目隠し令嬢は婚約を解消したい
「ユーディットお嬢様。クラウス様がいらっしゃいました」
侍女のアルマの声に、私は手を止めた。
……また来たのか。あれほど来るなと言っているのに。
「行かないわ」
「お嬢様」
「私、聞いていないもの。今日はこの刺繍を仕上げてしまいたいのよ」
「旦那様からのご命令です。お嬢様がお出にならないのであれば、クラウス様をこちらにお通しするようにと言いつかっております」
困った声のアルマに舌打ちする。最近は事前に訪問を告げられると隠れてしまうため、みんな揃って来るまで教えてくれないのだ。
私はわざとらしく大きなため息を吐き、テーブルの上を手探りで確認した後手に持っていた刺繍枠と針を定位置に片付ける。しぶしぶと立ち上がるとアルマが私の横に来た。手を差し出せばアルマがその手を取り、ゆっくりと私を先導する。屋敷の中くらい一人で歩けるのだけれど、来客の時はそうもいかない。
ドアの開く音、閉まる音。絨毯を踏みしめる微かな足音。使用人たちが遠くで働く物音。漂ってくる紅茶とお菓子のいい匂い。アルマが立ち止まるのと同時に私も足を止める。距離は覚えているもの。アルマがドアをノックする。
「失礼いたします」
再びドアの開く音、アルマに促されて私は部屋へと入る。ドアからソファまでは十歩。違えず歩き、立ち止まる。アルマの手が離れて、私は見えない相手へと形だけ頭を下げた。
「突然のお越しですのね、クラウス様」
「こんにちは、ユーディット。突然すまないね。何しろ事前に知らせると、私の麗しい月は雲隠れしてしまうようだから」
嫌味に嫌味を返され舌打ちする。クラウスのくすくすと笑う声に腹が立ち、私は乱暴にソファに腰かけた。
「……来るなと言ってるでしょう。何度言わせるつもり?」
吐き捨てるように言っても、クラウスは全く動じた様子もない。
「君は私の婚約者だ。婚約者に会いに来ることの何が悪い?」
おそらくはにっこりと、忌々しいほどににっこりと笑っているのだろう。例えそれが私に見えていなくても。
「婚約は解消すると言ったはずよ」
「聞いているよ、もう何年も前からね。そして私は一度もそれに応じていない。これから先も応じることはない。だから君は私の婚約者で、いずれ私の妻になる。変わることのない事実だ」
ああ、憎らしい。腹立たしい。人の話を聞かないこの男。けれどそれをさせているのが自分だと知っているから、今すぐ死んでしまいたいくらいに苦しい。
空気が動く。クラウスが動いた。私の目元に触れるものがあって、私はぎくりと体を強張らせる。
「ユーディット」
愛しいものを呼ぶかのような甘い声。確かに熱が籠るそれに泣きたくなる。
それは偽り。あなたは私を愛してはいない。そう思うように、仕向けられているだけ。それが私の罪。私という存在がもたらした、救いがたい罪の証。
どうして、どうしてあなただけが、こんな。
泣きそうな気持ちを押し隠し、伸ばされているだろう手を払いのける。
「触らないで」
明確な拒絶に、彼がどんな顔をしているか見えなくてよかったと思う。見えてしまったら、それこそ今すぐ窓から飛び降りたくなっただろう。それは、禁止されていてできないのだけど。
沈黙の間に衣擦れの音が微かに響いて、紅茶がカップに注がれる音がする。アルマが準備してくれたのだろう。
「ありがとう」
クラウスがアルマに礼を言い、カップがかちゃりと音を立てる。私も気まずい気持ちを押し隠すために手を伸ばしてテーブルの上を探る。いつもと同じ場所にソーサーがあって、そこからカップを掴むのは簡単だ。温かい液体がすとんとお腹に落ちると少し気持ちも落ち着いてくる。
カップをもとに戻すと視線を感じた。おそらくクラウスが私をじっと見つめている。
「……何?」
棘のある声だが、クラウスが気にした様子はない。
「先日、きれいな布を見つけたんだ。落ち着いた青色でね、君に似合うと思って持ってきた。次に会う時にはつけてくれると嬉しいな」
「嫌よ」
「アルマ、これを。よろしくね」
「畏まりました」
嫌だと言っているのにクラウスは物をアルマに渡したようだし、アルマは大人しくそれを受け取ってしまったらしい。
「アルマ、捨てておいて」
「いけません。折角いただいたのですから、ちゃんと仕立てていただきましょうね」
私の侍女は私の言うことを聞かない。捨ててしまおうにも隠されてしまうだろうし、毎日つけるものだけに見えない私では判別もつかない。
全く、本当に、忌々しいったら。
クラウスが他愛のない話をしている。私は上の空で適当な相槌を打っているのに、止める気はないようだ。
どれだけ酷い対応をしても、クラウスは全くめげた様子がない。……それもこれも、みんな、私のせいだ。私のせいで、クラウスの心はずっと縛られたまま。
どうしても、離れてくれない。
どうしても、嫌ってくれない。
離れなきゃいけないのに。
嫌われなきゃ、いけないのに。
「ユーディット」
知らず俯いていた私の顎に指がかかる。くい、と顔を上げさせられて、突然のことに従ってしまった私の顔に私ではない熱が近づく。動けない私の顔に、瞼に、そこを覆う布の上に、温かい何かが触れた。
「っ……!?」
「今日は、帰るね。また来るよ」
突き飛ばす余裕もなかった。動けるようになるより先にクラウスはさっさと立ち上がり、場を辞した。ドアが開き、閉じる音。遠ざかっていく足音は嫌というほど聞きなれた。
「お嬢様、お部屋へ戻られますか?」
アルマの声に機械的に頷いて、手を引かれる。部屋に戻って一人になると、私はベッドに体を投げ出した。震える手で私の両目を覆う目隠しに触れる。
あれは、クラウス、最後に触れたのは、何。
私の目。呪われた目。忌まわしい力で今も彼を縛る、この目。
二度と誰かを惑わしてはならない、それは魔眼と呼ばれるもの。
人の心を縛り付ける、魅了の瞳。
私はいわゆる転生者だった。現代日本で死に、この世界に生まれた。ユーディット=アインホルン、それが私の名前。アインホルン伯爵家の長女だ。兄と二人兄妹。1歳過ぎくらいから徐々に記憶を取り戻し、5歳になる頃には大人びた子どもになっていた。……だから、違和感に気づけたのだろう。
