3.Welcome to The Black Parade
さわさわと、風が葉を鳴らしている。
山の中の高台。人が通った形跡のない、獣道ですらない藪を抜けた先に、フジノはいた。
地面にはブルーシートが敷かれていて、その上には雑多な荷物が置かれている。
木々の隙間から、あの場所――廃車両の様子がはっきりと確認できる。
逆に、幾重にも枝に覆われたこの場所は周囲からは見えにくく、廃車両の方からこの場所を特定するのは難しいように思えた。
俺とフジノはこの場所から、廃車両を“監視”している。
3.Welcome to The Black Parade
学校から帰宅し、必要な買い物を済ませた俺は、ガサガサと藪を抜けてこの場所に辿り着く。
すると、フジノは変わらずそこにいて、廃車両の方を向いて座っていた。
こちらに背を向けた彼女の、表情は見えない。
ニイィィィィィィィ。
と、不意に妙な音が聞こえたような気がした。
聞こえるか聞こえないかという程度、だがどこか耳障りな音だ。
「っ……フジノ?」
俺の呼びかけにフジノが振り向く。
フジノは、何かをくわえていた。あれは、笛?
「留美。待っていたわ」
フジノがそう答える――笛から口を離すと、音が消えた。
そこで俺は、自分が耳にした異音が、彼女が手にしていた笛のようなものから発せられている音だとわかった。
「言われてた通り、メシと飲み物、買ってきたぞ」
「ありがとう」
「ところで、なんだよその音?聞いてると耳がキンキンするんだけど」
俺がそう言うと、フジノは少しだけ驚いたような表情をした。相変わらず表情は動かないのだが、意外そうな気配。
「あら。留美はこの音が聞こえるのかしら?」
「ん?あぁ、聞こえるか聞こえないかってレベルだけど……、なんだそれ?笛?」
「これは、いわゆる犬笛の一種よ。人間の可聴域を超えた音が出せるの。本来は動物のしつけに使われるものよ」
「へぇ……」
「この音が聞こえるなんて、留美はよほど耳が良いのね」
「そう……なのかな」
自分の耳がそんな特別なものだなんて自覚は今まで生きてきた限り感じたことはなかった。たぶんたまたま聞き取れてしまっただけなんだろうと思う。
――っていうか、なんでそんなもん持ってきてんだこいつは?
犬笛、という道具に対する関心よりも、そちらの疑問のほうが俺の脳裏に占める割合は大きかった。
その考えが、顔に出ていたのかどうなのか。
フジノは俺の表情をしばし眺めて沈黙してから、「ふふふ」と意味深に笑った。
「よくお聞きなさい、留美」
「ん?」
フジノは、手にした犬笛とやらをペン回しの要領でくるりと回転させ、俺に突きつけるように持ってから、サッと立ち上がってポーズを決めた。
「これこそ、秘密の七つ道具の一つ。
悪夢奏でる涙の旋律――その名も、“召喚の魔笛”」
「……はい?」
漫画と違って現実に生きる俺は、いきなりカッコいいポーズと共に決め台詞を言われても、「秘密の七つ道具のひとつめがついに出てきたか!」などと感動する以前に普通に驚いて面食らってしまうだけだった。
だが、そんな俺の反応など相変わらず気にした様子もなく、フジノは体勢を変えて更にポーズを決める。
「選ばれし悪魔の眷属にしか聞き取ることのできない、不思議な笛よ。この音色にいざなわれて現れた悪魔を、私は自在に操ることができるの」
「……ついさっき自分で犬笛って言ってなかったか?」
フジノはいつだってこんな調子だ。
いい加減慣れろ、俺。
「ってか、秘密の七つ道具?……って、あの鉄の箱だよな?」
「そうよ。私たち二人で協力して運んだでしょう」
「でもあれ、この間、廃車両荒らされた時に、なんかそこら辺に中身開けられて転がってたような……」
椅子の下の隠し場所に入れておいたはずの箱が見つけ出され、廃車両の外に放り捨てられていたのを俺は確かに見ている。
「甘いわよ留美。こんなこともあろうかと、箱の中身は全て私が持ち出しておいたわ」
「え?マジで!? 初耳だぞそんなの!」
「そのうちの一つが、早くも役に立つ時がやって来たということよ」
……いつの間に持ち出したんだか、こいつの手回しの良さは本当にすごい。
けど、人に聞こえない笛が、結局なんの役に立つっていうんだか……?
……廃車両を荒らされてから数日が経った。
フジノはこの場所――廃工場の向かい側にある山林の中で、毎日こうして張り込みを続けては、廃車両を荒らした何者かが再びやってくるのを待っていた。
学校にも行かず。恐らくは、昼夜を問わずここにいる。
――ってか、フジノって普段学校行ってんのか?
