2 -2. 熊
本日2話分新規投稿しました。
きんきぃんきぃんと、バラバラな拍子木みてェな音が不意に響いた。 どっか外から聞こえてくる。
「おぉ~い、錐嶺の先生ぇ。起きといでるかえ~?」
遠くから呼んでる野太ェ男の声。え。誰だ。
「錐嶺のぉ。狭峡じゃぁ。橋ぃ架けとくりょぉ」
「今行くよー、一寸待ってぇ」
屋内のどっかから錐嶺が声を張り上げて返事してる。
橋架ける? …って、どういう事た?
戸を開けて駆けてく足音。少し間を空けて、じゃりじゃりじゃりじゃりと金物の騒々しい音がし始めた。どすん、どすんと重い物が落ちるようなくぐもった音と共に。何だ? …色々思い巡らすが、何だか全く想像つかねェ。
長ェ間続いたその物音が漸く止んだ後、「お早う」と挨拶を交わす声。それが皆、短く重なるこだまの尾を引いて聞こえる。随分響くな。どういう場所なんだ、ここ。山深くだとは聞いたが、山彦ってこんな風に響くモンか?
その後も暫く二人は何か話してたが、聞こえる声は途切れ途切れで、話の中身までは分からねェ。こんな朝早くから患者か?
何も推し量れず居る内に、ぱあっと東の高窓から光が差して、天井が明るくなってった。それを眺めて、日が昇ったか、と思ってる間に、板間を踏む重い足音がこの部屋の戸のすぐ向こうまでやって来た。
「おぉい、入るぞぉ」
返事を待たずに戸が開く。山歩き装束のやたらでけェ男が、鴨居すれすれの頭を屈めて、部屋へ入って来る。左腰には山刀。
「よぅ。今朝ぁどうじゃ。ん、顔色は昨日よりゃ増しになっとるようじゃが」
首へ巻いてる手拭いを引っこ抜きながら、遠慮も何も無く俺の顔をじろじろ覗き込んで言う。清々しい朝にそぐわねェどら声だが、口調も表情もやたらと朗らかな浅黒い男。見た目四十絡みなのに、子供みてェに笑ってやがる。しかしでけェな。俺も上背は結構ある方なんだが、この男と来たら、肩幅も厚みもメリケン人並みだ。
『昨日より』っ言ったが、俺ァこんな男、見た覚えが無ェ。
「…あんた誰だ」
他人の事言えたモンじゃねェ位、低い濁声が出た。こんな動けねェ体で、こんな大男に対峙すンのァ嫌な感じだ。身を守る術が無ェ。
「あぁ! 済まん」
太い眉を跳ね上げて、うっかりしてたって態で、頭の後ろをわしわし掻く。墨色の頭巾の下から出た長髪が踊る。
「俺ゃ猟師の大吾て者じゃ。ここのすぐ谷向こうの狭峡辺りを縄張りにしとるで、『狭峡の』で通っとるけんど」
言いながらその男、狭峡は、椅子へどっかり座った。くしゃくしゃになってた後ろ髪がすとんと肩へ落ちる。
「一昨日、錐嶺の先生に呼ばれて、あんたをここへ運んだんじゃ」
…そう言や昨日錐嶺がそんなこと言ってたな。
「そらァ手間掛けた、忝ェ。俺はここじゃ黒野って名を貰ってる。不躾で悪ィが頭を下げられねェのは堪忍してくれ、首が動かせねェんだ」
「あぁ、好ぇ好ぇ。堅苦しいのぁ無しじゃ、黒野の。それよりな…」
頓着しねェ様子でそう言い掛けた狭峡は、ぱんと膝を叩いてから手に持ってた背負い籠を探り始める。何だ、随分ざっくばらんな男だなァ、おい。
痛てて。気が弛むと、体の痛みが一気に戻って来ンのな。あー…あ?
溜め息の途中、背負い籠から出てきたモンに驚いて、息も止まっちまった。
「こいつを、あんたの物で無かろかと思って、拾って来たんじゃがな」
渇いた泥で薄ら汚れた、刀と小振りな革鞄。目の前に、ほれ、と掲げる。俺の寸延短刀と、腰へ付けてた胴乱だ。
「心当り有りそうじゃな。昨日昼から、先生があんたを見つけないた辺りょぉもう一遍辿ってみたんじゃ」
ここで目が覚めた時にゃ丸腰だったし、錐嶺も何も言わねェから、てっきり失くしたモンだと思ってた。
「俺ンだ。有り難ェ、助かったよ」
「あ、中を検めるのぁ、俺も先生も居らんところでやっとくりょよ。ここの物入れの中へ入れとくで」
狭峡は屈んで、俺が寝そべってる寝台の下から何かごとごとと引き摺り出した。茶箱みてェなモンか。木蓋を開けて、胴乱と短刀を入れ、また仕舞う。
「後日検めらァ。どの道、今は全く動けねェんだ」
あン中にゃ財布やら警察の手帳やら入ってる。無くっても死にゃしねェが、見つかって良かった。
「胴乱はの、崖の途中の木の枝へ引っ掛かっとった。蓋ぁ閉まっとったで中身は出とらまい。開けて見た訳で無いで分からんけんど…、見ても持ち主で無いで分からんか、っははは。ここじゃ余所者の素性は詮索せん決まりじゃでのぉ。俺も何も知らんままにしときたいんが本心じゃ」
にぃと笑った狭峡は、両手の平をひらひら振る。面倒事は御免だって風に。
「あァ、その決まりは聞いてる。けどあんた、態々探しに行ってくれたのかい?」
「態々でも無い、通り道じゃで」
通り道ったって、崖の木へ引っ掛かってンのを取ってくれたんだろうに。余所者にゃ一線引くのに、世話は焼くってェのは、錐嶺と同しだな。お人好しはここの土地柄か?
