くなるようにしているんだよ。
肘から先は包帯を巻かれてる。
手首から指先まで添え木がしてあって、少し窮屈かな。
お腹にも包帯。
腰から下は木綿の裾除けを巻いているよ。
左膝は包帯がしっかり巻かれてて余り動かせない。
左の足首が添え木して固めてあって、窮屈で重い。
その下に、腕と一緒で布団を支い物に挟んで、少し高くしてある」
言われる順に、体がその在る場所へ着地してくみてェだった。吃驚だ。
「どう? まだ目が回る感じ、してる?」
「ヤ…もう無ェ」
「唾はちゃんと飲み込める?」
「あァ」
短く答える。唾を飲む度に首が一々疼くのが忌々しくなって来てたとこだ。
「飲み込む時、首は痛く無かった?」
御見通しと来た。溜め息が出る。
「まァ、痛ェっちゃ痛ェが、我慢出来ねェ程じゃ無ェ」
「それなら、…口の中も切れていたけど、水を飲む位は出来るだろうから、一寸飲んでみてくれる?」
言いながら、俺の顔の下へ、折り重ねた布と受皿を突っ込んでくる。
「左頬の内側を三針縫ってあるから、糸が気になるだろうけど舌で突かないようにしてね」
あァ、確かに何かぴろぴろしてンな。ヤ、構っちゃいけねェのか。痛てて。口ン中より首が痛む。舌ァ一寸動かした位で痛ェって…。
先を思い遣ってげんなりしてる俺の前で、ごとりと床を鳴らして、女は何かを寝台の傍らへ据え直してる。…腰掛けだった。俺の真ん前へ据えたそいつへ腰を下ろし、ガラスの吸い呑みを取り出す。中身は、透明な液。
本当にただの水か? 毒だったらどうする?
…せめて一矢。口へ溜めといてその顔向けて吹き飛ばしてやらァ。
重てェ覚悟を決めた俺に向かって、吸い口をついと近づけて寄越した女は、
「初めの一口は、そのまま吐き出して。一旦口を濯いだ方が良いから」
と軽く言う。…毒飲ませンなら、濯げ、とァ言わねェよな、普通。
黙って口を開ける。差し込まれた吸い口の先が舌へ触れるのが分かって、口を閉じる。ほんの少し吸い呑み口が傾いて、頬ぺたの内側へ水が溜まる。じっとり汗ばむ程気ィ張ってその水へ注意してる間に、吸い口は引き抜かれた。
感じる限り、味も臭いも無ェ。口ン中を行き渡らせてみる。暫く待ったが、特段何も感じねェ。
…含んだだけで違和感が出るような毒じゃ、誰にも盛れねェわな。
口の端から零して出す。吐き出し切ったのを見届けて、女は受け皿を取り去るついでに口元も拭き、また同し吸い呑みを差し向けた。同し水だ、見張ってたが何も細工ァしてなかった。
今度は、さっきより少ねェ量しか注がれなかった。少し口へ残してごくりと飲み込む。軽く首の傷が疼くが、喉が焼けるとかそういう感じは無ェ。…腹もどうも無ェようだ。
さして喉が潤った気がしねェのは、量が少な過ぎるからか、温いからか、そういう水なのか、それとも俺の感覚が馬鹿ンなってる所為なのか。
「どこか沁みて痛い所は有る?」
訊ねられて残りも飲み込む。糞、首、痛ェ。
「ヤ、無ェ」
「じゃあこの吸い呑み一杯分は飲んでしまって欲しい」
…ここまで来るともう、毒とか何とか疑っても仕方無ェな。どうやっても俎板の上の鯉だ。儘よ。
少しずつ水を含ませる女。飲み込む俺。ただ黙って淡々とそれを繰り返して、吸い呑み一杯分を干した。
身形は妙だが、女の物言いや俺の扱ェ方を見るに、本当に医者らしい。しかも西洋医。それも女医と来た。いやいや待てよ、そもそもここ、どこだ? 俺が転げ落ちたのは、相当な山奥だった筈。そんな所に、医者?
飲ませ終わると、女は俺の頬の下へ敷いてた布をすっと引き抜いて片付けた。それからちょいと腰掛け直し、ぴんと背筋を伸ばして、
「話を始める前にまず一つ」
言って、真っすぐ俺の目を見た。
「名を名乗らないで。私も名乗らない」
は。なんだそりゃ。