周りの人間があまりにも私に甘かった。悪戯をしても怒られることはなく、失敗をしたら信じられないほど甘やかされた。不気味なほどに。ほとんどの人が私の言葉に従った。幼い子どもの戯言に。ありえない異常。普通の子どもだったら多分、それを当然として増長していったと思う。私は逆に不気味さに怯えていたけど。
例外はお父様とその同僚の方。お母様やお兄様、使用人たちのあまりの可愛がりぶりに異常を感じ、いずれ詳しく調査しようと考えていたそうだ。
そんな時に、事件は起こった。私が8歳のとき、家族でちょっとしたパーティに参加した。そこで見知らぬ男性に誘拐されたのだ。誓って初めて会う人だった。その後の調査でもあのパーティが初対面だったと証明された。その男性は私と目が合ったときに、運命を感じたのだと言った。
「ああユーディット、君はなんて可愛いんだろう。もうどこへも行かないで。ずっとここで一緒にいよう、可愛がってあげるからね」
明らかに正気とは思えない男の言動に怯えるばかりだったが、男の犯行があまりに衝動的で計画性のないものだったためすぐに救出された。そして私は、感じていた違和感を初めてお父様に伝えたのだ。
お父様はすぐに手配してくれた。内密に国内最高と言われる魔法使いを招き、そうしてわかったのだ。
私の目が、魅了の魔眼であることが。
私の意思など関係なく、目を合わせた人全てを魅了してしまう。お父様のように特別魔力の多い人は抵抗できるようだが、ごくごくわずかだ。だからお母様もお兄様も、みんな私に優しかったのだ。
私が、彼らを魅了し従わせていたのだ。偽りの愛情を植え付けて。そうしてついに一人の男の人生を壊した。おそらく私が殺せと言えばためらわず殺し、死ねといえばためらわず死ぬ。これはそういう力だった。
説明を聞いた後、私は自分の右目を抉った。眼窩に指をねじ込み、眼球を引きずり出した。視神経を引きちぎり、床に叩きつけ、踏み潰した。左目も潰すつもりだったのに、お父様に気づかれて失敗した。お父様は泣いていた。だけど私は私が許せなかった。こんなもの、存在しているからいけないのだ。目を潰せないのなら、いっそ死んでしまわなければ。
暴れる私を抑えたのは魔法使いのおじさまだった。おじさまは私に魔法をかけた。
一つ目は、自傷行為を禁止する魔法。
二つ目は、自殺を禁止する魔法。
どうして止めるのと泣き喚く私の空っぽになった右目に義眼を入れて、おじさまは魔眼について教えてくれた。
目を合わせなければ効果をもたらさないこと。魅了の効果は、重ね掛けしなければいずれ消えること。魔眼を解析できれば魅了を防ぐお守りを作ることができ、解除する魔法も作ることができること。だから、そんなことをしなくていいのだと。
私は納得できなかった。だって全ての人にお守りを渡せるわけじゃない。それにすでに犠牲者が出ている。制御できない力なら私は一生この力に振り回される。そんなのは嫌だった。
だけどおじさまは言う。私が悪いのではないと。私をさらった男はたまたま魅了への抵抗力が特に低く独占欲が暴走してしまった、いわば事故のようなものだったと。授かってしまった以上はその力と付き合っていかねばならない。訓練すればある程度制御できるようになるはずだから、諦めてはいけないと。そんなことを言われても、もう私は生きることに希望を持てなくなっていた。
残った左目を壊すことも、私自身を終わらせることも禁じられて、私は目隠しをつけることにした。今後二度とこの目に惑わされるものが出ないように。8歳で着け始めてから14歳になった今日まで、私の目を見てくれる魔法使いのおじさま以外の誰の顔も見ていない。
目を抉った後、お父様にお願いして私は離れに移った。お母様とお兄様を正気に戻すためだったが、私はそのまま離れに住み着いた。魅了が解けてもお母様とお兄様は優しかったけれど、私が傍にいられなかった。接触する人をできるだけ減らしたかった。わずかな危険も冒したくない。お守りを持ったアルマだけに身の回りのお世話をお願いして、後は最低限の使用人だけを置いてもらった。暗闇の中で一人、死ぬことができないから仕方なく生きることにした。
……一つだけ大きな誤算があった。魔法使いのおじさまは魅了の効果はいずれ消えると言ったのに、私の幼馴染にして婚約者であるクラウス=グレネマイアー侯爵子息にかかった魅了だけがいつまでたっても消えないのだ。
クラウスは私が5歳、彼が7歳の時に婚約した。領地が近く、親同士の中が良かったので小さいころからよく顔を合わせていた。それがいけなかったのだろう。魅了されたクラウスの強い希望で私たちは婚約者となった。
事件の後、当然婚約は解消されたものだと思っていた。だって正気に戻ったら、クラウスが私に執着する理由なんかないのだから。それなのにまだ婚約が続いていると知らされたのはそれから2年後のこと。精神的にも魔眼的にも不安定だった私がどうにか落ち着きを見せ、訓練によりある程度の制御ができると思われるようになったころ。
私は大いに慌てた。お父様に改めて婚約解消の申し入れをしてもらったが、向こうからは「このままの継続を望む」との返事が届いた。わけがわからなかった。一番近くにいたお母様やお兄様だって数か月で影響から脱したのに、クラウスはまだ解けていないのか。
魅了の魔眼を持っていることは、一部の人間しか知らない。危険な力には違いないからだ。場合によっては王家に処分されることもあり得ると思っていたのに、それならば話は早かったのに、王家は私がためらいもなく片目を潰したこと、両目を隠して引きこもったことで危険度が低いと判断し、対策を取ったうえで放置することにした。解析に協力的で、今まで謎に包まれていた部分が解明されたことも大きかったのだろう。
話が逸れたが、その一部の人間にグレネマイアー侯爵が含まれる。王家に許可を取り、お父様は包み隠さず事情を説明した。クラウスにもそれは伝えられたはず。それなのにどうして、こんな危険極まりない傷物を婚約者として置いておくのか。
