16.国境にて ベネディクト
不法に国境を渡るものは河を渡ってくる。
陸地でつながる国境付近には随所に門が設置され、王都から派遣される騎士や、その領の私設兵団が睨みを効かせているからだ。これらの門を突破するのは容易ではない。
職にあぶれ、食べることに欠く人々は、豊かなこの国エイクを目指してやってくる。しかし、移民を禁じるこの国へ入ることは許されない。ではどうするか。国境を流れる川に飛び込むのだ。
それは命をかけた無意味な行動。暴れ川の異名を持つモルンダ河は広く深くうねりがある。大人の男性でさえ河を渡り切ることは難しい。さらに、河の近くに駐屯地が設置され、川に入るものを厳しく監視している。見つからないようにするのは至難の技だ。運よくエイク側に流れ着いても、即、船に乗せられて隣国に送り返される。
ベネディクトは多くの人の命を呑み込んだモルンダ河を眺めていた。先日、騎士団からこの駐屯地に派遣されている。本来なら、ギルバートの護衛が彼の職務であるが、ベネディクトはギルバートへ願い出てこの地に赴任した。
ここは側妃の一件で没落したパーシー伯爵家が所有してい領地だった。パーシー伯爵家が管理していた頃には、多くのフィアサテジアラムからの政治犯・思想犯がこの河を渡り、死の労働に従事させられていた。今は、この河を渡るものも少ない。
ベネディクトが国境を希望したのは、腑に落ちなかったからだった。アンガスがマグリットの手をとって賜った領地に落ち着いた。ギルバートもソフィアの手をとり、望んで王位継承権を手に入れた。自分も兼ねてから気になっていた女性と婚約を結んだ。
大団円の雰囲気だが、そこに花花の姿がないのが不自然だった。
あの災害で、花花一人が生き残ることは考えにくい。それならそれで幸せなことだが、どうも腑に落ちなかった。
このままでは終わらない。この世界に花花だけがいないだなんて考えられない。
その思いがベネディクトを動かした。
「キルギス中隊長」
背後からの呼びかけにベネディクトは振り返る。国境を守る兵は下位貴族のものたちが多い。その中に侯爵家と家格の高いベネディクトが入っても混乱を来たすだけ。
そのため、父が持っているキルギス子爵の名を借りた。わかるものにはわかるだろうが、下位貴族ではそのような知識を持つものは少ない。
それに騎士を目指すのは、貴族の次男以下が多く、貴族特有の含みのある物事を汲み取れないものが多かった。
ベネディクトにはそれが心地よかった。貴族特有の考え方や言い回し、所作は息を吸うように自然と発露される。それこそ生まれた時からその世界で暮らしていたのだ。
しかし、前の生の記憶を有するベネディクトには、前の生のようなざっくばらんな、ストレートな物言いや言動が馴染んだ。呼吸が少し楽になる感じがした。
ベネディクトは、そこまで腹の探り合いをしなくてもよい駐屯地での生活を気に入っていた。花花が見つからなくても任期いっぱいはこの地に勤務したいと希望する位には。
ベネディクトの希望は彼の予感とともに消え去る。
部下が振り返った彼に告げた。
「河に飛び込んだ女性がいます」
急いで、対岸から河へ飛び込んだ女性の姿を確認する。
こちらからは遠すぎて良く見えないが、年若い女性であることはうかがえた。
女性は必死に泳いでいたが、河の中ほどにもたどり着かぬうちにモルンダ河の深い緑色に飲み込まれる。
救助を、と叫びそうになる声を喉の奥で殺す。女性は隣国から飛び込んだ。人の不法な出入りを禁じているこの国では助けることはできない。
「・・あの様子では、こちらに流れついたとしても息はないでしょうね」
部下の壮年の男が、むごいことですが仕方ありません。とかすかに祈るような仕草をした。
若い女性が国を捨てて命をかけてこちらを目指さなければならないほど、隣国は荒れているのだろうか。
隣国はフィアサテジアラムからの移民を受け入れた。移民たちはその国の者たちの仕事を奪う。失業率が高くなり、税収が減り、さらに国民の生活を守るための金が必要になる。追い打ちをかけるように国の消費が停滞しする。移民たちは得た賃金の大半を故郷であるフィアサテジアラムに送金してしまうからだ。
移民を受け入れる下地もできていなかった、ただ、安い労働力に飛びついた隣国は今、未曽有の大恐慌に襲われている。エイクへの影響も多大だった。
だからこそ、この国では移民の受け入れを禁止している。ひそかに入らないような対策も施し、不法に入国するものに容赦はない。エイクではまだ移民を請けいるだけの度量も心づもりもなにもない。
「・・・もし、こちら側に流れついていたなら丁重に葬ってください」
ベネディクトの言葉に壮年の男は、はい、と姿勢を正した。
しかし、その女性は生きてエイクにたどり着いた。
見つけたのは見回りをしていた別部隊のもので、下流2キロの付近で虫の息の彼女を発見したという。こちら側に流されてきたものをむざむざと殺すわけにはいかない。命があると分かっているのに捨て置くのは人道的にも心情的にも許されなかった。
彼女は医務室に運ばれた。ベネディクトはちょうど彼女が搬送された現場を見ていた。少しだけ昨日流された女性が気になって見回っていたのだ。ベネディクトが彼女の姿を見た時には彼女は泥にまみれ、青白い顔に濡れた髪を張り付かせていた。その呼吸は酷く弱弱しい。
それなのに、ベネディクトは聞いてしまった。聞かなければ、心を乱されなかったのに、その声を拾ってしまった。
彼女は、虫の息の中、そっと呟いた。
「カイくん」と。
ベネディクトは息をのんでその場に固まった。