残留思念
慌てて部屋へ駆け込んだ。
すでに二人が挽き肉にされているのではないかと思うと、そう遠い距離でもないのに、ずいぶん走った気がした。
「え、なに?」
ベニヤ板のドアを開け放つと、鐘捲雛子が迷惑そうな顔でこちらを見た。
抱きしめられている餅もキョトンとしている。
「二人とも、無事か?」
「なにかあったの?」
「五代まゆを見た」
「……」
空気がピンと張り詰めた。
いきなり懐かしい名前を出されて困惑しているのだろう。マーズの爆発騒ぎがあったとき、鐘捲雛子も餅も別行動だった。五代まゆの姿を見たのは俺だけ。円陣薫子も気づいていないようだった。
俺はそっとドアを閉め、ダンボールの上に腰をおろした。
「五代まゆだ。あの子にそっくりな子が、このビルをうろついてる」
「本人じゃないよね?」
鐘捲雛子はさらにぎゅっと餅を抱きしめた。餅はなんとも言えない表情。
俺は呼吸を整え、こう応じた。
「たぶん違う。じつは十五階でマーズが死んだ。木っ端微塵になって。そのとき、彼女とすれ違ったんだ」
「その子がやったの?」
「分からない。ただ、さっきも通路でばったり会って、『女を殺す』って……。だから、まさかと思って急いで来たんだ」
「女? 誰だろう……」
あの殺し方は、間違いなくサイキック・ウェーブによるものだ。特定の個人を狙って身体を変異させ、破裂させる。研究所の地下にいたヤツと同じ手口だ。
それにしても、女とは誰だろう。
少女はプルートを名乗っていた。おそらくはマーズと同じ惑星であろう。クイーンが干渉した個体。その彼女が、あえて同胞を殺害した。となると次も同胞の可能性がある。心の波がどうだと言っていたから、次に狙われるのはネプチューンかもしれない。サイキック・ウェーブの消失した個体を殺害して回っているのだ。
いや、あくまで勝手な憶測だが。
この予想が外れたら、別の誰かが死ぬ。覚悟しておかなければ。
「ともかく、二人はできるだけ部屋の奥で寝てくれ。距離が空いてれば、少しは波を軽減できるかもしれない」
「あなたはどうなの?」
「次のターゲットは女なんだ。たぶん大丈夫だろう」
「分かった」
すると鐘捲雛子は立ち上がり、餅の肩をぽんぽん叩いた。
「じゃ、鞠ちゃん、寝る前に歯磨きしよう? 今日もお姉ちゃんが磨いてあげる」
「うん……」
餅は浮かない顔をしている。姉妹ごっこにうんざりしているのではあなく、五代まゆについて言いたいことがあるように見える。
俺も立ち上がった。
「護衛につく」
「お願い。私は自分でなんとかできるから、鞠ちゃんのことを守ってあげて」
「分かった」
キャンセラーも持っていったほうがいいだろう。俺はケースを拾い上げ、ベルトで肩に掛けた。あらかじめスイッチを入れておいて、もし近づかれたらフルパワーで稼働させる。
*
二人が女子トイレで歯を磨いている間、俺は通路で警戒していた。
腰のホルスターにはリロード済みのCz75。いざとなれば戦闘にだって応じられる。
「ほら、鞠ちゃん。お口あーんして」
「あーん」
「今日も可愛い歯だね。虫歯にならないように、お姉ちゃんが磨いてあげる」
「……」
そんなやり取りを聞きながら、俺は左右をキョロキョロした。
なんだか自分のほうが不審者のような気もするが。
だが、警戒はムダではなかった。
白い服を来た亡霊のような女が、裸足で近づいてきたのだ。
見知った顔。
例のネプチューンだ。
会話のできる距離まで接近したのに、彼女は無言だった。呆然としたような表情で、虚空を見つめている。
「子供ならまだ見つかってないけど」
「カオスは……突然やってくる……前触れもなく……」
「えっ?」
ついにおかしくなったのか?