私はもう表に出ることはできない。右目には義眼が入っているが、左目は二度と人前で開くつもりもない。目隠しをして人前に出るわけにいかないから一切の社交が行えない。こんなのと結婚したら笑いものになるだけなのに、それでも手放さないというのなら理由は一つしかない。
……魅了が解けていない。
何度もお父様に、クラウスを魔法使いのおじさまに診てもらうように言ったが、やはりグレネマイアーの意向は変わらなかった。どうしても解消してもらえなくて業を煮やした私は、2年ぶりにクラウス本人に会うことにした。
いつもよりきつく目隠しをし、クラウスには絶対に魅了除けのお守りを持つように厳命させ、まかり間違っても力が及ばないようにがちがちに緊張した私の元へ、彼はやってきたのだ。
「ユーディット、逢いたかった!」
未だ解けない魅了とともに。
親しみのこもった彼の声は、絶望だけをもたらした。ああ、なんて可哀想なクラウス。ずっと心を歪められたまま、治すこともできないなんて。
ごめんなさい。私はあの時、目を抉るなんて悠長なことをしていないでさっさと心臓を抉るべきだった。そうしたらあなたを解放してあげられたのに。
私の両手を持ち、私の心配をする優しいあなた。私にはそれを受け取る資格がないの。あなたの隣にいてはいけないの。だから。
「クラウス。触らないで」
ぱしんと手を払いのける。あなたを拒絶する。
「ユーディット……?」
「話は聞いたでしょう。あなたは魅了されているのよ。私の魔眼があなたの心を歪めている」
「ユーディット、それは違うよ。僕は」
「違わないわ。偽りの感情に振り回されているだけ。だから婚約だって解消しなければ」
「聞いてくれ、ユーディット。僕は僕の意思で君を選んだんだ。君と一緒にいたいと思ったんだ」
甘い言葉が私に突き刺さる。鋭いナイフのように私の心を傷つける。これを言わせているのは私だ。傷つく権利すらありはしないのに。
「聞く価値もないわね」
「ユーディット!」
「早く婚約を解消してちょうだい。話はそれだけよ。もう会うこともないでしょう」
「ユーディット、僕は嫌だ。そんなのは、絶対に嫌だ!」
「さようなら、クラウス。せいぜい元気でいることね」
追いすがるクラウスを残し、部屋に戻った私は涙が枯れるまで泣いた。
だと、いう、のに。
「どういうことなのでしょうか、おじさま?」
目隠しを外しても目を閉じたまま、正面に立っている魔法使いに刺々しい声で語り掛ける。おじさまは笑いの混じった声で言う。
「さてなあ、お前さんはもうわかってるんじゃないか?」
おじさまの手が私の目にかざされ、そこから温かい何かが流れ込んでくる。心地よいそれはおじさまの魔法だ。
魔法使いのおじさまは、ヘクセと名乗った。それが本名なのかどうかはわからない。最初におじさまと呼んだら、なんだかそれがお気に召したらしく、それからずっとおじさまと呼んでいる。
おじさまは見た目は四十がらみだが、恐らく見た目通りの年齢ではない。何せ6年前から何一つ変わっていないのだ。一体いつから生きているのやら。
あの事件のあと半年ほど、おじさまは私につきっきりで面倒を見てくれた。……というか、実験動物として観察されていたというか。魅了の魔眼は報告例が少なく大変珍しいのだそうな。私が右目を踏み潰したと聞いた直後の発言が「もったいねえ!」だったのだから、どこの世界にもマッドな奴はいるものである。そのくせ左目をあげると言っても受け取らないのだからよくわからない人だ。
現在は三か月から半年に一度、気が向いたときに様子を見に来てくれている。
「若干の乱れがあるな。さてはあの坊主が来たか?」
どこか楽しそうな声とともに手が離れるのを感じ、三か月ぶりに目を開く。片方しかない狭い視界の中でにやにやと笑うおじさまを睨みつけた。クラウスが来たのは二日前だ。まだその影響が残っているなんて。
「ええ、性懲りもなく。何度言っても婚約を解消してくれないのです」
「ほおほお。それなら、それが答えなんだろうさ」
おじさまは大変楽しそうだ。誠に遺憾である。
「笑い事ではありませんわ。もう6年……6年もたつというのに、クラウスは」
未だ私に囚われたまま。私の罪はいつまでも重なり続けて、彼が来るたびに苦しくてたまらない。
彼の存在そのものが、私にとっての罪の象徴。
「俺は嘘は言っとらんぞ」
ソファにふんぞり返り、おじさまはばりばりとクッキーを齧った。結構甘党なのだ。
「魔眼は目を合わせなけりゃあ効果を発揮せず、魅了は重ねがけし続けなけりゃあいずれ効果を失う。そんであの坊主を見た限りでは、魅了はかかっちゃいない」
「そんなはずない」
そんなはずがない。だって、おかしいじゃない。魅了が解けているのなら、彼が私に執着する理由が存在しないことになる。きっとおじさまにもわからないくらい深く根付いてしまったに違いない。
俯いて頭を振る私に、おじさまはしょうがないものを見るような目を向けた。
「頑固に過ぎるぜ、お前さんは。ああ、見た目より年寄りだから仕方ねえな?」
「……それ、おじさまにだけは言われたくないわ」
「違ぇねえ」
大笑いするおじさまをジト目で見つつ、ため息を吐いた。
おじさまは私が転生者であることを知っている。お父様と二人だけに伝えた。普段の態度があまり子供らしくないからすぐに信用してもらえた。いくつで死んだのか詳しい記憶はないので分からないけど、まあ現在16歳のクラウスなんか完全に子ども扱いできる年齢であったのは間違いない。
「お前さんだから、よかったのさ」
笑いを引っ込めて、ぽつりとおじさまが言う。
「お前さんは前の生の記憶があったから、大人だったから、魅了の恐ろしさを理解できた。誰も彼もが無条件でたった一人だけを肯定する、それがどんな影響をもたらすのかを理解できた。それが制御できないことの危険性も。まあ、いきなり目を潰したのはやりすぎだったがなあ」