どうにもこいつが自分と同じように制服着て、学校行ったりしてるイメージが湧かない。
「……なぁ、フジノ。コーヒー持ってきたんだけど、飲むか?」
俺は持参した水筒から、熱く湯気を立てたコーヒーを注ぐ。
「ありがとう。でも今はいいわ。あまり目を離したくないから」
フジノはこちらを見ることもせず、廃車両の方向を双眼鏡で観察し続けている。
「そ、そっか……」
せっかく用意したのにすげなく断られて、俺は自分で注いだコーヒーを仕方なく自分で飲んだ。
気温が低まる秋の山。コーヒーがやけに温かい。
張り込み中は、先程のような会話はほとんどなく、普段は俺から話しかけても大体こんな調子だった。
それほど真剣なのだろう。
それは解る。別に俺を鬱陶しがっての対応ではないことも。
ただ、そうして監視に没頭し続けるフジノを見ていると、心配……というのとはちょっと違うが、気になってしまうのも事実だった。
――メシ食わないか?腹減っちゃったよ。
――見張り、代わろうか?少し休めって。
頭に思い浮かべるだけなら簡単なんだが。そう言ってもまた軽くあしらわれるんじゃないかと思うと、それらの気遣いは喉元まで上がってくるだけで、口にされることはなかった。
次第に辺りは暗くなるが、状況は変わらず。
フジノは双眼鏡を手に無言で監視を続け、俺はその後ろで手持ち無沙汰に座っているだけだった。
こんな時こそ前に持ってきたマグライトが役に立つ時……と思ったが、明かりが目立つからと言われ、結局は使わず仕舞いだった。
――なんか……あんま役立ってねぇな……俺。
ブルーシートの上に置かれたカバンやらダンボール箱やらの雑多な荷物。ここにはフジノが用意してきた色々な道具が入っている。
監視のために用意してきたモノだけでなく、フジノがさっき言ってたように廃車両から回収してきたものも含まれているようだった。
俺が買い込んできた食料や飲み物だけでなく、監視のための双眼鏡や、防寒用の毛布、果ては戦闘になった時のためだというエアガンが数挺……、
そんな品々を山の中で並べて居座っている状況は野戦キャンプじみた物々しさだ。
前に、フジノと廃車両に泊まったりしたら、さぞや楽しい展開が待っているんだろうと考えたりした。
状況だけなら今まさにそれをやっているところなのだが、夜の山は寒く、空気も緊張感に満ちていて、……正直楽しくはない。
「寒いな。フジノ」
「荷物の中に毛布があるわ。好きに使って」
気付けば文句のような言葉を口にしていた。
仕方がないと理解はしつつも、俺の中には思い通りにいかない不満がグズグズとくすぶっていた。
「こんな山の中だし、いっそ焚き火でもしたい気分だよ」
「同感だわ。そうできなくて本当に残念」
「……もう真っ暗だな」
「そうね。相手が現れた時、補足できればいいけど」
「……」
フジノの発言は結局そこに終始している。
廃車両を取り戻すために、戦争を仕掛けましょう、と彼女は言った。
あの時の俺はそれがどういう行為を示すのか理解していなかったし、こんなにしんどいなら応じなかったかもしれないとさえ今は思う。
でも、フジノは変わらず、楽しそうかどうかはともかくとして、不満の一つさえこぼさず、真剣に廃車両奪還作戦に向き合っている。
フジノと俺が、決定的に違うとすればおそらくそういうところだ。
目先の苦しさにすぐ嫌になってしまう俺と、先にある希望を見据えて耐えることのできるフジノ。
……そうしたものに気付かされる。
「留美」
と、不意にフジノに名前を呼ばれた。
この状況が始まって、フジノの方から声をかけられたのは初めてのことのような気がする。
「ブラックパレードを取り戻したら、今度はあの中で、改めてあなたと夜を過ごしたいわ」
「え……」
「焚き火をして、ご飯を一緒に作って、屋根のある廃車両の中で、シーツを敷いて横になって……、」
「……」
「留美が持ってきたマグライトの電池が切れるまでお喋りしていたら、いつの間にか眠ってしまっているの」
「あぁ、そりゃ――」
「素敵だと思わない?」
――楽しそうだな、と思ったが、言葉が続かなかった。
そんな楽しそうな未来を、この状況で思い描けるこいつの強さが、眩しくて。
あぁ、俺は、なんてつまんないヤツなんだ、と悔しくなったのだ。
ついていくって決めたのに、とことん付き合うって決めたのに、……すぐそれを忘れてしまう。
結局これじゃ、俺が励まされてるだけだ。
こいつにそんな未来を提示してもらって、目の前の辛さを乗り越える力をもらっているだけだ。
……そうじゃない。それじゃだめなんだ。
俺より真剣に向き合って、しんどくても我慢しているこいつを、俺が支えてやれるようにならないと、いけないと思うのに。
そのために、俺は――、
「――来たわ」
沈みかけた思考が、打ち切られる。
いつになく鋭く、冷たい気配を伴って言い放たれたフジノの言葉によって。
廃車両を荒らした連中が、遂に“来た”――!
「え? ま、マジで?もう?」
「……学生かしら?制服のようなものを着ているわ」
思わず慌てふためいてしまう俺に対して、フジノは冷静に双眼鏡越しの状況を確認している。
「人数は……1、2、……3……5人」
相手は五人もいるらしい。
それも、廃車両をあれだけめちゃくちゃにしてしまう気性の荒そうな連中が、だ。
「……ま、まさか、すぐ行くのか? 武器の準備なら、出来てるけど……」
「今のままでは、多勢に無勢よ。もう少し様子を見るわ」
「そ、そっか……」
フジノの判断に、俺はホッとしてしまうが、その辺りで自分がビビッていることに自覚的になって少し嫌になる。
俺ってヤツは。
しっかりしないといけないってさっき思ったばっかりだというのに。
と、
「……、フジノ?」
双眼鏡を覗き込んでいるフジノの様子に微かな違和感を覚えた。
どことなく漂う緊迫感。
何か。嫌な予感さえ漂わせて。
「……っ」
すると、フジノは双眼鏡を放り捨てて立ち上がった。
そしてそのまま、猛スピードで草むらを掻き分けてどこかへ行ってしまう。
「フジノ!? 様子を見るんじゃ……おい!?」
俺の呼びかけなど聞こえないかのように、反応のひとつもよこさないままフジノの姿は森の木々に隠れて見えなくなってしまった。
「どうしたんだ……?」
取り残された俺は、状況が理解できずに立ち尽くす。
突然なんだっていうんだ。いったい何があって――、
「あ、そうか」
俺はフジノが置いていった双眼鏡を手に取り、恐る恐る廃車両の方向を見る。
フジノのヤツ、なんであんな取り乱して……。
らしくない反応だった。だから、余程のことがあったのだろうと想像は付く。
それが何なのか。俺の中には正直、“見たくない”という意識が少なからずあった。
見てしまえば取り返しのつかないことになるような……、引き返せなくなるような感覚が。
でも、見なければならない。
ここで見て見ぬふりをしたら、それは――、
「……なんだあれ? なにやってんだ?」
双眼鏡越しに見えた廃車両の周辺には、着崩した学生服姿の男が数人いた。
そのうちの一人が、何かを高らかに掲げ、他の連中がそれを見て沸き立つ。
――あれは……スプレー缶? ラクガキされてるのか?