「礼はどうすりゃ好いんだい」
「そりゃ俺じゃ無うて先生にして遣っとくりょ」
「あー、そっちは、体が治ったら薪運びをやる事ンなってる」
「おぉ、そりゃ良ぇ。錐嶺の先生は剛健な女子じゃが、独りで冬の和いせるなぁ一仕事じゃでのぉし」
ごうけん…剛健? 豪健? …って、あの医者先生がか? やわい? 冬のやわい…、あー、冬支度の事か。
「俺ァあんたにも礼がしてェんだが。貸しァ作りたかァ無ェ。貨幣なら幾らか胴乱に入ってる筈だ」
目線だけでさっきの物入れの方を指すと、狭峡はそれを追って寝台の下を見遣ってから、軽く溜め息を吐いて笑った。
「いや、好ぇよ、黒野の兄さ。そもそもな、ここいらじゃ、銭にゃあんまり有り難みが無いんじゃ。物を遣り取りして暮らいとるで、遠い町まで出て行かん限り銭の出番は無うて」
んー? そンで税の払いはどうしてンだ。幾ら人里離れた山ン中を根城にしてるっても、戸籍とかちゃんとしてるよな? 錐嶺もこんな所に住んでて…
…、拙ィ。詮索しねェ方が好い。薮を突いて蛇でも出て来りゃァ、取り締まらなきゃならなくなっちまう。恩人にそんな仕打ちしたかァねェ。
「…ま、ほんでも貸しが嫌な気持ちゃぁ分からん事無い。動けれるようになったら、何か手伝いでもして貰うわいさ」
「あんたがそれで承知してくれるんなら。けど、済まねェ、当分先の事になっちまいそうだ」
俺の答えに狭峡は、はははと笑って、
「気にせで好ぇ」
と言う。
「しっかし兄さ、丈夫じゃなぁ、あんた。良う助かった。運も良ぇ。落ちる途中で木ぃ一旦引っ掛かったんじゃろう。枝に着物の切れっ端も残っとった」
「…落ちた時の事ァよく覚えて無ェんだ」
「ほぉかい。…俺もまぁ、急を知らす合図で清水岩まで行ってみた時にゃ、我忘れる程吃驚したがな。血だらけの先生があんたを抱えて震えておいでて」
え。
「先生が怪我しないたんかと早合点して、まぁ肝が冷えたわい。悉皆あんたの血じゃったがの。その場で出来る手当ては済んどって息も有ったけんど、あんたぁ体が酷う冷え切ってしもうとって。一寸でも温めさすと、先生はずぅっと、冷えたあんたを抱えて、俺の来るのを待っておいでてのぉし」
そこまで…、そんなに酷かったのか。そこまでしてくれてたとは。
「見つけたのが錐嶺の先生で無けな、あんた助からなんだで」
「…あァ、それァ感謝してる」
あの女医さんへの感謝は言わずもがなだが、初めて、天に、この巡り合わせに、感謝した。
自他共に認める籤運の良さで、今回、地獄で大吉を引き当ててたらしい。
「先生は腕の確かな医者じゃ。俺ゃ診て貰ったのは一遍きりじゃが、ウチの子供ん達が何やら罹る度に世話んなっとっての。まぁ案ぜすと養生さっせぇ。この養生所も、ここいらじゃ一等安全な所に在るで」
「安全?」
「熊やら猿やら入って来んし、堅牢なで嵐が来ても心配要らんと事ちゃ。まぁ、外へ出りゃ分かる」
そう言って、狭峡はふと視線を外してから、立ち上がった。不意に笑みを消す。
「ただな、先生が幾ら良ぇ女でも、手ぇ出すなよ、黒野の兄さ」
ぎろりと見下ろして凄んで来やァがった。
「あんたぁどうやら真っ当な仁のようじゃが、されど錐嶺の先生に乱暴働きゃ、この山から生きて出れると思うなよ。猟師衆の誰も許しちゃ置かん。熊の餌になるのを見届けるまで」
殺気に応えて、どくりと全身が脈打つ。この親仁、本気だ。だがこんな脅し、恐くもねェ。警察相手に馬鹿吐かせ。
「ンな不義理する程腐っちゃいねェよ」
唸って睨み返す。
「言質取ったぞえ」
「あァ、約束すらァ」
きっぱり返すと、狭峡はじっと俺の目を見据えた後、表情を緩めた。
「一日でも早う動けれるようになって、先生を休まして遣っとくりょ」