「やりすぎどころか足りなかったわ。私は死ぬべきだったし、せめて両目を潰すべきだった。おじさまが邪魔さえしなければ」
「いやいや、早まっちゃあいけないぜ。過去に現れた魅了の魔眼所有者は、ことごとくが幼少期から大切にされ、甘やかされ、世界の全てが自分に従って当然だと思ってたみたいでなあ。国がいくつひっくり返ったことかよ」
ずずずっと音を立てておじさまが紅茶を啜る。
「おそらくお前さんが初めてなんじゃないかね、魅了の力を拒絶した所有者は。おかげで今まで謎だった部分を解析できて、お守りだって作れたわけだ。そうそう現れる力でもねえが、備えがあるとなしとじゃ大違いだからなあ。お前さんは誇っていい。きっと、その為にお前さんが選ばれたんじゃないかとそう思うのさ。……まあ、お前さんにとっちゃあいい迷惑だろうがね」
おじさまが真っ直ぐに私の左目を見つめる。忌まわしい魔眼を。そこには労りが見て取れて、私は無言で顔をそらした。
しばらくの無言ののちに、おじさまが再び口を開いた。
「そういやお前さん、右目はまだ見えねえのか?」
「……ええ、見えません」
魔眼を潰した後の空の眼窩には、おじさまからもらった義眼が入っている。魔法を用いた特別製らしく、体に馴染めば見えるようになるとのことだったのだけど、今に至るまで真っ暗なままだ。きっとこの先も見えることはないのだろう。
おじさまは顎の無精ひげを撫でながら唸った。
「……ふむ。こればっかりはどうしようもねえなあ。坊主の手腕に期待するしかねえか」
「クラウスは関係ないでしょう」
「独り言だ独り言。そうカリカリしなさんな」
ぽんぽんと私の頭を撫でて、おじさまは立ち上がった。お帰りになるのだろう。私は再び目を閉ざし、固く目隠しをする。次におじさまがお見えになる時まで、何もこの瞳に映ることがないように。
「ありがとうございました。いつもすみません」
「いいってことさ。珍しいもんを見せてもらってるわけだしな」
おじさまは上機嫌で帰って行った。
「……へえ、ヘクセ様が来てたんだ」
その翌日、私の前には何故かクラウスがいた。
「いつもの診察よ。それより何であなたまた来ているの」
例によってだまし討ちを喰らい、逃げる間もなくクラウスの待つ客間に連れてこられてしまった。全く歓迎していない私の態度など歯牙にもかけないクラウスが身じろぐ音が聞こえる。多分、足を組んだのだと思う。
「もうすぐ休みが終わってしまうからね、王都に戻ればまたしばらく君に逢えなくなってしまう。その前に、ね」
とろりととろけるような甘い声。見えないせいだろうか、声に含まれる感情がより強く感じられる気がするのは。
クラウスは王都の学園に通っている。本来国の貴族の子どもは皆、13歳から16歳までの3年間を学園で過ごす。通って初めて貴族として認められると言ってもいい。現在は夏のお休みで戻ってきている。それほど王都から離れていないとはいえ、ちょくちょく戻ってこれる距離ではないからこういう長い休みの時にしかクラウスは会いに来ない。代わりにしつこいくらいに手紙が届く。返事なんか書かないけど。私は病弱ということにされ王家から特例を貰い、自宅で課題を片付けている。
……子どもの頃のクラウスしか私の記憶にはないけれど、可愛い子だったからきっと学園でもモテているに違いない。こんな傷物さっさと捨ててきれいで可愛い女の子と婚約すればいいのに。
「ユーディット? 今なんか変なことを考えなかった?」
クラウスの声に若干の棘が混じる。何というかこう、彼は妙に鋭いところがある。私はつんと顔をそらした。
「変なことじゃないわ。あなたが当然為すべきことを考えていただけよ」
「ふうん?」
衣擦れの音。右手が取られ、そこに触れる温かなもの。
「クラウスっ!」
「私は君を手放すつもりは毛頭ないよ。覚悟しておいてね」
慌てて手を取り返すものの、クラウスの言葉に胸が引き絞られる。
やめて。もうやめて。お願いだから、お願いだからもう自由になってよ。あなたはあなたとして、相応しい人の手を取ってあげて。それは私じゃないのだから。
じっとクラウスが私を見ているのがわかる。私は右手を胸に抱きしめて俯くことしかできない。
ややあって、クラウスは小さく息を吐いた。それで妙な緊張感が薄れていく。
「それで、ヘクセ様だけど」
「おじさまが、何?」
話題が逸れて安堵する。どこか不満そうな声でクラウスは言った。
「相変わらずあの人だけに目を見せてるの?」
何を言っているのこの人は。私は呆れた。
「当り前じゃない。おじさまが私の目を見てくれているのよ? おじさまはあれでも国最高の魔法使いなんだから」
わが国で最も力を持った魔法使い、それがおじさまだ。普段は王都で国王の相談役を務めているという。あれでも一応偉い人なのだ。そしてとても強い人でもある、らしい。相談役と言いながらしょっちゅうあちこちをうろうろしていてあまり王都にいなかったりするらしいけど。
「……右目の義眼も、あの人にもらったんだよね?」
「ええ、そうね。それが?」
クラウスが何を言いたいのかわからないし、何故不機嫌なのかもわからない。
「……うん、まあ、仕方のないことだとわかっているよ。君のためにはね、納得は行かないけど」
なにやらぶつぶつと文句を言っている。昔からそうだ、何故かはわからないがクラウスはおじさまのことが気に食わないらしい。おじさまと会ったというと、必ず機嫌が悪くなる。
「まああの人のことはいいや」
「あなたが振ってきたんでしょうに」
「それはそうなんだけど。これ以上あの人の話を聞くのは時間の無駄だから」
何故そこまで……? 一体二人の間に何があったのかしら。今度おじさまに聞いてみようかな。
「またしばらく逢えなくなってしまうのだから、今は君と二人楽しい時間を過ごしたい」
「さっさと帰ってちょうだい」
「まだ早いよ」
嫌がる私にお構いなしで、いつもと同じように割と一方的な会話は続いた。雑に扱われてもクラウスはどこか嬉しそうで、もしかしてこの子そっちのケがあるのでは……?
