深淵に眠るもの
目を覚ますと、びしゃびしゃの床に仰向けになっていた。ただし餅が膝枕してくれている。
俺は上体を起こした。
「服が汚れてしまったな」
「いいのよ」
この仕事が終わったら、彼女の服を新調してやらないと。いくらかかるのか分からないけれど。俺の報酬が吹っ飛ばない範囲なら。
体はだいぶ楽になっていた。少なくとも、起き上がれないほどではない。
体重がかかると、節々に痛みが走った。が、それだけだ。動く。水びたしになった銃を拾い、ホルスターへおさめた。
「白坂さんは?」
「先におりたわ。あとは私たちだけ」
レベル7だったはずなのに、映像による侵蝕がない。ということは、クイーンが手加減してくれているということか。夢の中で話をつけたわけだしな。
発電所は正常に稼働しているように見える。
正直、なにがどう変わったのかは分からないが。とにかく、言われた通りにあの球体を交換したはずだから、オヤジだって満足してくれることだろう。
ジュピターの死体はいまだ転がったままだ。業者に回収されていない。
*
なんとか五階へ到達し、食堂の奥へ入ると、ふたりが待っていた。
髪をほどいた鐘捲雛子が死んだような目で横たわっており、白坂太一が心配そうに見守っているという状況。
ムリして迎えに来なかったのはいい判断だ。こちらは餅がいればなんとかなる。
俺もどっと腰をおろした。
「鐘捲さんは? 動けそう?」
俺の問いに、本人が声を絞り出して応じた。
「大丈夫。明日までには治るから」
「ムリしなくていい」
「ムリじゃない。勝手に決めないで」
頑固なんだよな。
まあ彼女の意見を尊重しよう。
俺は会話相手を白坂太一に変えた。
「で、オヤジはどうだって?」
「まだ報告してません。明日行こうと思って」
「そうしよう。明日は調査を休みにして、作業に集中ということで……んっ?」
俺はぎょっとして思わず二度見した。
餅が服を脱ぎ、ハンガーで壁にかけているところだった。さほどきわどい格好ではないが、丈の長いキャミソールのような白い下着姿になっている。
「餅よ、なぜ脱いでいる?」
「なんで? 濡れちゃったんだから仕方ないでしょ。あのまま寝たらシワになるし」
「ほかに着るものは?」
「ないけど。なに? えっちなこと考えてるの?」
「いや、マナーとしてさ……」
バブルスライムのときは全裸でよかったかもしれない。しかし人間の体になった以上、せめて隠すところは隠して欲しい。まあ隠れてはいるが、本人に隠す気がないらしく、ずいぶん無防備だ。
深い溜め息が出た。
人として最低限の常識を教えておいたほうがよさそうだ。前に人格を上書きされたときに学習しているはずなのだが。
俺も防護服のプロテクター部分を外した。衝突のエネルギーまでは殺せなかったが、こいつのおかげで筋肉バカの一撃から内臓を守れた。ヘタしたら背骨が折れていたかもしれない。
「なんだか急に寒いわ」
餅が当然のことを言い出した。いくらビル内が異様に温かいとはいえ、いまは冬だ。びしょびしょのまま脱いだら冷えるに決まっている。
彼女はキョロキョロした挙げ句、こちらを見た。
「あたためて?」
「ダンボールもらってくるよ」
「あなたがあたためてよ。そんなに私に触れたくないの? なんで? お餅じゃないから?」
「そうじゃない」
俺は仕事のためにここにいるのだ。餅とイチャつくためじゃない。ヴィーナスくらい大人だったら、ちょっとどこかにシケ込んでもいいけど。
ふと、瀕死だった鐘捲雛子が、餅の下着をぐっと掴んだ。ゾンビ映画みたいだ。
「あまり問題起こさないで……」
目つきがヤバい。
餅も少しびっくりしたらしい。
「な、なによ問題って」
「変なことしたら斬るから」
「変なことって……お尻のこと?」
「寒いなら私があたためてあげるから。こっちもちょうど寒かったし。女同士なら問題ないでしょ?」
すると餅も困惑した顔で、もじもじと体を揺すった。
「女同士って……」
「だから、違うの。私は問題を起こしたくないだけ。あなたみたいに純朴な子は、すぐ悪い男に騙されちゃうんだから」
「二宮さんは悪い男じゃない」
「それでもダメ。文句があるならひとりでこごえてなさい」
餅に提示された選択肢は三つ。俺と添い寝して斬られて死ぬか、鐘捲雛子と添い寝するか、寒いまま過ごすか。
餅が泣きそうな顔でこちらを見たので、俺はどうぞとばかりに手で促した。鐘捲雛子と添い寝するのが一番いいだろう。問題も起きないし。たぶん。
すると餅は、渋々といった様子で鐘捲雛子の隣に身を横たえた。
「じゃああったかくして」
「ほら、もっとこっち。肌が冷たくなってるじゃない」
