プロローグ 人生最良になると思っていた日の人生最悪の時間からの人生最高の瞬間
少女が寝台の上で泣いていた。
艶やかな腰まで届く長い黒髪、細くしかし鍛えこまれていることが分かるしなやかな四肢。
髪と同じく黒く魅力的な瞳は美しい宝石のようで、通った鼻筋と共に美しいと称すしかない容貌。
その美しい容貌が今は両の眼からあふれ出る涙で濡れていた。
「ザロアの嘘つき……必ず、必ず勝つって言ったのに……嘘つき、嘘つきぃ」
彼女の眼からは涙が、口からは最愛の彼への罵りがとめどなくあふれ出る。
部屋の片隅にある屑籠には様々な装飾品や服が捨てられていた。
彼が初任給をもらったとき、買ってくれた髪飾り。
去年の誕生日に彼からもらった少女趣味な服は、期待させてはならないため二人っきりのときに着ることはなかったが、毎日の手入れを欠かしたことは無かった。
少し派手な下着はその日が来たときに着ようと準備していたモノ……彼が興奮してくれれば嬉しいと夢想しながら。
全て彼女にとって何にも代えがたい宝物だったが今はすべて屑籠の中。
こうなる可能性はあった、どれだけ強くとも負けるときは負けると彼女が奉じる戦神は語る。
だが、その教えをここまで恨んだのは初めてだった。
彼は……ザロアは今どうしているだろうか?ひょっとして私を連れ去ることでも考えているだろうか?いつものように妄想しようとして……ティアリスは止めた。
彼が自分の妄想のように情熱的な言葉をかけてくれたり、物語のように振舞ったことは一度もない。
自分が考えたらほんの少し残っている可能性が消えてしまうかもしれない。
だから彼女は明日が来なければいいのに……そうすればザロア以外を伴侶に迎えなくて済むのにと、ありえざる妄想あるいは切実な願いを頭の中で何度も繰り返す。
夜はふけて、全てが静まり返ったころだった。眠って最悪の瞬間へと近づく気には到底なれず、ただぼんやりと高価なガラスのはまった窓の外を見ていたティアリス。
彼女の視界に何か……否、人影が映った、窓の外に誰かがいる。神殿の外に配されていた明かりの光で逆光になり顔は解らない。
だがそのひときわ背の高い体格だけで彼女には誰かは明白だった。
――ザロア。そう思った瞬間、一回、二回。まるで、いやまさしく人目をはばかるように出来るだけ音を立てないように人影は優しく窓を叩いた。
行ってはいけない、行けば戦神様を裏切ることになる。そう予感しながらも彼女はベットから立ち上がり誘蛾灯に集まる虫のようにふらふらと窓に近づき開けた。
そこにはザロアがいた。いつものように真面目な顔つきで、しかしいつもより遥かに緊張した様子だった。
しばし、窓を挟んで二人は見つめあう。口を開けば戦神を裏切ることになる逡巡でお互いに言葉が出ない。
だがザロアは意を決したように口を開いた、自分の神を裏切る言葉を。神の意志ではなく自分のなしたいことを意思に乗せて。
「ティアリス様、自分と共に来ていただきませんか?」
ザロアの言葉にティアリスは嬉し涙を流すことで応えた。
物語の始まりは一か月ほど前の日までさかのぼる。