「ユーディット?」
「なんでもありませんわ、ええ」
変に鋭いの止めてもらえないかしら。
この前は珍しくクラウスが自主的に帰って行ったけど、普段は大体2時間ほど経ったところでアルマが止めに入る。放っておくと際限なく居座るからだ。
クラウスは名残惜し気に立ち上がったようだ。
「それじゃあ次は年末に。また手紙を書くからね」
「いらないからさっさと婚約を解消して」
「愛しいユーディット、体に気を付けるんだよ」
「少しは私の話を聞いてよ」
「それじゃあ、またね」
いつものように私の話を全く受け入れず、クラウスは帰って行った。
クラウスが学園にいる間、最低でも数日に一度は手紙が届く。学園で起こった出来事、友人の話、勉強のこと、様々なことを書き記して送ってくる。手紙はアルマが受取り、読めないし読めたとしても読まない私の代わりに朗読している。だからアルマも私と同じくらいクラウスの学園生活を把握していた。
だからクラウスが訪ねてこなくても、寂しいなんて思う暇がなかった。
「相変わらず王太子殿下と仲良くていらっしゃるのですね」
「そうみたいね」
クラウスと王太子殿下は同い年で、気が合うらしく手紙への登場回数も多い。とても優秀な方なのだそうな。この国の将来は安泰ね。
読み進めていたアルマの声が不意に途切れた。
「どうしたの?」
「いえ……どうも、学園内で少し問題が起こっているようです」
詳細を書くことはできないけれど、放っておくと厄介な問題が発生したと。殿下に乞われ、その解決に忙しくなりそうだから、もしかしたら手紙のペースが落ちるかもしれない、ごめんねとそう書いてあったそうだ。
私はふんと鼻を鳴らした。
「今までが来すぎなのよ。そもそも手紙を寄越せなんて一言も言ってないんだから」
「まあお嬢様、またそんなこと言って。本当は楽しみになさっているくせに」
「楽しみになんかしてないっ!」
むくれてみせても、アルマはくすくすと笑うだけだ。付き合いが長いだけに彼女に心を隠すことは難しい。……本当は、ちょびっとだけ、寂しい、なんて。
いけないいけない。私は頭を振る。これは私が受け取っていい好意ではないのだから。勘違いしてはいけない。自分にそう言い聞かせる。アルマは呆れたようだったけれど。
それからは本当にペースが落ちた。書けない内容が増えたようで、分量も減った。数日おきが一週間開き、二週間開き、そしてもう一か月手紙が来ない……
「いたっ」
刺繍針が手に刺さって我に返る。いけない、ぼんやりしすぎだわ。
「お嬢様!」
アルマが慌てて傷口を手当てしてくれる。結構思いっきり刺してしまって、そこそこ痛い。
「ありがとう、アルマ」
「今日はもうおやめくださいませ。全然集中できていませんよ」
手から枠を取り上げられた。アルマの言うことは正しい。集中力が散漫になっている。これ以上怪我をする前に止めるべきだろう。多分出来も散々なことになっているだろうし。
私はぼうっと暗闇の中で物思いに耽る。問題ってなにかしら。クラウスの身に危機が迫るようなことでなければいいけれど。それとももう問題はとっくに解決してて、ただ手紙を書くのを忘れているのかもしれない。もしかしたら好きな子ができて、そっちに夢中になっているのかも……
さりげなくお父様に確認してみても、まだ婚約解消にはなっていなかった。ということは、多分まだ奮闘している最中なのだと思う。好きな人ができたのなら解消してくると思うから。大丈夫かしら、無事かしら。その資格がないとわかっていても、心配が募る。
「……アルマ、何か書くものを持ってきてくれる?」
ついに私はクラウスに手紙を出すことにした。アルマが張り切って紙を用意してくれる。インクにペン先を浸してもらい、さて何と書いたものか。
一日悩んで、結局「無理をしないで。体に気を付けて」とそれだけしか書けなかった。アルマは「きっとお喜びになりますよ」とすぐに発送してくれたが、出してもらった後でやめときゃよかったとベッドの上でのたうった。
一応練習はしているけれど、見えない中で字を書くのは難しい。アルマに見てもらったからそれほどひどい出来にはなっていないはずだけど。というかこうなってから初めて、初めて手紙なんか書いたわ。それもたった一行の。あんな情けないもの、もらっても困るんじゃないかしら。ああ、慣れないことをするんじゃなかった。
数日間うだうだと後悔し続けて、その日も朝から頭を抱えていたのだけれど。
呼び出されていたアルマが珍しく慌てた様子で部屋に戻って来て、こう言った。
「お嬢様、クラウス様がお見えになりました!」
「……はい?」
「ユーディット、逢いたかった!」
いつぞやと同じ台詞を吐きながら強く抱きしめられて、私は大層慌てた。
「ちょ、ちょっと、クラウスっ! 離して!」
ばんばんと背中を叩いてもびくともしない。それどころか抱きしめる腕に一層力がこもる。
「手紙、ありがとう。本当に本当に嬉しくて、後始末放り投げて会いに来ちゃったよ」
後始末、ということは問題は片付いていたようだ。こうして会いに来ているということは特に怪我なんかもないのだろう。安堵すると同時に抱きしめられていることに顔が赤くなってしまう。それに地味に苦しい。
「クラウス様、そこまでです。お嬢様から離れてください」
アルマが止めに入ってくれたが、遅くない? なんかすりすりぐりぐりされたんだけど?