彼女は眼球をぬるりと動かし、俺を見た。かすかに微笑している。しかし力ない笑みだ。
静かな口調で、彼女はこう続けた。
「子供……見つかりましたよ……あなたの……」
「俺の?」
「そして彼女は……孤独を許さない……」
顔がむくんだように見えた。かと思うと、にわかに風船のように膨らみ、手足をいびつにひしゃげさせて、ビシャッと水音を立てて弾け飛んだ。
血液や髄液などが混ざって飛散し、周囲にへばりつく。
人間の体臭を凝縮したようなにおい。
完全にミンチになるならまだしも、指のついたままの手の一部やら、歯のついた顎やらが転がっているのを見ると、本能的な嫌悪感を催してしまう。いまのいままで、ひとりの女性だったのに。
俺は顔面にこびりついた肉片を手で拭い、ブッとツバを吐いた。少し口に入ってしまった。
予想通り、狙われたのはネプチューンだった。
おそらくだが、ネプチューン自身も、なんらかのタイミングでこうなることを察したのだろう。あるいはプルート本人に告げられたのかもしれない。己の死を悟り、俺になにかを言いに来た。
俺の子供……。まさかプルートのことだろうか。冥王星。ハデス。死を司るもの。
だが、分からない。プルートは、なぜわざわざ能力を失ったものを殺すのだろうか。コスモスは嫌いだと言っていた。俺はてっきり花のことかと思っていたが、おそらくは整然のことを言っていたのだろう。だからネプチューンは混沌について語った。
そこにはなんらかの対立軸がある。
俺たちの知らない理由が。
トイレから鐘捲雛子が出てきた。姉の目ではない。
「来たの?」
「彼女ひとりだ。五代まゆは来てない」
「そう」
さすがに顔をしかめている。
俺は溜め息をついた。
「ちょっとシャワーを浴びたいんだけど、護衛を代わってもらえるかな?」
「そうして。ここで待ってるから」
まあ彼女としても、こんな状態のヤツと同じ部屋で寝るのはイヤだろう。歯磨きしたばかりなのに。
*
その後、惨状に気づいた住民たちが集まってきて、現場は騒然とした状態になった。
もちろん俺たちは構わず部屋へ戻った。
故マーキュリー宅で横になり、ただじっとベニヤ板を見つめた。
壁際では、鐘捲雛子と餅が小声でなにかヒソヒソ喋っている。姉妹間の秘密の会話といったところか。なにを言っているのかまでは分からないが。
*
いつの間にか眠りに落ちていた。
また夢の世界。
しかしいつもの花園ではない。
そこは夜の浜辺。海に沈みかけた巨大な月が、うっすらと世界を照らしている。吹き付ける風は、遠方から届く悲鳴のようにも聞こえる。
隣に座っているのは黒衣のプルート。いや、五代まゆ本人だろうか。あるいは……。
少女はこちらも見ずに告げた。
「きっと知りたいでしょう、なぜ命が奪われてしまったのか」
「教えてくれ」
ここは彼女の世界だ。なにを言うかは彼女の気分次第。俺は結末を受け入れるしかない。
「私は誰かとつながっていたいの。なのに、あの人たちは切断してしまった。それは拒絶。だから殺したの」
「少々ポエティックだな。もっとシンプルに説明してくれないと理解できない」
彼女はふっと笑った。
「彼女たちは私と対話しようとせず、心を閉じてしまった。だからムカついて殺したの」
「閉じた? みずからの意志で?」
「知らない。とにかく私を受け入れなかったから殺したの。それだけ。どう? 私って悪い子?」
挑発するような表情で、こちらへ笑みを向けてくる。
プルート本人ではなさそうだ。そして五代まゆは、こんなことを言う少女ではない。つまり俺の隣で笑みを浮かべている少女は、それ以外の存在ということになる。
「次は誰を殺すんだ?」
「誰でも。対話してくれないヤツはみんな殺すの」
「なぜ花園を攻撃するんだ?」
「ムカつくからよ。だってみんな幸せそうじゃない? 私だけ遠いところに飛ばされて、醜い姿のまま、ひとりで暗闇の中に浮かんでいるのに」
「暗闇? どこにいるんだ?」
すると彼女は、体を曲げてくつくつと笑った。
「きっと分からないよ。分かっても到達できない。私はひとり。だから、ひとりじゃないヤツを見ると殺したくなる。いっぱいいるから、ムカついた順番に、ひとりずつ殺すの」
「俺のことも?」
「正直、どうするか決めてない。もしずっと私と対話してくれるって約束できるなら、殺さないであげてもいいかなーって。でも、あの馴れ馴れしい姉妹は許さない。あなたの目の前で、できるだけ残酷な方法で殺そうと思ってる」
「餅のことか」
「あの子、ムカつくのよ。ちょくちょく私の邪魔してさ。だから痛い思いさせて、いっぱい苦しめてから殺すの」
やめろと言って納得するようなタイプではあるまい。妙な説得を試みるよりは、気分良く喋らせたほうがいいかもしれない。
「目的を教えてくれないか?」
「目的? なにそれ? 私は私の生きたいように生きてるだけ」
「みんなを進化させてる理由は?」
「世界はウソばっかりでしょ? だから、もう言葉なんて使わないで、思ってること全部共有しちゃえばいいって思って。だから進化させて、思考をむき出しにさせたの。そしたらあんなふうになっちゃって。でも、怒らないでね? 人間が悪いんだよ。あれが人間の本性なんだから。私はそれを暴いただけ」
同類を殺しまくるのが人間の本性だと?
