5.Alice in Wonder Underground
とある休日の昼間。
廃車両の椅子に隣同士並んで、俺とフジノは座っていた。
世間では秋も深まり、冬と呼べそうな季節になってきている。
ろくな暖房設備もなく、なんなら窓ガラスが割られているため外と変わらないようなこの廃車両だが、不思議と寒さはそこまででもない。
今日という日は、風もなく天気も良い、温かな日和だった。
そんな中、フジノは、俺の隣に座ってさっきから黙々と漫画を読んでいる。
こいつが漫画を読む人種だというのを、俺は出会った初日から会話を通じて知っていたが、実際に読んでいる姿を見たのは今日が初めてだった。
フジノ自体が漫画の登場人物みたいなヤツなので、そういうヤツが漫画を読んでいる、というのは、なんとも不思議な状態のようにも思える。
俺は特に何をするでもなく、椅子に座ってぼんやりと窓の外の景色などを眺めていた。
「…………」
澄んだ空気。鳥の声。
そうした物に浸るようにしているのは、我ながら老け込んだ感覚だとは思うが、悪くない気分だ。
――てゆうか、やっぱ距離近いなよぁ……こいつ……。
気付けば俺はまたそんな余計なことを考えている。
廃車両の椅子は広いのだから、別に隣り合って座る必要なんてないのだが。
会話にせよ何にせよ、フジノは距離が近い事が多い。
適切な距離感というか、パーソナルスペースみたいなものって誰しもあると思うのだが、フジノは常々そういうものが気にならない――気にしないような雰囲気がある。
「留美、なにをぼんやりしているの?」
俺の思考を察したように、漫画を読んでいたフジノから声がかかる。視線は紙面に向いたままだが。
「あ、いや……」
咄嗟に上手い返しをしたりできない俺は、そんな風に曖昧な事を言う。
「何か考え事でも?」
「いや、別にそういうんでもねぇけど……」
「自分では気づいていないと思うけれど、今の留美、動物園のカバみたいな顔をしているわよ?」
「そこまで何も考えてなさそうな顔してねぇよ!」
俺の顔を見もせずに、漫画を読む手は休めないままそんなことを言う。
言いがかりにも程がある。
「おいしい食べ物の空想でも繰り広げていたのかしら?」
「物食ってる時の俺って、そんなアホみたいな顔してんの!?」
「ええ。とても」
「悪かったなアホで!」
フジノは冷静な口調で結構話を誇張したり、無意味に面白おかしくしたりする。
俺にありもしない勝手な設定を付与するのが最近こいつのよくやる遊びだ。
前に面倒臭がって言い返さずにいたら、それを前提に散々無茶振りをされてからかわれたので、俺はしっかりとツッコミを入れ返さなければならない。
「留美ったら今日も元気が良いのね。カバ呼ばわりされたことを怒っているの?」
「食いしん坊呼ばわりされたこともな!」
「ふふ、留美が退屈そうにしていたから、ちょっと声をかけてみたくて」
「いや、退屈っつーか……」
フジノが漫画を読んでいたから、それを止めさせてまで何かをする気にならなかっただけだ。
……それって、退屈してたってことになるのか?
「ごめんなさい、漫画が面白いものだから、つい」
「あぁ、そんなの気にすんなよ。漫画って途中で読むのやめると落ち着かないもんな。一冊まるごと読み切りたいっつーか」
「わかっているわね。さすがだわ、留美」
何故か褒められる。
そうこうしつつ、フジノは漫画を読み終えたらしく、パタンと閉じて膝の上に置いた。
俺は、こいつが何を読んでいるのか気になって、チラリとその表紙を見てしまう。
「それにしても『ネギま!』は相変わらず面白いわ」
しみじみつぶやくフジノに、俺は思わず吹き出す。
こいつが漫画を読むというのも意外だったが、ラブコメ好きなんて予想外すぎる。
「留美は漫画やゲームが好きな子だったはずだわ」
「なんだその断定口調は……?」
「前に好きな漫画の話はしたから、今日は留美がどんなゲームが好きなのかを聞かせて」
「どんなって、唐突だな……」
なんだか不自然な話題運びのように感じられる。
聞きたいことを聞き出すために、強引に話を持っていっているかのような。
――まぁ、フジノって大体そんなだけど……。
「まぁ、やっぱロープレかな。他にもやらないわけじゃないけど」
「RPGと言っても色々あるけれど、好きな作品はあるのかしら?」
「『スタオー』とか、『テイルズ』とか……」
「『ヴァルキリープロファイル』とか?」
「……とかかな」
どうもこいつの口から特定の作品名が出されるのって、違和感があるんだよなぁ。
「素敵。やっぱり私と一緒だわ。留美とは趣味が合いそうね」
「そりゃ、どうも……」
「戦闘に疾走感があるのが良いわね」
「アイテム開発とか、モンスター図鑑とか、システム的なやりこみ要素もいいよな」
「私は大魔法ではカルネージアンセムが好きよ」
「……VPの話か?つーかいきなりコアなネタ突いてくるな。俺はペトロディスラプションが好きだ」
楽しげに、そんなやり取りをする俺たち。
こうして話していると、フジノも普通に漫画読んだりゲームで遊んだりする普通の子なのかなぁ、と思えてくる。
いや、別にそれでいいのだが。
けど、なんというか、こいつはそういう俗っぽい……と言うとちょっと違うが、そういうのとは切り離された存在のように俺はやっぱり感じていて。
「他には?別にゲームじゃなくて漫画の話でもいいわ」
「んー……。元は漫画じゃないけど『禁書目録』とか好きだ」
「留美はライトノベルも読むのね」
「うん。まぁ……それなりには」
「良い選択をしているわ」
「……もしかしておまえって、ああいう呪文の詠唱とかあんの好き?」
「ええ」
「やっぱな……。さてはおまえ、『ネギま!』もバトルシーン目当てで読んでるな」
「さて、それはどうかしら?」
「……なんで意味深に濁すよ?」
そんなフジノが、どうしてこんな会話をしているのか。
俺は、違和感を覚えつつも、その理由についてまで考えが至っていなかった。
自分の学校も、家族構成も、年齢も、苗字さえも、そういう日常的な事柄を全く話題にしないこいつが、どうして俺の好きな漫画やゲームなどに関しては、こうまで話題にしたがるのか。
俺とこいつの漫画やゲームの趣味が一致していたとして、だからなんだっていうのか。
「おまえが前に言ってた好きな漫画も、そういう感じなの?」
「どの漫画のことかしら?」
「いや、あの、バスに乗ってた時に言ってた……名前忘れちゃったけど……」
