67.サクロス領にて
サクロス領は絶え間なく雨が降っていた。王都でも連日雨が続いていたが、サクロスではは断続的に、少なくない雨量が降り続いている。
小麦の生産量にも影響が出ているという。
アンガスは馬から降りると領地に横たわる河は思っていたよりも水位の上昇も水量の増加も認められなかった。
おかしい。
アンガスは眉を顰めると、サナンを呼び寄せた。
「上流にダムでもあったか?」
少ない土木に関する知識を思い出す。上流にダムがあれば水量の調節が可能だ。ダムが溢れそう、ということで呼ばれたのだろうか。それなら、領主の指示を仰なくとも徐々に解放し水量の調整を行えば良い。アンガスが呼ばれた意味がわからない。
「上流のダムはすでに調整放流を行っています」
「おかしいな・・。管理人はなんと言っている」
「自分の治水工事が功をそうしているのだと。しかし」
この水量は不自然だ。
アンガスの背に嫌な汗が流れる。
「至急、上流へ向けて調査隊を。地図は?河が堰き止められている可能性がある」
領の官たちがサナンの指示を受けホッとしたように上流へ向けて馬を走らせ始める。その表情にアンガスは眉をひそめる。
サナンが地図を取り出す。
一部川幅が狭いところが見受けられるが人工物の記載はない。アンガスは川幅が狭いところを指差す。
サナンが頷いた。
「鉄砲水の危険があるな」
「・・鉄砲水とは?」
鉄砲水という言葉は通じないようだ。これは前の生での言葉だったか。そういえばまだこの世界に鉄砲はないな。
「・・堰き止められていた水が、一気に流れて来ることだ。河が氾濫する。下流の町村に避難指示を」
「・・それでは今年の小麦の収量が」
「人命が優先だ。一年くらいは領の備蓄でなんとかなる。足りなければ国からふんだくる。元王族の肩書きを使いまくってな。だから、まずは、領民の避難が先だ。人手があれば畑はなんとかなる」
短く了承をしたサナンが、指示を飛ばすためにアンガスのそばを離れる。
雨は少し弱まったが止む気配が無い。
あの日のようだ。
アンガスは嫌な予感に空を仰ぐ。細かな雨が顔を濡らす。
全部失ったあの日のような黒雲が空いっぱいの広がっている。
サナンが仮設の天幕に管理人を連れてくる。神経質そうなその男は所在なさげに視線を彷徨かせていた。
サナが机の上に地図を広げ、川幅が狭くなっている場所を指さした。
「ここに木造の簡易なダムを設置したとの報告がありました」
悪手だ。
アンガスは嫌な予感が的中したことに顔を歪めた。
ここには上流から流れてきたゴミが溜まりやすい。そこを堰き止めるようなダムが設置されれば、決壊した時の被害が甚大になる。
「すぐに撤去作業・・いや、もう間に合わないかもしれない。被害が大きくなるだろうから、その準備を頼む。土砂が流れる経路や範囲を計算し、できるだけ被害を小さくするように・・専門家はいるか」
「いえ・・このダムの設置に異を唱えたものは解雇したと」
舌打ちを咬み殺す。
自分の知識は、王城で学んだ基本的なものだけだ。こうすればこうなる、くらいの浅いものでしかない。前世はただの営業だ。自社の商品を売り込むだけで、自社の製品については語れるが、土木工学については全く知識がない。
地図に目を落とす高低差表記が詳しく載っている地図だ。これくらいなら、なんとか読める。
「・・ここも危ない。移動をしたほうがいい」
管理人は、青い顔をさらに青ざめたが、いえ、と否定した。
「ここはもともと河でしたが、川の進路が変わったため、ここに水が流れることは」
「なおさら危ない。早く移動しよう」
周りが天幕を片付け始める。元管理人はそれを否定する。
「わ、私はこの土地に16年もいて、この土地のことは知り尽くしている。どんな雨でもここに水が流れることはない」
アンガスがため息を落とす。
「・・その16年間にこのような事態に陥ったことは?」
「それはご、ございませんが・・」
「ならば、その経験は役には立たない。最悪を想定して動くのが管理するものの仕事だ。ここに水が流れれば、大勢のものが命を落とす」
サクロスはハワードが転封されそこが王領となった。管理はラジヴィルやシシリアに連なる家が管理を任されている。この男もラジヴィルの末端の、領地を持たない男爵だ。
仮にも公爵家の末端を名乗る男がこの程度。
目の前の黒雲が一段厚くなった気がした。
「サナン、新たな拠点の選定を。手が空いているものはできるだけ多くの土嚢を作れ。畑もできる限り守る」
「すでに手配済みです。閣下も早く移動を」
「ああ」
その時、ぬるり、と空気が動いた。
‘・・だめ・・!!‘
誰かの声が聞こえて、身をわずかに引いた。
目の前を過ぎる銀の軌跡。
瞬時に躱せたのは奇跡以外の何者でもない。
「閣下!」
サナンの叫びが、アンガスの背に冷や汗を流させた。鼓動が激しく大きく全身を打つ。
黒い影は躱されたことに少々驚いているような顔をしていた。その顔に少しだけ冷静さを取り戻す。ハッタリでもいい、余裕を見せつけようと片頬をあげた。
「やあ、その黒い瞳はフィアサテジアラムの方かな。私を狙っても希望のものは手に入らないと思うけれど」
男は答えない。フィアサテジアラムの特徴である黒い眼を細めてアンガスを睨みつける。
殺しにくるのは、花花だと思っていたのにおっさんかよ。
心の中で軽口を叩く。
余裕を失ったらその先は死しかない。
「私としては、男ではなく君が所有している美しい御令嬢に来て欲しかったけれどもね」
そう微笑みかけると男がギリ、と奥歯を噛み締める。
「閣下、お下がりください」
サナンが冷静に剣を男に向ける。普段は侍従として雑用ばかりをこなしているが、サナンの本来の役職は護衛だ。
「殺さないでくれね、サナン。聞きたいことがたくさんあるんだ」
アンガスの言葉にサナンは柄を握りしめることで答える。
その時、叫び声がした。その声に被さるように轟音が響く。川の水位が増していく。
決壊した。
チイ、と黒い男が舌打ちをした。
「閣下!」
サナンの手がアンガスの腕を掴む。
目前に濁流が迫ってくる。
瞬間、衝撃が身を包んだ。