68.動き始める
アイリーン・サットランへの茶会への招待状は、ソフィアとギルバートの連名で出した。ソフィアだけの名前では、ギルバートが狙いの場合、応じないかもしれないと危惧したからだ。
アンガスとの連絡はいまだつかなかった。
サクロスへの道はいまだ封鎖されている。途中にある、谷沿い街道の地盤が不安定で崩落の危険性があるからだ。サクロスへの物流は、ハワードの領地を迂回して届けられる。馬車で三日、余分に時間がかかる。
アンガスが同席できないのを少しだけ残念に感じる。アイリーン・サットランが葉紅花・・花花かどうか一番知りたいのはアンガスだろうから。
急な誘いだったのにも関わらず、アイリーンからは美しい筆跡での了承の返事が来た。
そして当日、指定したお茶の時間にアイリーン・サットランは登城した。小雨が降り続いているため、庭園は使えずに、ギルバートがソフィアと会う時にいつも使う小振りな応接室に通す。
今日はベネディクトは別件で席を外している。ドアの外には近衛が配置されているが、部屋の中にはソフィアとギルバート、そしてアイリーンだけだった。侍女すらも茶の準備の後に下げた。
舞台は整った。
アイリーンはすこし戸惑っている様子だったが、しかし、うろたえるような愚は犯さない。落ち着いた美しい礼をする。
「・・殿下にはご機嫌麗しくお喜び申し上げます。本日はお招きいただきありがとうございます」
「今日は来てくれてありがとう。・・この間の話の高官の続きなんだ」
ギルバートはにっこりと微笑む。あまたの女性が頬を染めるギルバートの微笑みにアイリーンは表情を変えずに目線を下げた。
ソフィアはアイリーンの表情をそっと伺う。アイリーンは完璧に表情を作っていた。今は戸惑いの表情をうまく作っている。そしてその戸惑いを現すような言葉を発した。
私には荷が勝ちすぎます、と。
「そんなことはないわ」
とソフィアがギルバートを援護する。もっと、いろいろな表情が見たかった。いろいろな表情が見えれば、何かが見えるかもしれない。
「あなたの優秀さはウィリアムも認めていますもの。あの子が他人を褒めるなんてなかなかないのですよ」
ソフィアが姉の顔で笑ってみた。
アイリーンはどこか固い微笑みを浮かべるだけ。
アイリーンは一度、目を伏せると強い視線をギルバートに向けた。
睨むような挑むようなその視線にソフィアはハッと息を詰める。
「私のこと疑っておられますね?」
「なんの話だい?」
ギルバートがはぐらかすようにそう答えると、アイリーンは可憐に微笑んだ。
「いいえ、何でもないのです。王城を志望するお話についてはサットラン当主と相談の上お答えさせていただきたく」
言葉の途中で、アイリーンが一歩踏み込んだ。ふわりと揺れたドレスの陰で手に握られたのは銀色。
咄嗟に引き抜かれたギルバートの剣にアイリーンが微笑んだ。
花が咲くように。
そして。
隠し持っていたキリのような刃物をアイリーンは自分の首へと当てた。刹那、短剣が飛んできて、かん、と高い音とともに、彼女の手から暗器を弾き飛ばす。
「花花!」
小さく、鋭くギルバートが叫んだ。
アイリーンの手が止まった。彼女の目が大きく大きく見開かれる。
「花花だろう?おれは、高山築だ」
身を固まらせたアイリーンにギルバートは囁くように伝える。
ソフィアは詰めていた息を吐き出した。呑み込んだ悲鳴が吐息となって吐き出される。
アイリーンは、とうとうと涙を流しながら、不格好に口元を歪めていた。
ソフィアはそっとアイリーンの近づくと、ぎゅっとその体を抱きしめる。
細くて華奢なその体は、小刻み震えていた。
ぐっと鼻の奥の熱いものを呑み込んで、ソフィアはその名を絞り出した。
彼女が、彼女であるという確信を持って。
「花花・・!」
「さ、さやちゃん!」
強い力で抱きしめ返されて、ソフィアの頬も涙でぬれる。
「さやちゃん、さやちゃん」
花花は滂沱の涙を流してソフィアを抱きしめて泣きじゃくる。
「・・おれもいるんだけどな」
ギルバートが暗器を拾い上げてソフィアの隣に立つと、ベネディクトも姿を見せた。アイリーンの手から暗器を弾いたのは彼の投げた短剣だ。
