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錐嶺  作者: 瑞浪 諧
10 山陰(やまかげ)
39/251

10 -1. 決潰

 夕飯。肝の煮付け。これも旨かった。(あぶ)ったのほど柔らけェ歯触りじゃァ無くなったが、そンでもまだ噛めばすぐこっくり(ほど)ける。生姜を効かせてあって、しっかり(たま)りの味が染みてるが、佃煮ほどは濃くねェ。



 「何か、こんな、見るのも食うのも初めてな(うめ)ェモンが続くと、一寸不安になるな」


 今夜の最後の一切れを味わって飲み込んだ後、ふと思った事が口から出た。


 「え。どうして?」

「んー。昔、()けェの長屋の爺さんが暫く寝込んじまった時に、死ぬ(めェ)に一遍で()いから舞茸ってェのを食いたかった、なんてポロっと言ったモンだから。家族も、最期(さいご)(ぐれェ)(うめ)ェモン食わせて()ろう、ってンで、舞茸って何だ、どこで手に(へぇ)るんだって探し回ってたの思い出した」


 記憶を辿って話して、箸に挟まれた透き通った大根(でェこん)を見て、次は大根(でェこん)の煮付け、と待ってたんだが、錐嶺(きりみね)の手はそのまま一向に動かねェ。

 視線を()ると、怪訝な顔で固まってる。あれ。舞茸なんて知らねェか。


 「舞い踊りたくなる(ほど)美味(うめ)(きのこ)なんだってよ。結局手に入らねェで、代わりに椎茸をどっかの食事処で(りょう)って貰って、(うめ)ェこと誤魔化して食べさしたとかって」

「うん」


 あー、箸が段々(やら)けェ大根(でェこん)に食い込んでってる。


 「結局爺さんは持ち直して、その後ぴんしゃんしてたんだけどな。当人は舞茸食ったと思ってたけど、本当(ホント)は椎茸だった、ってェのは御近所中(みぃんな)が知ってる秘密になってよ」

「うん」

「あ」


 とうとう大根(でェこん)が二つに割れて、ぴしゃ、と椀へ落ちた。


 「それでどうして黒野(くろや)の兄さんが不安になるの」

「ん?」

怪訝な表情を通り越して、眉を顰めた錐嶺が居た。


 …(まじ)ィ。何か間違(まちげ)ェたか、俺。


 「そのー…、最期だから(うめ)ェモン(いたで)ェてる、みてェな…」



 がちゃん。


 乱暴に盆へ戻された椀と箸、

「縁起でも無いこと言わないで下さい!」

叫ぶ、突然の剣幕。



 吃驚してる俺の前で、錐嶺の顔がくしゃりと歪む。一つ()き上げた、短く(こす)れた息。それを漏らした口をぱしっと片手で塞ぐ。けど止め切れず引き攣った息が二度三度と(あふ)れる。一緒に小さく(こぼ)れた、(みじけ)ェ悲鳴のような声。とうとう錐嶺は両手で顔を覆って伏せ隠す。うぅ、と殺し切れなかった幽かな声が漏れる。ぱたぱたと涙の落ちる音が──


 ──泣いてる。


 「あっ、え、ご、めん、御免。御免」

うあぁあぁぁ、どうして。どうしよう。

「こっ、これは」

顔を覆った手の向こうから、籠った声が(まろ)び出た。

「これは狭峡(さきょう)の、兄さんが、黒野(くろや)のが、早く、良く成るようにっ、て、下さった、ん、です」

(むせ)ぶ合間に何とか言葉を紡ぐ。細い肘を伝って涙の雫が落ちる。俺は狼狽えたまま、うん、うんと聞く事しか出来ねェ。

「滋養が、有るから。滋養が、有るからって、分けて下さっ、たんです」

しゃくり上げながら、懸命に訴えて来る。

「さっ、最期の、情けの、餞別なんかじゃ、ありません!」



 ──しまった、俺だ。完全に間違(まちげ)ェた。



 「分かった、俺が悪かった」

顔を覆ったまま、錐嶺はくるりと背を向けた。ううう、と小さく声を上げて啜り泣いてる。


 あぁぁ本当に泣かせちまった。泣かせちまってる。俺はどうして、こう。


 「御免。俺が(かんげ)ェ無しだった。謝る」

「私だって、そんな(つも)りで、食べて貰ってるんじゃ、ありません」

「うん。分かってる。御免」

しゃくり上げしゃくり上げ、震える肩に、俺は何もして()れねェ。左手を伸ばし掛けて、全然届かねェことに気付いた。遠い。

「済まねェ。どうか許して()っておくンねェ」


 この通りだと頭を下げてェのに、今の俺にはそれすら(まま)ならねェ。焦って力んだ所為(せェ)で首が痛み出す。そもそも俺みてェな馬鹿は、このひとに触れちゃいけねェんだ。