何か――スプレー缶を手にした一人が、廃車両の外壁に手慣れた動作でインクを吹き付けていく。
よくいる不良が、街の壁やシャッターなどにそうするように。
廃車両の壁におかしなマークが出来上がると、何が楽しいのか男たちは大いに笑い合う。
皆一様に、粗暴な立ち振る舞い。
俺みたいなのとは、明らかに違うカテゴリに属していることを示している。
と、そこで空気が一変する。
楽しげな雰囲気は消え失せ、どよめくような反応が見て取れた。
「って、フジノ!? なんで!?」
次の瞬間、連中の渦中にフジノが現れ、何かをまくし立て始めた。
男たちは突然現れた変な女に、戸惑ったような様子だ。
「まさかあいつ、廃車両にラクガキされるの止めるために?」
理解の遅い俺は、ようやくそこで繋がった感覚を得た。
廃車両に名前までつけて大切にしようとしていたフジノだ。
その大切な場所に不躾に入り込んで散らかしたばかりか、勝手にラクガキなどされそうになっている状況を見て、あいつの怒りは爆発してしまったのだろう。
今更ながら、理解はした。だが、それにしても――、
――ちょっと、これ……やばいんじゃ……、
あいつが言っていたのだ。多勢に無勢、と。いくら頭に来てたって、あんな乱暴そうなヤツらの輪の中に飛び込んでいくなんて――、
「いや、でもフジノなら、きっと一人でも……」
そんな期待が口をつく。
実際にあいつに為す術もなく投げ倒され、関節を極められた俺としては、あいつの強さに信頼を置いていたところもあった。
だが、廃車両の中から出てきた一人が、フジノを背後からバットのようなもので容赦なく殴打した。それに合わせるようにして、ヤツらは一斉にフジノに襲いかかり、数人がかかりで抑え込まれてしまう。
一対多数の戦いでは、さすがのフジノも歯が立たないのか。
殴られたのが痛むのか、フジノはぐったりしていて抵抗する様子も見えない。
そのまま担ぎ込まれるようにして、廃車両の中へ連れて行かれてしまった。
無人になる双眼鏡越しの視界。
……ここからじゃ、廃車両の中の様子までは確認できない。
「ど、どうしよう……」
――いやいやどうしようじゃないだろ俺! すぐ助けに行かなきゃ……。
でも……。俺、喧嘩なんかしたことねぇし……。
心臓の音が、自分でも驚くぐらい大きく聞こえる。
全身が震えて、手足に力が入らない。
――足手まといになるだけなんじゃ……、だったら、余計なことしない方が……?
それは、紛れもない恐怖だった。
俺は、恐い。
あの連中が放つ粗暴な気配が、そいつらにフジノが倒されたことが、
そして、何より、フジノを倒した、あの“暴力”という行為そのものが、
……フジノですら敵わなかった集団の中に自分が分け入って、あの暴力に晒されながら彼女を助け出す、という行為の重さが、
弱い俺の心身全てを怯えさせて、動かさなかった。
★ ★
廃車両に現れた男たちは、この地方で最も活気のある地区――通称「北区」の高校に通う学生であり、その中で構成される不良グループの派閥の一つだ。
北区は、賑やかに栄えている街だが、そうした街には彼らのような素行の悪い若者たちが集うのもまた世の常だった。
街には大小様々な不良グループが並存し、華やかな街並みの陰では、日夜苛烈な抗争が繰り広げられている。
彼ら五人もまた、そうして競い合い潰し合う若者たちの一部であった。
「ホイ、到着ーっと!」
「ういー、おつかれさーん」
ある日見つけた廃工場で、居心地の良さそうな廃車両を見つけた彼らは、この日再びその新たな溜まり場に集合していた。
何気なくやって来ただけの場所に見つけたその場所は、古錆びた中にあって綺麗に保たれていて、キャンプ用品のような荷物がいくつか置かれていた。
この場所を誰かが秘密基地のようにして使っていることを察した彼らは、不良らしく乱暴な発想に基づいて、この場所を強奪することに決めた。
そうして奪った新天地。だが二度目の来訪となるこの日は、前回来たときと少し様子が違っていることに彼らは気付く。
「どうした、塚本?」
「ふむ。僅かだが、清掃されているな」
塚本と呼ばれたリーダー格の男が真っ先にその事実に気が付いた。
「元々いたヤツが一度は来たってことか?」
「そのようだ。わざわざ掃除をしたということは、俺たちの暴挙を目の当たりにしても、手放すつもりはないようだな」
「へぇ、意外と肝が座ってんのかな?」
「俺たちの示威行為に屈せぬ程度には、ということだろう」
「面白え。その根性へし折ってやんぜ」
塚本と会話をしていた痩せぎすの男――張修吾は、嘲笑するように言って廃車両の中へ踏み入った。座席の一つに陣取り、持参したカバンから何かを取り出し始める。
「張のヤツ。また何かやらかすつもりらしい」
「いいのか? こないだもあいつ、勝手に窓ガラス割っちまってよ」
張の行動に心配げな声を上げたのは奥井譲――大柄で恰幅の良い大男だ。
「好きにさせてやれ。気晴らしが必要ということだろう」
「ハ!あいつ、北区じゃやられっぱなしだったからな!」
粗暴な口調で目つきの悪い少年――敷田孝宏が応じる。小柄だが、その立ち居振る舞いには荒事に慣れて久しい気配があった。
「おい、祐希! ちょっとこっち来いよ!」
「な、なんだよ」
廃車両の中から何かを持って出てきた張が、最後尾を歩いて来た遠藤祐希に呼びかけた。
彼は、五人の中で一人だけ歳下だ。自然と、こうした付き合わされるような立ち回りが多かった。
その扱いに、彼は若干辟易しつつも、立場上仕方ないという納得した気持ちも併せ持っていた。
「見ろ。こいつを」張が見せびらかすように手にしているのは、塗装用のスプレー缶だ。「今からこいつでもって、ここが俺たちの居場所だってわかるようにしてやるからよ」
「……壁になんか描くってこと?なんで?」
反応の薄い祐希に、張は面白くなさそうに鼻白む。
「バカかてめえは。今までここ使ってたのがどんなヤツかは知らねえけどな。あんだけ荒らしてヘコまねえヤツだってのは面白くねえよな?」
「や、別に……」
「おいおい、そりゃつまり俺たちがナメられてるってことだろ。おめえも男ならなんとも思わねえのか」
「いや、そうとは限んないんじゃないかと思っただけで……」
「けどよ、そんなヤツでもここに俺たちのマークがバシッと刻まれてんの見りゃあ、ビビッて諦めると思わねえか?」