「言ってるでしょ、寒いって」
「お姉ちゃんがあたためてあげる」
「……」
まさかとは思うが、死んだ妹と餅を重ねているのか。彼女も今日はずいぶん手ひどくやられて、頭が正常に稼働していないようだ。まあ明日には正気に戻るだろうけど。
俺もみんなに背を向け、眠りの体勢に入った。いくらプロテクターで保護されていたとはいえ、まだ胃がムカムカする。強い衝撃を受けると全身の筋肉がこわばる。明日に備えて寝たほうがいい。
白坂太一だけが横にならず、バックパックから取り出した携行食をもそもそ食べ始めた。チョコレートバーだ。調理不要で、高カロリーの栄養をとれる。
*
眠りに落ちると、また夢を見た。数時間前にも見たばかりなのに。
青空の下、花園で遊ぶ少女たちの映像だ。
どうせ数秒後には黒いヤツに破壊されるんだろうけれど。などと思っていたが、いつまで経ってもそいつは現れなかった。
ま、彼女も休みなしで連日破壊しっぱなしだったからな。たまには休みたいのかもしれない。
餅と添い寝していた影響なのか、花園には鐘捲雛子もいた。
ちょこんと座る餅の後ろで、ただ髪をすいている。いつものような凶相ではなく、優しい姉の顔だ。こんな顔もするんだな。
俺は白く塗られた木の椅子へ腰をおろし、ある女と向かい合った。
例の大統領。テオだ。今度は偽物ではない。ここではマネキンではなく、人間と変わらぬ外見をしている。理屈は不明だが、すでに肉体は滅んでいるのに、こうして対話することができる。
「やっと会話できそうだ」
俺の言葉に、彼女はにこりともせずうなずいた。
「ずっと妨害を受けていましたからね」
「あの黒いヤツ? 誰なんです? ここのクイーンと同一人物なの?」
「おそらくは同じ個体でしょう。いえ、個体ではなく、群体と言うべきかもしれませんが」
「群体?」
「いくつかの個体が融合的に機能し、ひとつの個体のように振る舞うものです」
つまりは「誰でもない」ということか。
とはいえ、いきなり虚空から発生したわけではないのだから、なにかしら自己の存在を特徴づけるものがあるだろう。歴史とか、文脈とか、人生とか、そういうものが。
俺はさらに尋ねた。
「彼女は地球を自称していたんですが」
「それは判断しかねますね。しかし私の調査によれば、あらゆる生命の精神は、化石のように地球へ堆積しているようです。それを地球の意志と言うこともできるでしょうし、違うと言うこともできるでしょう」
「もしかして、大統領自身もそこに?」
「ええ、おそらく。いまのところクイーンには取り込まれていませんが」
「彼女は、俺たちになんの用だと?」
こいつが本題だ。用件さえ分かれば、意味不明な断片に頭を悩まされる必要はなくなる。
すると、どういう心境かは不明だが、彼女はふっと息を吐いた。
「それは直接聞いたほうがいいでしょう」
「会話が成立する気がしない」
ふと、彼女は目を細め、突然話題を変えてきた。
「その前に、まずはサイキウムがなんなのか説明しておきましょうか」
「サイキウム? 難しい話でなければ」
「それは精神の結晶。そして変異体の体内で生成される器官です。そして肉体の死と同時に分解を始めます。通常個体からはビー玉ほどのサイズしか採取できませんが、クイーンの体内からは巨大なサイキウムを採取できます」
どうりであの研究所に溢れていたわけだ。外部にはまったく流通していないのに。このビルに転がっているビー玉は、誰かが摘出した通常個体の残骸ということか。
彼女はこう続けた。
「研究所の最下層の、さらに下に、様々なものが埋められていたのは知っていますね?」
「デカいゴミ箱でしたよ」
「私の姉妹も埋められています。たくさんの失敗作がね。サイキウムだけを摘出され、捨てられたのです」
大量のサイキウムがあった。ということは、同じ数の死体が存在するということだ。聞けば聞くほどうんざりする。
あの地底でうごめいていたのは、彼女たちの「怨念」だったのかもしれない。正確にはサイキック・ウェーブの残響のようなものなんだろうけれど。
「彼女たちの代表が、上にいるクイーンだと?」
「そのようです。もとは白紙のような個体だったのでしょう。それが、手当たり次第に化石を取り込んでしまった。どうやら今回のクイーンは、人格の共有に特化した個体だったようです。通常、このような逆流現象はありえないことなのですが」
地球に堆積していたサイキック・ウェーブを取り込んでしまう体質、というわけか。のみならず、人々へ無闇に押し付けようとしてくる。マーキュリーやヴィーナスたちも、その被害者の会のメンバーというわけだ。