いかにもしぶしぶといった様子で解放された私は慌てて距離を取ろうとしてテーブルにぶつかってしまう。
「きゃあっ!」
「お嬢様!」
「ユーディット!」
なんかもう散々である。どうにか落ち着いてソファに腰かける頃にはなんだかくたびれ果てていた。
「ごめんね、とても嬉しかったものだから……」
「……もう二度と書かないから安心して」
「そんなっ!」
絶望感溢れる声を出されてももう遅い。手紙なんて書いてやるものか。やっぱり出すんじゃなかった。
「……そんなことはどうでもいいの。どうして戻ってきたの? 次は年末のはずでしょう。まさか、本当に、手紙のせいで……?」
そんなド阿呆だったの? ああでも、何年も魅了にかかり続けてしまうくらいだから……
私がクラウスを可哀想なもの扱いしたのがわかったらしい。慌てて否定する。
「違うよ! ああ、ええと、今日帰ってきたのは手紙が嬉しかったからだけど、それがなくても近々一度帰ってくる予定だったんだ。……今回のことを、君に話すために」
「……私に?」
わけがわからない。学園で起こったという事件のことを、どうして私に説明する必要があるの? 戸惑う私の前で、クラウスが自分を落ち着けるように深呼吸した。
「手紙を書けなくてごめん。本当にごたごたしていたのと、これはちゃんと私から君に話す必要があると思ったから」
真面目な声に、緊張感が募る。一体何なの? 思わずぎゅうっと拳を握りしめた。
「ああ、大丈夫。君に悪いことなんて一つもない話だよ。だからそんなに緊張しないで」
そっとクラウスの手が私の拳に触れる。ゆっくりと撫でられて少し力を緩めた。その手を払いのけることは忘れない。
「それじゃあ聞いて欲しい。
この春に入学してきた一年生、その中に変わった女生徒がいた。名前を覚える必要はないから“彼女”と言うよ。“彼女”はとある男爵家の令嬢だ。そこの当主が外に作った娘で、母親が亡くなったために引き取り養育していた。市井で育ったので、あまり貴族の作法を知らず自由奔放な性格をしている。まずこれが前提」
私は話を聞いていることを示すために軽く頷いて見せる。
「私は三年生で畏れ多くも殿下の友人をさせてもらってる。生徒会の書記を押しつけ……任されていたから、生徒会の下級生と付き合いがあったのだけど、それが何だか様子がおかしいんだ」
……確か手紙にも書記を押し付けられたことに対して愚痴が書いてあったような。まあそれは今は関係ないことだ。
「一年生が入って来てからしばらくして、“彼女”の話題が上り始めた。“彼女”はとても可愛らしく、純粋無垢で、優しい子なんだと。最初は新入りの一年生が。続いて二年生までもが“彼女”のことを褒め称え始めた。そして夏の休みが終わった後学園に戻ると、彼らは“彼女”を生徒会室に連れてきてもいいかと言った」
……それは。嫌な予感が胸をよぎる。
「私は反対したけれど、殿下は興味本位で一度だけ許可した。下級生たちの勢いがあまりに強かったせいもあっただろう。そして“彼女”はやってきた。私に言わせれば、まあ顔は中の上くらい。ただし礼儀の一つもなっていなくて、いきなり殿下を勝手に愛称で呼ぶ、馴れ馴れしく腕を絡ませようとする、敬語も使わないと、そもそも学園にいることが間違っているとしか思えなかった。殿下のことを知らないならまだしも、知っての行動だ」
うんざりしたような声に疲れが滲んでいる。
「はっきり言って、不敬にもほどがある。あんなものを連れてきた下級生を叱ると、彼らは何故か“彼女”の行動を弁護し始めた。“彼女”は市井で育ったのでまだ貴族の礼儀を知らない、ただ友人として殿下と仲良くなりたかっただけ、純粋ゆえの行動だったのだと……あろうことか、その場に同席していた三年生たちも“彼女”を擁護しだしたんだ。“彼女”の行動をおかしいと思ったのは、私と殿下のただ二人だけだった」
……それ、は。“彼女”は。もしかして。
「明らかに異常だ。私と殿下はすぐに一つの可能性に気づいた。私は君ゆえに。殿下は王族故に。君も、わかるだろう?」
「……魅了の、魔眼」
私の声は震えていた。
「その通り。私は君からもらったお守りを肌身離さずつけていたし、王族は万が一に備えて持つよう厳命されていた。それで助かったんだね。まずいと思ったときにはかなりの人数が魅了の影響下に置かれていた。生徒会のメンバーたちはもはや殿下の了承を得ずに“彼女”を生徒会室へ連れ込むようになった。仕事そっちのけで“彼女”を褒め称え、“彼女”は図々しくも殿下に擦り寄った。……本当に、殿下が魅了されなくてよかったよ。殿下が魅了されれば次は国王陛下だ。そこまでいけば国がひっくり返るまでそうかからなかっただろうから」
はあ、とため息を吐く音が聞こえた。
「“彼女”は自分の派閥を作り上げた。一年生は性別問わず相当数が魅了され、かろうじて逃れた子たちは肩身の狭い思いをしていた。二年生でも主だった生徒が取り込まれた。三年生は最悪だ。生徒会室へ入室を許可してしまったために、殿下の側近が多数持ってかれた。実質動けるのは私一人になってしまった。おまけに教師にまで影響が及んでいたからたまらない」
かちゃりと音がした。おそらく紅茶に口をつけたのだろう。少しの沈黙ののちに、クラウスは再び話し始める。
「私と殿下はすぐに陛下へと連絡を入れた。陛下は事態を重く見てくれた。けれど確実に魅了の魔眼を判別することができ、影響を受けないヘクセ様が、生憎と王都を離れていた。あの人は本当に好き勝手しているからね。至急で呼び戻す手配はしてくれたけれど、時間がかかるのは間違いなかった。私と殿下は“彼女”が問題を起こさないよう見張りを任された」
私は何も言うことができなかった。震える手を強く握りしめる。
「すぐにでも捕らえたいところだったけど、“彼女”の周りは常に大勢の学生がいた。みな貴族の子どもたちだ。場合によっては教師まで。ヘクセ様しか魅了の解除ができないからには、彼らが皆敵に回る。魅了の魔眼はあまり表に知られるべきではないとの判断から、彼らをケガさせたり捕らえることは得策ではないということになった。親たちに説明できないからね。私と殿下にはお守りを持った兵士が護衛としてつけられ、同時に彼らが学園の尋常ならざる様子を王に報告することになった」
クラウスから語られる、魅了の力がもたらす恐ろしい影響。私が転生者でなければ歩んでいたかもしれないそれに血の気が引いていく。
「酷いものだったよ。“彼女”を咎めることができるものは一人とていなかった。勇気ある生徒が“彼女”のすることに異議を唱えれば、取り巻きたちに糾弾され休学を余儀なくされた。ああ、その子はちゃんと保護したから大丈夫。