 すう、と錐嶺は大きく息をする。鼻を啜っては何度もそれを繰り返す。(はじ)けちまった心を鎮めようとしてる。何度も手で涙を拭う。

 一際大きく息を吐いた後、

「御免。私こそ、御免ね」

(にげ)ェ声で言う。振り(けェ)ろうとして一遍(いっぺん)躊躇(ためら)って、息をし直して、こっちへ向き直った。

「急に大きな声で文句を言って御免なさい。みっともない所を見せました」

止める間も無く頭を深々と下げる。上げた顔は、目も鼻頭も真っ赤だった。掛ける言葉が何も浮かばねェ。

「女の癇癪くらい嫌な物は無いよね」

鼻声のまま、ばつが悪そうに言う。

「そんな事思ってねェよ。男だろうが女だろうが、堪忍袋がはち切れるまで業腹にさせられりゃ、怒る。今のは俺が悪かった」

「許してくれるの?」

「許して貰わなきゃならねェのは──」

言い掛けた俺を遮るように、所在なく垂れてる俺の左手を取る。

「じゃあ仲直り」

弱い笑顔で囁いて、きゅっと手を握る。

「もう言いっこ無し」



 俺は握り(けェ)せなかった。

 離す前に、親指で手の甲をとんと叩かれた。忘れ(がて)ェ、憶えの有る感触が一拍響いた。


 「食べられる?」

「ん。食う」




 赤く腫れた目のまま、何事も無かったように夕飯の続きを食わせてくれた。顔洗って()ねェ、とは言えなかった。粥を顔中(かおじゅう)に吐き飛ばされた時ですら、中座すンのを(きら)って、清めるために洗いに行こうとはしなかった錐嶺だ。

 だけどきっと、泣き腫らした顔なんか見られたかァねェだろう。痛々しくて、申し訳無くって、真っすぐとは顔を見られなかった。


 言葉少なに終わった夕飯だったが、そンでも「味がしなかった」なんてなるのは嫌で、息苦しい胸を押し退()けて、味わって食った。心の底から言えるように。旨かった、ご馳走様でしたと。その間ずっと左手の甲に、拍子を打つ感触がしてるみてェに感じた。





 今日は反省しなきゃならねェ事が多過ぎた。歯を磨いて貰ってる間も、錐嶺に先に休んで貰ってる間にも、ぐるぐる頭に渦巻いてた色んな事が、全然整理が付かねェまま、いざ手前(てめェ)が眠る段になっても納まらねェ。寝付けず溜め息ばっかし()いてる。


 「眠れないの?」

問いかける小さな声。寝台の傍らから。そこの床に布団を敷いて横ンなってる筈だ。あァ、すぐこうやって、ばれちまう。何と答えたモンか。

「私、居ない方が()い?」

「居てくれ」

(かんげ)ェる(めェ)(けェ)してた。嫌だ。居なくならねェでくれ。それだけは。

「頼む」


 自分を泣かせた男の傍に居続けて、世話を焼かなきゃならねェなんて、どンだけ嫌な事か。それも赤の他人だ。姿はお(たげ)ェ見えねェとは言え、(おんな)し部屋で眠らなきゃならねェなんて。俺は(ひで)ェ仕打ちをしてる。


 だけど、あんたが許してくれたから。俺をこっから放り出す事だって出来たのに、何でも()ェように振る舞ってくれたから。

「…頼む」

「うん」

俺ァそれに縋る事しか出来ねェ馬鹿なんだ。


 息を整える。(つか)える胸を捩じ伏せるように。注意して(おんな)し長さで息をする。眠れずに居ることを悟られねェように、無駄な努力をしてみる。



 昼間言われた事を何遍も噛み締めた。今どンだけ体を動かして良いか。どういう風にすンのは駄目か。まだ予測がつかない事はたくさん有るんだ、と言ってた。



 今までの事を思い出した。



 瘡蓋(かさぶた)を嬉しそうに見せてくれた事。ふふふと笑う声。初めて髭を剃ってくれた時の事。剃り跡を見て満足気な顔。粥の食べさせ方を二人して思案した事。匙をごつんと俺の歯へ当てちまった時の狼狽えた顔。痛みと吐き気にへたばる俺を宥めてくれた事。腹にじんわり伝わってきた掌の(あった)かさ。柔らけェ手。背や手足を揉み(ほぐ)しながら話す静かな声。荒れた指のざらざらした感触。髪を乱す度に撫で付けてくれる事。黒野の兄さん、と入り口から呼ぶ声。傷を診てる時の真剣な目。目の下に出来た隈。線香を替えに、って来てくれた夜の事。俺の手を掬うように滑り込む手、手の甲へ拍子を刻む指。

 俺が(つら)そうにしてるのは自分も(つら)いと呟いた錐嶺の、沈んだ声。


 俺を生かす為に、そして少しでも楽になるようにと、心血(そそ)いでくれてる。


 そういうひとの前で言って良い事じゃァ無かった。冗談だとしても言って良い事じゃァ無かった。でも言っちまったモンはもう取り消せねェんだ。



 錐嶺の泣き腫らした顔が何遍も何遍も浮かんだ。叫んだ声。しゃくり上げながら紡がれた言葉。



 息を整える。足も腕も動かせるように成ったのに、ぴくりとも動けずに()る。拍子を打つ感触がまだ手の甲に残ってンのだけが頼りだ。思い出せるあの拍子に合わせて、息を整える。



 居なくならねェでくれ。頼む。

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