花
食事の時間になっても鐘捲雛子は動かなかったので、俺はひとりで食堂に入った。他のメンバーもいなかったから、見知らぬ家族とカウンターで並び、メシを食った。
その後、白坂太一からチョコレートバーをもらって帰った。
「ただいま。ほらこれ。携行食。お腹すいたら食べて」
「……」
返事はない。代わりに、かすかに鼻をすする音がした。
しんどい。
いや、いまはまだいい。夜になれば俺も勝手に寝る。その間は構わなく済む。問題は明日。彼女は、俺と餅がふたりで行動することを許可しないかもしれない。となると、四十五階を目指せなくなる。
餅も餅で意固地になっていた。メシの前にキャンセラーを渡しに行ったら、特に言葉も交わさないままドアを閉められてしまった。
いちおうの理由はあるんだろうけれど、こちらにしてみれば、急に仲良くなって、急に不仲になったようにしか見えなかった。明確になにか事件があったなら分かりやすいのだが。
その後、歯磨きのついでに冷たいシャワーで髪を洗い、俺は部屋へ戻った。
鐘捲雛子は相変わらず横になったまま。しかしチョコレートバーは食べたようだ。
俺は構わずダンボールに身を横たえた。
なにも考えず眠ろうと思うのだが、ときおり「鞠ちゃん、なんで?」と声が聞こえる。
あきらかに泣いている。
声をかけるのもどうかと思ったが、明日以降のことを考え、俺はこう声をかけた。
「分かったよ。じゃあ明日から、俺が餅と交代するからさ。君たちはここで生活してよ」
「……」
返事はない。
ご希望の条件に従うと言っているのに、冷たいことだ。
まあ彼女にとっては致命傷のようなダメージだったんだろう。空気の読めない俺でも、さすがにしつこくすべきでないことは分かる。
「おやすみ」
「……」
返事はなかったが、少し物音がしたから、うなずいてくれたのかもしれない。
*
夜、花園の夢。
またしても黒いものが湧き出してきた、というところで、上空から降ってきた餅がいきなり叩き伏せてしまった。まるでモグラ叩きだ。夢の中では桁外れに強い。
少女たちはみんな無事。
楽園は守られた、というわけだ。
「座って」
餅がそう言うので、俺は白い椅子へ腰をおろした。
黒いドレスのいつもの餅だ。髪は結っておらずストレート。この髪形は、いまは寂しくも見える。
「明日からは俺がボディーガードするよ。君は鐘捲さんと暮らしてくれ」
「うん、ありがと。それと、ごめんね。私、ちょっとムキになっちゃった」
しおらしい態度だ。
「俺はいいよ。ただ、鐘捲さん、かなり落ち込んじゃっててさ。見てらんないくらいだよ」
「お姉ちゃんには悪いと思ってる。でも、お姉ちゃんも悪いのよ。あなたのこと悪く言うから」
「それで怒ってくれたのか。ありがとな」
すると彼女は、ぶんぶんと顔を振った。
「でもそれだけじゃないから! 私、あなたにも怒ってる!」
「えっ?」
怒ってる? 無実なのに?
