15 -1. 景
本日、14-5から2話分新規投稿しています。
「お昼御飯の前に試したい事が有るんだけれど!」
洗濯を終えて、珍しく足音を立てて慌てて戻って来た錐嶺は、開口一番そう言った。
「おう、何だ」
一寸勢いに押されて尋ねたら、錐嶺はにっこり笑って答えた。
「首と、左の股関節を、どれだけ動かしても大丈夫か」
左の股は、脇腹を痛ませながらも今まで多少動かして来てた。悩ましいのは、未だ包帯で巻き固めてる膝。折った踝との兼ね合いで、まだ深く曲げねェ方が良いらしい。膝を曲げずに股だけを深く折り込むってェと、やり難い上に腹の傷にも余分に障る。
そンでも、足を持ち上げて曲げて貰ったら、矩(:直角)まで折り込んでも脇腹の痛さはまぁ堪えられる範疇だった。
「傷が動くから痛むけれど、引っ張られる訳では無いからね。お腹側の、曲げると弛む辺りの筋肉だから、暫く待っていたら痛みも納まる筈」
「そう言やァ、最初の夜にそうやって腹の痛むのを鎮めて貰ったな」
「あぁ。よく覚えてるね」
「あー、うん、もう痛くねェや。一瞬だ」
「じゃあ、今度は少しだけ腰を捻ってってみるよ。ゆっくりやるからね。痛かったらすぐ言ってね」
一昨日初めて膝を曲げてみた時と同じく、立てた膝を横へ倒して腰を捻ってみるとどうかを試された。腹の銃創に関して言えば、右に捩じっても左に捩じっても、あの時感じたような鋭ェ痛みはもう無かった。
「んっ、痛っ」
ただ、肋は別だ。膝をある程度以上右へ倒されると、ぐっと痛む。すぐ膝を戻された。
「大丈夫?」
「あー、腹の傷は良いんだ、ぼわっと痛ェにゃ痛ェが、こン位なら大丈夫だ。腹より肋の方が痛む」
「分かった、じゃあこっち向きには、これ以上捩じらないようにしよう。足を戻すよ。今度は首ね」
さァ、問題は首の傷だ。
これはもう、錐嶺が最初っから、動かすなと散々俺に刷り込んで来たし、力んだ拍子だとかに何遍も痛ェ思いをしたし、傷を鏡で見てどンだけ際どい怪我だったかも分かってるしで、本当に動かして良いモンか、素直に不安だ。
さっきの清拭付き診察でも解したが、錐嶺は改めて首周りの筋を按摩してくれてる。そンで、首を動かしてみた時に何か起きてもすぐ分かるようにと、傷へ貼ってた養生布も今は半分剥がしてある。
錐嶺にゃそれが安心なんだろうが、こっちは寧ろびくびくしちまう。何か起きるかも知れねェのかと。それも、見て分かるような事が。…物凄ェ恐ェ状況しか想像出来ねェ。
「初めの頃は物を飲み込むのも痛そうにしていたけれど、最近はそうでも無いでしょう?」
錐嶺が首の傷に直に手を当てて言う。
「そう言やァそうだな。大口開けて飯食うのも最初は痛かったけど、痛まねェ開け方が分かってからは平気ンなった」
「その痛む方の開け方で口を開けてみて」
「ぇええ…」
思わず渋る。
「きっと大丈夫だから。ゆっくりで良いから、試してみて」
期待に満ちた目で見詰められて、仕方無く口を開ける。縦に開けるだけならさして痛まねェんだが、横に開くと痛ェんだ。「イー」っ言ェ時の感じで横に開けてみる。
…あれ。
「痛くない?」
「縦に開いた時とさして違わねェ」
錐嶺は、うん、と頷いて、
「じゃあもう、上の筋肉はもう少し使って行かなきゃ」
と言う。
「さっき言ってた、伸びたり縮んだりすンのを覚えて貰う、ってヤツか」
「うん、そうそう。えっと。そうしたら今度は、もう一つ深い所の筋肉の方も動かしてみるからね」
言いながら、錐嶺は寝台の頭側へ回り込んだ。
「ゆっくり、そうっと動かすからね。自分では決して力を入れないで。まずは弛める方へ動かすけれど、痛んだらすぐに教えて」
俺の顔を覗き込んで言ってから、頭を両手で挟み込んだ。
「分かった」
返事を聞いた錐嶺はにっこり笑って、
「いくよ」
と声を掛ける。すう、と息を吸い込む。そっと、錐嶺の手が俺の頭を左へ向くように動かし始める。
「ん」
変な固まりを感じて思わず声を上げる。錐嶺はすぐ手を止める。
「痛い?」
「ヤ、何か、強ばってる」
「このままで少し待てる?」
「おう」
錐嶺が片手を頭から離して、傷に当てる。温けェ。ふうと息を吐いて、力を抜くよう注意する。もう一度、ゆっくり息をする。うん。
「もう大丈夫だ」
「もう少し捩じっても大丈夫?」
「やってみてくンねェ」
目を閉じて息を吸う。
「うん」
そうやって、少しずつ少しずつ首を左へ捩じって貰って、目蓋が明るくなって目を開けたら、左手の腰窓が見えてた。
「窓だ」
「うん。見える?」
「おう。明るいな」
「うん。まだお昼までもう暫く有るよ」
阿呆みてェに当たり前の事を一々言葉にしちまってる俺に、でも錐嶺は付き合ってくれる。そこに窓が有ンのは知ってたが、初めてしっかりと見えた。良造さんが昨日作ってくれた、紗を張った虫除け障子の向こうに、突き出し雨戸が落とす影と、木影が透けて見える。
「どう? 大丈夫?」
「おう。その木陰は何の木だ?」