「私の一番好きな作家の漫画ね」
フジノの一番好きな作家。
確か、名前は――、
「動物園ひかる」
「あぁ、そうそう。それ」
「留美は全く読んだことがないのね?」
「ん?まぁ……」
「それは良かった」
「はぁ?なにがよかったんだよ?」
「知らないのなら、私が一から教えてあげられるもの」
「……」
「そのうち、何冊か厳選して貸してあげるわ。
――だからそれまで、勝手に読んだりしては駄目よ」
フジノのその言葉には何か、釘を刺すような響きがあった。
5.Alice in Wonder Underground
別に公言するようなことじゃないから敢えて自分から言ったりはしないが、俺は漫画やゲームが好きだ。
人並みあるいはそれ以上に。
フジノもそうなのかもしれないとは、割と以前から思っていた。
それは、出会ってすぐに漫画の話をしたからというだけではなく、こいつが何気なく口にする言葉に、時々すごくそういう匂いを感じるからだ。
冒険、決闘、城、アイテム……更には乗り物への命名とくる。
だから、フジノも漫画やゲームが人並み以上に好きで、俺が自分と同程度に好きかどうかを知りたがるのは、別におかしな話ではないのかもしれない。
そして、そういう趣味嗜好に駆り立てられて、フジノのああした言葉や行動があるとしたら。
改めて冷静に考えれば、それはとても自然なことのような気がした。
好きだから、楽しそうだから、自分でやってみようということなのだから。
俺はフジノの後について歩いていく。
廃車両を出て歩くこと数分。重厚な設備が並ぶ工場の区画に入ったところでフジノは足を止めた。
「今日は記念すべき日だわ、留美。私たちの大冒険が始まる、最初の一日だもの」
肩幅に足を開くように立って、フジノは腕組みをする。
何かを始める時、こいつがよくするポーズのひとつだ。
「なんの前置きもなくいきなり冒険開始って、いくらなんでも唐突すぎじゃねぇか?」
「留美は運命的な冒険のきっかけをただ待っているつもりだったのかしら? 世界は私たちに合わせて動いてはくれないのよ」
「まぁ、それはいいとしても……」
フジノの持って回った言いぶりはともかく、俺はおそらくこいつが今から踏み入ろうとしている建物を“見上げた”。
「……俺たち、あんなのに登るのかよ……?」
そこには何のための施設なのか、高層ビルもかくやという巨大な建物があった。
筒状の巨大な装置を取り囲むようにして、張り巡らされたパイプライン。むき出しの外階段。
建物と機械が一体化したかのような異様な外観をしているそれは、見上げれば首が痛くなるほどに、……高い。
「あの建物はこの廃工場で一番背の高い建物なの。今から日没までに、あれの頂上まで登るわ。それこそが、ブラックパレード最初のダンジョン攻略作戦――、
――題して、“フライ・ハイ”。感じるがまま、空に近いその場所で。どう?単純明快でしょ?」
決めポーズの後に、空高くを指差すフジノ。
立ち向かう困難を楽しむ余裕さえ感じさせて。
「……おまえそれ毎回言うけど、ひょっとして決めゼリフなのか?」
俺のそんな無粋なツッコミを黙殺して、フジノはつかつかと入り口へ向かって歩いていった。
改めて、目前にそびえるその建物を見上げる。
……高い。
高いだけならまだいいのだが、どうやって登るのかもよくわからない。
あのむき出しの外階段を伝って上に登るなんて考えたくもないが、どう考えてもそうなのだろうとしか俺には思えなかった。
……せめて高所恐怖症かどうかぐらい、事前に確認して欲しい。
★ ★
「留美、これを使って」
「ん?」
手近な入り口から侵入するのに際して、俺はフジノからなにかを手渡された。
厚手の、白い布製の手袋――軍手だ。
「なんだこれ?秘密の七つ道具のひとつか?」
「何を言っているの?これは軍手よ。初めて見たの?」
「違う!別に俺は軍手を見たことなくて聞いたわけじゃない!」
「そう。それは良かったわ。留美も軍手ぐらい知っているわよね」
「バカにしやがって!」
俺がせっかく合わせようとしてやったのにあんまりな言い草だった。
「もう、怒らないで留美。それと安心して。秘密の七つ道具はこんな単純なものではないから」
「……」
そういうことでもなくてさ。
俺は、なんで軍手なんか着けさせんのかを聞きたかったんだが。
しかし、建物の中に入り、俺は言われるまでもなくその理由を理解する。
そこは大きな空間だった。
広間のような、体育館のような、高い天井で柱のない構造をしている。
壁には何本ものパイプが伝っていて、目で追っていくと天井に張り巡らされたやたら大きくて太いパイプに繋がっていた。そのうちいくつかは壊れたり折れたりしていて、地面に落下してしまっているものもある。
普通の家や、学校とかとも違う、工場特有の奇妙な光景だった。
建物は総じてボロボロになっていて、天井や壁が剥がれて、辺りはトタンや木材などが床に散乱していて足の踏み場もない。
頑強そうな鉄骨やコンクリートを伝っていけば奥には進めそうだが、崩れるがままになっているそれらを素手で触っていくのは、危なそうだ。
――こりゃ確かに、軍手ぐらいしないと、手をついたりもできねぇな。
これは最早、登山や崖登りと同じだ。違いがあるとすれば、自然の岩か人工物かの違いくらいで。
それはそれとして――、
「なぁ、入り口はここでいいのか? さっきの建物からは結構離れてるぞ」
そもそも、周りに階段があったはずだ。
ただ登るだけならそれを使えばいいだけのような気がする。
「あの階段は朽ちてしまっていて危ないから、なるべく使いたくないのよ。でもここは、さっきの建物と渡り廊下のような形で繋がっているから、途中までならこちらから上を目指すことができるわ」
「なんかずいぶん仕組みに詳しいんだな……」
「この間、留美が来なかった日に、私一人で下見をしておいたの」
「下見って……」
遠足かよ。
冒険の下見なんて聞いたことがない。
「安心して。一人先んじて頂上まで行くなんて野暮なことはしていないから。実際にここから上を目指すのは今日が最初よ」
「いや、そういう話してんじゃなくてさ……」
「一流の冒険者は事前調査を欠かさないものよ。留美が知っている物語の主人公たちだって、無策で危険に飛び込んだりなんてしていないはずだわ。描かれないだけで、彼等も陰で努力しているのよ」
「そりゃ、そうかもしんないけど……」