「……、わかんねえけどさ」
「だーっ!はっきりしねえ野郎だなお前は!」
祐希は張が言うことがまるで理解できないとは思わなかったが、自分との温度差のようなものはひしひしと感じていた。
張は軽んじられることを誰よりも嫌う性質をしていることは知っている。
だから、こういう時、過剰に露悪的な行動を取りたがることも。
自分には、そういう思い入れはないが、歳下だから付き合うしかないか、と祐希は思った。張の気勢に合わせるのは正直面倒臭いという思いがあったが、我慢した。
「張のヤツ、今度は壁にラクガキするつもりみたいだぞ。いいのか?」
「構わん」
「ここにいたヤツ、怒るんじゃないか?」
「この程度、北区じゃ天気の挨拶のようなものだ。それに激怒するなら相手取るまでのこと」
「うーん……」
心配性の奥井はまだ何かを気にしているが、塚本は腕を組んで鷹揚に頷くだけだ。
皆、それなりに付き合いは長い。張の考えていることに理解は示している。納得するかしないかはそれぞれだが。
「へっ、壁にラクガキして喜ぶなんてしょっぺぇチンピラみてぇだな、張」
「うるせえぞ敷田! 見てろ!副リーダーの俺様が今からここに超絶クールな俺たちのトレードマークを描き込んでやっから!」
塚本がこの面々のリーダーであることは誰しも認めていたが、張を副リーダーだと言っているのは彼自身だけだ。自称に近い。
「それでいいな、塚本!?」
「ああ。お前の思いの丈を描くがいい」
「あいよ」
リーダーに後押しされて意気込む張。
他の面々はそれを思い思いの心持ちで見守る。
口では罵倒し合いつつ、そこに嫌悪の情はなく、言外に相互の理解があった。
……不良とは、そのようなものである。
「どうだ!」
意気揚々とスプレー缶を掲げ、廃車両の壁面を示す張。
そこには、形容し難いマークが描き出されていた。
「……なんだこりゃ、猫か」
「いや、これは耳じゃなくて角だろ?」
「角って、じゃあ鹿かなんかか?」
「鬼だよ!この節穴どもが!」
歯に衣着せぬ感想を言い合う仲間たちに、張が激高した声をあげる。
黒いインクで軽やかに描かれたその絵柄は、即興にしてはそれなりに見事な出来栄えだったが、万人が張が述べたような“鬼”に見えるかどうかは微妙なところだった。
「つーかよ、これオレらのマークになんだろ?こんなゴチャゴチャしてて再現できんのかよオメーは」
「やかましい!お前にノーズアートのなにがわかる!」
「いや、これノーズアートじゃないだろ……」
ああだこうだ言い合いをする不良少年たち。
皆口では張を批判するようなことを口にしつつ、その行動と反応自体を楽しんでいるような気配がある。
いずれにせよ、新天地の外壁に、彼らのシンボルが刻み込まれた瞬間だった。
すると、背後の草むらがガサガサと音を立てた。
少し輪から離れた場所にいた塚本と、勘のいい敷田の二名が、何者かがやって来たことを感知する。
「敷田」
「あぁ」
塚本の呼びかけのみで敷田は了解し、廃車両の中に消える。
それと同時に、草むらから一人の少女が現れた。
「ほう」
塚本が思わず息を漏らす。その少女が、黒々としたスーツのような、奇妙な出で立ちをしていたからだ。学生服とも正装とも違うその服装は、衣装めいて目を引く。
そして、見開いた目から発せられる強い視線が、異様な印象を与えた。
「……やってくれたわね」
現れた少女は、口惜しげにひとりごちた。
強い眼力はそのままに、表情を変えずスタスタと歩み寄ってくる。
臆する様子は皆無。
彼女はそのまま、廃車両の前でたむろする彼らの輪に踏み入った。
「この狼藉者、自分たちのしでかした事の重大さを解っていて?」
「おわ!なんだこの女、いきなり現れやがって」
「なんて、悪趣味……よくも私たちのブラックパレードにこんなものを……」
「んだとこのアマ!出てくるなり俺様のアートにケチつけやがって――!」
「お、落ち着けよ、張!」
突如現れた少女の発言に反発する張を、祐希が諌めた。
次いで、その少女の姿と、放たれる独特の威圧感に思わず気圧される。
「お前……もしかして、この廃車両の……?」
「立ち去りなさい。抵抗すれば私も容赦しないわ」
「ちょ、ちょっと、いきなり何言って――」
冷静な表情と声音をしながら、少女は聞く耳を持たない。
会話を試みようとする祐希の襟首を掴み、従わせようとしてくる。
その強引さに、近くにいた張と奥井も戸惑いを隠せない。
「ハ――、しゃらくせぇぞ!」
と、場の空気を変えたのは、廃車両の中から現れた敷田だった。
敷田は現れるなり、手にした金属バットで少女を背面から殴打する。
「ぐっ……、」
衝撃にバランスを崩した少女。敷田はすかさず彼女を蹴倒し、戸惑う周囲を一喝する。
「なにしてんだテメェら! 今すぐこいつをふん捕まえんだよ!」
「……っ、っと、そうだな!奥井」
「お、おう……!」
敷田の発声に、張と奥井が反応し、崩れ落ちる少女の手足を捕まえて拘束する。
殴られたのが痛むのか、少女はそれまでの強気な態度から一変しておとなしくなっていた。
「う、うぅ……」
うめき声を上げる無抵抗な少女を、敷田たちは担ぎ上げるようにして廃車両の中へと連れ込む。
……その一部始終を、祐希は呆然と眺めていた。
「な、なんなんだよ……」
突如現れた少女についてもそうだが、その闖入者を容赦なく殴り倒したあげく拉致するような行動を取る仲間たちにも理解が追いつかない。
……遠藤祐希は、戸惑っていた。
彼は、塚本に誘われる形でこのチームに加わった。
敷田のように喧嘩などしたこともなく、張のように反骨心から暴れまわりたい欲求も特にない。
そういう意味では、純粋な不良とは言えないのかもしれなかった。
だが――、
「祐希」
塚本が名を呼ぶ。
自身をこの場へ連れ出してくれたリーダーが。
「何を呆けている。お楽しみの時間はここからだ」
このように、何ひとつ動じない彼の強さに憧れるようにして、つるみ始めた関係性。
……それに追いすがるようにして、祐希は彼らの後を追った。
車内に連れ込んだ少女を、乱暴に地面に押し倒す。
運び込まれる最中で意識を取り戻した彼女は、激しく暴れて抵抗した。
「ブラックパレードを荒らしたのは、やはりあなたたちだったのね」