男も女も誰も彼もが“彼女”を褒めそやし、甘やかし、全てを肯定した。そしてついには、殿下の婚約者に相応しいのは“彼女”だと言い始めた。“彼女”は素晴らしい、きっと聖女に違いない、だから“彼女”こそが国母になるべきだとね」
「……は」
何それ。意味が分からない。私の頭はパンクしそうだ。
「殿下には仲睦まじい婚約者の公爵令嬢がいらっしゃる。公爵令嬢には、早いうちに殿下がお守りを渡していたから魅了は効かなかった。それがまた目障りだったんだろう。“彼女”とその取り巻きたちは公爵令嬢をありもしないいじめの犯人と決めつけなじり始めた。もちろん殿下はそれを咎めたが全く聞き入れられず、そしてつい先日、事件が起こった。公爵令嬢を皆の前に引きずり出し、無実の罪で断罪したんだ」
なんて、ことを。
「私と殿下は上手いこと足止めされてしまって。到着したときには魅了された教師が公爵令嬢に学園追放を言い渡していた。流石に我慢できなくて、いっそ“彼女”を殺してやろうかと思ったところでようやくあの人が、ヘクセ様が来た。あの人は“彼女”に向かって顔を嫌悪に歪めてこう言った。
『魅了の小娘、覚悟しな。てめえとは違う本物の“魅了の聖女”のお蔭で解析は済んでんだ。てめえに向けられる全ての好意はまやかしと知れ』とね。そして全ての魅了は解かれ、“彼女”は捕らえられた。
以上が学園で起こった事件の顛末というわけだ」
長い話を終えて、クラウスは息を吐いた。
なんてことだ。滅多に現れないとされる魅了の魔眼の持ち主がもう一人いたなんて。そしてその“彼女”が、こんな事件を起こしていたなんて。クラウスが無事で本当によかった。敵ばかりの学園はどれほど危険だっただろう。
やはり魅了は恐ろしい力だ。おじさまがいてくれたからどうにかなったけれど、やはりこれは捨て去ってしまわなければ……
「ユーディット。私がこの話を君にしたのはね、殿下が君に感謝を伝えたがっているからだ」
「……感謝?」
私はこの事件に関して何もしていない。感謝されるいわれもない。そう思ったのだけど、クラウスは言う。
「君が魅了の魔眼に振り回されず、協力して解析させてくれたおかげで魅了を防ぐお守りができた。これがなければこの国は滅んでいたかもしれない。さらに魅了を解除するための魔法を作ることができ、ヘクセ様が現在改良していていずれ魔法使いなら誰でも使えるようにすると言っている。そうすれば、もう魅了の魔眼なんて恐れる必要はないんだ。全て、君の功績だよ」
優しい声が私を褒め称える。クラウス、あなたは“彼女”に魅了された人と同じことをしてるのではないの? それに。
「そっ……んな、私は何もしていないわ。私はただ魅了を持って生まれてしまっただけ。お守りを作ったのも、解除魔法を作ったのも、全てはおじさまの功績だわ」
「違うよ。君がいなければ、魅了を拒絶した所有者がいなければ、強い力を正しく恐れることができる君がいなければ、作ることはできなかったとヘクセ様は言っていたよ。だから君を“魅了の聖女”と呼んだのだとね」
最高に意味が分からない。私が聖女? ありえないわ。おじさま、頭がおかしくなってしまわれたのではないの?
混乱の渦中にある私の両手をクラウスがそっと取る。振り払う余裕さえない。優しい声が、降ってくる。
「君は誇っていい。この国を救ったのだからね。殿下も陛下も大変感謝なさっていたよ。いずれ紹介してほしいと言われた。僕の婚約者として」
「だ、めよ、だめよそんなの。だって、あなたは私に、魅了されて……」
「あのね、ユーディット」
聞き分けのない子どもに言い聞かせるように、クラウスが言う。
「私は今回、お守りを持っていたおかげで“彼女”の魅了にかからなかった。お守りの力は確かだ。それなのに君の魅了にかかっているというのかい?」
「だって、それは、きっと、お守りができる前にかかったものだから……」
「それにね。私は君の魅了にかかったことは一度もないんだよ」
あまりに衝撃的な一言だった。私はぽかんと口を開いたまま何も言うことができない。
「思い出してほしいな。私たちは子どもの頃から一緒に遊んでいただろう? 私は君の気を引きたくて、よく君にちょっかいをかけていた。君が虫が苦手なのを知っていて、クモを見せびらかしたこともあったよね。君は何度もやめてって言ったけど、私は止めてあげることができなかった。
もし魅了されていたのなら、君に止められた時点で二度とそういうことはしなくなっていたんじゃないかい?」
それ、は。確かに、そうかもしれない、の?
「君からの婚約解消だって、ずっと応じなかっただろう。君に操られていなかったから、君に従わなかったんだ。
私はこれでも魔力が人より多いらしくてね。だから影響を受けなかったのだろうとヘクセ様は言っていた」
お父様と、同じ? それは、つまり。
「私は、私自身の意思で、君のことが好きだよ。君のことが欲しいと思ったからわがままを言って君の婚約者の席を手に入れた。あの事件があった後も、君が王家に協力した事実を持って親を説得した。君からの婚約解消の打診も全て断った」
呆然とする私の前で、クラウスが笑った気配がする。
「やっと聞いてもらえたね。君はずっと頑なで、私が何を言っても聞き入れてくれなかった。さっきの話だって以前もしたことがあるのに、全然記憶になかったんだろう?」
全く全然これっぽっちも記憶にない。混乱しすぎて、でも、とかだけど、としか言えない私の頬に、温かなものが触れる。私はびくりと体を震わせた。
「ねえユーディット、私の愛しい君。もうこれ以上自分を苦しめなくていいんだよ。私にはそもそも魅了は効かないし、お守りだってちゃんと持ってる。アルマだって肌身離さずお守りを持っている。君のお父上にもヘクセ様にも効かないし、お母上や兄君だってあれからずっとお守りを持っているそうだよ。君のためにね。
ずっとそうやって目隠しをして、離れに閉じこもって、自分を罰し続けて。そんなこと、もうしなくていいんだよ」
優しい声とともに、彼の手が、私の頬を拭っていく。
ああ、駄目だ。涙が溢れて止まらない。感情が溢れて止まらない。全てを押し込めて固くふたをしていた心が、揺らぐ。
私は、私は、だけど。
「……でも、私の目は、変わらずここにあるのよ、魔眼は、変わらずに。人前で、目隠しを外すことは、やっぱりできないし、だから、外に出ることは、できないわ。あなたの、あなたの、隣に、立つ、ことは、できないわ」
呼気が震え、言葉が詰まる。上手くしゃべることができない。いつの間にか隣に移動してきていたクラウスの体を遠ざけるために押してみたけれど、びくともしなかった。
「大丈夫だよ、ユーディット。屋敷の人はみんなお守りを持っている。君が安心して暮らせるように待っててくれているんだよ。君は目隠しをしなくても生きていける。