そうなのだが、それなら何も俺がいない時に敢えてやったりしなくてもいいのに。
俺だけがフジノが言うところの陰の努力を免除されている感じがするから、遠足に連れて行かれる子供のような気分が拭えないのだ。
――その日に顔出さなかった、俺が悪いのかもしんないけどさ……。
俺が廃車両を訪れるのは隔日ペースだが、フジノはどうも毎日来ているらしい。俺不在の暇な時間を、こいつはそうやって冒険の下見などをして過ごしているのだ。
だとすると、俺はそういう面白そうな機会を逃しているということになるな――。
「見て、留美」
フジノの言葉が俺の思考を打ち切る。
何か見つけたのか、フジノは軽やかに瓦礫を乗り越えていった先で立ち止まり、そこにあるものを俺に示した。
「素敵なドラム缶だわ」
「はぁ……?」
「形も大きさも申し分ないわ。なんて幸運なのかしら」
そこには、人間一人がすっぽり入れそうな、古錆びたドラム缶が置いてあった。
それ自体はいかにも工場にありそうなモノだが、だからといってどうしてフジノがそれに喜ぶのか理解できずに俺は困惑する。
「反応が薄いわね。留美はドラム缶に嫌な思い出でもあるのかしら?」
「いや、いやいや、そうじゃなくって!喜ぶポイントおかしいだろ!」
「私、ちょうどこんなドラム缶が欲しかったのよ」
「なんでそんなドラム缶にこだわってんだよ!おまえはドラム缶愛好家かなんかか!?」
ツッコミながらも促されるままにドラム缶を検分させられる俺。
錆び付いてはいるが、穴などは空いていない。
中身は空っぽだ。元々はオイルか何かでも入れられていたのだろうか。
周囲には他にもメンテナンスオイルのラベルが貼られた一斗缶なども転がっていて、この工場が稼働していた頃の有様を思わせる。
……で、だからなんなんだ?
俺はフジノが「このまま担いでいきましょう」とか言い出すのかと危惧したが、さすがにそんなことはなく、しかして最後まで意味不明なままドラム缶の話題は一旦終わった。
「で?これからどうすんだ?」
「上を目指して進みましょう。あそこから目的地へと進めそうだわ」
フジノが指差した先――壁沿いに構築された中二階のような場所に、どこかへ続く通路の入り口が見える。
しかしどうやってあそこまで登るのか?
中二階へ続く階段は、どれも使い物にならない感じだ。元々あまり頑丈な造りではなかったのかもしれない。
「ほら、留美」
周囲を見渡す俺の視線が、フジノが続いて指差したその地点で止まる。
……目に入っていなかったわけじゃない。この空間に入ったその時から目に入っていた。
天井に通っていたやたら大きなパイプ――そのうちの一つが真ん中で折れて、地面に落ちている。ちょうど、地上と中二階を繋ぐような形で……。
「ロータリーキルンというの。あれを通って、上に登れるのよ」
「あのパイプの中を通って?マジかよ……?
「そんなこと、伊達や酔狂で口にすると思って? 安心なさい。中に残った樹脂が固まって、足場になってくれているから」
俺は言われて、倒れたパイプを覗き込む。
中には確かにセメントのようなものが固まって、でこぼこ道みたいになっている。
パイプの角度はそこまで急ではない。これを伝っていけば、なんとか登っていけそうではある。
ではあるが……、
「……」
「留美はひょっとして、暗いところが恐いのかしら?」
「……そんなことねぇけど」
「安心して、見たところいろんなところに穴が空いているようだから、中はそれほど暗くないわ」
暗いとか狭いとか、俺が躊躇する理由がそんなことしか思いつかないのだろうかこいつは。
ボロボロに朽ちて天井から落ちてきて、偶然地上と中二階を橋渡ししているこのパイプ。
そんな絶妙なバランスの状況下に踏み入って、果たして無事で済むのか?
結局フジノはそのまままるで気にしない様子でパイプに入り込んでいってしまったので、俺もおっかなびっくり後に続く。
当初の見立て通り、でこぼこを掴んでよじ登っていくのはそんなに難しくないし、ヒビ割れから光が差し込む内側は先が見通せないほど暗くもない。
「結構しっかりした造りっぽいな……。こんなのが真ん中からポッキリ折れるなんて、何があったんだ?」
「そうね、理由は色々考えられるけれど……、大きな地震か何かが起きて壊れたか、もしくは自重に耐え切れず老朽化と共に少しずつ歪んでいったのかも」
「ふーん……」
「言っておいて何だけれど、後者だと危ないわね」
「え?」
その言葉に応えるかのように、パイプがガクンと揺れた。
バランスを崩した俺たちが手をつくと、それだけであちこちがギシギシと軋む。
「おいおい!大丈夫なのかこれ!?」
「全く……悪い予想ほどよく当たるものね。最早私たちの重さにすら耐えられないようよ」
「ヤバイだろそれ!冷静に分析してる場合か!?」
言いながら、パイプはメリメリと歪んでいき、傾斜も徐々に急になっていっている感じがあった。
「落ちる前に登りきりましょう。崩落に巻き込まれたら怪我をするわ」
「怪我って……それで済むような状況かよ!?」
軋む音はどんどん大きくなる。
フジノはいつもの調子のまま、行動は素早い。パイプ内で立ち上がり、そのまま軽やかに駆け上り始めた。
慌てて後に続く。この状況で同じように駆け上がれるような身体能力のない俺は、動物みたいに四つん這いで進むしかない。
出口の光を目指して、一心不乱にじたばたと進む。
先んじてパイプを出たフジノに手を引かれて、俺もどうにかパイプを通過した。
犬みたいな体勢のまま全力ダッシュででこぼこ道を登るというわけのわからない運動の結果、俺は無様に息を切らして、よろよろと中二階の地面にへたり込む。
すると、背後からズーン!という轟音が響き、衝撃に建物がビリビリと揺れた。
振り返る。
さっきまで中をよじ登ってきていたパイプが遂に崩落し、大きな音を立てて一階に落下していた。巨大なパイプに周囲の瓦礫が吹き飛ばされ、砂埃を舞わせる。
「…………」
ちょっとでも抜け出すのが遅れていたら、俺はあの災害じみた崩壊の中に巻き込まれていただろう。
鉄骨やコンクリートさえ押し潰す衝撃。人間が無事でいられるものか。
「危ないところだったわね」
「しれっと言うような危なさと違うわー!殺す気か!」
遅れてやってくる恐怖心に言葉を失いかけた俺だったが、フジノがあまりに普段どおりの調子で言うものだから、思わずツッコミを入れてしまう。
無茶苦茶だ!