話はだいたい分かった。いや分からないが。
とにかく会えばいいのだ。クイーンの主張なんて、最終的に理解できなくたっていい。調査さえすれば、俺たちはカネをもらえる。
*
くすくすと楽しげに笑う声で目をさました。
まさか、俺はまだ花園にいるのだろうか。夢の映像はもう消え去ったはず。
目を開くと、そこはきちんと現実世界。例のベニヤ板の部屋だ。寝ているのも湿ったダンボール。
笑い声を発しているのは、鐘捲雛子と餅だった。
夢の中と同じように、餅の黒髪を鐘捲雛子が手入れしていた。おそろいのおさげ髪にしているらしい。編み込むわけではなく、ただふたつに分けて結んでいるだけだが。
「どう?」
「うん、とてもかわいいよ、鞠ちゃん」
鞠ちゃんって誰だ。まさか妹か? 昨日より症状が進行してるのだが……。
鐘捲雛子は、後ろからそっと餅を抱きしめた。
「私が守ってあげるからね、鞠ちゃん」
「お姉ちゃん、ありがとう」
この話題には触れないほうがよさそうだ。餅が納得してるならそれでいい。
白坂太一も目を合わせないようにしている。賢明な判断だ。
婆さんの用意した朝食は三人で食った。白坂太一は携行食。みんながフルスペックで活動するためには、それぞれに適切な対応が必要となる。
なにより、本日の主役は白坂太一なのだ。彼がキャンセラーを製造できなければ、本部も援軍を送ってこない。
ビルへ来てから今日で四日目。そろそろ帰りたい。
現在、調査を終えたフロアはたったの九階。残りが三十六階。一日あたりの限界が四フロアだから、俺たちだけで作業をしたらあと九日かかる。もし二チームで分担すれば約五日、三チームで分担すれば三日で終わる。
一日か二日短縮したところでどうなんだという気もしなくないが、日に日に効率が落ちていくことを考えれば、俺たちにとっては死活問題と言えた。
*
三階へ向かう途中、また自称ネプチューンの女がぬっと近づいてきた。
「子供……」
「まだ! 見つかって! ない!」
俺はなかば割り込むようにして応じた。
彼女は相変わらず虚ろな表情であったが、俺の必死さに引いたのか、そのままどこかへ行ってしまった。
こっちは忙しいんだ。存在しない子供を探している場合ではない。どうせクイーンに会うまで解決しない謎なのだ。四十五階でまとめて片付けてやる。それまで待てと言いたい。
ジャンク屋へ行くと、オヤジがカウンターに突っ伏して寝ていた。
「客だよ。店主。起きてくれ」
「んあ? おう、あんたらか。待ってたぜ」
待ってた? 寝ていたように見えたが。まあいい。
俺は安っぽいベニヤ板のカウンターに寄りかかった。
「言われた仕事はこなしました。次はそっちの番ですよ」
「分かってる分かってる。電力状況が改善したのは確認した。よくやってくれたな。必要な材料があったら言ってくれ。動作は保証しねぇが、ダメだったらいくらでも交換する」
少しは理解が得られたようだな。なにせこっちはあの変態野郎に殺されかけたんだ。安い仕事じゃない。水びたしにもなったし。
俺は手で促し、白坂太一に商品を選ぶようすすめた。
店主はダンボール箱を出し、あれこれ説明を始めた。
工作は店内でやらせてもらった。なにせ工具が揃っている。白坂太一はオヤジとあれこれ相談しながら、手際よく作業を進めていった。電気は好きに使っていいらしい。
俺は途中まで眺めていたが、そのうち飽きたので通路へ出た。
ベンチでは餅と鐘捲雛子とイチャついていた。
「もう、お姉ちゃんたら心配性ね」
「だってあなたかわいいから。変な男に手を出されたら困るし」
「大丈夫。私はどこにもいかないから」
「鞠ちゃん、素直でいい子ね! お姉ちゃん、嬉しい!」
そして抱きつく。
餅も一晩で洗脳されすぎだろう。体温を与えてくれる相手なら誰でもいいのか。俺はちょっと寂しいぞ。
すると鐘捲雛子は、いつものような鋭い眼光でこちらを見た。
「二宮さん、いたの? なにか用?」
「いや、暇だから……」
「そう」
妹を奪われまいとしているのか、さらに餅を抱きしめる。
いいんだけど……。代用品に肩入れしすぎると、あとで面倒なことになると思うなぁ。いまでもじゅうぶん面倒だけど。
餅は満たされた猫みたいな顔で、鐘捲雛子の体温を感じている。ちょっと優しくされるとこれだ。まあ不遇な人生だったからな。理解できなくもない。
俺もなるべくつめたくしないようにしよう。
それにしても暇だ。
さっきから行ったり来たりしている自称ネプチューンも気になる。まだなにか用があるんだろうか。話しかけても、どうせ子供がどうとしか言わないんだろうけど。
(続く)