フン、お優しい事た。…ヤ、違うのか? もしかして…
「…もしかして怪我人が続いてンのかい?」
「何でそう思うえ?」
「痛み止めが足りねェとかっ言ってた」
狭峡は一つ溜め息を吐く。やっぱしそうなのか。
「十日ばか前に、一山向こうの木地屋の仮集落を、鉄砲水が掠っての。幸い死人は出なんだが、四人、怪我したのを先生は診に行きないて、一昨々日、戻っておいでたばっかりなんじゃ」
え…待てよ、
「一昨々日?」
「そうじゃ。爺さんが一人、足ぃ潰いてちょん切ることになってしもうて。先生はまだ付いとって遣りたかったそうなが、当の爺さんがもう大丈夫じゃ言て、帰いたんじゃげな。そんで、その爺さんに痛み止めも一月分ばか渡いておいでたげなで」
…直近まで酷ェ大事にかかずらってたのか。なのに今朝は徹夜させちまった。その前の夜だって俺は正体(:意識)も無かったし、寝ずの番だったんじゃねェのか? 大丈夫なのか、あの人。
「俺ん所に置いとる薬草も持って来といたが、もっと強い薬は、届くのはきっと明日か明後日じゃ。薬売りに、寄るよう報せは出いてあるけんど、何せ山ン中なで、すんぐとは着かん」
「…。傷が開かねェよう努めるよ」
「そうしとくりょ。…どれ。急に邪魔して済まん事ちゃったな、錐嶺の先生を責めんでおくれよ。俺ぁ二人で話したい事が有るでってて押し入ったんじゃで」
「あー…」
まぁ、素性を知りたくねェってなら、錐嶺は俺の手荷物なんざァ見ねェ方が良いだろうしな。
「あァ、分かったよ」
「黒野の兄さん」
俺の返事に重なって、錐嶺の呼ぶ声が。狭峡も俺も、はっと入り口戸を見る。
「入るよ。好い?」
「おう」
返事を待って戸が開くと同時に、狭峡の親仁は、すいと奥へ退く。廊下の床へ下ろした桶二つを提げ直して、錐嶺が入って来る。
「まぁ俺ゃ帰るで」
「あ、待って、狭峡の兄さん」
籠を背負って出て行き掛けた狭峡を、錐嶺が呼び止めた。
「ここから一番近い町って、牟先で合ってる?」
あ。昨晩俺が訊ねた話だ。
「ん~、ほうじゃのぉ、まぁ行き易さからして、牟先じゃの」
「東か南へ行こうとすンならどうだ?」
「兄さ、自分の足で行かすと思っとるなら、真東へは急いては行けんぞよ。尾根筋を三棟越えにゃならん。南ぃ向いて下って柿之原へ一旦出りゃ、どこへも行けれるがの。柿之原で宿取って、明くる朝から街道形に南へ下ってきゃ、夜去にゃ東山道の金打宿へ着くだも」
「二日掛かンのか…なら、やっぱし牟先が最短か」
「良かった、間違えてなかった。私は南の方は余り明るくないから助かったよ。有り難う」
「何の。じゃあな、あばよ、黒野の兄さ」
「あァ。有り難うよ」
「見送って来るね」
「おう」
錐嶺と狭峡が廊下へ去って程無くして、またあの騒々しい鎖か何かの音がじゃりじゃりじゃりと暫く続く。
「またその内寄るでー」
狭峡のどら声が響いた。
古馴染みみてェだし、てっきり二人共この土地の生え抜きかと思ったんだが…
狭峡の親仁の訛りは、錐嶺とは全然違う。ここの土地訛りはきっと狭峡の方のだ。仙州支局の加藤のに似てるし。
錐嶺は、話す言葉は御府内の商家の娘みてェなのに、ほんのたまァに、西の方の抑揚が入る事がある。一瞬、あ、と思うが、どこの国言葉ともつかねェ内に流れて行っちまう。
土地勘も今一つらしいところを見るに、錐嶺って、元ァ余所者なのか?
「熊の餌」宣言は、黒野を町の人間と見切った狭峡の単なる脅し。熊に人肉の味など覚えられたら大変な事になるのを、山の衆は良く分かっています。
狭峡のイラストを別ページにアップしました。リアル目な絵がお苦手でなければ、目次から「挿絵-山方」へどうぞ。




