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ブラパ THE BLACK PARADE [SCENARIO Ver.]  作者: 藤原キリヲ
THE BLACK PARADE
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4.ウェザーリポート




 俺は河野留美という名前である。

 ……いや、別に自己紹介してるわけじゃなくって、「そんな名前をしている」という話だ。

 俺が、自分の“留美”という名前についてどう思っているのかという話だ。


 俺の名前のことを、「女の子みたいな名前だ」と言ってくる人たちが昔から少なからずいるのだが、俺自身は特にそういう認識はない。

 生まれた時から両親にそう呼ばれていて、その名前を名乗りながら生きてきた俺にとっては、“留美”というのは“女の子みたいな名前”である以前に“自分を示す呼称”でしかないからだ。

 由来についても、詳しくは知らないし、両親にも聞いたことがないのでわからないが、父親と母親の名前にそれぞれ“留”と“美”の文字があるので、それぞれ抽出してくっつけたのではないかと思う。つまり俺の両親に「女の子みたいな名前」をつけようとした意図はないってことだ。


 だが、色んな人に会う度に名乗る度に「女の子みたいだ」と言われるものだから、俺は「自分の名前はどうやら一般的にはちょっと変らしい」という認識はさすがに得ている。

 今となってはさすがに「男に付ける名前としてどうか?」と思わなくもないが、それは俺が物心ついて常識とかそういうのを理解するようになり、自我とか自意識とかが芽生えた結果、他人から言われていることを受けてそんなことを思っているだけだろう。


 そんなわけで、俺の自分の“留美”という名前についての意識は、

 両親に感謝してやまないぐらい好きなわけでもないし、人から色々言われるのでちょっと面倒だなと思うことはあるが、言うほど嫌なわけでもなく――、

 結論としては好きでも嫌いでもない、といったところだ。

 ……玉虫色の解答で悪いけど。


 でも“名前”なんて、多くの人にとってそんなものじゃないだろうか。

 “自分を示す呼称”であるが故に、それは深く自然に結びついていて、安易に好き嫌いが生じるような類の話ではなく、“自分を示す呼称”であるが故に、どんなに無関心であっても特別さのような感覚は失われない、というか。

 ……要するに何が言いたいかというと、自分の名前についての好き嫌いが希薄な俺であっても、“自分の名前を呼ばれる”という事態には、感じるところがあるってことだ。

 それは、自分を間違いなく特定してくる緊張感であり、自分に深く踏み込んで来られる戸惑いでもあり、……自分をはっきりと認識される嬉しさでもある。


 ……突然そんなことを思考している理由としては、最近、俺のことをバンバン名前で呼んでくる知り合いがひとりできたからなのだが。


 誰しも自分の名前に対する認識が同じならば、みんな自分の名前を呼ばれることで、俺のようなドキドキするような、ムズムズするような、独特の感覚を抱いているものなのだろうか。


 そういうことを最近、結構、思わなくもない。




     ● ●




 平日の午後、体育の授業中。

 俺はなんとなく面白くない気分でグラウンドに立ち尽くしていた。

 やる気は、ない。


 今日の体育の授業内容はサッカーだった。

 チーム分けがされ、今は試合中。

 俺のポジションは一応センターバックということになるのだろうが、素人がやらされてるサッカーなので、その辺はかなりいい加減だ。なんとなくそこらへんにいるからおそらくそうだろう、といった曖昧な雰囲気だけである。

