一話 十七歳でアグレッシブ通り魔に出会う
いつも通りの朝だった。
いつも通りの時間に起きて、日課であるランニングと竹刀の素振りを行い、シャワーを浴びてリビングに戻れば、キッチンからフライパンで何かを焼く音とか、リズミカルな包丁の音とか、そういうのが聞こえる。
「………おはよ」
「うん、おはよー」
キッチンで朝食の支度をする妹に挨拶する。
妹はこちらを見ないが、これもいつも通りだ。
兄妹の関係など割と淡白なもので、創作の中によく居る兄に迫る妹とか、ヒロインに敵意剥き出しの妹とか、そんなものは存在しない。因みに俺にヒロインと呼べる女子は居ない。世知辛い。
父と母が起きてきて、家族揃って朝食を頂く。
『―-区――-町で―-事件がが多発しています。―-が同じことから連続――-として――-』
「隣町だ、物騒だなぁ」
「二人共、気をつけなさいね」
「うん、一応気をつける」
三人の会話を聞きながら、黙々と箸を動かす。
母の視線がこちらに向けられたのを感じたが、気付かないフリをした。
ささっと朝食を胃袋に収めて、席を立つ。
食器を重ねて持ち上げたところで、母がもう一度俺を見た。
「颯斗、気をつけるのよ」
「………あー、うん」
その場凌ぎの返事だ。
母と目を合わせないように努めて、食器をある程度片付けてから足早にリビングを突っ切る。
ソファに立てかけてあった竹刀ケースと通学カバンも忘れずに肩に引っ掛けた。
「………颯斗」
リビングを出る直前、母が俺の名前を呼んだ。
声にどんな感情が含まれているのか、俺は知らない。
分からない。もしかしたら、分かろうとしていないだけかもしれない。
「いってらっしゃい」
「………うん」
いってきます。そう言えばいいのに。
しかし俺の口は鉛のように重いと感じられて、二文字の愛想の欠片も無い返事しか出せなかった。
なんだか体も重くなったように感じながら、家を出る。
思えば、いってきますを言わなくて良かったと思う。
だって、俺がそれを言ったら――-。
俺は嘘をついたことになったから。
今、この瞬間に思うことでは無いと思うけど。
▼
いつも通り学校で過ごして、放課後を迎える。
「緋翠、今日部活休みだって」
「ん、了解」
クラスメイトに返事して、通学カバンを肩にかける。
竹刀ケースも掴んだところで、軽く肩を叩かれた。
「はやと!」
「颯斗、一緒に帰ろうぜ」
振り返ると、人好きのする笑みを浮かべた短髪の男子と、茶髪を肩口で切れ揃えた女子が立っていた。
男子が鼓、女子が深琴だ。
二人共俺の幼馴染だ。小さい頃から、何があっても離れないでいれくれた。
「はやと、部活ないんでしょ?」
「うん。今日は休み」
「じゃあいいよな、帰りにどこか寄ってくか?」
「えー、でも最近ぶっそーだってお母さん言ってたよ?」
「隣町の話だろ、暗くなる前に帰れば大丈夫だって」
二人と一緒に校門を出て、帰路につく。
今日の先生の書き間違いが酷かったとか、相変わらず達筆過ぎて読めないとか、二人の会話を聞きながら、一歩引いたところを歩く。
度々鼓がこちらを向いて同意を求めてきたり、深琴がそれに拗ねたりしながらいつもの道を歩く。
住宅街に入り、人通りも少なくなった頃、前方から一人歩いてくる。
ふと気になって注視してしまう。あまり人をじろじろ見るのは良くないのだが、どうしてもその人が気になった。黒いパーカーに、長い黒髪、黒のスキニーパンツ。
顔は俯いていて見えない。両手をパーカーのポケットに突っ込んだまま、俺たちとすれ違う。
すれ違う。そう思ったのに。
横目でその人が見えなくなるまで追おうとしていた俺は気づいた。
パーカーのポケットから半分ほど出した手。
その手に、キラリと光る刃物が握られていた。
「っ………、」
思わず足を止め、息を呑む。
不審に思ったのか、鼓と深琴が足を止めてこちらを振り返った。
「颯斗? どうした?」
鼓の声にハッとする。気付かないフリだ。気付かないフリをしよう。
「いや、なんでも――-」
「はやと!!」
深琴が叫んだ。目を見開いて、俺――-ではなく、俺の後ろを見ている。
振り返れば、そいつはこちらに体を向け、ナイフを振りかぶっていた。
「………っ!!」
反射的に、体を横にずらす。
俺が居た場所をナイフが通り、すうっと心臓の辺りが寒くなる。
背中を冷たい汗が流れ、寒気が撫でる。
相手のパーカーのフードが外れ、顔が顕になった。
女性だ。顔にある真っ赤な入れ墨が強く印象に残る。
………花? なんの花だ?
何かの花がモチーフの入れ墨。だが生憎花には詳しくない。
女の目がこちらを向き、それから鼓と深琴を見た。
ナイフがキラリと光る。
「二人共、逃げろ!」
女が二人に走ると同時に、俺も地面を蹴る。
通学カバンを捨て、竹刀ケースを肩から外した。
………速い。
深琴の悲鳴が聞こえる。視界の端で、鼓が深琴の肩を守るように抱くのが見えた。
竹刀ケースを女と二人の間に入れる。直後、ビリビリとした衝撃が腕に伝わって目を剥いた。
………つよっ!?