三人がかりでどうにか抑え込んだが、着衣は乱れ、地面に組み伏せられながらも、その眼光は少しも強さを失わない。
「私はとても怒っているのよ。今すぐこの場所から出ていきなさい」
語気は平坦ながらも冷ややかなその口調に、彼女を知る者ならばその心中が穏やかならぬことを理解しただろう。
だが生憎と、少年たちには強がりにしか聞こえなかったようだ。抵抗の言辞も、嘲笑でもって聞き流される。
「フン、この状況で何言ってんだテメェ。立場わかってんのか?」
初手を加えた敷田が、倒された少女の髪を掴み上げる。そうされると解っていたのか、少女は苦しげな顔を浮かべるだけで耐えた。
「素っ裸にでもすりゃ、ちったぁ可愛い声で鳴いてくれんのかぁ。アァ?」
「……、たいした悪党ぶりだこと」
嗜虐的な敷田の態度に怯えた様子はなく、少女は涼やかに言い返す余裕があった。
「ぷっぶふふ!悪党だってよ」
対する敷田も、その豪胆さをおかしげに笑うだけだ。
彼女が暴れても、三人がかりで抑え込んでいる。どうにでもできると高を括っているのだろう。
「おい、お前もこっち来いよ祐希。こいつ体つきは貧相だけど、見た目はかなりいい女だぜ?」
少女を脇から見下ろしていた張が下卑た口調で背後に呼びかける。
「えっ、でも……」
後方で見ているだけだった祐希は、不意に名を呼ばれて戸惑った。無意識に、押し倒された少女の、服が乱れてあらわになった肢体が目に入る。
すると、祐希の更に後方――椅子に座って煙草を吹かしていた塚本が立ち上がり、祐希の肩を突き飛ばすように押し出す。強引さはあれど、あくまで自然に、されど有無を言わせない圧力がそこにはあった。
「お、おい、お前ら……いきなり、なにすんだよっ」
転がり出るように少女の前に出された祐希。
「祐希、こいつはお前に譲ってやろう」
「え?」
事態が飲み込めずにいた祐希に、塚本がそう言った。
「社会勉強の一環だな。お前は酒も煙草もやらないんだ。女の味くらい覚えておけ」
塚本の采配に、周囲の連中は声を上げて笑った。
「ぷっぶふふ!」
「あーあ、童貞だってバレちゃったなー!」
年長者たちは好き勝手言いながら、道を譲るように少女の拘束を解く。
一旦自由になった少女と、祐希は直近で向き合うような体勢になる。
異性との経験がない祐希は、眼前に座り込む少女に、どうすべきなのか判断しかねた。仲間たちが、何をさせようとしているのか、頭でなんとなく理解はしつつも。
だが、
「私に対して狼藉を働きたいのなら、好きにすればいいわ」と、少女は動揺などまるでないような口調で言う。「でも、この場所は絶対に返してもらうわよ」
こちらが優位に立っていることすら忘れさせるような物言いに、祐希は苛立った。
彼女を突き飛ばす。異性に乱暴な行為をしたくない、という躊躇いは、今の一瞬で彼の中から吹き飛んでいた。
「お、お前、まだそんなこと言って……っ! 今の状況、わかってんのか!?おい!」
威嚇するように声を張り上げて、倒れた彼女に覆いかぶさる。
上に跨がられるような体勢だ。普通の女子なら、怯えて然るべき状況。少なくとも祐希はそう思った。
「あなたこそ、何を解っているというの?」
だが、相対した少女は少しも揺るがなかった。
いったい、この女は何者なのだろう?
――普通じゃない。何かおかしい。
そんな思いが徐々に現実感を伴って去来する。
「私たちのブラックパレードをボロボロにして、中のものを無理やりに暴いて、あげくの果てには、あんな趣味の悪いラクガキまで、……あなたは、本当にこんなことが楽しかったの?」
「……っ」
「恐いんでしょう?」
「――!」
見透かしたような言葉が耳朶を打つ。
祐希自身でさえ、ぼんやりと抱いていただけのような心持ちを、この見知らぬ女が浮き彫りにするような感覚。
「このまま生きていても、十年後、二十年後には虫のようなつまらない大人になっているだけだものね。
それが恐くて、だから毎日、こんな八つ当たりのようなことを繰り返しているんでしょう?」
背後に立つ仲間たちの表情は伺い知れない。だから、この少女の言葉を聞いて、何を感じたのかはわからない。
だが、祐希は、心の奥底がえぐられるような感覚を覚えていた。
「だけどこの場所は、もっともっと楽しいことができる、奇跡のような場所なのよ」
そこで祐希の頬に何かが触れた。
「だから、祐希。あなたにも、この一生に一度の奇跡に関わる機会をあげるわ」
それが、眼前で横たわる少女が差し伸べた手だということを、祐希は名を呼ばれて初めて理解した。
「――私を救って、ヒーローにおなりなさい。
そして一緒に、素敵な大冒険を楽しみましょう」
信じられない。この少女は、自分が押し倒され、今から何をされるのかもわかっているであろうに、そんな状況で自分を仲間に引き入れようとしている。
ああ、でも、その言葉はなんて、楽しそうで、夢と希望に満ちていて――、
「ぷっ、ぶはははははははっ!!」
と、祐希の思考は背後から上がった複数の大笑に打ち切られた。
次いで、背後からしっかりしろとばかりに背中を叩かれる。
「バーカ!要するに助けてくれって言ってるだけだろ! 祐希、黙って聞かねぇでいいぞ!」
声の主は敷田だった。彼――彼らには、この少女の発言はそのように解釈されたらしかった。
「……、……で、でも」
しかし、祐希は、腑に落ちなかった。
そうとはとても思えなかった。
この少女は、自分が悩んでいた、どこか鬱屈していた何かを取り払う、何かを与えてくれるような気がした。
回りくどい言葉で煙に巻こうとしているのでは断じてない、と思った。
――俺は、本当は、この子を……、
「良かった」
と、不意に真下の少女がつぶやいた。
それが、自分の心情を汲んで安堵したかのように見えて、祐希は「ああそうだ、俺はやっぱりこいつを助けなくちゃ」と思ったところで、
「結果論だけれど、時間稼ぎにはなったみたいね」
少女の物騒な発言から、どうもそうではないらしいことを察する。
「――は?」
その言葉の真意を理解できなかったのは、祐希以外の面々も同じことだった。
何かが起きようとしていることを直感から察した者が、警戒するよりも先に――、
――全員の背後から、激しい発射音と共に、鋭い痛みを伴う何かが雨のように浴びせられていた。
何事か、と振り返ると、眼鏡を掛けて学生服姿の、いかにも気弱そうな少年が、手にした短機関銃によって掃射を行っていた。
