帰路
部屋に踏み込んだ瞬間、俺は確信を得た。
この交渉は、俺たちの優位に進むだろう。
しかし同時に、素直に喜べる結果になるとも思えなかった。
波は感じられない。
無音の世界。
部屋を覆う白い肉は、まだ正常に見えるが、おそらく瀕死だった。いずれ死に絶え、腐敗して剥がれ落ちるのだろう。
床一面には黒い花々。
中央には、かつてクイーンだった少女が、四肢のない餅を抱えて座っていた。哀しげな目をしている。
黒い花弁の絡んだチューリップのような花々は、風もないのに蠢いている。
仲間たちは不気味がって足を止めたが、俺は構わず中へ踏み込んだ。もう彼女には力が残されていない。どんなに俺たちを殺したくても、それができない状態だ。
「戻ったよ」
俺がそう告げると、彼女は力なく笑った。
「これがあなたのやり方なの?」
「ほかに手段がなかった」
「殺されるより酷い。人格を上書きするなんて」
「いまの君は誰なんだ?」
「知らない。いろんなのが混ざり合って、自分でも誰なのか分からないんだから。誰からも愛されないことが分かっているのに、愛されたいだけの、哀れな誰か」
誰でもない。
それが正直な感想なのだろう。
本来、誰しも自己なんぞ定義できない。それでも分かったつもりになっている。揶揄したいわけじゃない。「つもり」になる以上のことはなく、なれるだけマシなのだ。彼女は、その「つもり」にさえなれていない。
彼女に抱えられた餅は、人形のように無表情だった。目をつむり、死んでいるようにさえ見える。波も感じられない。
俺は溜め息をついた。
「なにが起きたのか説明してくれ」
「奇跡を待ってた」
「衛星との通信が途絶えてから、どうなったんだ?」
「グランドクロスを起こせば、特別なことが起こるはずだった。私は地球だから。まわりに惑星を置いて……」
会話になっていない。
いっそこのまま喋らせたほうがよさそうだ。
「特別なことをすれば、特別なことが起こるはずでしょ? 私は奇跡を起こして、全部を変えたかったの。愛されない私が、愛されるように。だから人間に力を与えて、儀式をしようとしたの。だけど、失敗しちゃった。みんな私を嫌ってしまう」
奇跡を起こすために、儀式を思いつき、それで惑星にサイキック・ウェーブを与えたというわけか。
なにかが起こるはずだったのに、なにも起きなかった。
得られたものは、喪失感だけ。
俺はホルスターから銃を抜き、彼女へ向けた。
「君の負けだ。その子を返してくれ」
すると彼女は、眼球を動かしてこちらを見た。生気のない目だ。
「いいわ。あげる。けれど、きっとあなたのものにはならないわ」
「どういう意味だ?」
「すぐに分かる」
飽きた玩具でも捨てるように、彼女は餅を投げつけてきた。花々が無残にも押しつぶされる。
俺は銃口を彼女へ向けたまま、慎重にしゃがみ込み、餅を引き寄せた。
死んではいない。なのだが、サイキック・ウェーブがまったく感じられなかった。オメガ種なのだから、その機能がバグとして排除されることはないはずなのに。あるいは情報を上書きされたか。
「餅。大丈夫か?」
少し揺すると、彼女は苦しげに目を開いた。ぼんやりとした表情。
じっとこちらを見ている。
「助けに来たぞ。もう大丈夫だ」
「や……」
「ん?」
「やだ、来ないで……」
「どうした……」
彼女はしかし恐怖に目を見開き、短い手足をぶんぶん振り回しながら、「やだ」と「来ないで」を交互に繰り返し始めた。まるでプログラムされたロボットみたいに。
まさか、俺のことが分からなくなっているのだろうか。
クイーンが愉快そうにくすくす笑った。
「あなたのこと、嫌いだって」
「なにをした?」
「さあ、なにかしら。あなたが私たちにしたこと、思い出してみて?」
「したこと?」
心がぐちゃぐちゃで、過去を思い出している余裕などなかった。
俺たちは対話に来た。だが彼女が対話に応じなかった。それだけだ。
クイーンは溜め息をついた。
「ほら、もう忘れてる。誰かさんの首を絞めて、殺してしまったじゃない」
