13・諦める
ベネディクトは塔から降りた元の主人に付き添って執務室へと急ぐ。仕事は山をなしアンガスを待ち構えていた。ベネディクトもギルバートもせっせと山を切り崩していたが、本人たちの仕事も山積みのため、積み重なる書類の方が多く、山が減ることはない。
執務室に入って、アンガスは絶句した。そして、しおしおと机に座る。それを見届けてベネディクトは退出しようとした。
「デューク。今回もさんきゅな」
アンガスが書類に目を落としたまま呟くのが聞こえた。「アンガス」としては気安すぎるその言葉にベネディクトは肩をすくめて答えた。
アンガスはペンをとって書類にサインをする。
ベネディクトが動きを止めて、一瞬言い淀み、しかし、言葉を落とす。
「いいのか?」
ベネディクトにアンガスはチラリと視線だけを寄越す。
「・・・こうでもしなきゃ、花花に会ったときにその手を取られない。マグリットも可愛いとは思うし、好ましく感じる。だからいいんだ。・・・あのままなら、ソフィアもギルバートも可哀想だろ?それに・・さやと一緒になるのは寒気しかしない」
「俺が探そうか?」
部屋を出ようとしていたベネディクトは、友人に体を向けた。
快進の頃から彼は花花しか見ていなかった。子供の頃からずっとだ。
生まれ変わって違う人間になったのに彼はずっと花花を求めていた。
彼女の何がいいのか、ベネディクトにも、前の人格である寺内瑠輝にも全くわからないが。ただ、彼の彼女を思う気持ちは知っていた。
彼は、前の時彼女との結婚を強く待ち望んでいた。その矢先のあの災害だった。
諦めきれないのは無理がないのかもしれない。
「いや、いい。お前も本格的に騎士団で揉まれるだろ?そんな暇はないぞ。・・俺にはリリがいるからもう、いいんだ」
「そうか」
ベネディクトはそれ以上何も言わない。
「ああ、そうだ。ギルがソフィアに求婚したそうだ」
アンガスが今思いついた、と言うように、柔らかく笑った。
「ああ、知っている」
ソフィアの家にマグリットの様子を見に行ったときに聞かされた。
腑に落ちないような顔したソフィアに、だいぶ長い時間恨言を聞かされたので、知りたくないけど詳しく知る羽目になった。
「これでギルの統治も磐石だな」
「マグリットのことは聞かないのか?」
「・・・ソフィアのとこで再教育されてんだろ?だいぶ扱かれてるみたいだな。三女だから、そのうち平民になるからって全く淑女教育をされてなかったと言ってたから、今大変なんじゃないか?」
「・・・手紙位書いてやれば」
「固く禁じられてる。まだ、マグリットがそうじゃないかの判断がついていないからな。そうだ、伝言を頼もうか。様子を見に行った時にでも言っておいてくれ。そうだな、離れてても愛していると」
「・・お前、大概クズだよな」
「知ってるだろ?俺は花花しかいらない」
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回廊の柱に手を載せて、葉 紅花は鈍色の空を見上げた。空からは今にも雨が落ちてきそうで、紅花は不安になる。
あの日もこんな天気だった。ずっと雨が続いていて、久しぶりに雨が上がったあの日。でも空は突いたら雨が落ちそうな重い鈍色のが空を覆い隠していた。
だから紅花は雨の日が嫌いだ。
あの日、全部を失った。
たいせつな幼馴染も、結婚間近だった恋人も。便利な生活も、豊かな文化も。
戸崎 花花はフィアサテジラムの士族の娘葉紅花として生まれ変わった。
「私となる前の私」を思い出した、9歳の頃。紅花は高い熱が続いて、生死の境をさまよっていたという。祈祷師が祈り、破魔の弓を引いても熱は下がらずに3日間。
目が覚めたら、紅花という子供は死んで、花花がこの世界にしがみついていた。
紅花の記憶が教えてくれた。
自分がフィアサテジアラムという国で暮らしていること。今の父母や兄たち、自分の立場。
ここが花花が暮らしていた世界とは時代も文化も全てがちがうこと。
花花はすでに亡く、今は葉紅花であることをすぐに認識した。しかし、認知するのと納得するのでは大きな隔たりがあった。
この国では女性は貴重だ。だから家の奥深くに隠される。
紅花となった花花にはこの世界が窮屈すぎた。
10歳のころ、ずっと西側のエイクという国に嫁ぐという話が国からなされた。紅花の母の従姉妹、吴海恩が嫁いだ国だ。彼女の息子と紅花の年齢が釣り合うから、と選ばれた。紅花が外国人にも臆さずに対応できるということが決め手だったようだ。
この国の女性は内向きには苛烈、外には内気なものが多い。この国では紅花のように男性にも女性にも、人種が違っても臆せず対応できる女性はとても少なかった。
紅花は喜んだ。これでこの陰鬱な国から出ることができる。家の中に押し込められる生活から抜け出せる。
それからは勉強の日々だった。エイクの言語、文化、生活を学び、考え方、価値観を学ぶ。男性を篭絡するテクニックも教え込まれた。そして、他国で辱めを受けそうになった時の対処法や心構えも。
紅花は懸命に学んだ。
予感があった。
この話が進めばきっと道が開ける、と。
しかし、彼女の夢は潰える。夫となるはずだったアルバート・アサス・ウー・エイクが謀反を企て、処刑されたからだ。
それを聞かされた時、花花はすべてを諦めた。もう、何も手に入らない。何も取り戻せない。
紅花は空を見上げる。
新しい婚姻相手が決まったと父から聞かされたばかりだ。きっと明日にでも相手は家に来るだろう。紅花と母親が物陰からそっとその姿を認めたらすぐにでも結婚させられるのだ。
女性は貴重なはずなのに、女性の意見は通ることがない。
せめて、優しい人ならいい、と紅花は思う。
だってカイくんはいつも私に優しかった。私を一番に考えてくれた。
そんな人ならいい。