 ――まぁ、真面目にやる気がないので、正直どこでもいいけどな。

 運動神経が皆無である所為でキーパーをやらされている大賀と肩を並べて、俺は特になにもせずにゴール前につっ立っていた。



「しっかし、全然ボール来なくね?」

「うちのクラスのサッカー部、ほとんど味方チームっぽいしなぁ……」

 俺と大賀はそんな会話を交わす。

 実力差を加味しない、出席番号順で前半と後半という乱暴なチーム分けの結果、ボールはちっとも転がってこず、我らチームに失点の脅威は訪れない。

 つまり、ゴール前の俺たちは暇だということだった。

「なぁなぁ。川村と今日カラオケ行くって話してんだけど、お前どうする?」

「んー?」

 退屈な試合運びにしびれを切らした大賀は遂に無関係な雑談を始めた。

 ってか、またカラオケかよ。好きだなこいつら。

「あれだったら、篠原さんとかも誘って、大勢でさ」

 で、また篠原かよ。俺に誘えってか。

 ……。

「あー。や、悪い。今日は無理だわ」

「えー!?」断られると思っていなかったのか、大賀は露骨に非難するような口調で言う。「ちょっとお前、最近ずっと付き合い悪くね!?」

「いや……、今日はホントに無理なんだって」

「そうやって俺たちを篠原さんから遠ざけようとしてんのか!」

「違ぇから。ってか声でけぇよ」

 川村もそうだが、テンションが上がると周りを顧みない声量になるのがこいつの悪癖だった。

 俺は……もうちょっとわきまえてる、と思う……。

「で?なんで?」

「いや……」

 大賀の追及はやまない。

 言いたくない。言いたくないけど、言わないとこいつは余計な勘繰りしそうで、面倒臭いし、ちゃんとした理由で行けないんだってことも弁解しないといけない……、



「……補修があるんだよ」


 それが、俺が今、面白くない気分でいる理由だった。




4.ウェザーリポート




 放課後。

 普段の教室とは違うが、同じ造りをした空き教室に俺はいた。

 窓際の席。これも普段とは違う席。前後の席も、名前も知らない生徒だ。


 俺は今日、補習授業に呼び出された。

 この教室には各クラスから、先日の中間試験で赤点――平均点の半分以下を取ってしまった生徒が集められ、試験勉強をサボったツケを支払わされている。

「席どこよー?」「自由じゃね?」「マジだりぃー」「これで明日も追試とかさー」「激ダル」「激ダルだな」「課題とか出んの?」「マジ?俺明日ライブ行くのにー」

 まだ授業は始まっていないが、教室内はいつも以上に騒がしい。

 本来なら部活をしたり遊びに出かけたりしているはずの時間というだけあって、みんな元気だけ空回りしていて、そのことに余計イライラしているような雰囲気だ。

 そんな空気を俺はぼんやりと感じている。

 視線を定めず、いろんなところを眺めているようでいて、騒ぎ合っている連中から自然と逸らした視線は、何気なく出入り口の方へと向けられた。

 ――誰か知ってるヤツ、来ないかな……。

 そんな期待をしながらも、入ってきた生徒は全然知らないヤツで、俺は勝手にがっかりした気分になる。

「お、榊も追試かよー?」

「え?たりめーじゃん。数学とかマジ意味わかんねーって」

「ぎゃはは!おまえよくうちの高校入れたよなー」

「うっせーな。頭悪くたって、大人にはなれんの!」

 入ってきた知らないヤツは別の知らないヤツと軽口を叩きあってふざけあっていた。

 俺はなんとなくその様子を眺めつつ、こんなところで会って話すような間柄の友人なんて、そもそも俺にはいなかったな、ということに今更納得する。


 ……俺は友達が少ない。

 だからなんだと思うし、別に困ったりもしてない、してないが……。

 友達多いヤツは、こういうこと、あんまり考えたりしないのかな、とか。

 だったら友達作ればいいんじゃないかな、とか。

 友達って、どうやってできるんだろう、とか。

 そんなようなことを事ある毎に自問自答している自分自身はあまり好きではなかった。

「となり。あいてるー?」

 と、俺はそんなことを言われて思考を打ち切った。

 見ればさっき教室に入ってきたヤツが、俺の隣の席に座ろうとしている。

「ん、……空いてる、と思う」

 一瞬自分に話しかけているのかどうかわからなくて、俺は思わず小声で答えた。仮に自分じゃなかった時の予防線でも張るみたいに。

「うぃ!さんきゅー」

 と、そいつは俺の発言に屈託ない笑みと共に礼を言って、隣の空席に座った。

「オレ、四組の榊慶次(さかき けいじ )。そっちは?」

「……。河野、留美……」

「はじめましてー。おたがいバカで苦労するよねー」

「……」

 やけに馴れ馴れしく話しかけてくると思ったら、同類と思われてたか。

 間違っちゃいないんだろうが……、初対面でよくそういうことを……。

 俺がさっき抱いた警戒心なんて、まるで気にした様子はない。

 ……こういう自然さみたいなのが、俺には圧倒的に足りないんだな。



 数分後、補修授業を担当する教師が入室してきて、騒いでいた連中もバラバラと席についたことで、教室内は授業風景として一応の静寂を取り戻した。

「あいつ誰よ?」「お前知らんの?一組と二組で数学教えてるヤツ」「知らん」

 だが、ちょこちょこ小声でそんな私語が聞こえてきて、俺は「さすが補修クラスだな」と妙なことを実感する。

「はい、静かにー」

 教壇に立った温厚そうな数学教師は、居並ぶ面々を一望して苦笑交じりに話し始めた。

「んじゃ、今日は補習授業な。今からプリント配るから。配られた人からやってくように」

 と、先頭の席に紙束を渡していく。俺の席からチラッと見えただけでも、そこには頭が痛くなりそうな量の問題が書き込まれていることがわかる。

「明日の土曜日に追試やるからな。ちゃんと勉強しとかないとだめだぞー」

 “追試”という言葉に一部が抗議の声みたいなのを発したが、先生は一瞥をくれた後にそれらを黙殺した。

「そしたら先生ちょっと職員室にいるから。質問あったら聞きに来い」

 言うだけ言って、先生はどっかに行ってしまう。

 ――え?いなくなっちゃうの? やる気ねぇな……、補修ってこんななのか。

 初めて受ける補修授業に、俺はちょっとしたカルチャーショックを受けていたが、監督者がいなくなった途端、教室内はわかりやすいまでに授業って感じじゃなくなっていった。

 時間いっぱいまで寝ようと突っ伏す者、隣近所で雑談をする者、果ては立ち上がって教室を出ていく者までいる。

 補修という状況に反省を示して、真面目に机に向かっている人間なんてごく少数だ。

 ――こんなヤツら相手じゃ、まともに相手する気もなくすか。

 俺はため息混じりに先生に同情を抱く。

 渦中にいると忘れがちだが、この高校はそこそこ進学校でもあるのだった。先生もできない生徒よりできる生徒の相手をして伸ばしたいと思うだろう。

