1 -1. 寝覚め
コトン、て。
…ん。何の音だ。
…。目蓋が。頭が? もったりする。まだ起きたくねェ。
蝉の声が遠くから注いでる。
…起きねェと。
う、わ、ぐわーんと、目眩が…、目蓋ァ開けてらンねェ。
…なんとかこじ開ける。ぼやっと暗ェ景色。それを縦横に仕切る黒い十字。十字の奥は一面斑な褐色。眩しい光を嫌って目が勝手にふらふら逃げる。あっちこっちに黒い丸が散らばってンのが、…目ン玉みてェだ。無数の目ン玉がこっち見てやがる。
──板の間に転がる、目ェ剥いた死体累々。
んー、違ェよ、そいつを見たのは一昨日の…あの酷ェ現場の。 そうじゃなくって、今見てンのは、…ヤ、見られてンのは? …んんん? 待てよ、…目ン玉ってェのは、二つずつ並んでるモンだろ?
見えちゃいるんだが頭が真面に回ってなかった。薄暗ェ部屋のやたらと高ェ天井と、その下に縦横に架かる梁、そこに散らばった目ン玉みてェな節模様だと解ンのに、暫くかかった。それから漸く、手前の体が傾いでるような嫌ァな心持ちがしてたのが、眺めた先の勾配天井の所為と気付いて、なぁんだ傾いでンのはあっちか、と少し落ち着く。
その、ほっとした刹那。
目の前にいきなり掌が。額から両の蟀谷をがっちり掴まれ──
「動かないで。傷が開いてしまう」
女の声、静かだがきっぱりと。頭と肩を押せェ付けられ、一気に目が覚めた。
しまった逃げ──
「ぐっ」
──あんまし痛くて刹那根こそぎ断ち切れた。息すら。
何だこれ!? そこら中痛ェ、
糞! 横へ!
──え。
転がって振り解こうとしたのに、ちっとも──、何で何で何だ!? 再び駆け抜けた激痛に重ねて、手足に感じたのは圧迫感。ヤベェどうなってンだ、手も足も縛られてンのか、動けねェ…!
「動かないで。力んでは駄目」
又ぞろ、冷静だが断固とした語気で戒める声が降って来た。糞。詰まる息をどうにか吐いて痛みを堪える。横目で見た先、傍らに、俺を押さえつける女の姿。いや動きたくったって動けねェって。そもそもこれァどういう状況だ?
「特に首を動かさないで。それさえ守ってくれたら手を離します」
「…どういう事てェ」
ぅ、喋り辛ェ。面ァ左半分腫れてンのか。
「傷が開くとお互い困るから、どうかじっとしていて下さい。医者としては申し訳無い事に、もう痛み止めやら何やら底を突く寸前で」
「医者?」
「動かないでいてもらえますか?」
こっちの問いにゃ答えず、ただ強い懇願を乗っけた声で言い募る。腕の影ンなってて見えねェが、女の顔があるだろう辺りを思わず睨みつけた。
医者だっ言った。けど、見える範囲の景色は病室にゃ見えねェ。町医の家か? 床が見えねェ。 あー、俺、床じゃなくって寝台に載ってンのか。女の他に人の気配は、…無ェな。やけに静かだ。
けど、今の今まで、縛られてンのにも気付かず寝入ってたってェのは…普段なら有り得ねェ。そんな鈍な有様で、人の気配にちゃんと気付けるか?
…拙ィ拙ィ拙ィ、背筋が冷える。
…どうする?