確かにそういう側面はあるのかもしれないが、他にも欲求はあるだろうに。やはりなにか、悪意を植え付けられているとしか思えない。
彼女はこちらを見た。なにか、確認するような表情だ。
「あなた、いま気づいたでしょ?」
「なにを?」
「私がウソついたってこと。なのにそれを表に出さないで、気づかなかったフリしてる」
「ま、否定はしない」
すると彼女は過剰な笑みを浮かべ、ふっと顔を近づけてきた。
「私、そういうの嫌い。ウソの中でもいちばんムカつくヤツ」
幼い感情だ。いや、大人になっても残る感情だから、人間の根本なのかもしれない。自分だってウソをつくのに、他人のウソを許せない。
「君もウソをついただろう」
「私はいいの。ここは私の世界だし、私が支配してるんだから。でもあなたはダメ。私の気持ちに違反してる」
「殺すのか?」
「そうしたくなってきた。でも、そうしたらもったいないから、あなたの目の前で姉妹を殺して、あなたの哀しむ姿を見てから決めたい」
残忍としか言いようがない。ただ、それでも俺は真剣に受け止められなかった。あまり強烈な殺意を感じられなかったからだ。
彼女は、どうしても誰かを殺したいわけじゃない。
救われたいだけだ。
それができないから、代償行動として他者から奪っている。
重さに耐えきれず、傾いたままの天秤だ。
「君とは戦うことになりそうだな」
「……」
不服そうな顔。
そうだろう。
彼女にしてみれば、そもそも対話可能だと思ったからここへ俺を呼んだのに、宣戦布告された格好になっている。
俺はこう続けた。
「とはいえ、そんなことは俺も望まないし、そうならないよう努力するつもりでいる。ただ、うまくやるには君の協力も必要だ」
「私……」
「具体的にどうすべきかは、まだ分からないけれど。こうして話し合っていれば、そのうち解決策が見つかるかもしれない。だから結論を急ぐ必要はない」
だがこの提案はお気に召さなかったらしい。
彼女はつまらなそうに、視線を海へ投げた。
「対話するフリ。みんなそう。フリだけ。深く交わらない。孤独。私、お月さまみたいよ。ひとりでぐるぐる地球を回ってる。手を伸ばしても誰にも届かない」
「衛星、か……」
理解した。
暗闇の中にいる。そして月のような軌道。
彼女の心の中心は、ビルの四十五階にあるんじゃない。そのさらに先。宇宙だ。衛星として地球の外側を周回している。
以前、波を打ってくる衛星があった。アメリカが使っていたものだ。
おそらく中には、精神を受容する器としての肉が詰め込まれている。彼女はそこに取り込まれたか、あるいは自分から入り込んだか、そのどちらかなのだろう。
彼女は不快そうにこちらを見た。
「また正解に到達した。私の心を読んでるみたい」
「断片から全体を組み立てるのが好きでね。悪気はない。元プログラマーの条件反射みたいなものだ」
「プログラマー?」
「睡眠時間を削ってパソコンばっかいじってるヤツをそう呼ぶんだ。君がなにか喋れば、そこから正解に近づいていく」
「あなたとはもう対話しない」
ふてくされた子供のような顔になった。
しかし不快じゃない。素直な感情を出してくれた気がして、少しほっとした。
*
夢を追い出された俺は、そのままの勢いで目を覚ました。
ベニヤ板の壁は天井までピタリと閉じているわけではないから、通路からの明かりがうっすら入ってくる。おかげで室内も暗闇にならずに済む。
横を見ると、鐘捲雛子も餅も、安らかな顔で眠っていた。死んではないない。悪夢も見ていないようだ。
俺はリラックスして、ぼうと天井を見つめた。
コンクリートに張り付くケーブルやダクトは、ビルという巨大生物の血管のようだ。となると俺たちは、その内側に巣食う微生物ということになるか。
破裂したネプチューンの死体はどうなるのだろう。
小動物が食うか、あるいは下水道へ流されるのかもしれない。
あまりに無残な終わり方だ。
彼女は鬱陶しかったが、悪人ではなかった。クイーンとの対話が続けられなくなったばかりに、殺されてしまった。
クイーンは誤解しているようだが、彼女たちはみずから心を閉ざしたのではない。なんらかの理由で機能を喪失してしまっただけだ。
ここから分かることは、彼女たちにフェストを感染させたのはクイーンだが、機能を喪失させたのは別の人物ということだ。あるいは免疫のようなもので自動的に喪失したか。
人体は、DNAにない情報を体内から除去しようとする。だから身体が、サイキック・ウェーブによる変異をイレギュラーと判断してもおかしくはない。
もしそうなら、俺の身にも同じことが起こりうるだろう。
後天的な進化など、やはり無理があったのだ。世界がそれを必要とするまで、待つ必要があった。流れに委ねるべきだった。
専門家の意見とは異なるかもしれないが。
たしかに、歴史を見れば、人類はこういう無茶をしながら進歩してきた。たぶん今回の件もそういうことなんだろう。しかしそれにしては、犠牲が大きすぎる。
五代まゆは死んだ。
死してなお複製されたクローンが、数々の実験にさらされた。地中に埋められた怨念が、こうして表出するのも当然だ。
俺はクイーンを責める気になれない。
(続く)