短時間なら魅了の力を制御できるようになったこともヘクセ様から聞いてるよ。とても苦労して努力したって褒めていた。それに右目の義眼は馴染めば見える特別製なんだって? それが見えるようになれば、左だけを隠して外に出ることができるよ。君は自由なんだから。
それにね、私は君以外と並び立つことを望まない。ともに生きたいのは君だけなんだ。社交なんてする必要はない。とんでもない功績を君は上げていて、それを王家も認めているのだから。君が表に出ないことで、私が不利益を被ることは一つもない。君が心配することなんて、何もないんだよ」
ああ、壊れる。心を押さえつけていたふたが、壊れる。もう抑えられない。私、私は、私だって、本当はずっと、クラウス、あなたのことが。
震える手を伸ばす。私の頬に触れているクラウスの手にそっと添えて。
「っ、ごめ、ごめんなさい、クラウス、私、ずっと、あなたに、ひどっ、酷いこと、ばかり、言って」
冷たくした。拒絶した。認めなかった。否定した。言葉を聞かなかった。ずっとあなたを傷つけてきた。嫌われても仕方のないことを。
今更な謝罪を受け取ってもらえなくても仕方がない。けれどクラウスは小さく笑って。
「大丈夫、わかってる。君が私に向ける言葉で君自身が傷ついていたことを知っているよ。だって、君は気づいていないけれど」
頬に触れていない方の手が、私の唇をなぞる。
「私を拒絶する時、君の唇は青ざめていた。私を否定する時は、頬が引き攣っていた。見えないせいなのかな。君は声で、態度で私を拒絶してみせても、それに罪悪感を抱いてることが口元に出ていたんだよ」
なに、それ。え、本当に? 私恥ずかしすぎでは? というかただの道化では? あまりのから回りっぷりにめまいがした。
「だから私は余計に諦められなかった。だって君だって本当は婚約解消を望んでいないってわかってたんだからね。
……ね、ユーディット、目隠しを取っていい? 君の目が見たい」
未だ落ち着かない混乱の中、またクラウスがとんでもないことを言った。びくりと震えて反射的に首を横に振る。けれどクラウスは諦めてはくれなかった。
「君はもうこれをする必要はないんだから、外す練習をしよう。ヘクセ様以外の人をずっと見てないんだろう? だったら最初は私がいい。私を見て、ユーディット」
俯いて、黙り込んだ私をクラウスがじっと待っている。きっと彼は諦めるということを知らないのだ。6年間、ずっと私を諦めなかったように。
……ならば、きっと、私も彼に応えなければいけないのだろう。
とても勇気が要った。右目を潰した時なんかよりも遥かに。やっぱり怖い。恐れはなくならない。
「ユーディット」
私を促すように、何度も名前を呼ぶ。ついに根気負けした私は、ためらいためらい、小さく頷いた。
「……ありがとう」
嬉しそうなクラウスの声。彼の両手が私の後頭部に回される。ごそごそと動いて、そうして、目隠しが、外れた。
「ああ、目元が赤くなっちゃったね。あとで冷やさないと」
きつく瞼を閉じているためにクラウスの顔はまだ見えない。目元をなぞられてぞくりと背筋が震える。
「目を開けて。君の目を見せて。私を見て」
怖い。私の怯えを見て取って、クラウスは私の頭をゆっくりと撫でた。温かい手が私を宥めていく。彼は大人しく待っている。私を、待っている。
大きく呼吸を繰り返す。こぶしを強く握りしめる。6年間、待たせた。これ以上、待たせるわけにはいかなかった。
俯いたままゆっくりと瞼を開ける。緊張で体が震えている。私の隣に座る彼の姿が見え始める。そして私は、6年ぶりに彼を見た。
私の記憶の中の彼は10歳の少年の姿のままだった。今16歳となった彼ははちみつ色の柔らかそうな髪、細められたみどり色の瞳は変わらないけれど、全く違っていた。少年から青年へと成長した彼は、もう可愛らしいとは言えなかった。面影を残す端麗な顔立ちに声と同じ溶けてしまいそうな甘さを浮かべて、私を見ていた。
「……クラウス?」
「そうだよ。ああ、やっと君を見ることができた」
私の瞳を覗き込み、クラウスが感極まった声で言う。
か、顔が、近い、近すぎる。あと少しで触れてしまいそうな距離。人前で目を開けた緊張よりもそっちの方が気になってしまって、私の顔が赤くなっていくのがわかる。
クラウスはうっとりと微笑みを浮かべて私を見つめている。え、これ、魅了されてないのよね? 本当に正気なのよね? だ、大丈夫なのよね?
「く、クラウス? 距離が近いわ、少し離れて、ね?」
「そんな、もったいない。やっと、やっと君が私を見てくれたのに。目を隠していても君の美しさを隠すことはできていなかったけれど、あおい瞳が見えていると格別に美しい」
「あわわわわ……」
「艶やかな金糸の髪に映えて一層鮮やかに見えるね。愛しい君、もう隠さないで。この先もずっと君の瞳を見ていたい」
限界だった。みどりの瞳しか見えなくなって、それがあまりにも甘くて、熱くて。緊張だとか、泣き疲れとか、いろいろ重なった挙句にとどめを刺されて、私は意識を手放した。
そうして私は目隠しをしなくなった。最初の頃は自室でアルマの前でだけだったけれど、徐々に離れの中で、家族の前で外せるようになった。久しぶりに見た両親は少し年を取っていて、お兄様はすっかり大人になっていた。みんな喜んでくれて、私はまた少し泣いてしまった。
クラウスは私を気絶させてしまった咎でアルマに離れから叩き出され、そのまま泣く泣く学園へと戻って行ったらしい。すぐにまた手紙が届いて、そこにあまりにも必死の謝罪が書き連ねてあったものだから笑ってしまった。でもこれに返事は出してあげないんだから。
右目の義眼は、それから少ししてからゆっくりと見えるようになった。
「お前さんが受け入れたから、見えるようになったんだろうさ。坊主の手柄だな」
様子を見に来たおじさまはそんなことを言って笑っていた。
そうして穏やかに時間は過ぎ、今日もクラウスから手紙が届く。
「お嬢様、いつものですよ」
「ありがとう、アルマ」
手紙を受け取り、ペーパーナイフで開封する。中身を取り出して目を通す。今までは全てアルマにしてもらっていたことを、私自身でしている。
ゆっくりと目を通し、私は少し考えた。
折角なんだもの、返事を書いてみようかしら。今日はそんな気分だわ。
「アルマ、紙を用意してくれる?」
てきぱきと用意してもらった紙を広げ、ペン先にインクを浸し、さて何を書こうか考える。
いつもクラウスが送ってくる手紙の書きだしはこうだ。
『愛しいユーディットへ』
ならば私もそうしなければなるまい。一体どんな顔をするのかしら。くすくすと笑いながら私はペンを滑らせた。
『愛しいクラウスへ。あなたのユーディットより』