どうしようにも、このままじゃ埒が明かねェ。
「分かったよ。動かねェから手ェ離してくれィ」
口をどうにか動かしてそう返すと、あっさり手は退いた。顔を拝む間も無く、すっと女は俺に向かって深く頭を下げた。
「いきなりこのような応対になってしまった事、お詫び申し上げます」
へ。出し抜けに謝られて呆気に取られ、返事も忘れて女を見上げる。牡丹餅位の小せェ髷がちょんと乗った頭。白い着物。折り返した筒袖から伸びた腕の先、体の前で重ね揃えた手。
「動かずに居て頂くには他に仕様がございませんでした。どうか御堪忍を」
誠意のある声音だった。顔を上げ、ひたりと俺の目を覗き込んだ女は、化粧っ気の無ェその嫋やかな風貌に、苦笑いとも安堵とも取れる表情を浮かべて、一瞬目を伏せた。
女にしちゃァ背が高ェ、か? 寝台の上からじゃ、今一つ目見当が付かねェ。よく見ると妙なモノを着てる。白い木綿の長半天。それを、晩夏の暑さン中、襟を軽く重ねて紐で閉じてる。首元に、内に着てる錆浅葱色の襦袢か何かの襟が見えてるが、後ろ衿は当然抜いてなくって男みてェな拵ェだ。髪も、ただ引っ詰めにしただけ。年の頃は三十路手前位か。俺よりゃ若そうだが…
「首を動かさないで。かなり危ないところを切ってるから」
首? さっきも言われたな。唾を飲む度に顎下から首の辺りがぴきんと疼くのは、傷が有る所為なのか。切ってる…って、何で?
…あ、そっか、俺、夜に山で足ィ滑らせて転げ落ちたんだった。落ちる前から色々怪我しちゃいたが、首は覚えが無ェ。落ちてる間に切ったのか?
「手足も今から戒めを解くけれど、動かさないで居てね」
うえぇ、やっぱし縛られてたァ…。
告げながら女はもう動き出してた。目だけ動かして追っても何をしてンのか見えねェが、しゅるしゅる聞こえる衣擦れの音と共に、手足が緩んでく。それで、どうもかなり丁重に戒められてたと知れる。キツくならねェよう当て布をして、その上から布帯で縛ってたらしい。
けど、『医者』がこんな事、するか?
女が動いてる間、見回して周りを確かめる。
右手、先刻女が立ってたその先に、引き分け戸。
俺の足側の壁は、上の方に細格子の嵌まった小さな高窓。そっから薄茜付いた陽の光が差し込んでる。向こうが西か。隅に箪笥が一棹。
左手は、全面障子張りの小壁が黄金色に光ってる。そのお蔭で目が効く明るさがある。その下に、閉じた障子窓。暗ェ。雨戸が閉めてあンのか。
俺の頭上、東の壁にも高窓があるらしい。蝉の声が抜けて来る。
…民家にしちゃァ妙な造りだ。壁は白い綺麗な漆喰塗りで、金が掛かってる。なのに天井が造ってなくって、勾配天井かと思ったあれは、屋根の葺板の裏っ側が見えてるだけだ。二階なのか平屋造りなのかは判別付かねェ。逃げンなら、右手の引き分け戸からだな。
「鎮痛薬が、その内切れてしまうんだけれど、どこが痛むか、確認だけさせてね。すぐにまた、痛み止めを飲んで貰うから、一寸だけ、我慢して頂戴」
女は、警戒して返事せずにいる俺の態度に頓着しねェで、話し続けながら寝台の回りを動き回っている。
初めの慇懃な口振りはもう止したらしい。地方の訛りは感じねェ言葉回しだが、ほんのたまに西の調子が挟まってンのが耳へ残る。
その女の落ち着いた声の外は静かな部屋の中、何やら重てェ物がごとりと床へ下ろされる音。衣擦れもはっきり聞こえる。
巻かれてたモンから解放されたにしても、やけに手足がスースーするなと思ったんだが、これ、湿布薬か。体のあっちこっちに貼ってあるみてェだが…、え、これ、全部打ち身とかか? 試しに左手を拳に握ってみ──
いててててて!
上っ面だけじゃ無く手首の骨ン中まで、ツキンと鋭く刺す。こりゃ打ち身で済んでる痛さじゃねェぞ。
痛みに軽く力んだだけで、湿布されてるそこかしこが疼く。…こンでも痛み止めが効いてるってか? それもこんなそこら中?
確かに、目覚めた時ゃ力一杯動こうとした所為で全身激痛だった。身動き厳禁ってェのは脅しでも大袈裟でも無く、本当にしこたま怪我しちまってンのか…。
背筋の寒気が止まらねェ。
もしこの女が奴らの連累だとすりゃ、生かして口ィ割らせようって算段か? けど、そンなら縛ってたのを敢えて解いた理由が分からねェ。もう抵抗出来る余力すら無ェと看做されたか。それとも…?