俺は巻き添えで追い出されそうになっただけの可哀相な男だぞ。いったいなんの非があるというのだ。
「だって、サターンと近かったもん。あなたと彼女が一緒に住むこと考えたら、急に抑えきれなくなっちゃって」
「ただの事故だよ」
「でも一緒に住むのはダメ。許さないから」
「まあ、たしかに問題だな。だから鐘捲さんにお願いしようと思ったんだけど」
「円陣さんたちにお願いしない? きっとあの人たちなら大丈夫だから」
いちおう代案を考えてくれていたのか。
「ああ、それはいいかもしれない。代わりに俺たちが食堂の奥に戻って、また四人で生活だ」
「うん。そうしよう?」
いまの場所でもいいのだが、食堂のほうがトイレに近い。そもそも故マーキュリー宅は他人の家だし。
餅はにこにこした。
「じゃあ決まりね。お姉ちゃんには明日謝っておくから」
「そうしてやってくれ。あの人、ホント亡霊みたいになってるから」
*
だが、話はそううまくいかなかった。
円陣薫子と坂上アイシャは快くボディーガードを引き受けてくれたのだが、鐘捲雛子が立ち直っていなかった。
「お姉ちゃん、おはよう」
餅が近づくと、彼女はギロリと眼球を動かした。
「私に妹はいない……」
「えっ?」
「もう私に合わせなくていいから。妹なんていないし。あなたも迷惑だったでしょ?」
「そんな……」
夢の中では毎晩のように、そして現実世界では二度も、鐘捲雛子は妹を失ったのだ。絶対に繰り返したくないのだろう。
さて、そうなると。
計測器は三つ。キャンセラーも三つ。トランシーバーは二つ。人数は八名。
これを振り分けて行動することになる。
円陣チームをサターンの護衛に当たらせるとして、残りは六名。
忍者と中二は相性がいいので問題ないとして。もし二名ずつで分けるなら、残りは俺と餅のチーム、そして白坂太一と鐘捲雛子のチームとなる。
が、こうして立ち話をしている間にも、おのずとそういう立ち位置になっている。各自、二名ずつで心の準備ができているようだ。
「えーと、じゃあ、忍者チームと白坂チームは二十三階から、俺と餅は三十階から進めるということで。なにか提案は? なければこれで」
*
かくして堂々とウソをつき、四十五階へ向かうことになったわけだけど。
俺は大きなキャンセラーをベルトで肩に担ぎながら、しょぼくれた餅に防護服を掴まれて、ゆっくりと上階を目指していた。
「妹じゃなくなっちゃった……」
もう髪も結ってもらえないから、彼女の髪はストレートだ。それも櫛さえ入れていないから、寝癖がついてしまっている。ドレスの胸元のボタンも掛け違えたまま。
「いまはしょうがない。少し時間をおいて仲直りしよう」
「うん……」
実際に自分の家族が落ち込んでいるみたいで、本当になんとかしてやりたくなる。以前なら、他人が困っていようが、そこまでのめり込むことはなかったのだが。
サイキック・ウェーブの影響を受けているのか、すれ違う感染者や変異種も哀しげな表情だ。彼らは基本的にフルオープンでいるから、少しの波でも感情を上書きされてしまう。
きっと俺たちが襲われないのは、戦いたくないという思いが伝わったからなんだろう。思いが伝わる、なんていうと聞こえはいいが。こちらの都合で感情の上書きするわけだから、人道的な行為ではなかろう。
三十階に到達。
計測器の示す値はレベル5。
もうもうたる湯気の中、缶詰のような発電機がやかましく稼働している。
水が蒸発しているということは、熱が発生しているということだ。その中心にはサイキウムがある。いったいどんな仕組みなのやら。
感情で熱を起こすなんて、まるで精神論だが。
サイキック・ウェーブの応用なんだろう。発することができて、受容することもできるとなると、エネルギーに換算することも可能というわけだ。ノーベル賞をとれそうな人物が、このビル内にいるんだろう。せめて死んでいなければいいが。
さて、ここからは未踏エリアだ。
三十一階。
見る限り、変異種しかいない。同じ顔をしたマネキンのような存在。進化した人類。ふらふら歩いているだけで、特になにもしていない。
俺たちを敵だと判断したら襲ってくるはずだが、特にそのような感じはない。
かつて住民が住んでいたらしい痕跡はある。使い古したダンボールや、ベニヤ板の壁もある。が、どれも湿気で朽ちているし、中には誰も住んでいない。いや、その住民が、いまここらをうろついている変異種になったのかもしれないが。
