10 -1. 決潰
夕飯。肝の煮付け。これも旨かった。焙ったのほど柔らけェ歯触りじゃァ無くなったが、そンでもまだ噛めばすぐこっくり解ける。生姜を効かせてあって、しっかり溜りの味が染みてるが、佃煮ほどは濃くねェ。
「何か、こんな、見るのも食うのも初めてな旨ェモンが続くと、一寸不安になるな」
今夜の最後の一切れを味わって飲み込んだ後、ふと思った事が口から出た。
「え。どうして?」
「んー。昔、向けェの長屋の爺さんが暫く寝込んじまった時に、死ぬ前に一遍で好いから舞茸ってェのを食いたかった、なんてポロっと言ったモンだから。家族も、最期位旨ェモン食わせて遣ろう、ってンで、舞茸って何だ、どこで手に入るんだって探し回ってたの思い出した」
記憶を辿って話して、箸に挟まれた透き通った大根を見て、次は大根の煮付け、と待ってたんだが、錐嶺の手はそのまま一向に動かねェ。
視線を遣ると、怪訝な顔で固まってる。あれ。舞茸なんて知らねェか。
「舞い踊りたくなる程美味ェ茸なんだってよ。結局手に入らねェで、代わりに椎茸をどっかの食事処で料って貰って、巧ェこと誤魔化して食べさしたとかって」
「うん」
あー、箸が段々柔けェ大根に食い込んでってる。
「結局爺さんは持ち直して、その後ぴんしゃんしてたんだけどな。当人は舞茸食ったと思ってたけど、本当は椎茸だった、ってェのは御近所中皆が知ってる秘密になってよ」
「うん」
「あ」
とうとう大根が二つに割れて、ぴしゃ、と椀へ落ちた。
「それでどうして黒野の兄さんが不安になるの」
「ん?」
怪訝な表情を通り越して、眉を顰めた錐嶺が居た。
…拙ィ。何か間違ェたか、俺。
「そのー…、最期だから旨ェモン頂ェてる、みてェな…」
がちゃん。
乱暴に盆へ戻された椀と箸、
「縁起でも無いこと言わないで下さい!」
叫ぶ、突然の剣幕。
吃驚してる俺の前で、錐嶺の顔がくしゃりと歪む。一つ咳き上げた、短く擦れた息。それを漏らした口をぱしっと片手で塞ぐ。けど止め切れず引き攣った息が二度三度と溢れる。一緒に小さく零れた、短ェ悲鳴のような声。とうとう錐嶺は両手で顔を覆って伏せ隠す。うぅ、と殺し切れなかった幽かな声が漏れる。ぱたぱたと涙の落ちる音が──
──泣いてる。
「あっ、え、ご、めん、御免。御免」
うあぁあぁぁ、どうして。どうしよう。
「こっ、これは」
顔を覆った手の向こうから、籠った声が転び出た。
「これは狭峡の、兄さんが、黒野のが、早く、良く成るようにっ、て、下さった、ん、です」
噎ぶ合間に何とか言葉を紡ぐ。細い肘を伝って涙の雫が落ちる。俺は狼狽えたまま、うん、うんと聞く事しか出来ねェ。
「滋養が、有るから。滋養が、有るからって、分けて下さっ、たんです」
しゃくり上げながら、懸命に訴えて来る。
「さっ、最期の、情けの、餞別なんかじゃ、ありません!」
──しまった、俺だ。完全に間違ェた。
「分かった、俺が悪かった」
顔を覆ったまま、錐嶺はくるりと背を向けた。ううう、と小さく声を上げて啜り泣いてる。
あぁぁ本当に泣かせちまった。泣かせちまってる。俺はどうして、こう。
「御免。俺が考ェ無しだった。謝る」
「私だって、そんな積りで、食べて貰ってるんじゃ、ありません」
「うん。分かってる。御免」
しゃくり上げしゃくり上げ、震える肩に、俺は何もして遣れねェ。左手を伸ばし掛けて、全然届かねェことに気付いた。遠い。
「済まねェ。どうか許して遣っておくンねェ」
この通りだと頭を下げてェのに、今の俺にはそれすら儘ならねェ。焦って力んだ所為で首が痛み出す。そもそも俺みてェな馬鹿は、このひとに触れちゃいけねェんだ。
すう、と錐嶺は大きく息をする。鼻を啜っては何度もそれを繰り返す。弾けちまった心を鎮めようとしてる。何度も手で涙を拭う。
一際大きく息を吐いた後、
「御免。私こそ、御免ね」
と苦ェ声で言う。振り返ろうとして一遍躊躇って、息をし直して、こっちへ向き直った。
「急に大きな声で文句を言って御免なさい。みっともない所を見せました」