今更ながら、俺は背中に嫌な汗をじっとりとかきながら、酷使した手足に疲労を感じている。
「……って、今度は何してんだおまえ?」
フジノは一本のロープを取り出し、たった今崩落したパイプがあった場所から下に垂らした。
そして、手に持った方の末端を、手近の丈夫そうな柱にくくりつける。
「これでいいわ。帰りはこれを使って降りましょう」
「いやいや!だからなんでそんな冷静なんだよおまえは!?俺たちあやうく死にかけたんだぞ!」
動揺する俺の反応に、フジノは全く動かされるそぶりがない。
淡々と、今しがたあったことなどもう忘れたかのように。
「あなたこそ少し落ち着きなさい留美。これくらいの危険、冒険にはつきものでしょう」
「……」
またしれっと、嗜めるような口調で言われて、俺は黙るしかない。
――おいおい大丈夫か、こんなヤツについていっちゃって……。
今更ながら俺は不安になる。
とことん付き合うと決めておきながら、支えになろうと決めておきながら、こんなことを思うのは本当にどうかと思うのだが、フジノの冒険はのっけから俺が想定している危険度をはるかに超えている気がしてならない。
――ビビるさ……そりゃあ……。
軽い気持ちだったつもりはないが、そうだったと言われても仕方のない有様だ。
中二階に開いていた通路に入ると、小さな部屋があった。
よくわからない装置がいっぱいあって、その先にまた更に奥へ続くドアがある。
むき出しの鉄板で作られた床は穴がいくつもあいていて、気をつけて歩かなければ危なそうだ。
「あら」
と、そこで何かに気付いたようなフジノ。嬉しそうに駆け出していく。
「おい!走ると危ないぞ!」
「留美はそこで待っていて」
俺の心配もよそに、軽やかなジャンプでテンポよく亀裂を飛び越えていくフジノ。
壁際の機械装置のすぐ近くにあった棚から、何かを取り出して戻ってくる。
戻ってきたフジノの手には、鉄製のリングに通された鍵束がった。
――嬉しそうにしてるけど、こんなのどうするんだ?
「見て、留美。鍵よ」
「……それぐらい見ればわかるよ」
「鍵の存在は、探索の大きな助けになるわ。これで一体どこの扉が開くのかしら?」
「……」
「留美もダンジョンの探索中に鍵を見つけたら、持ってきて頂戴。きっといつか役に立つわ」
「……あぁ、わかったよ」
さっきと一緒だ。俺はこいつの言動に上手く反応できない。
――なんでそんな楽しそうなんだよ……こんな危ない場所、いるってのに……。
自分に降り掛かる身の危険が恐ろしすぎて、ゲームみたいに冒険を楽しむ余裕が全然ない。
フジノは楽しそうだ。
いよいよ冒険が始まって、目につくもの全てに興味を引かれているような。
冒険には強さが必要なんだ。
挑むだけでも最低限の、楽しむためにはそれ以上の。
★ ★
ドアを開くとそこは外だった。高い塔のようにそびえる目的の建物が目の前にある。
ベランダのような形で構成された鉄製の床と階段が、中央の装置の外周を伝うように上へと続いていく。
「ようやく真下まで来られたわ」
「ここからは階段を登っていくだけか?」
「そうなるわね。でも気を抜かないで。ここからが本番なのよ」
「わ、わかってるよ」
平然と階段に足をかけるフジノ。鉄を踏み鳴らす、軽い音が響く。
階段は屋外にあるだけあってかなり風化している状況だった。
さっきのでかいパイプと同じで、いつ崩れてもおかしくない。
「……」
俺は腹をくくって、階段を登り始める。
今更引き返すわけにもいかないし、俺一人引き返したところでフジノは単独で登っていってしまうだろう。
あいつが一人で、俺の知らないところで危ない目に遭うのは、嫌だし……。
「留美、気をつけて。階段が抜けている所があるわ。手すりを伝って、慎重に行きましょう」
「り、了解」
錆び付いた階段は二段三段朽ち落ちていることがザラだった。
ジャンプで飛び越えられない距離ではないが、着地の衝撃で階段が崩れてしまいそうで恐い。
足元は不安定で、歩くだけでも結構揺れるくらいなのだ。
俺たちは上階へ向けて階段を登っていく。
階段は外壁を這うようにして螺旋状に続いている。
中央の巨大な装置の周囲をぐるぐると回っていくようにして、俺たちは上層へ登っていった。
会話はない。さすがのフジノも、軽口を叩く余裕がないようだ。
二人分の歩みに合わせて、薄い鉄がカシャカシャと音を立てるだけだ。
何度か階段を登り、かなり高い階層まで登ってきた。
登り始めた場所と比べて、周囲の景色がかなり違って見える。
次の階段へ差し掛かろうとしたところで、俺たち二人は足を止めた。
「うわ、階段まるごと崩れてる……」
「困ったわね。一段も残っていないなんて」
次なる階段は、上から下まで全て段差が消失していた。
階段の残骸と思われる鉄クズと、手すりだけが上へと続いている。
「……どうする?もう戻るか? こんなんじゃもう上には行けないし……」
「諦めが肝心、とでも言いたげね。留美」
「いや、だって……」
「甘いわよ。私たちが何のために滑り止め付きの軍手をしてきたと思っているの?」
「え?」
――そりゃあ、朽ちた鉄骨とか、崩れたコンクリートとか、素手で掴んだりしたら危ないから……。
フジノは俺の返事を待つこともなく、残された手すりに掴まって上へと登っていく。随所で崩れた階段の残骸を足場に使って。
「おいおい!本気かよ!」
「もちろん本気よ。ほら、留美も早く」
「で、でも……」
「怖がらないで。大丈夫、あなたならできるわ」
「……くそっ!わかったよ!」
嫌な言い方をする。そう言われたら俺が引き下がれないって、多分もうフジノはわかっているのだ。
――下見ないように下見ないように……!