「琉揮も・・!」
あーん、と子どものような泣き声を上げて花花は泣きじゃくる。
「ずっと、ずっとひとりだと思ってたの・・!」
「花花のこと、ずっと探していたのよ。快進は国中を探し回っていて、でも見つけられなくて」
「さや、ちゃぁぁん」
アイリーンは泣きすぎて言葉を紡げないようだ。ビービーと泣きじゃくる。
「花花、快進はいま、サクロスに」
ギルバートが言いかけた時。
許さない。
と、女の声が部屋を揺らした。
ベネディクトがとっさに剣を抜き身構える。ギルバートもさっとソフィアと花花を庇った。
許さない。
四人がその声を認識した瞬間、部屋の中の景色が変わった。
雨が降っている。鈍色の空が頭上に広がっている。しかし、雨は身体を濡らさない。雨の匂いもない。
アンガスがいた。
サナンを従えて指示を発している。手元には地図が広げられ、河と地図を交互に見ている。
「・・だめ・・!」
花花が小さく叫ぶのと同時にアンガスの目の前を銀色の軌跡が通り過ぎた。
ベネディクトがとっさに剣を構えかけた。
アンガスの目の前に現われたのは、黒い男。
サナンがアンガスの前に出る。
その刹那。
ドオォォンン
と聞こえるはずのない音が響いて、アンガスが、黒装束の男が、サナンが茶色の濁流に呑まれた。
「い、今のは?」
ソフィアが絞り出した声は自身の声とは思えないほどかすれていたことに驚く。
「・・・許さない」
ソフィアの腕のアイリーンが低く、低く呟いた。その顔を見てソフィアはぎょっとした。
彼女の顔が崩れていた。
表面の皮膚が溶けて赤く生々しい肉が露出している。鼻が削げ、唇は落ち、頬は赤黒く一部骨が露出している。どこか焦げ臭いような匂いまで漂ってくるようだった。
眼球がどろりと解けて出る幻覚にソフィアは、花花、と強くその名を呼んで、ぎゅと抱きしめた。
戻ってきて、と。
アイリーンはハッとしたように息をのむ。その顔はもとの美しい顔だ。
「・・・ねえ、みんなはあのお祭りの日に、ご神体の鏡が土砂に吹き飛ばされて割れたのを見た?」
アイリーンが静かに言った。
ソフィアは覚えていなかった。最後に見たのはかばってくれた琉揮の手のひらと土砂の茶と闇の黒。
「きっと、今の映像は本物よ。アンガス様は・・カイくんは土砂に飲まれた」
アイリーンの声は不自然に明るかった。しかし、その顔は蒼白。思わず抱きしめたソフィアにも伝わってくる細かな震えは彼女の恐怖を伝えてくる。
すぐに動いたのはギルバートだった。
「デューク、お前いけるか?」
「ああ、あの黒いやつは厄介だ。すぐに出る。ソフィア・・悪いが馬の扱いを長けた奴を何人か同行させてもいいだろうか。人員は多いほうがいい。不確かな情報で騎士団を動かすことはできないから」
「ええ。すぐに。ギルは?」
「あの映像が本当だった時のために、確認が取れ次第、第三・第四騎士団を派遣できるようにしておく。ああ・・悪いがアイリーンはソフィアとともに侯爵家へ行ってくれ。いま、君の警護に人員を割くことが難しい。侯爵家なら安心安全だからな。
それと、マグリットの計画だが」
「ええ。プラン4ね。じゃあ、ギルもデュークもあまり無理はしないで。アイリーンさん、我が家へ向かいましょう」
いろいろと聞きたいことがあるしね、とソフィアが王太子妃の顔で笑う。
扉を開けると、部屋の外に待機していたソフィア付きの
侍女が控えていた。ソフィアは彼女に、アイリーンをしばらく侯爵家に滞在させること、すぐに馬の扱いに長けたものをなるべく多めに、旅装を整えた上にオラニス家へ向かわせることを言いつける。
デュークも近衛騎士団の同僚に二、三言づけると、ギルバートに挨拶をしてその場を離れた。ギルバートも、侍従にサクロスとサクロスの領都近くに領土をもつハワードに現状確認の要請するように手配した。
ソフィアは、ギルバートに礼を取る。
「では、殿下。本日はありがとうございました」
「ああ。こちらこそ。では、ソフィア嬢、サットラン子爵令嬢、またの機会を楽しみにしている」
そして、それぞれの役割をこなすために、歩き始める。