この調子なら、戦闘などせず四十五階まで行けそうか。
*
階段をあがるにつれ、レベルが急激にあがってきた。
三十二階でレベル6、三十四階でレベル7、三十六階でレベル8、三十八階でレベル9、四十階ではレベル10に達した。
政府から支給されたキャンセラーなら、この辺りが限界だったろう。
いや、キャンセラーを使っていても、脳をもみほぐされるようなぐわんぐわんとした圧力を感じる。二つの波が同じ強さでぶつかり合っているのだ。かかる負荷も二倍になっているはずだ。
さすがに思考がぼんやりしてきた。
餅も少し眠たそうな目だ。
四十一階。レベル11。
もはや変異種さえいない。
住民の痕跡もない。
だだっ広いコンクリートのフロアに、柱が並んでいるだけ。
四十二階。レベル12。
自分たちの足音が、どこか遠くの反響のように聞こえる。
四十三階。レベル13。
無機質なだけの景色。
四十四階。レベル14。
灰色。
四十五階。レベル15。
肉。
床も壁も天井も、まっしろな肉で覆われていた。
グロテスクではない。清潔で、ほのあたたかく、優しく包まれているような雰囲気。
中央には少女がひとり。
無気力そうな表情で、膝をかかえて座っている。
いや、座っているというよりは地面から生えている。彼女は一面に広がる肉の一部だった。
五代まゆ。
あるいは水槽の少女。
顔立ちは幼いが、その表情にはまったく子供らしさが残っていなかった。
活力の感じられない眼差し。
俺たちは歩を進めた。
踏みしめる床の肉は柔らかい。
彼女はまっすぐにこちらを見ている。
かすかに口を開くが、声を発しない。
「ご希望どおり、ここへ来た。次はどうすればいい?」
俺がそう尋ねると、彼女は小首をかしげた。
無言。
表情からはなにも読み取れない。
かと思うと、突如、彼女の体が真っ二つに裂けた。血液は飛散しない。内側は艶のある黒々とした肉だ。裂け目から、黒い芽がにょきりと伸びた。そこから触手のようなツタが伸び、ムチのようにしなって俺のキャンセラーを粉砕した。
悲鳴があがった。
驚いて振り向くと、餅がツタに絡め取られ、宙吊りにされていた。ただのツタではない。鋭い棘の生えた茨だ。上からは腕を拘束され、下からは足を拘束され、皮膚を棘に破られ流血していた。
「おい、どういうつもりだ? 対話したかったんじゃないのか?」
すると階段から、少女があがってきた。
プルートだ。
「しまいは……ころすと……いったでしょ……」
どっちが本体なんだ。
「彼女は関係ない! 離してくれ!」
「まずは……あしをもぐ……」
するとツタにぐっと力が入ったのが分かった。餅が金切り声をあげ、ブチブチブチと筋繊維の切れる音がした。足がちぎれ、血液が散った。傷口はみるみるふさがったが、餅は目に涙を浮かべ、口を開いて苦しそうに呼吸をしている。
本当に?
本気で殺すつもりなのか? 俺の目の前で?
「待て。やめろ。戦いに来たんじゃない。武器も捨てる」
俺はCz75を足元へ置き、そっと蹴り飛ばした。
プルートは無表情のまま、銃には興味も示さず、こちらを見ている。
「つぎは……どれがいい? あし? うで? あたまはさいご……」
「頼む。話を聞いてくれ。こんなことのために来たんじゃない」
対話したいというから来たのだ。
なぜこんなことをするのだ。
いや、俺がアマかったのかもしれない。相手は本気で怒っている。ちょっと相手をしてやれば、それでおさまるだろうと思っていた。ナメていたのだ。だからバカみたいに罠にかかった。
床に転がされた足は、なぜ切り離されたのか理解もできず、ただビクビクと痙攣している。
その足の周囲に、床の肉を突き破って小さな花が咲いた。しっとりとした黒い花弁の絡み合ったチューリップのような花。血液を吸って咲いた花だ。
悪夢のような光景だ。
いや、これは夢なのだ。絶対に。悪い夢だ。
さっきキャンセラーを壊されてから、ずっと映像を見せられているに違いない。
そうでなければおかしい。
「かおす……」
プルートがつぶやく。
またブチブチと音を立て、餅の腕が引きちぎられた。聞きたくない音。悲鳴。ビチャビチャと落ちる血液。捨てられた腕の周囲に黒い花が咲く。
餅は眼球を血走らせて、激痛に耐えている。
せっかくのドレスが台無しだ。
俺はただ、見ているだけ。
(続く)