「桜と、その向こうに柿の木が有るよ」
「へーエ」
「柿の木は、もう一月かそこら経てば実が熟れるかな」
「甘柿かい?」
「うん、そう。鳥と取り合いだけれど、昨日の無花果みたいに早目に採れば、食べられるよ」
「そうかァ。それァ楽しみだな」
「ふふふ。今日はこっち側に向くのはここまでの範囲にしておこうか。少しずつ元に戻すからね」
ゆっくり戻して、一息吐く。それからまた同し側へゆっくり捩じる。今度は目蓋を開けたまま、回ってく景色を見てる。何度か繰り返す。初めギシギシしてたのは、その内解れてった。
「さて、じゃあ今度は反対側ね。傷を引っ張る側だからさっきよりもっと慎重にするからね」
「分かった」
「力を抜いていてね。いくよ」
目を閉じて、錐嶺の手にされるに任せる。
「…ん、痛くなりそうだ」
「一度止めるね。戻した方が良い?」
「ヤ、…」
目を閉じたまま待つ。ゆっくり息を吐く。突っ張って感じた左の首筋が、じいんと痺れたみてェになる。
「これは痛ェんじゃ無くて、血が通ってく時の感じかなァ」
「痺れてる?」
「あァ、一寸」
「なら、痺れが治まるまで待ってみよう」
「ん」
錐嶺の手がそっとまた傷へ当てられる。目を閉じたままゆっくり息をして、その手の下の痺れてる感覚だけを追いかけてみる。
あ、何か俺、左肩に力ァ入ってンな。一寸弛めて…、周りへ痺れが散り散りに移ってく。竦んでたんだ。まだ恐がってたのか。
…こんな風に己の体が訴えて来る事だけに敢えて集中するって、初めてだ。そもそも、中の筋肉を考ェた事が無ェ。
「もう一寸行けそうだ」
傷に触れてた手が離れて、頭をそっと押さえられる。
「うん、じゃあ少し動かすね」
俺が息を吸ったのに合わせて、錐嶺はまたゆっくり俺の頭を右へと回し始め、止める。俺が何も言わねェで居ると、また少しだけ動かす。
俺は首周りの感覚だけに集中してる。ゆっくり、幽かな痺れが広がる。その中に、硬い何かが埋まってる感じがする。肩の力はもう抜けてる。
あー成る程、これが傷ンとこか。
「そこまで」
俺が声を上げると直様錐嶺は手を止めた。
「戻した方が良い?」
「ヤ、このままで。一寸待ってみる」
もやもや広がる痺れの中に、塊みてェなのが在る感じがする。解けねェかと暫く待ってたが、それ以上はどうにもならねェらしい。
「駄目だな。戻して貰えるかい」
「うん。ゆっくり戻すね」
「ん」
ゆっくりゆっくり戻して、錐嶺の「真っすぐまで戻ったよ」という声で、目を開ける。
「大丈夫?」
「おう。何か、一寸分かった気がする。も一遍やってみてくンねェかい?」
「うん。同じ位ゆっくりで良い?」
「あァ。けど今度は途中で止めずに行けそうな気がする」
「分かった」
回したり戻したりして貰うのを繰り返して、六度目には痺れる感じが無くなった。でも解けねェ塊はまだそこに在って、多分今の限度はここまでなんだろうと思った。
「さて、じゃあ自分で回してみる?」
「おう、やってみる」
「まず右を向く方からね。左は、今日はまだ無理しないで少しだけにして置いて」
感覚の塩梅は分かった。錐嶺が行き過ぎねェように手を構えててくれてる。
ゆっくり首を捩じる。首の深ェ所が錆びた蝶番みてェにぎぎぎと軋む気がする。
「そこまで」
錐嶺に制止される。
「大丈夫?」
「ん。首の芯が硬ェ感じはするが、傷は痛くねェ」
「じゃあ元に戻して、もう何度かやってみよう」
「ん」
「ゆっくりで良いからね。目を回さないでね」
「はは。大丈夫だ、ゆっくり過ぎて回りようも無ェ」
自分で首を捩じってみると、怪我した左側より寧ろ、首の右側の筋の方が硬くなってるように感じた。何遍か試す。錐嶺が手で限度を知らせてくれてるが、しっかり体の感覚に集中してれば、どこまで大丈夫か分かる。
左右に回す練習をしてから、今度は首を下へ向ける練習をした。同じく、最初は様子を見ながら錐嶺に何度か動かして貰って、その後、自力でやってみる。
多分右へも下へも元の半分位しか動かせてねェ(左は更に限られてる)んだが、今まで全く首を動かさず物凄く限られた眼界で過ごして来たのが、見える範囲が広がって、酷く新鮮だ。ちっぽけな事なんだが、窓際の机に引き出しが付いてンのとか、足の向こうの箪笥に千鳥の彫り物がして有ンのだとか。気付くと、おぉ、と思う。
「思ってたより動かせるな」
「極力動かさないようにはしてたけど、実際は結構動いてしまうし、使っているからね。口を動かしても、寝返りを打っても」
「そっか」
納得だ、と思ったら、錐嶺が頭上からぐっと身の乗り出して、俺の顔を覗き込んだ。
「兄さん。もう少し頑張れそう?」
逆さ向きでも、錐嶺の顔はやけに楽しそうなのが分かる。
「まだやれる事が有ンのか?」
「うん。ここまで出来るなら、介添すれば体を起こせると思うんだ」
うぉ。そらまた、いきなり飛び級か。
「やる」
面食らったままだが、ほとんど反射的に答えてた。錐嶺は満面の笑みを浮かべた。