 かく言う俺も真面目にやるかと言えば特にそんなこともなく、ぼんやりと教室内の様子を観察しているだけだった。


「……」

 少し離れた席を見やる。

 いつの間に来ていたのか、見慣れたポニーテールの後ろ姿が見えた。

 ――篠原も補修組か。どうりで勉強会しようとか言ってたわけだ。

 試験がどうだったかとかそんな話をして、俺が良くなかったことについてあれこれ言っておきながら、自分だって赤点だったんじゃないか。

 そんな篠原は、他の連中のように騒いだり寝たりしていることなく、シャーペン片手に配られたプリントを「ふむふむ」みたいな感じで律儀に眺めていた。

 真面目にやってるように見えるが、あいつはいつもあんな感じだ。

 篠原はこういう時、真面目に勉強するはするのだが、根本的な部分で身についていないような感じがある。

 いかにも一生懸命だけど、趣旨をわかってないというか、要領が悪いというか……。

 要するに勉強が下手なのだ。

 ――大方、途中で飽きて、いつもみたいにパラパラマンガでも描き始めたりするかもな……。

 あいつが授業中にラクガキして遊んでるのを確認したことは一度や二度ではない。


 ――しかし、補修かぁ……。俺も随分成績下がったよなぁ……。

 ようやくプリントを手に取り、書かれた問題文を読みながら、その内容がいまひとつピンと来ていない自分に気が付いて、そんなことを思う。

 勉強は苦手ではなかったはずだし、篠原が勉強下手なのも事実だろうが、俺自身も似たようなもんになりつつあるのかもしれない。

 最も、その辺りについても、前にも言ったとおり、焦りも危機感も覚えていない俺なのだが……。


 何気なく、窓の外を見ると、空は段々と暗くなっていく。

 灰色の雲に覆われた、薄暗い曇天。サッカーやってた頃は晴れていたが、もう少ししたら一雨来るかもしれない。

 ……雨。夜。

 こんな日でも、“あいつ”はあの場所に来ているのだろうか。


 ――今日は、フジノに会えそうにないな……。

 どこか焦るような気分で、俺はそんなことを考えていた。




     ● ●




 キーンコーンカーンコーン……。

 下校時刻を告げる鐘の音を聞きながら、私――篠原雛は補習授業を受けていた教室を出る。

 自分でもびっくりするぐらい真面目に補修の課題を解いた私は、授業が終わった時はちょっとくたびれていた。

 回収したプリントを眺めながら苦笑いを浮かべる先生が前を歩いているのをぼんやり眺めながら、夕方の薄暗い廊下を私は歩いていく。

 天気は、雨。

 補修の最中に突然降り出し、今も降り続いている。

 朝のニュースの天気予報で言っていたとおりだった。

 でも、お母さんが折り畳み傘を持たせてくれたので、私は傘を忘れたらしい他のみんなと違って特に慌ててはいなかった。


 昇降口までやって来ると、思ったより強く激しく雨が降っているのがわかる。

 もっと雨が強くなる前に早く帰ろうとしているのか、何人かが駆け足で飛び出していくが、あれじゃ駅に着く間だけでもずぶ濡れになってしまうと思う。

 仮に自分が同じ立場だったとしても、ああやって無茶をする元気は出てこない。

 ――きっと、誰かが助けてくれるのを、黙って待ってるんだろうな。

「……、……」

 私は、学校指定の黒いカバンから、お母さんが入れてくれた折り畳み傘を取り出す。

 背が高い私でも濡れないようにと選んだ、大きめの傘。

 別に使うのは今日が初めてではない。

 だというのに私は、傘を開く手順をひとつひとつ確認するみたいにしながら、しばらくの間、昇降口に立っていた。

 通り過ぎていく生徒たち。その一人ひとりを、ちらちらと確認しながら。

 時折、後ろを振り返りながら。


 私は、駐輪場の方へ視線を向けた。

 そこには、河野が乗ってきている自転車があるはずだった。

 以前は私と同じでバス通学だった河野だけど、最近はどういう心境の変化なのか、自転車で学校に通っていることがある。

 荷物の多い日とか、雨が降ってる日はバスで来てるみたいだけど、基本は自転車なのが、河野。

 一緒に来たわけではないけれど、今朝も多分そう。朝の時間帯は、晴れていたし。

 ――今日は、自転車で来てたよね。傘、たぶん持ってきてないよね。

 確認するように心の中で自問する。

 自転車に乗って、この雨の中帰るのは大変そうだ。

「……」

 未だ開いていない傘を胸元で握りしめて、息を呑んだ。

 ――ここで……待ってれば、来るかな……。

 そう、私は待っている。


 ……この場所で、後からやってくる河野留美を、雨を眺めて、待っている。



「うわ、雨、降ってるな」

 突然後ろからそんな声を掛けられた。河野留美。私が待っていた人。

 あれだけぐずぐず待っていたはずなのに、いきなり隣に立って声を掛けてくるものだから、私はびくっとしてしまった。

「……そ、そうだね」河野に変なふうに思われたくないので、普通に私は返事をした。「しばらく、やみそうにないかも」

「……んー、こりゃ、今日はバスか」

 河野は私の反応の不自然さなんか全然気にしてないみたいな感じで言う。

 私と喋ってるのに、なんだか独り言みたいな言い方。

 でも、河野がこういう話し方をすると知っている私は、特に変だとは思わない。


 私は、今まで開こうとしたまま開いていなかった折り畳み傘を、ここでやっと開く。

 その大きな傘をさして、私は雨の中に一歩を踏み出した。傘越しに聞こえる雨音。雨特有の、ひんやりとした空気。

「……」

 私は「一緒に帰ろう?」とか、「傘持ってないの?」とか言っても良かったけど、河野が黙ってしまうので、なんとなく言い出せない。

 一歩踏み出したところで立ち止まった私に何か言いたげにしている河野の気配を、肩越しに私は感じた。

 それで、河野が今日は傘を間違いなく持ってきていないことと、私と一緒に帰ることも別に嫌じゃないんだな、ってことを理解する。

 ……私はそれを嬉しく思った。


「あ、あの……」

 私はゆっくり振り向きながら、まだ軒下にいる河野に言う。


「傘、持って来てないんだったら、一緒に入る?」

 言ってから、なんか色々すっとばしてしまったことに気が付いた。

 別に言わなくてもわかってることでも、前提として言わなきゃいけないことがいくつもあったのに。


「え?なんつった?」

 河野のそんな反応に、私は自分の失言を悟って、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。

 ――ば、ばか、私、へんなこと言って……、河野もそんなの言われたら困っちゃうのに……。

 慣れないこと、言うんじゃなかった。

「いや、雨の音で聞こえなくて。すまん、もう一回……」

 ……ホントに聞こえてなかったの?