恐怖を噛み殺し、ついていく。
高いところは……実を言うと少し苦手ではある。
ましてこんな、いつ崩れるかもわからなくて、風がビュービュー吹いている高所で、ピシピシメキメキと足場が軋むような音まで聞きながらなんて、気が狂いそうだ。
どうして、そんな必死なんだ? この上に何があるっていうんだ?
……こんな廃墟の上なんて、何もないだろ?
また俺は余計なことを考え始めている。
俺はフジノに付き合って、この建物を登っている。
だから、明確な目的意識がない。
この廃墟をよじ登る、モチベーションを持っていないのだ。
だから、なんでこんな死ぬ思いまでして、上を目指さなければならないのか、という気分になってきてしまう。
けど、それを言うのは憚られた。
それはいかにも逃げ腰で、気弱な発言にしかならなそうだから。
フジノが行くって言ったからには、きっとこいつなりに意味とか意義とかがあってのことなんだ。
俺は、それを信じるしかない。
信じて、ついていくしかない……!
「頑張って、留美。ここを越えれば頂上よ」
「え?もうそんなに登ってきたのか」
言われて、それに少しだけ「やった」と思ってしまって、「案外あっさり登れちまうもんだな」と油断してしまって、
俺は思わず、下を見てしまった。
……それがいけなかった。
眼下の景色は、見たこともない高さをしていた。
学校の屋上だとか、展望台だとか、そんなレベルじゃない。
高層ビルほどの凄まじい高さの場所に、崩れ落ちそうな足場に乗って、俺たちは今、ガラス越しじゃない、生身でいるのだ。
その異常さに気付いてしまって、単純な高所の恐怖とまぜこぜになったその感覚に、めまいを起こしそうになる。
あぁ、わかってた。絶対こうなるってわかってたから、見ないようにしていたのに見てしまって……。
「ふ、フジノ……やっぱりこれ、引き換えした方が……、こんなところから落ちたら、怪我どころじゃ……」
恐怖で、さっき飲み込んだ類の言葉が口をつく。
おまけに、その声は自分でも笑ってしまいそうになるぐらい情けなく震えていた。
「大丈夫よ。落ちなければ良いだけの話だもの」
フジノは変わらぬ口調。それが俺を励まそうとしてくれているのか、そもそも俺がビビッていることに気付いていないのか、今の俺にはわからない。
でも、早くこの状況から抜け出したい思いで、俺は前を向いて進もうとする。
踏ん張る。恐怖に負けないように。震える手足で、しっかりと頼りない手すりに掴まる。
「あと少しよ。崩れた階段ももうすぐ終わりだわ」
「よ、よし……!」
フジノの言葉に鼓舞されるように、俺は前に進もうとして、
……次の瞬間、フジノが踏んだ足場が、崩れた。
足元の地面が消え失せて、ぐらりとバランスを崩すフジノ。
その光景に、俺は全身が総毛立ち、自分が落下するような錯覚さえ覚える。
「フジノッ!?」
思わず叫ぶ。そうしてどうなるわけでもないのに、そうせずにはいられずに。
フジノが階段を踏みぬいて落ちていき、俺はそれを何も出来ず呆然と見送る。
目の前の状況が非現実的過ぎて、とっさに手を伸ばすことさえ出来ない。
「く……」
だが幸い、フジノは落ちそうになりながらも、落下するギリギリのところで手すりの下端を掴んでいた。
片手でぶら下がるような状態。
地上への転落こそ免れたものの、危険な状況だ。
フジノの方を見るだけで、否応なく俯瞰の景色が視界に入る。
とてつもない高さ。落ちれば、死ぬような……。
「ど、どうしたら……お、おいフジノ! 大丈夫か!?」
「落ち着きなさい、留美。私は平気よ」手を離せば死ぬような状況なのに、フジノの口調は僅かな苦しさが滲むだけだった。「もっとも、私の細腕では、持ちこたえて数分といったところでしょうけど」
「なら、早く引き上げなきゃ! ほら、フジノ、手を……!」
身を乗り出そうとするが、体勢的にほとんど動けない。
それでも俺は手を伸ばす。しかし、フジノはその手を取らない。
「フジノ、どうしたんだよ!?」
「ありがたいけれど、この不安定な足場では、引き上げようとした留美までバランスを崩して落ちてしまうわ」
そういうことだった。
薄々、それもわかっていた。でも、だからって何もしないなんて、できるわけないだろ。
……今の俺では、彼女を助ける方法がない。
それを認めることになるんだから。
「でも、だったらどうすれば……!」
「だから、落ち着きなさい」
動揺する俺に、彼女は一切動揺せずにそう言って、掴まっていない方の手を下方へ振るう。
するとフジノの服の袖からロープのようなものが垂れ下がってくる。先には分銅がついているように見えた。
隠し武器のように服の下に忍ばせていたそれを、フジノはこの状況で取り出したのだ。
そしてフジノはそのロープを器用に投げて、手近な外壁のパイプに絡みつかせた。分銅の重みでぐるぐると巻き付いたロープを、フジノは数度引っ張ってちゃんと固定されたことを確認する。
「上がるのが無理なら、一度下りてしまえばいいのよ。このまま一度階下に飛び移るわ」
「そ、そうか……! このロープにぶら下がりながら、下の階に降りるんだな!?」
「その通り」
妙なギミックまで取り出して、フジノが一体何をやろうとしているのかを、俺はようやく理解する。
あのロープは身体に装着しているのだろう。それを外壁のパイプに巻き付かせた。
この状態で、フジノはぶら下がっている手を離すことで、巻き付いた部分を中心とする遠心力によってターザンのように階下へ飛び移ろうというのだろう。
確かにそれなら、地表まで真っ逆さまってことはないかもしれないが……。
――簡単そうに言うけど、そんな上手いこといくのかよ?
