41.希求
マグリットの傷はすぐに癒えた。もともと傷は大きかったが浅かった。このぶんだとすぐに跡も消えるだろう。
アンガスが久しぶりに屋敷に帰ってきたと思ったら、客人を迎えるよう言い遣った。お客様は騎士の方らしい。
女主人の采配の見せ所ですね、とエミリアに言われて俄然張り切った。
お茶の時間での来訪だ。食事にさわりなく、しかし、小腹を満たせる軽食を用意しよう。
騎士の方ならばとすこし重めのメニューを考える。
柔らかく煮た肉をたっぷりと挟んだサンドイッチに塩気のつよいハムを混ぜて焼いたスコーン。甘いものは果物をふんだんに使ったタルトと数種のチーズをバランスよく混ぜ合わせたチーズケーキ。紅茶もそれに合わせてシンプルなものを数種用意する。
きっとお客様はあの日、マグリットを助けてくれた方だ。
期待に胸が膨らんだ。
正直顔も覚えていない。ただ、もう大丈夫ですよ、と囁かれた深い声に酷く安心したことだけは鮮明だった。
仮眠をとっていたアンガスが起き出しきてすぐにすぐに家令が来客を告げる。
一人掛けのソファにアンガスが座る。マグリットは迷って、二人掛けのソファに一人で腰かけた。
燃えるような気持ちを持っていた相手なのに、もうその思いは燃え尽きて燃え滓ばかりが二人の間に吹く風に乗って消えていく。
広くはない客間ですら、二人が近づくことがない。
マグリットの心に吹き荒れるのは、後悔だった。
痛む後悔はノックに誤魔化される。
家令に案内をされ、青年が姿を現した。
「やあ、よく来てくれたね」
アンガスが立ち上がるのと同時に立ち、マグリットは礼を取った。青年もゆっくりとぎこちなく礼を取る。
「ご招待をありがとうございます。サクロス閣下」
「ああ、こちらこそ。こちらが君が助けたマグリット・ニッサル嬢だ」
アンガスの紹介を受けてマグリットは頭を下げた。
青年は顔を上げて微笑んだマグリットをなぜかまぶしいもので見るように目を細めてみてから第二騎士団所属、ジェイコブ・エイハーンですと名乗った。
ジェイコブは最初は緊張し、固かったが話し上手なアンガスに話を引き出されていった。あの日はたまたま非番で街に買い物に出ていたらしい。
「そのため、帯剣しておらずニッサル嬢にケガをさせてしまいました」
とジェイコブは頭を下げる。
「い、いえ、そんな、頭をあげてください」
「エイハーン、頭を上げてくれないだろうか。あの時はマグリットにつけていた護衛は帯剣していたのにも関わらず、相手を止めるどころかマグリットを助けることもできなかったんだ。君は誇り高い騎士の仕事をした」
「いいえ、私は護衛の方々と違って犯人に警戒されていませんでしたから。たまたま、うまく体術が入っただけです」
マグリットは、心底申し訳なさそうに離すジェイコブに好感を抱いた。
「エイハーンは代々騎士を輩出している家の出だと聞いた。爵位はあるのかい?」
「いいえ。名誉ある騎士であることが私の、強いては我が家の誇りです」
爵位がない、平民に近い身分。マグリットの心に芽生えるのは親近感だ。
きっと、今日この家に来る前にたくさんマナーの勉強をしたのだろう。彼の所作はギクシャクしていて、洗練されているとはいいがたい。しかし、勧められて食べるサンドイッチを口に含むたびに仄かな微笑みを口元に浮かべる。
おいしいものを食べて表情が崩れる。
表情がころころと変わる。
悲しければ悲しそうに、悔しい時は悔しそうに顔をゆがませて。楽しい時には口元に大きな笑みを浮かべる。
少し前までマグリットも自由にしていたことだった。
今はどうだろう。貴族として、アンガスの婚約者として恥ずかしくないように気持ちを顔に出すことはなくなった。それでもまだ、エミリアには表情に出すぎですよ、と叱責が飛ぶのだ。
感情を表情に出す彼は生き生きとしていてとても魅力的だった。
自分は?
鏡に映る自分は死んだ魚のような目をしている。
窮屈な水槽に閉じ込められて死んだ魚の目を。
戻りたいな。
マグリットは、闊達な青年の笑い声を聞きながらそっと願う。
身分なんていらない。笑いたいときに大きな声で笑えた場所に帰りたかった。