 私がばかなこと言ったから、もう一回言わせようとしてるだけじゃない?

 河野は時々いじわるだ。

 私が嫌がったりするのを見てて楽しんでるような時がたまにある。

 ――それなら、それで、もういいけど。


「……だから、傘、入るかなって」

 私は不貞腐れるような言い方をして、河野の方に傘をちょっと差し出す。

 ほら、聞こえてなくても何言ったかこれでわかったでしょ河野。

 ……私に二回もばかみたいなこと言わせて満足?


「……、ん」

 そしたら、河野は聞こえるか聞こえないかもよくわかんない大きさの声で答えて、おずおずと私のさす傘に入ってきた。

 河野のこういうそっけない態度は、大体照れ隠しだ。機嫌が悪い時とはまた別。

 普段ならこれに加えて、「一緒の傘なんて嫌だな」とか「めんどくせぇな」とかぶつぶつ言うんじゃないかと思う。

 けど、今日は素直だった。

 私の発言が聞こえてなくて、私が二回目にすねたような言い方をしたからちょっと申し訳なく思ってそうでもある。

 雨強いし、帰れないのも困るし、単に諦めただけかもしれないけど。

 ――てゆうか、なんだ……ホントに聞こえてなかったんだ……。

 勝手に恥ずかしがって、勝手に不貞腐れて、……ばかみたいな私。



 降りしきる雨の中、私たちは並んで歩く。

 大きな傘は河野と私が二人一緒に入っても、はみ出さずに済んだ。

 時々、腕とか肩がぶつかって、それに気付いて慌てて離れる。


 ……相合傘。

 それが意味する特別な関係性が、否応なく意識される。

 少なくとも私は、すごく。

 河野も似たようなものだと思う。

 だって私たちは、さっきから無言。

 何気ない会話をしたりもせず、こういう風にして当然みたいな顔をして、二人で黙って歩いている。

 何か口にしたら、余計なことまでこぼれてしまいそうで。

 そうしてこぼれた言葉によって、余計に意識させられてしまいそうで。


 ――ああ……でも……、なんだか落ち着く……。

 会話がないのが、嫌じゃない。

 顔が見れないのも、嫌じゃない。

 雨が降っていて、空気が冷たくて、水の音が少しうるさくて、……だからこそ、噛み締めるみたいに、私は、私の中の感覚を、大事にできそうだった。


 沈黙が続くと、自然と考えが巡る。

 無言で雨を歩きながら、私は色々なことを考えた。

 今日一日あったこと、取った行動、言った言葉……。

 そうして思うことが一つある。


 ――あそこで河野を待ってて、よかった。今日は一緒に帰れて、よかった。


 バス停まで、もう少し。

 地面には水たまりも多いから、少しゆっくり歩いていこう。




     ● ●




 思ったより強く降り出した雨の中を歩いて、俺と篠原はどうにかバス停までたどり着いた。

 タイミング良くバスが来て、俺たちは雨ざらしの道端で待ちぼうけせずに済んだ。

 篠原が傘をたたみ、その間に濡れないように急いでバスに乗り込む。

「雨、強かったな」

「うん……そうだね」

「補修なんか受けてたせいだよ。ったく……」

「そ、そうだね……」

 テストで赤点取ったばっかりに、俺と篠原は補修を受けさせられ、雨にまで降られることになった。散々な話だ。

 カラオケ行くとか言ってた大賀と川村はこの雨の中出かけたのだろうか。

 でも俺も篠原も補修だし、あいつらのことだから人数が揃わないからってまた中止になったんだろうな。


 いつもより時間が遅いからだろう、バスの中はガランとしていて、客はほとんど乗っていなかった。

 俺はよく座る位置に座り、篠原はその後ろの列に座る。

 バスに一緒に乗る時の、いつもの配置だ。

「こうやってバスで一緒に帰るの、最近多いね」

「そうな……つっても、今月でまだ三、四回くらいじゃねぇか?」

 会話を交わしながら、バスが出るのを待つ。

「十分多いよ。雨の日でも、一緒に帰らないことの方が多いし」

「……別に、いちいち一緒に帰るのもめんどくせぇじゃん」

「ん……そっか。そうかもね」

「…………」

 篠原の反応は同意はしつつもあまり納得していない風だった。

 自分で言っといてなんだが、……なにがどう面倒くさいんだろうな?

 ちょっと反省。

 どうも俺は篠原相手だと、無意味に格好つけたり悪ぶった言い方をしてしまいがちになる。

 長い付き合いだからだろうか。

 出会った当初――性格の悪いクソガキだったころの自分が出てきてしまうってことなのだろうか。


「はー、やれやれだよ、ったく」

 どことなく気まずい沈黙を払おうと、俺は前の椅子の背もたれに顔を乗せて、だらけた声をあげてみせた。

「……何が?」

「補修だよ。連日居残りだし」

「そんなに疲れたの?ほとんど自習みたいな感じだったよ?」

「それでもみんな帰ってる中で残されて、ダルすぎるだろーあんなの。さらに明日追試まであんだろ……、ホントなら休みだったのに、最悪じゃん」

「あはは、最悪だね」

 苦笑……でもちょっと楽しげに言う篠原。

 普段どおりの反応に、俺は不機嫌にさせてないとわかって、ちょっとだけ安心する。

「……どう?追試、いけそう?」

「さぁな、今日のプリント見た限りじゃ、余裕なんじゃねぇの?」

 実際は言うほど余裕でもなかったが。

 本試験よりは簡単な問題ばかりのようだったが、それがわかった程度だ。

 追試でも赤点じゃシャレにならないので、今日はこっそり勉強しなければ。

「さすが河野。もともと勉強できるもんね」

「ん、んなことねぇけどさ……、」

 ただの強がりを真っ向から持ち上げられて、篠原相手でもちょっと気恥ずかしい。

 なんとなく視線を後ろに向けると、篠原はいたって普通で、別にイヤミを言ったわけではないことがわかる。

 ――まぁ、こいつがそんな性格悪いこと言うわけねぇけど。追試あんのはこいつも一緒なわけだし……、おまえの方こそ、大丈夫なのかよ……?