「それは……」
「だからその子にも、同じことを経験してもらったの。体を傷つけながら、何度も何度も。だからね、あなたの顔を見たら、こうなってしまうの」
俺は、このときほど自分を愚かだと思ったことはない。
そして愚かさを否定したくて、さらに愚かな行為を重ねてしまう。
思わずトリガーを引いた。
パァンと音がして、手首に反動が来て、弾丸が彼女の肩口を貫いた。黒い血液が、花々へと浴びせられる。
クイーンは笑っていた。
「そう。気に食わない相手は殺してしまえばいいの。だって、死んでしまえば、もう二度と口をきかないんだから。聞きたくない言葉は、聞かなくてよくなる」
「お前は……」
「あーあ、誰かが私を愛してくれたら、こんなことにはならなかったのになぁ」
「だったらなぜ対話に応じなかった?」
「だったらなぜ私だけを愛さなかったの? そんな出来損ないの失敗作に執着して。ただのゴミでしょ? そんな子、必要だった? 殺さないであげただけ感謝して欲しいわ。それで、えーと……」
彼女はにわかに困惑した表情を見せた。
視線は俺の後ろ。
振り返ると、鐘捲雛子が近づいていた。
加勢してくれるのかと思いきや、そうではなかった。彼女は抜刀し、こちらへ切っ先を突きつけてきたのだ。
「どういうつもりだ?」
「それはこっちのセリフ。いつまでお喋りしてるつもり?」
「事情を聞いておきたいんだ」
「聞いてどうするの? あなたの中途半端な態度が、いまこの事態を引き起こしてるってこと、まだ分からないの? 優しくしても憎悪を募らせるだけでしょ? 助ける力もないくせに。早く殺してよ。あなたが殺らないなら私が殺る」
なるべく感情的にならないよう、この部屋に入ったときからずっと感情を殺して来た。それはクイーンに対してはうまくいった。なのだが、このとき俺は、鐘捲雛子に対し、言いようのない衝動をおぼえていた。
もちろん、手は出さない。ここで冷静さを欠けば、すべてが台無しになる。
「なんでもかんでも俺のせいにするな」
「そんな話ししてないでしょ。早く終わらせてって言ってるの」
さっきからずっと餅がぐすぐす泣いている。
俺という存在が、彼女に恐怖を与え続けているためだ。
鐘捲雛子は、一秒でも早くその状況を終わらせたいと思っている。
気持ちは分かる。分かるのだが、俺は、目の前ですべてを諦めたような顔をしているクイーンを、ただ殺すことはできなかった。言いたいことがあるはずだ。言わせておいて、どうせ銃で撃つことになるとは思うが……。
そうだ。
俺は状況を引き伸ばして、ただ彼女を苦しめているだけだ。
だからイラついている。
クイーンが愉快そうに目を細め、鐘捲雛子を見た。
「じゃあ、あなたでもいいわ。いまからでもいいから、私を愛して? あなたの鞠ちゃんになってあげる」
安易な挑発だ。
だが、こんな稚拙な手段でも、鐘捲雛子には有効だった。
「気安くその名前を出さないで」
「なんで? あの出来損ないでも代用品になれたんだもの。私でもいいじゃない? ね、お姉ちゃん、私を愛して? お姉ちゃんのしたいこと、なんでもしてあげる。いまから私が鞠ちゃんだよ」
「……」
眼球が血走り、鼻の奥から獣のような音が鳴っている。
おそらく、もう殺すことは決めたのだろう。あとはどう殺すかが問題だ。
「あぎひっ」
クイーンの肩口に、ズブリと刀が突き刺さった。さっき俺が撃ち抜いた場所だ。切っ先は床の肉へも突き刺さり、クイーンは身動きがとれなくなった。
鐘捲雛子は、その刃を少しねじる。
「私の妹は死んだ。もういないの。誰も鞠ちゃんじゃない」
「痛いよ、お姉ちゃん。もうやめて」
「……」
*
凄惨な殺人の現場になった。
かつてクイーンだった少女は、刃が折れるほどズタズタにされ、ただの黒い液体にされてしまった。荒らされた花々と混ざり合って、もはや見分けがつかない。唯一確認できるのは、強引に叩き割られた頭部から飛び出している眼球だけ。