実銃ではない。地面に落ちて転々と弾んでいるのはエアガン用のBB弾だ。
「フジノッ!」
エアガンを乱射しながら、現れた少年が叫ぶ。
突如として弾幕に晒されることになった不良たち五人は、不意を突かれてどよめいた。
「あだだだ!」「な、なんだよ突然!?」
張と奥井は慌てふためき、咄嗟に顔を守ろうとうずくまる。
祐希も混乱しつつなんとなくそれに倣おうとしたが、それは悪手――その隙を突かれて、組み伏せていた少女の離脱を許してしまう。
「フジノ、早く!」
「ええ」
少年に名前を呼ばれ、そちらへ駆け出す少女。
そうはさせまい、と敷田が立ち上がった。
「てンめェ、調子にのんなや!」
鋭い踏み込みによる右ストレートが、エアガンを持った少年の顔面をしたたかに打ち据える。
射手が殴り飛ばされたことによって掃射は止み、どうにか体制を立て直す不良たち。
だが、すばやく走り寄った少女によって、少年は助け起こされていた。
「走るわよ」
一声と共に手を引いて、少年の手を引いて走り去っていく少女。
敷田は追おうとしたが、すかさずエアガンを掃射され、二人は逃げおおせてしまった。
「だーっ!畜生! 逃げやがった!なんなんだあの野郎!」
「他に仲間がいたとはな。侮りすぎていたようだ」
敷田は地団駄踏んで悔しがり、塚本は冷静に状況を把握しようとしていた。
「怪我はないか、お前たち」
塚本の問いかけに、張と奥井は「いでで……」と呻き声でもって応えた。
「結構。無事なようだな」
「クソ!目に入ったりでもしたらどうしてくれんだ。無茶苦茶しやがるぜ!」
「惰弱なことを言うな、張。単なる玩具だ。当たりどころが悪かろうが死にはすまい」
「よく言うぜ!真っ先に伏せてやがったくせによ!」
「フ……、祐希?そちらは平気か?」
「あ、ああ……」
突き飛ばされて大の字に寝転びながら、祐希は曖昧に返事をした。
仲間たちが何か言っていたが、耳に入らない。
彼が考えていたことは二つ。
一つは、あの少女は“フジノ”という名前なんだ、ということ。
もう一つは、手にしかけた大切な何かが、こぼれ落ちていってしまったような気がする、ということだった。
……かくして数奇な偶然から、遠藤祐希は――主人公になりそびれた。
★ ★
廃車両からどうにか脱出した俺たち二人は、廃工場の敷地も抜け出し、山沿いの道路辺りまで逃げてきていた。
追手はない。適当にエアガンを撃ちまくって足止めをした上に、この暗さだ。あいつらも追撃を諦めたようだった。
「はぁっ、はっ……はぁっ……!」
必死だったから気にしなかったが、気付けば相当長い距離を全力で走って逃げていた。
立ち止まった俺は膝に手をついて、荒い呼吸を抑えている。
廃車両に突入した時から今の今まで、震えがまだ収まらない。
本当に恐かったし、危ないところだった。
不意を突かれて一発顔面に喰らったが、口の中を少し切った程度で済んだ。でも、もし捕まっていたらもっと酷いことをされていたかもしれないと想像すると、恐怖はいつまでも過ぎ去らない。
――俺だけじゃない。フジノだって、もうちょっと遅かったら何されてたか……、
それは、恐怖というより、嫌悪に近い。
あいつらに対して、というよりは、それを許した自分に対しての。
「……まさか、あんなに笑われるとは思わなかったわ」
だというのに、フジノといえば相変わらず余裕そうに髪をかきあげながら、まだそんなことを言っている。
あれだけ走ってきたというのに、呼吸もほとんど乱れていない。
「……、おまえ、なぁ……」
「さらには私の貞操を奪おうとするなんて」
「おまえなぁ!」
その態度に俺は苛立ち紛れに声を荒げてしまう。
こいつは、いつもあんな調子だから自分が何されそうになってんだか解ってないんじゃないかと半分くらい思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
フジノは自分がいかに危機的状況下にいたか、普通に理解している。
そのくせ、余裕そうな素振りでそんなこと言いながら、着衣を直したりしている。
だから俺はこいつの無謀さだとか、助け甲斐のなさだとか、助けた俺のほうが逆に助け出されてきたみたいになってる状況だとか、色んな物に腹が立って、さらに言葉を次ごうとした時――、
「それに、あなたが代わりに殴られてくれるなんて、思いもしなかった」
フジノが急に俺の方に向き直って近づいてくるものだから、何も言えなくなってしまう。
フジノは両手で俺の顔に触れて、すぐ近くからまっすぐに俺の方を見つめてきた。まるで俺の心の奥底まで、見通して逃さないとするように。
いつもどおりのようでいて、どこか優しげな声音。
慰めるように、殴られた頬を撫でる指先。
そういう、計算され尽くしたみたいにしてあるこいつの全部が――、
「っ……、お、おい、馬鹿……離れろよ……!」
「口ばかりで自分から離れようとはしない辺り、あなたらしいわね」
「……っ!?」
「本当、ずるい子」
言って、フジノは俺の頬に添えていた手を肩に乗せ、その上に顎を乗せるようにして密着してくる。俺にもたれかかるように。離れようとしても、離れられないように。
「心配かけて、ごめんなさい」
謝罪の言葉が、耳元で囁かれる。
「あそこは、留美と私の場所だから、大切にするつもりだったのに、あんな下衆な連中に汚されてしまった。
……そう思ったら、留美との思い出まで踏み躙られた気がして……、気が付いたら、走り出してしまっていたの。……これでも、反省しているのよ」
気付けば、腕は首の後ろに回されていて、俺はフジノに抱きしめられている。
それは彼女がそこにいて、無事でいてくれたことの何よりの証明だった。
「ありがとう。守ってくれて。
留美が来てくれて、本当に頼もしく感じたわ」
――やめてくれよ。
俺は、心の中で叫ぶ。
――あんな場所一つのために、そんな必死にならないでくれ。
――俺を頼もしいだなんて、言わないでくれ。
俺は、そんなヤツじゃないんだ。
ズルしておまえに勝って、あまつさえ何も考えずにおまえを慰めて、たまたま、今ここにいるだけのヤツなんだ。
そんな、抱きしめてもらえるような、心からの感謝の言葉を向けてもらえるような、価値のある人間なんかじゃ、ないのに……!