 そこでふと、俺は今更ながら篠原が後ろに座ったな、と思った。

 いや、別におかしくないし、篠原はいつも俺の後ろに座るのだが、ついこの間、ずかずかと隣に座ってくる知り合いができたため、俺はその点を少し考えてしまった。

 あいつは隣に座る。篠原は後ろに座る。

 だから、どうってこと、ないんだけど……。


「河野、さ。……最近、なんか元気いいね?」

「は?」

 突然そんなことを言われ、素っ頓狂な声を出す俺。

 そんな話、今までしてたか?

「あ、いや……追試決まった頃なんかは、その、面白くなさそうにしてたっていうか……」

 篠原は、ちょっともじもじするように、言葉を続ける。こういう時のこいつは、大体何かが気になってる時だ。

 ずっと気になってたことを、満を持してようやっと聞いてみた、って時の態度だ。

「それが最近は、放課後になったらすぐどっか行っちゃって……、で、その時の河野って、いつも楽しそうにしてるなあって」

「…………」

 廃車両に行く時の俺って、そんな感じなのか……。

 付き合いの長い篠原とはいえ、こいつが見て取れるぐらいにはウキウキしてるのかもしれない。

 それ、ちょっと、ダサいな。

「いつも……、どこ、行ってるの?」

「ん?」

 俺はちょっと迷う。あいつ――フジノの話を、他人にしたことがないからだ。言っていいのかどうか。

 ……でも、冷静に考えて、特に言っちゃ駄目とは言われていないし、隠しておかないといけないところも別になかった。

 篠原ぐらいなら、話してもいいのかもしれない。

「……まぁ、いっか。他のヤツには、一応秘密な」

「え?」

 俺はそんな一言を添えて、フジノとの出会いなどについて篠原に説明し始めた。



「け、決闘……?」

「すげぇよな、なんだよ決闘って。そんな単語日常で使ったことねぇよ」

 説明の途中で、篠原の反応がだんだん引いた感じになっていってるような気がしたが、俺はひとまず気にしないことにした。

「そのまま北区まで連れてかれるわ、町中追いかけまわされるわ。ホント、あの日はえらい目に遭ったぜ」

「……、だ、大丈夫なの?その人、危なくないの?」

「いやいや危ないヤツだぜ?けど悪いヤツじゃない……」

 フォローしてやろうとしつつ、自分や、あの不良連中に対して行ったフジノの仕打ちを思い出した。

 関節技に投げ技、エアガン乱射に、ロープで拘束までして、あのふてぶてしさ……、

「……いや、悪いか、十分」

「えぇー……」

 咄嗟に思い出しただけでも、とてもフォローしきれないほど、あいつの悪行の数々はバラエティに富んでいた。

「まぁともかく、そういう経緯でそのフジノと知り合ってさ。それから、時々そこまで遊びに行ってんだよ」

「そ、そうなんだ……、だから最近、放課後になるとすぐどこか行っちゃってたんだね」

「そうそう。あいつ、ほっとくと何するかわかんねぇからな。俺が来ないと学校まで攻め込んできそうな感じなんだよ」

 と、俺はそこからは駆け足でそんな風にまとめた。

 細かく喋ると、うっかり犯罪スレスレの話が飛び出してしまいそうだったし。

「…………、?」

 篠原はなんとも言えない雰囲気の表情で黙って聞いていたが、ふと、なにかに気付いたようなそぶりを見せた。


「――フジノ……って、名前?苗字?」

「ん?名前、だと思うけど……」

 不意に投げかけられた質問は、あまり気にしたことがなかったそんな事柄だった。

 “フジノ”はなんていうか、もう“フジノ”であって、苗字とか名前とか、そういうことを考えたことがなかったのだ。


「ふぅん……、仲、いいんだね」

 そしたら篠原がジト目でこっちを見ながらそんなことを言ってくるものだから俺は焦る。

「べ、別に……っつーか、単に名前しか教えてもらってないんだよ!」

 妙な勘繰りを入れられているようで、俺は焦って言い返すが、どことなく弁明してるみたいな口調になった。何もやましいことなんてないのに。

「そ、そのフジノだって、最初から俺のこと名前で呼んできたしさ! い、今じゃ逆に、おまえとかに“河野”って苗字で呼ばれんのも違和感あるぐらいだ!」

「えっ……?」

 と、俺の説明に一応は納得したのか、篠原はそれ以上の追及をしてこなかった。

 なんか、言い訳ついでにおかしなことを口走った気がするが……。


「……じゃ、じゃあ私も――」

「ん?」

「……う、ううん、なんでもない……」

 篠原は何かを言いかけて、やめた。

 そしてそのままなんとなく会話は尽きて、俺たちは景色や車内などを眺めたりし始めた。




     ● ●




 気付けば、俺は眠っていた。

 何か慣れないことでもしただろうか、ちょっと油断したら、眠ってしまっていた。

「……河野?河野ー、もう終点だよー?」

 遠くの方で、そんな声が聞こえる。

 眠い……。

 眠気が勝って、音声を理解できない。

「……寝てるの?」

 まぶたが重く、身体も動かしたくない。もっと寝てたい……。

 寝ぼけた頭で、自分が何をやっていたのかを思い出そうとする。

 今日は何の日で?俺はなんでこんなところで寝てるんだっけ……?

「…………」

 近くに誰かいるような感じがする……。

 誰だ?