鐘捲雛子は刀を捨て、代わりに餅を抱き上げた。俺から遠ざけるように。
いまはそれでもいい。
目的は達成できた。
たぶん。
余計なことは考えないようにしよう。なにも手につかなくなる。
作戦は終了だ。
「撤収しよう」
俺は誰にともなくそう告げ、現場をあとにした。
*
三十二階では、四名と再開できた。みんな無事だ。
俺や鐘捲雛子の姿を見て、あの青村放哉でさえ状況を察したのだろう。今回はジョークを飛ばしてこなかった。
「まだ少しいる。だからってわけじゃねーが、この階段は迂回したほうがよさそうだ。足の踏み場もねーからな」
そう言いながら、死体を乗り越えようとした変異種の頭部を撃ち抜いた。
「白田、マガジンくれ」
「はい」
白坂太一は空になったマガジンに、手動で弾を込めて渡していたようだ。
あまり大規模な武装ができない以上、こういう作戦になるのは仕方がない。
*
帰路はほとんど戦闘がなかった。
見かけるのは死体ばかり。
十階でサターンらを保護し、エントランスまで出た。
霧まみれ。
しかも日が暮れている。
俺は高湿な鬱陶しい空気で深呼吸し、ホルスターへ銃を戻した。
あとは各車両に分乗し、本部へ帰還することになる。鐘捲雛子は餅を抱えているから、電源車の荷台に乗せるわけにはいかない。
「こっちは俺ひとりで行くから、みんなはバンで帰ってくれ」
きっと荒い運転になる。
みんなジョン・グッドマンの運転するバンに乗ったほうがいい。
*
だが、俺の車には白坂太一が乗った。
バンには全員乗り切れないなどと、誰にでも分かるようなウソを言うのだ。そんなことはないのに。心配して一緒に来てくれたのは明白だった。
ヘッドライトをつけ、重たい車両をゆっくりと加速させた。
動画配信者はミニクーパーで帰ったし、青村放哉はバイクでの移動だ。サターンは、みんなと一緒のバンに乗せた。
幸い、ビルの周囲は瓦礫も少なかった。
それでもスピードは出さないよう、俺は安全運転に心がけた。同乗者がいなければ、少し飛ばしていたかもしれない。
「今日は大変でしたね」
「うん」
日帰りで済んでよかった。
もっとも、アメリカの衛星に手を出したのだから、このあと各所からいろいろ言われることになるとは思うが。
ひとまずやりたいことはやったし、成功も収めた。
「帰ったらまた大変ですよ。各務さんが対応してくれるとは思いますけど」
「うん」
「おなか空いてません? チョコバーありますけど」
「いや、いいよ。運転中だし」
「そうですよね」
余計な気を使いやがって。
だけど、こんなのでも気は紛れる。
ひとりでじっと運転していたら、俺はきっと余計なことを考えていたはずだ。どこかに車を停めて、ひとりでめそめそ泣いていたかもしれない。
なんだかずっと哀しかった。
俺は大統領のような博愛主義者ではないから、会話の通じない住民たちを、まるで障害物のように殺したことについては後悔していない。救いようがなかったし、ほかに手もなかった。
それが俺という人間の限界だというのなら、おそらくはそうなんだろう。
餅というひとりの少女を救うため、その他の命を奪えるだけ奪った。
結局は、会話の成立する相手にしか共感できないのだ。
そして、それだけに、言葉を交わしたクイーンを救えなかったことだけはひどく後悔していた。
自分で発砲しておきながら、生き延びた俺がそんなことを思うのだから、ずいぶん勝手だとは思うが。
彼女は歪んでいた。
しかし歪めたのは、もっと別のなにかだ。直接的には、人体実験をしていた研究所であり、あるいはその研究を主導した官僚たち。
その官僚のひとりはすでに始末した。
だが悪人を殺したところで、苦しめられた少女たちの傷が癒えたわけではなかった。
結局、その少女たちをも殺して、すべてを終わらせるしかなかった。
みんな死んだ。
それをもって問題が解決したと思い込むしかない。
俺がもっと賢い人間だったらよかった。
もし大統領が生きていたら、どうしただろうか……。
(続く)