どう考えても女性が持つパワーじゃない。
ナイフを受け止めたことで、竹刀ケースの表面が破れる。
………母になんと言えば。
明らかに今この場で考えることではない。
「はやと!」
「深琴、下がれ!」
「で、でもはやとが、」
「このままじゃアイツが棒振れないんだよ!」
深琴の手を引っ張って、鼓が俺たちから距離を取る。
そのまま警察に連絡してくれれば最高だ。あと棒じゃなくて竹刀だ。
二人が居なくなったので、思い切り体を捻る。
足で地面を掴み、竹刀ケースを女の方に押し込んだ。
「っ、」
女が数歩後ろに下がる。その隙に竹刀ケースから竹刀を取り出す。
生憎実戦は初めてじゃない。初めてじゃないなら、初回より幾分か冷静だ。
一度空気を斬ってから、竹刀を構える。
背後から、鼓が警察に連絡を入れる声が聞こえた。よし、グッジョブ鼓。
「くふ、くふふ………」
構えを取った俺の耳に、女性の笑い声が届いた。
その声に恐怖を煽られているような気がして、唇を噛む。
途端、目の前の女性が消えた。
「っ!?」
瞬間、誰かに前から体を押される感覚。
誰かじゃない。俺の前に居たのは一人しか居なかった。
横腹のところが熱い。深琴の悲鳴が耳を刺して、頭に反響する。
鼓の俺を呼ぶ声が掠れて。
俺は視線を下に移した。
黒髪の女性。赤い入れ墨が生きているように蠢いて見える。
そして、俺の体にナイフを突き入れる白い手。
――-俺の腹から、ナイフの柄が生えている。
それを理解すると、やけに心臓の音が気になってくる。
女のニヤついた笑みが、頭に焼き付いた。
足から力が抜けて、その場に両膝をつく。
女が俺から離れ、倒れそうになるのを竹刀を杖にして止める。
見ると、ナイフは俺の腹から抜かれ、赤い液体が制服から溢れている。
「っ、はっ、く、ぁ」
熱い。というか今のなんだ、見えなかった。
そうだ、女はどこに、くっそ痛い、っていうか熱い。
霞む視界で女を探す。横を黒い風が通り過ぎるのを見て、内心毒づく。
「っ、つづ、……こ、と」
二人が殺される。
熱い腹と震える体、唯一わかる事実は俺が刺されたことと、このままでは二人が殺されること。
汗が止まらない、寒い、熱い、どっちだ。
助けなきゃ。二人は俺の大事な――-。
「くっそぉぉぉぉぉ、!」
「っ!?」
動いた。自分でも驚きだが、体が動いた。
全力で地面を蹴り、竹刀を振る。視界が霞んでよく見えない。
体が自分のものじゃないように感じて気持ちが悪い。
腕に確かな手応えを感じる。女のうめき声が微かに聞こえる。
慣れ親しんだ二つの声が、俺を呼んだ。
体から力が抜ける。竹刀を振った方向へ、体が傾いていく。
「はやとっ」
「颯斗!」
誰かに体を受け止められた。
硬い腕だ。………鼓か。
鼓が俺の体の向きを丁寧に変えると、歪む視界に鼓の顔が映った。
端に深琴のくしゃくしゃに歪んだ顔も見える。
「あい、つは………」
「わ、わかんないけど、どこかに行った、よ」
「そっか………」
良かった。二人は無事か。
「今救急車呼んだから! すぐ来るからね!」
「意識飛ばすなよ、くっそ止血ってどうすんだよ!」
腹に出来た傷を押さえる。痛いというより熱い、でも寒い。訳が分からない。
鼓の手が俺の手に重なった。止血のつもりかよ馬鹿か。
深琴が泣いている。俺の顔に涙が落ちてきた。少し暖かく感じる。
「おい颯斗、起きてるか!?」
「ん、起き、てる、」
「待って颯斗、目閉じようとしてるでしょっ!」
してないしてない。閉じようとはしてないです。
ただ勝手に瞼が落ちてくるだけで。あー、口もきけなくなってきた。
「つ、づみ…みこ、と」
「なんだ、どうした」
「なに? あ、でもあんまりしゃべんない方がいいかも」
深琴の心配に、笑えてくる。なんだ俺、まだ余裕か。
寒い。深琴の手が、俺の肩に触れた。
「はやと?」
「っ………、颯斗?」
掠れた、空気を多分に含んだ声しか出ない。
それでも二人は一生懸命聞き取ろうとしてくれているらしい。
俺が独りになろうとしたときも、手を取って引き止めてくれた二人は優しい。
今だって、必死に俺の意識を、命を繋ぎ止めようとしてくれている。
本当に、二人には感謝しかない。
だから、お礼を言わないといけない。
ありがとうと、言わないと。
俺、一人は好きだけど、独りは怖かったから。
だから、ありがとうと言わないと。
それなのに。こんなときでも俺の口は重かった。
わかったも、いってきますも、ありがとうも、肝心なときに言えない俺の口は役立たずだ。
ああでも、いってきますは言わなくて良かったかもしれない。
母と交わした最後の言葉が、嘘にならなくて良かった。
眠い。今眠ったら快眠できそうだ。
ああ、でもそうしたら二人は泣くのだろうか。
俺なんかのために泣いてくれる二人は、やっぱり優しい。
だから、ありがとう。言えなかったけれど。
ここで、俺の意識は途切れる。
はじめまして。これからよろしくお願いします。
キーワード迷いました。まだ迷ってます。
果たして転生なのか転移なのか………。