でも、
……それでも、そんな言葉が、嬉しくって仕方がねぇよ……!
「よかった……っ!」
「ええ。本当に」
……気が付けば、
「フジノッ、無事で……っ!」
「ええ。あなたのおかげよ」
俺もフジノの背に手を回していて、
「よかった……」
「ええ。私もよ」
泣きじゃくりながら、そんな言葉を繰り返していた。
涙の理由は、言葉通りじゃない。
否、フジノが無事でいてくれて、良かったのは本当だ。
でも、それだけじゃなかった。
勇気を振り絞って、恐怖を堪えて、フジノを助けに行って良かった。
その結果、取り返しの付かない事態にならずに済んで、良かった。
そうした行動を、フジノに感謝してもらえて良かった。
フジノに褒めてもらえて良かった。頬を撫でて、抱きしめてもらえて良かった。
彼女が俺みたいなヤツを信頼してくれて、良かった。
……自分が無価値じゃないって、思わせてくれて、良かった。
そんな、嘘と隠し事ばかりの、どこか不純な、涙――。
しばらくそうして身を寄せ合って、涙も感情も落ち着いてきた頃。
フジノはいつもの調子で「留美」と俺の名を呼んだ。
「あなたを傷つけておいて、おこがましい話だけれど、私はやっぱり、あの場所を失いたくないわ」
「……、あぁ」
「だから私は、もう一度、彼らに闘いを挑もうと思うの。ついて、来てくれるかしら?」
「……あぁ!」
「――、ありがとう」
耳元でそう囁かれて、フジノの身体が離れる。
俺は力強く立ち上がった彼女の姿を、見て、心を強く持とうとする。
「始めるわよ、留美。
彼らを残らず打ち倒す、私の素敵な作戦をね」
俺は、彼女についていく。
もう迷ったり、怯えたりなんか、しないようにする。
今度こそ本心から、そう、決めた。
★ ★
廃車両の中。不良たちはリラックスした雰囲気でくつろいでいる。
つい先程、妙な二人の乱入により騒然としていたが、彼らは各々引っかかりを覚えつつも深く気にしないことにした。
「……にしても、さっきの連中、いったいなんだったんだ?」
「さぁなー。大方、ここらへん遊び場にしてた地元のヤツだろ」
張と敷田は酒盛りをしながら、そんな話題を交わし合っていた。
いいように逃げられたことに対する悔しさはありつつも、今となっては酒の肴に過ぎない。
「つーかあの女、自信満々でやって来たくせして、全然ショボかったな」
「彼氏に助けられてたしなァ」
「逃げ足だけはハンパなかったけどな!」
「確かに! ぶっはっははは!」
「ぎゃはははは!」
哄笑する二人。
言葉尻は酒の力も相まって勢いづいている。
情勢は自分たちの完全勝利で、あの二人が戻ってくるかもしれない、などという想定は彼らの中には微塵もなかった。
「おい奥井。どこへ行く?」
「ちょいションベン。すぐ戻るよ」
椅子に座って煙草を吹かす塚本にそう告げて、奥井は廃車両を出ていく。
当然ながら、ただの路面電車であるこの空間に便所はない。用を足すには屋外でせねばならなかった。
「……」
そんな中、どこか思いつめた表情の祐希。
「祐希」彼の心中を察した塚本が声をかける。「つまらん事を考えているようだ」
「そ、そんなこと……ねえけど」
「本当にそうかな?好機を逃したことを悔いているように見えたが」
「……それ、どういう意味で言ってんだ?」
「さてな。語れば無粋という類の話題もあるだろう」
「……ふん」
塚本の言葉は一面では祐希の心情を言い得ていたところもあったが、きっと齟齬があると祐希は思っていた。
――俺、本当はあいつについていくべきだったんじゃないのかな……?