「……、……留美……?」

 留美。

 俺の名前だ。

 あぁ、そうか、この呼び方――、

「ん……、フジノ……?」

「っ!」

 と、息を呑むような声が聞こえたと思ったら、突然全身が揺すられて、俺は目を覚ます。

「河野!もう終点だよ!河野!起きて起きて!」

「うぉぅ! なんだなんだ!?」

 篠原が俺の突然両肩を掴んで、ぶんぶんと揺すっている。

 俺は驚いて目覚め、ようやく帰りのバスの中で寝てしまっていたことを理解した。

 っていうか篠原、おまえ揺すりすぎ……!

 なに焦ってんだ、こいつは……。


 叩き起こされて椅子から立つと、バスはもう終点に辿り着いていた。

 寝ている間に俺は降りるべきバス停を乗り過ごしたというわけだ。

「河野、早く降りよ。運転手さん待ってるよ」

 出口の方で篠原が呼んでいる。

 車内には客は俺たちしか残っていなかった。マジで終点だ。

 俺たちは運転手さんに会釈をして、降車していく。待たせてしまったというのに、運転手さんは特に苛立った雰囲気ではなくてホッとした。


「っていうか、俺がいつも降りてるとこで起こしてくれればよかったのに」

「だ、だって、河野全然起きなかったし」

「こっからだと家まで遠いじゃん……、おまえはいいよな、終点が最寄りのバス停で」

「河野だって、ここから家まで歩いて行けるでしょ」

「……まぁ、いいけどさ」

 ふわは、と俺はあくびを噛み殺す。

 バスを降りた瞬間に顔に冷たい雨粒が命中し、俺は慌てて篠原が開いた傘の下に避難した。バスに乗る前までそうしてたように。

 寝起きの俺の無様っぷりを眺めて、篠原が小さく笑ってやがったが、今更そういうところを気にする間柄じゃない。


 俺たちは少しだけ小降りになった雨の中、家路を辿る。

 今歩いている道を進めば篠原の家があって、俺の家はそこを通過して更に十数分歩いたところだ。

「二人でここ通って帰るのも久しぶりだな」

「河野の家からは、中学も高校も反対側だもんね。小学校出て以来かな?」

「そうだな……」

「うん……」

 会話は微妙に続かない。

 バスの中で途中無言になった状態が、なんとなく引きずられている空気。

 雑談はほどほどに、お互いなんとなく考え事をしているような状態だった。


 ――そういや、篠原に言われて初めて気付いたけど、当たり前みたいにフジノと名前で呼び合ってるんだよな、俺。

 でも、だから特別な関係ってニュアンスは全然ないんだよなぁ。……あいつ、多分誰に対してもそうだろうし……。

 そのようなことを考えながら、篠原の方を見た。見慣れた横顔がそこにある。

 こちらの視線に気付いて小首をかしげる篠原。

 俺は、別になんでもない、といった風に首を振った。


 ――でも、篠原のことは“篠原”なんだよな。どっちの方が仲良いか、って聞かれたら、それはむしろ篠原コイツの方とだと思うんだけど……。

 だから、フジノを名前で呼んでいて、篠原を名前で呼ばないのは、どこか間違っているというか、こいつに対して失礼なんじゃないか、と俺は思った。

 ――いやでも、俺らぐらいの歳だったら普通は苗字で呼ぶよな?どうなんだろ?

 名前で呼ぶというのも、それはそれで気安すぎるような気がした。

 “名前で呼ぶ”という行為について。

 ……なんでこんな変なこと考えてんだろ。俺。



 そうこうしている間に、篠原の家の前までやって来た。

 来るのは初めてではないが、ものすごく久しぶりだ。

 子供の頃はお邪魔したこともあるが、今はお互いの年齢的に家に遊びに行ったりするようなこともなくなって久しい。

 庭木の種類や、軒先に置かれた鉢植えなんかが以前と違うような気がしたが、いつからそうなのかまではわからない。その程度のブランクがあった。

「あ、それじゃあ私、ここまでだから」

「ん、おぅ」

 考え事に夢中で、ろくに会話もしなかったというのに、篠原はどこか機嫌が良さそうに見えた。

 何か良いことでもあったりしたのだろうか。明日追試だというのに。

「傘、そのまま使って。ここからじゃ河野の家まで帰るまでの間に、ぬれちゃうから」

「そうだな……」

「明日返してくれればいいからね」

「ん、了解」

 言われて傘を手渡され、篠原が俺が持った傘から軒先へ移動していく。

 男の俺が持つにはちょっと派手すぎる見た目のような気がしたが、まぁ、どうでもいいだろう。


「またね、河野」

 俺が立ち止まっていたからか、篠原は玄関口で振り返り、手を振ってくる。

 いつものように“河野”と呼ばれて、俺はまた妙な考えを巡らせ始めた。



「また明日な、……雛」

 で、ものは試しというわけではないが、たまには名前でそう呼びかけてみた。


「――!?」

 そしたら篠原は突然のことに驚いたのか、少し固まった後、何も言い返すことなく逃げるように屋内に消えていってしまう。

 ――……そんな驚かなくても、よくないか?

 その反応の過剰さがちょっとおかしくありつつも、そこまでされると自分がいかに変なことを言ったのか思い返されて恥ずかしくなってくる。

 やっぱり。

 俺がバスの中でおかしなことを口走ったのを、篠原もちょっと気にしてたっぽいな。

 “苗字で呼ばれるのも違和感がある”とかなんとか。

 フジノに呼ばれまくったせいか、名前で呼ばれることにちょっとした嬉しさを覚えていたのも否定はしない。

 だからって、妙なテンションでおかしなことを言っちまったもんだ。

 ――いや、突然名前で呼ばれりゃ、篠原みたいな反応すんのが普通ってことか。フジノがちょっとおかしいんだよな。

 あげく、篠原を困らせてしまった。

 ……すまん。篠原。悪ふざけが過ぎた。


 俺は一人で帰路につく。

 水音を立てて歩きながら、話し相手もいないので考え事を続けながら。


 ――そもそも、俺は篠原にどう思われてるんだろうか?