止める間も無く頭を深々と下げる。上げた顔は、目も鼻頭も真っ赤だった。掛ける言葉が何も浮かばねェ。
「女の癇癪くらい嫌な物は無いよね」
鼻声のまま、ばつが悪そうに言う。
「そんな事思ってねェよ。男だろうが女だろうが、堪忍袋がはち切れるまで業腹にさせられりゃ、怒る。今のは俺が悪かった」
「許してくれるの?」
「許して貰わなきゃならねェのは──」
言い掛けた俺を遮るように、所在なく垂れてる俺の左手を取る。
「じゃあ仲直り」
弱い笑顔で囁いて、きゅっと手を握る。
「もう言いっこ無し」
俺は握り返せなかった。
離す前に、親指で手の甲をとんと叩かれた。忘れ難ェ、憶えの有る感触が一拍響いた。
「食べられる?」
「ん。食う」
赤く腫れた目のまま、何事も無かったように夕飯の続きを食わせてくれた。顔洗って来ねェ、とは言えなかった。粥を顔中に吐き飛ばされた時ですら、中座すンのを嫌って、清めるために洗いに行こうとはしなかった錐嶺だ。
だけどきっと、泣き腫らした顔なんか見られたかァねェだろう。痛々しくて、申し訳無くって、真っすぐとは顔を見られなかった。
言葉少なに終わった夕飯だったが、そンでも「味がしなかった」なんてなるのは嫌で、息苦しい胸を押し退けて、味わって食った。心の底から言えるように。旨かった、ご馳走様でしたと。その間ずっと左手の甲に、拍子を打つ感触がしてるみてェに感じた。
今日は反省しなきゃならねェ事が多過ぎた。歯を磨いて貰ってる間も、錐嶺に先に休んで貰ってる間にも、ぐるぐる頭に渦巻いてた色んな事が、全然整理が付かねェまま、いざ手前が眠る段になっても納まらねェ。寝付けず溜め息ばっかし吐いてる。
「眠れないの?」
問いかける小さな声。寝台の傍らから。そこの床に布団を敷いて横ンなってる筈だ。あァ、すぐこうやって、ばれちまう。何と答えたモンか。
「私、居ない方が好い?」
「居てくれ」
考ェる前に返してた。嫌だ。居なくならねェでくれ。それだけは。
「頼む」
自分を泣かせた男の傍に居続けて、世話を焼かなきゃならねェなんて、どンだけ嫌な事か。それも赤の他人だ。姿はお互ェ見えねェとは言え、同し部屋で眠らなきゃならねェなんて。俺は酷ェ仕打ちをしてる。
だけど、あんたが許してくれたから。俺をこっから放り出す事だって出来たのに、何でも無ェように振る舞ってくれたから。
「…頼む」
「うん」
俺ァそれに縋る事しか出来ねェ馬鹿なんだ。
息を整える。痞える胸を捩じ伏せるように。注意して同し長さで息をする。眠れずに居ることを悟られねェように、無駄な努力をしてみる。
昼間言われた事を何遍も噛み締めた。今どンだけ体を動かして良いか。どういう風にすンのは駄目か。まだ予測がつかない事はたくさん有るんだ、と言ってた。
今までの事を思い出した。
瘡蓋を嬉しそうに見せてくれた事。ふふふと笑う声。初めて髭を剃ってくれた時の事。剃り跡を見て満足気な顔。粥の食べさせ方を二人して思案した事。匙をごつんと俺の歯へ当てちまった時の狼狽えた顔。痛みと吐き気にへたばる俺を宥めてくれた事。腹にじんわり伝わってきた掌の温かさ。柔らけェ手。背や手足を揉み解しながら話す静かな声。荒れた指のざらざらした感触。髪を乱す度に撫で付けてくれる事。黒野の兄さん、と入り口から呼ぶ声。傷を診てる時の真剣な目。目の下に出来た隈。線香を替えに、って来てくれた夜の事。俺の手を掬うように滑り込む手、手の甲へ拍子を刻む指。
俺が辛そうにしてるのは自分も辛いと呟いた錐嶺の、沈んだ声。
俺を生かす為に、そして少しでも楽になるようにと、心血注いでくれてる。
そういうひとの前で言って良い事じゃァ無かった。冗談だとしても言って良い事じゃァ無かった。でも言っちまったモンはもう取り消せねェんだ。
錐嶺の泣き腫らした顔が何遍も何遍も浮かんだ。叫んだ声。しゃくり上げながら紡がれた言葉。
息を整える。足も腕も動かせるように成ったのに、ぴくりとも動けずに居る。拍子を打つ感触がまだ手の甲に残ってンのだけが頼りだ。思い出せるあの拍子に合わせて、息を整える。
居なくならねェでくれ。頼む。