そんなアクション映画じみた方法が、現実で容易くできるとは思えない。
あのロープは、ただ絡まっているだけだ。絡みついた先のパイプだって、フジノの全体重を支えられる強度が残っているのか。
ましてこの不安定な足場。強い風。
振り子のように空中で揺られて、柵や壁にぶつかってしまうかもしれない。
そうして着地した足場だって、また崩れ落ちてしまうかも……。
「お、おい、フジノ!!」
俺は、声をかける。フジノに警告を促すためだ。この作戦には無理がある、と自分の脳内で出た結果を指摘しようとする。
「大丈夫よ、留美。あなたはただ、私の無事を祈っていて」
しかし、フジノはいつも通りこちらを見返してくるだけだ。
「そして信じて、あなたの知っている私を」
「え……」
言葉を受けて脳裏に過ぎるこれまでのフジノの姿。思い返せば、彼女ならこんな無茶だって容易く成功させてしまいそうに思う。
初めてあった日も、その後だって、あいつの身体能力の高さや、窮地における感覚の鋭さをたくさん見てきている。
だから、そんなフジノだから、今回も上手くやってくれるんじゃないかって――
そして、俺がそんな思考に入りかけた隙を突くように、フジノは掴んでいた手を離す。
俺が予想した通り、ロープは振り子のように、フジノの体を揺らす。そのまま滑空するようにして軽やかに下の階へ。
しかし、ロープがぴんとはっても、足が地面につかない。
長さが足りないのだ。一階下へ降りるだけでも、あのロープは短すぎた。
フジノは螺旋階段の外へ放り出され、中空へ大きく身を躍らせる。加わる遠心力。振り子は加速の勢いを増して、戻り来る。
「……っ、ダメだ……!フジノッ……!」
「心配しないで留美。
――あなたが信じてくれる限り、私は無敵よ」
俺が目を閉じかけたその時、フジノは身につけていた上着を脱いだ。
……ロープは、フジノの上着に固定されていたのだ。
ロープから離脱したフジノはそのまま階下に飛び降りる。
着地は体操選手のように軽やかで、不安定な床を揺らしもしない。
そのまま悠然と立ち上がり、後からやって来るロープにくくりつけられた上着を、フジノは平然と受け止めた。
「アレルヤ」
上着を平然と回収し、俺の方を見上げて、笑う。
そこには転落への恐怖も、失敗への恐怖も、何もなかった。
「フジノ……」
あまりにも簡単そうに、当然のように、フジノは危機を脱してみせた。
「ありがとう、留美。あなたの祈りが通じたわ」
「祈りって、おまえ……」
「神様なんて信じなくていいわ。私たちはこうやって互いを信じ合えるもの」
そうして、こちらを見上げながら、いつもどおり余裕の表情で、そんな事を言うのだ。
「……っ、……相変わらず、何言ってんだかわかんねぇよ……」
無事でよかったという安堵感と、致死の苦難を容易く突破した彼女の姿の眩しさに言葉が上手く出てこない。
色々とツッコミどころは多いし、言いたいこともあったけれど、もう何も言えなくなっていた。
手の震えと、ぶり返してきた寒気を隠すのに精一杯で。
フジノは強かった。
俺なんてこの状況で、何もできずにいたのに。
でも、俺が信じたおかげだとあいつは言った。
ならせめて、それが少しでも支えになれたと、思えばいいのだろうか。
……それはなんというか、どうにも頼りない話に思える。
★ ★
辿り着いた頂上には、やはり何もなかった。
いかに巨大でも、使われていない廃工場の機械装置でしかない。
特別な何かなんてない。
この辺りを一望できる高所。ただそれだけだ。
「すげぇ景色……、鳥があんなに低く飛んでる」
思わず声を漏らす。
都会の高層ビルや、観光地の展望台とはまた違う。
山奥の自然の中で、これほどの高さに立つなんてことは普通できない。
廃工場の俯瞰なんて初めて見る。
使われなくなり、捨て置かれた場所を見下ろす景色。
見慣れない建物。施設。風化し、自然と一体化するまでになった光景は、異世界じみていて、なるほどフジノが冒険とか言い出すのもちょっとわかるなぁ、などと俺は思ってみたりもしたが……、
「綺麗な景色ね、留美。今までの苦労が報われるわ」
「え、あぁ……」
「日が暮れる前に辿り着けて良かった。私、冒険のはじまりは二人でここに来るって決めていたの」
「そ、そうかよ……」
「留美も気に入ってくれると嬉しいのだけれど」
「……まぁ、確かにこんな景色、おまえと一緒じゃなきゃ見られなかったと思うけどさ……」
「そう、良かった」
「……」
隣を見れば、すぐ近くに満足げに下界を眺めているフジノ。
疲労感などなくただ達成感に満ちたその顔。素直な感激。
そんな風に笑いかけられて、俺はちょっと戸惑う。
けど――、
さっきひとりごちたように、感動はある。
でも、何度も死にかけた先にあるのがただ眺めのいい場所だなんて、割に合わないというか、すこし拍子抜けだった。
今までの展開を思い出すと、文句の一つも言いたくなる。
いや、言いたいのは文句というより、「結局何がしたくてこんなところまで登ってきたのか」ってことなのだが。
で、俺がその疑問を尋ねようとした時――、
「留美、わかる? これから私たちの冒険の舞台となるダンジョンが、ここからなら一望できるのよ」
と、フジノはいつも以上に目を輝かせて、拳を握りしめながらそんなことを言い出した。
「……は?」
「ふふ、焦らないで。次の目的地が気になる気持ちはわかるけれど」