 あいつとは小学校の時に知り合って、そのまま中高と同じだった結果、付き合いが続いている幼馴染というか、腐れ縁――という言い方をしたらそれはそれで失礼そうだが、まぁ、そのような間柄だ

 だから、あいつの考えとか、行動とか、そういうことはなんとなく空気で察することができてしまっていて、それ故に深く気にしていないところが俺にはあるような気がする。

 そういうことをまるで気にしていなかった子供の頃と、変わらない接し方。

 それが良いのか悪いのかはわからないけど、俺はそんなスタンスを続けていた。


 でも、あいつがそれを嫌だと思っていたら?

 篠原は俺のそういうところを直して欲しい、もしくは好きじゃないと思ってるのかもしれない。

 そう思うと、なんとなく感じていた、あいつの言動のちょっとした違和感に気付くのだ。

 補修が終わった後も、あいつは俺が同じ教室にいたのに気付いてただろうに、置いて先に教室出てってたわけだし。

 バスの座席だって、もしフジノなら平然と隣に座っただろうし。

 ……いや、それはフジノがヘンだってことで結論づけたはずだ。あいつを例にあげはじめると色々思考が混乱する。

 でも、俺が降りるバス停も知ってるのに、起こしてもらったのも終点着いてからだし。

 あれだって、あんな肩ブンブン振って乱暴に起こすんなら、俺が降りるバス停でやってくれればよかったという話だ。


 ――いや、それは、同じバス停で降りて、最後まで一緒に帰りたかったから、とか?


 不意に降って湧いたその発想を、俺は看過しかねた。それは自惚れた思いつきのようでありながら、その実一番それっぽいような気がしたからだ。

 振り返る。夜闇と雨で、あいつの家はもうとっくに見えない。見えたところで、篠原の真意などわからないが。

 ――篠原は、俺と……?


 と、そこで雨のしずくが跳ねて顔に当たる。

 突然の冷たさに、俺は冷静に立ち返った。


「……アホか、俺は」

 思わずひとりごちる。

 考え事がはかどりすぎて、おかしな方向に進んでいた。

 篠原がそんな俺との交流だけを楽しみに生きてるわけないのだ。

 あいつの行動にはあいつにしかわからない理由があって、……もしくは言語化できる理由なんてそもそもなくて、俺が気にしても仕方ないことかもしれないのだから。


 けどまぁ、あいつが俺との関係性について、いつまでもクソガキのころのままじゃいられないって風に思ってる、ってのはありうる話かもしれない。

 俺自身がどうなのかについては、まぁ、そのうち考えるとしよう……。




     ● ●




 夜の、真っ暗な、自室。

 私は帰宅してすぐ、ベッドに潜り込んだ。

 カバンを玄関に置き去りにして、服も着替えず。更には部屋の電気すら点けず。

 何もかも放り出して、毛布にくるまっている。

 ……そうしないと、見られちゃうから。

「っっ……!」

 爆発しそうなぐらい真っ赤になっていると思われる、私の顔を。

 こんな有様、お母さんにもお父さんにも会いたくない。

 自分でも見たくない。

 すぐさま真っ暗な部屋で毛布を頭からかぶって、何も見えないし聞こえない状態にでもならないと心が冷静でいられなかった。

「はあ……」

 ため息。

 それでちょっと落ち着く。


 ――また明日な、……雛。


 そして、落ち着くと同時に再生される、その言葉。

 どういう意図なんだろう。河野が別れ際に言った、挨拶の、最後。


 ――河野、私のこと、名前で呼んでた……よね?

 記憶を辿るまでもなく、確かにそう言っていた。

 “雛”と。

 なんで?突然?

 確かに、そんな会話は少し前にあったにはあったけど……、


 ――もしかして、河野が寝てる時にこっそり名前呼んだのバレてた?

 その仕返しにからかわれたってこと……?


 ……バスの中で会話が途切れて、河野はその間に寝てしまっていた。

 私は、河野がいつも降りるバス停に着いた時は、最初は起こしてあげようかと思って席を立った。

 でも、無防備に寝息を立てる河野の顔を見ていたら、なんとなくそのままにしておきたくなってしまって、そうこうしているうちにバスは走り出してしまった。

 そのまま私は同じ場所に立ったまま、河野の寝顔を眺めたりしていたら、気付けば終点に到着していた。

 その時、ふと思いついてしまった……、いたずら。


 “留美”と名前で呼んでみたい、と。

 ……そしたら、河野がそのタイミングで起きてしまったので、私は慌てて肩を揺さぶって起こしてみたりしたけど……。

 あの瞬間、実はもう起きていて、聞こえていたとしても不思議じゃないのかも……、


 ――だからって、あんなタイミングで、……やりかえしてくるなんて。

 いかにも河野がやりそうないじわるだった。

 しれっとした調子で、平然と、彼は私が慌てふためくような不意打ちを入れてくる。

 そういうのが、ホントに、もう、……なんて言ったらいいのか……、


 ――ああぁ、恥ずかしい……、そんなばかなこと、するんじゃなかったよ……!

 私は毛布にくるまったまま頭を抱えて、ベッドの上をゴロゴロ転がる。

 ひとしきり身悶えした後、また気付けば、あの瞬間のことを思い出していた。


 ――雛。

 私は、私の名前があまり好きじゃない。

 女の子らしくて可愛らしくて、いや、可愛らしすぎて、私みたいなのとは合わない、と思っているから。

 同年代の男の子より背が高くて、女の子らしくない私には、女の子らしい可愛さなんて、まったくもって似合わないから。

 だから、好きじゃなかった。

 かといって、両親が付けてくれた名前だし、大切にしたいという心持ちはあって、自分の名前なのだからもっと愛着を持ちたい、とはずっと思っていた。

 ……でも、知らなかった。

 そんな私でも、誰かにああやって名前で呼ばれるっていうのは――、


 ――――あんなにも嬉しいものなんだ。

 それこそ、泣いてしまいそうになるぐらいに。


 雛と呼ぶ。

 それは、あなたが呼びかけている相手が、私の両親でも親戚でも、全く別の篠原さんでもなく、“篠原雛わたし”であると特別に扱うこと。

 それは、私があなたの中で、そうさせるまでに価値のある、大切な存在になれているということ。

 ……実際は、違うかも。

 でも、私はあの一瞬で、そのような考えを持った。

 河野が、私を私として見てくれていて、私を大切に想ってくれているような、そんな、感覚が得られたような気がして――、


 わ、私だって、河野の事が大切だよ?

 河野のお父さんやお母さんじゃない、赤の他人の河野さんじゃない、“河野留美あなた”のことが、昔から、今も、ずっと……、




「る……」

 私は、声を出した。

 誰にも聞かれないように。

 見えず、聞こえない、暗闇の中で、囁くように。




「――――留美……っ」


 それは、特別な音だった。

 他の人にはわからないかもしれないけど、私の中で、特別に響く、その名前おと。 口にしただけで胸に広がる、ひどくせつなく、やるせない気持ち。

 涙が溢れしまいそうになる、……彼と過ごす日々の、大切さ。


 ……河野は、私にも名前で呼んで欲しい……のかな。だったら明日、もしまた名前で呼んでくれたら、私もちゃんと、名前で呼び返さなきゃ、ね……。

 そのまま深呼吸をして、目を閉じる。程良い眠気が訪れて、意識がまどろんでいく。家の前から続く道で、遠のいていく彼の背中を思いながら――。




     ● ●




 翌日。

 私は、いつものようにバスに乗って、学校へ向かっていた。

 今日は追試だ。

 本試験より簡単な問題が出るという話だけど、あまり、自信はない……。

 補修のプリントを眺めていても、頭に入ってこない。

 それに昨日は、勉強しようと思っていたのに寝てしまって――、


「よ、偶然だな」

 と、停まったバス停で、慣れ親しんだ男の子が乗り込んできた。

 ――河野留美。

 ああ、今日はバスなんだ。

 学校に自転車があるから当然なんだけど。

「……あはは、偶然ってほどでもないけどね。バスの本数、こっちはあんまり多くないし」

「そりゃそうか。登校時間は一緒なんだしな」

 何気ない会話を交わしながら、バスは発車する。

 窓の外に流れていく、朝の景色。

 雨上がりの爽やかな空気で満ちている。

 こんな日和を見ていたら、追試だという鬱屈した気分もどうでもよくなってしまいそうだ。

 なのに――、


「ま、今日はお互いがんばろうぜ、篠原」

 彼が口にしたその言葉で、私は、さっと冷静になった気がした。

 ――篠原……苗字に戻ってる。

 そっか、……そりゃそうだよね。

 河野は私がやったののお返しに、ふざけて名前で呼んできただけなんだし。

 昨日の夜、確かに私はちょっと舞い上がっていて、ベッドの中で寝る前に、変なことをぐるぐる考えていたようだけど、朝起きて、普通に戻ったと思ってたのに。

 なのに、……、なんで私、ショック受けてるんだろう……?


「……今日の追試、午前中で終わりだよね?午後はどうするの?」

「ん?あぁ、フジノんとこ行くよ」

「…………」

「昨日行けなかったしな。そろそろ顔見せなきゃ怒られちまう」

 フジノ、さん。

 その人の話をする河野は、昨日もそうだったけど、なんだかとても楽しそうで――、


 ああ、そう。その人が、河野を元気づけたきっかけ。

 その人と出会ってから、河野は急に活動的になって、ちょっと遠くに行ってしまったような感じさえする。


 最初私は、河野は私と一緒だから、私に合わせて空元気の笑顔をみせてくれているだけなのかも、と思っていた。

 だから昨日も一緒に帰ることになった時は、励ましたり慰めたりしなきゃと思っていた。

 けど私は、河野が言う色んなことに振り回されてて、結局何もそれらしいことを口にしないままで……。

 そもそも、河野は、私がそんなことするまでもなく、とっくにフジノさんによって、救われていて……、

 私じゃ……、全然だめなのかな……?

 ……。

 フジノさんが羨ましいなあ。

 どうして会ってすぐで、そんな近い距離に居られるんだろう。

 私なんて、小学校の時から一緒なのに、まだ、呼び方一つであたふたしてるよ……。


 ……フジノさんって、どういう人なんだろう?



「なんだよ篠原…どうかしたのか?」


 ……ねえ、楽しい?

 毎日その廃車両まで行って、フジノさんと会って、

 私なんかと一緒にいるより、楽しいの?


 ――――留美?




 ……なんてね。




「ううん、大丈夫。

 追試がんばろうね――――河野」



 ああ、やっぱり、この呼び方は口に馴染んでいる。

 ドキドキしたり、ムズムズしたり、恥ずかしさで顔が真っ赤になったりしない。

 家に帰ってきたみたいにホッとする、響き。

 でも、だからこそ、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、寂しかった。



 私は、ふっと笑った。

 特に理由はないけれど、強いていうなら、


 勝手に恥ずかしがって、勝手に不貞腐れて、……そんな、ばかみたいな私に対して。




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