「いきなり何の話だよ!? つながりが全然見えねぇよ!」
「良いこと留美。よく聞きなさい」
俺の反応など気にもとめず、勢いよく景色の一点をビシリと指差すフジノ。
「まず、山沿いに見える施設が見える? あれは今はもう使われていない鉱山、“ヘル坑道”の入り口よ。広大な洞窟は中で無数に枝分かれした天然の迷宮と化していて、トロッコを使って暗闇の奥へと進んでいくの。下層は魔界に通じているとも言われていて、小人たちの集落があるという話もあるわ。彼らは鍛冶を石工を生業とする種族だもの。きっと貴重な鉱石が採掘されるのでしょうね。聖銀、玉宝石、輝彩鉄……どんな宝物が眠っているのかしら?」
「魔界ってなんだよ!?どこに建ってんだよこの工場!?」
「その手前は“ククルカンの工房”。鉱山で採取された鉱物を加工していた施設がかつてあった場所よ。今はもう自然の浸蝕を受けて緑と水に飲み込まれてしまっているわ。木々と混ざり合った建物の奥には水を湛えた洞窟が口を開いていて、湖底の町へとつながっているの。そこに行くことができれば、何故あの場所が捨て置かれたのか、その秘密が解き明かされるはずよ。失われた文明の秘宝と共にね」
「ここってできたの昭和だろ!?数十年くらいでそんななるのか!?」
「その隣、レンガ造りの建物があるでしょう? あれが“オモイカネ屋敷”。見ての通り洋装の建物だけれど、中をよく覗いてみたら畳の部屋があったの。レトロな和洋折衷なんて、それだけでも郷愁感溢れる楽しい場所だけれど、その奇妙な作りから見て、何か怪しげな者たちの住処であった可能性もあるわ。きっと中には様々なカラクリや隠し部屋があって、巧妙な迎撃能力を備えた要塞でもあるのよ。さながら忍者屋敷のようにね。それを乗り越えた先に何があるのか、考えただけでワクワクしない?」
「結局なんの建物なんだよ!?まさかホントにカラクリ屋敷なのか!?」
「今度は右側を見て。町のような物が見えるはず。“要塞都市ヘイムダル”と呼ばれるあの場所は、今はもう滅びてしまっていて無人の廃墟に過ぎない。でもその原因は謎に包まれているの。この工場に絡めて推理するなら、何かの実験場とされたのか、或いは被験体として全員連れて来られてしまったのか。もしかすると全く無関係で、この辺りを縄張りとする強力な魔物の群れがやって来たのかもしれないわね。私たちで退治できる相手だといいけれど……」
「退治してたまるか!でも人が住んでたりもしたのかここ……!」
「その向こう、小山のような物がいくつもある場所があるでしょう? あれは“廃棄施設タルタロス”。普通に考えればこの工場で出たゴミを投棄しているだけの場所かもしれないけれど、その名が意味するところは失われた文明の遺産かもしれない。過去の栄華を忍ばせて哀愁を感じるわね。壊れた機械で形作られた混沌に惹きつけられる人間もきっといるはずよ。物好きな発明家が住み着いていて、スクラップを使って開発を行なっていたりするのかしら」
「発明家!?もしかしてジャンク品でゴーレム作ったりするのか!?」
「そして眼下に広がるこの広大な工場が“ガイア魔導工場”。これまで見てきた通り、ここには無数の機械が設置されていて、何かを製造していた形跡があるわ。坑道で採掘してきた鉱石から、強力な兵器を開発していたのよ。きっと深部には謎の組織の研究所があって、彼らが作り出した合成獣や防衛機械が今も動き続けているはず。一体どんな組織が?何のために?その陰謀を暴くのは勿論私たちよ」
「そんなのまであんのかよ!?どんなモンスターが待ち受けてるんだ!?」
………とかなんとか。
景色をあちこちを指差しながら、ものすごい勢いでそんな解説をされ、俺は途中でツッコミを入れればいいのか、話に乗ればいいのかよくわからなくなっていた。
息つく間もなく喋り倒したフジノは、そこまで話して一呼吸置く。
「そして、最後のダンジョンは、あそこ。私は“創世神の塔”と呼んでいるわ」
フジノが最後に指し示した場所は、ここから最も遠く――山の斜面を背後に立つ、少し大きめの建物だった。
遠目にはどういう建物なのかはわからないが、工場や加工場などとは少しだけ趣が違う。
「私は辿り着かなければならないの……、今はまだ遠くても、いつか、必ず……」
説明しながら言葉尻が弱まるフジノ。
どこか意味ありげに、沈黙してしまう。
「ど、どうした?あんな場所に、なにがあんだよ……?」
「ごめんなさい、今はまだ話すことはできないの」
「え?なんだよその思わせぶりな態度?まるで壮大な目的があるみたいな……」
「でも、留美に一緒についてきて欲しい。留美しか、頼める相手がいないの」
「だから、なんでいきなりシリアス入ってんだって! そのラストダンジョンとやらに何があんのか教えてくれよ!」
「しかし、話はそう簡単じゃないわ」
「答える気ないのな……」
俺は脱力するが、フジノは気にしない。
ひとまず、言いたいことを全部言わせてやらないと話も聞いてくれないのはいつもどおりだ。
「あの建物は、全ての窓に打ち木がしてあって、侵入することはおろか中を見ることさえできないの。そして、唯一ある扉は、六つもの鍵で、厳重に閉じられている」
言って、さっき手に入れた鍵束を取り出すフジノ。
あれがその鍵であるのかはわからないが、フジノがやけに鍵に執着していた理由が示されたことになる。
「――――これでわかったかしら?
私たちの冒険の目的は、今説明した六つのダンジョンを巡って、
いろいろな場所に落ちているこういう鍵を一つでも多く集め、
その中から六つの封印を解き放つ真実の鍵を見つけ出し、
最後のダンジョン“創世神の塔”を攻略することよ」
「……」
フジノがそう言ってババーンと決めたところで、しばし俺は呆然とする。
こいつの言っていることが意味不明すぎて白けてしまったのではない。
あまりにも熱っぽく、見たこともないほど勢いづいて語ったフジノの言葉が、今一気に反芻されて、それを思わず追ってしまっていたからだ。
フジノが語った数々の冒険。
あまりの情報量で、すぐには整理しきれないけれど……、
「ふふ。留美、どうしたの? 楽しそうな顔をして」
「え?べ、別に俺は……」
「隠すことはないわ。私は知っているもの」
「……何を?」
「留美は冒険が、私と同じくらい大好きだってこと」
「あ……」
言われて、気がついた。
相変わらず誇大で、非現実的なフジノの言葉から、心躍る大冒険を空想している自分に。
見える景色の一つ一つが、ただの風景からフジノの語る物語の舞台になっていく。
これからの大冒険に思いを馳せる。それは、なんて楽しそうなことだろう。
このダンジョンだってそうだ。登った時、確かに感動した。ドキドキした。
危なかったし怖かったけれど、その先に何があるのか、知りたかった。
未知の場所を歩き、協力して危機を乗り越える俺たちは、まさしくRPGの主人公だった。
その気持ちを、これから俺たちは、毎日のように味わうんだ。
俺のそんな微かな期待感も、こいつはお見通しってわけかよ……。
――そっか……。
今、唐突に、理解した。
フジノはただこの景色を俺と一緒に見たかったってだけじゃない。
この場所から見える景色に、こいつはこれだけの意味を組み込んでいて、それを俺にこうして伝えたかったんだ。
フジノにとってここは、ただ綺麗な景色が見られるだけの場所なんかじゃなくて、これからの大冒険に思いを馳せる、俺に冒険の目的を示す始まりの場所だったんだ。
だからこいつは俺を連れて、最初にこの景色を見なきゃいけなかったんだ。
これが、彼女が死にそうな思いをしてまでこんな場所に登ってきた、本当の意味――
今日の冒険だってフジノは余裕ぶっていたけれど、俺以上に命がけだったはずだ。
それでも進むことに一片の躊躇いもなかった。それだけの価値が、こいつの中にはあったんだ。
ここから見える景色は、それそのものが、言わばRPGの世界地図。
フジノは冒険が始まる前に、この眺めを俺の脳裏に焼き付けるつもりなんだろう。
それこそボタンを押すかのように、簡単に思い出すために。
……すごい、と思った。
フジノの言っていることは言ってることはメチャクチャだけど、そうやって喋っている時のこいつは、本当に楽しそうで、輝いて見える。
事実、心から楽しんでるんだろう。ここから見える景色と、自分の語る物語にワクワクしてるんだろう。
でも、そのためだけにこんな場所まで上ってこれるフジノがすごいと思った。
自分の心の中にしかないものに、命をかけたりできるフジノは、無敵だと思った。
そしてそんなフジノの言葉に、心中で文句ばかり言っていたはずの俺は、気付けばワクワクしっぱなしだった。
わかってる。きっと、本当は楽しかったんだ。
知らない場所に行って、見たこともないものを見て、その全部が、フジノの言葉を通して、心躍る大冒険になっていくのが。
俺をその気にさせるために、フジノはその地図を俺に見せてくれたし、俺だってそれを面白そうと思っちまったわけで。
――仕方ない、俺も一緒にやってやるか。大冒険。
とことんつきあうって、決めたんだしな。
こいつとの冒険はきっと大変で、さっきみたいなひどい目に遭いまくりそうだけど、退屈することはなさそうだし。
それに、今のこの気持ちは、充実感は、
他のどんなことでも味わえない気がしたから……。
「何か言いたそうね。留美」
「え?あぁ、その……」
「わかっているわ。何の見返りもなく危険な冒険に付き合う程、俺は安くないぜと言いたいのでしょう?」
「は?」
――そんなこと思ってないし……むしろ既に結構やる気なんだけど……。
フジノは俺の方につかつかと歩み寄ってきて、ずい、と身を乗り出してきた。
直近に顔が迫る。
また、距離、近い……!
「いいわ。“創世神の塔”の鍵を全て見つけ出して、その先に進むことができたなら、留美には私からご褒美をあげる」
「……ご、ごほうび?」
「そうね……、留美が、喜んでくれるかはわからないけれど……」
フジノは、そこで少しだけ言葉を切って、目をそらし、僅かに身をよじるような仕草を見せた。
なんだか煮え切らない、こいつらしくない態度。
俺が怪訝な顔をしていると、フジノはさっと俺に近づいて、耳打ちをしてくる。
聞こえてきた言葉は――、
「――――私の初めて、留美に捧ぐわ」
一瞬の後、その言葉の意味を理解した俺は、硬直するよりほかなかった。
★ ★
俺とフジノは、まだ建物の頂上にいた。
ベンチ状に張り出したパイプの上、今日出かける前、廃車両でそうしていたのと同じように、二人並んで座りながら。
「…………」
フジノは眠っている。
俺に肩を預けるような形で、気付いたら寝てしまっていた。
不用意に動くと彼女を起こしてしまいそうで、俺はそのまま動けずにいる。
「……よくあんなセリフ吐いた直後に寝れるもんだな」
その無防備な姿をぼうっと見ている。
規則的な寝息。
どこか安心したような表情。
「そんだけ疲れてたってことか」
死ぬかもしれない緊張に晒されて、あれほどのアクションをやって、そのうえ目にする全てに一喜一憂していたのだから。
さすがのフジノも、電池切れってことだろう。
「……女の子だもんな、一応」
別に、忘れてたわけじゃないが。
時々こいつが現実離れしすぎてて、常識的なそういうことを考え忘れている、ってのは本当だ。
女の子なんだ。
俺より細くて、手とかは小さくて、髪とかさらさらな、女の子……。
――留美が、喜んでくれるかはわからないけれど……、
無意識に思い出してしまった。
みるみる顔が熱くなっていくのを感じる。
「あぁ、もう……」
俺は、赤面しているのを寝ているフジノに感づかれたくなくて、空を仰いだ。
暮れなずむ空。夜を帯びて、冷え始める空気。
そんな中にいる自分が、今はただ、心地良い。
――今日は頑張って、良かった……かな。
「なんだかなぁ……」
俺は、何に対してかよくわからない独り言をつぶやいた。
思考がまとまらない。
これから先の楽しい想像と、
これから先の自分のことと、
……これから先のフジノのことが混ざり合って、
俺の頭は、快い混沌に渦巻いている。