そんな思いが捨てきれない。
こいつらと過ごすのは嫌じゃない。それは本当だ。
だがしかし、満ち足りない思いが存在していたこともまた事実だった。
このやり場のない気持ちを打破する何かが、あの少女――フジノにはあったような気がしてならない。
「ん……?」
と、そこで祐希は声をあげた。
「どうした?」
「いや、今なんか……外で変な音がしたような……」
「そうか?動物でもいるのかもな」
「……そっか」
言われてみれば、ここは山の中だ。野生動物の一匹ぐらいいて、近くを通り過ぎても何も不思議ではない。
変に敏感になっているような気がして、祐希はなんとも白けた気分になる。
「しかし、なんにせよ、だ」と、塚本が話題を切り替えるように言った。「ようやくややこしい「北区」を出てここまで来たんだ。しばらくは平和に暮らしたいものだな」
“平和に暮らしたい”。
荒事ばかりの不良学生らしからぬ発言だったが、場に居合わせた一同は口々に「ったく、ホントだよな……」「違ぇねぇ」と同意を示した。
「塚本の判断は正しかったぜ。あんなとこ、命がいくつあっても足りねえ」
「真っ先にトンズラしたって思われてんのはちょっと癪だけどな」
「気にすることはない。今頃他の連中も、俺たち同様逃げ出す算段でも立てている頃だろう」
「どうにかしようってヤツはいないもんかね?」
「……期待できまい。なにせあの女――中村亜美香の怪物ぶりは、俺たちとは別次元だ」
得体の知れない話題を繰り広げつつも、彼らには相変わらず緊張の色は薄い。
彼らは未だ知らない。
過ぎ去ったと思われた事態が、再び迫っていることを。
★ ★
廃車両のすぐ近く、崩れた建物の陰に潜む俺とフジノ。
こちらから見た廃車両は明かりが灯っていて、状況は一目瞭然だった。
その明かり自体もフジノが用意した電灯ランタンで、勝手に使われていること自体は腹立たしいが、状況的には俺たちにとって有利に働いている。
俺とフジノはそれぞれ準備をした上で、身を潜める。
廃車両に居着いた不良たちを、今度こそ徹底的に追い払うための――再襲撃。
「……っ、出てきたっ」
声を潜めて言う。不良たちのグループの一人――大柄な体格の男が、廃車両から歩み出てくる。
「私を取り押さえていた人間の一人ね。最初に仕留められるのが前衛だなんて幸運だわ」
「仕留めるって……まるで暗殺者みたいな言い方だな」
「これからすることに大差はないわ」
フジノはどことなく悪そうな笑みを向けてきて、俺にはそれが頼もしく映る。
「留美、アイテムの準備はできていて?」
「あ、あぁ、もちろんだ」
「手筈通り行くわ。私を信じていてね」
「あぁ」
暗殺者みたい、と言った表現を体現するかのように、フジノは音もなく暗闇に消える。元々黒い服を着ていて見づらいこともプラスだ。
俺は廃車両から出てきた大柄な男を補足しながら、見つからないよう気をつけて後を追う。
「ふー、やれやれ……」
暗闇に響く声。
廃車両の前方――排水口のある水場で、相手は用を足している。
予想通り、小便のため出てきたようだった。
廃車両内にトイレはないから、待っていればそのうち出てくるだろうとフジノが言っていた通りだった。
連れ立って出てきたとしたら難しいが、単独だったことも運がいい。
「さて、と」
ガチャガチャとベルトを締め直す音が止む。
まだ動かない。ぼんやりと呑気に夜空でも眺めていた。
チャンスだ。
「――楽しそうね」
「へ?」
どこかで聞いたようなセリフの後、素っ頓狂な声がしたと思ったら、状況は既に決していた。
衣擦れのような音がした後、バタンという少し大きな音がする。
フジノが初めて会った時の俺に対して行ったような関節技だ。
喰らった俺はよくわかる。あれをいきなりやられて、抵抗できる人間なんていないだろうことが。
「痛ッ……! な、おめェはっ……!?」
「動かないで。喋らないで。何も考えたりしないで」
「っ、クソ……、いつの間に……?」
「喋らないでと言っているのに」
「――っ? いっ、ひ、ぎっいいあああ!!」
微かに聞こえるフジノの声と、あの大柄な男の悲鳴。
暗くて、俺の方からははっきりと姿は見えないので、フジノがどんな凶悪なサブミッションを極めているのかは不明だ。
どこか楽しそうな声。いや、あいつは絶対に楽しんでいる。
――鬱憤たまってたんだろうなぁ、あいつも……。
俺は気の毒な気分になりかける。
「勘違いしないで。お願いしているんじゃないわ、これは命令よ」
「ぎっ、があぁ!? やめっ、ああああ!」
「気持ちよすぎて、壊れてしまいそう?」
というか、遊びすぎじゃないかあいつ?
廃車両の方からは他の連中の騒ぎ声が聞こえてくるので気づかれてはいないようだが、ちょっとだけヒヤヒヤする。
「う、うぁ……っか、が……」
「……ようやく静かになったわね。物分りの良い子は好きよ」
流石にフジノもこの辺りだと思ったのか、相手の声は聞こえなくなった。
生きた心地がしなくなっただけなのかもしれないが。
「留美」
「お、おう」
呼ばれて、俺は近づく。
暗闇の中で、あの巨漢がフジノに絞め落とされている様子はちょっとしたホラーだ。
「縛って」
「わ、わかった」
言われたとおり、俺は用意したロープで気絶しかけた男を縛り上げ、タオルを使って猿ぐつわを噛ませた。
俺はフジノと違ってこういうのは素人なので、いずれ解かれてしまうかもしれないが、しばらくは大人しくしていてくれるだろう。
「まず、一人目。鮮やかな手際よ、留美」
「おまえが言うなよな……」
俺とフジノは小さくハイタッチを交わして、すばやくその場を立ち去った。
作戦は、まだまだ続く――!
廃車両の中からは、相変わらず連中の会話が聞こえてくる。
細かい内容まではわからないが、仲間の一人がなかなか帰ってこないことに対する疑問の声はまだ上がっていないようだった。
俺とフジノは息を潜めて、廃車両に近づき、入り口――ではなく、側面に身を潜り込ませる。
車両の下方――車輪やエンジンを始めとする機関がひしめく動力部を通り抜けて、俺たちは中に入ろうとしていた。
……この場所がいくつか部品が引き抜かれていて、人が通れる広さをしていること。
……そして、車内の床に設けられた鉄板が、この場所と車内をつなぐ扉になっていることを、初めて来た時に俺たちは確認している。
「行くわよ。用意はいい?」
「あぁ……」
まさかこんなにも早く、こんな展開でここを通り抜けることになるとは俺も思ってなかったが。
本当、フジノといると、何が起きるかわかったもんじゃない。
「作戦は把握した?」
「……大丈夫だ。いけるよ」
俺とフジノは小声で会話し、頷き合う。
片手には武器であるエアガン。もう片手には拘束具であるロープ。
準備は万端だ。
「そう、それじゃあ始めるわよ、留美。――私たちの、ブラックパレードを」
そして、フジノの一声で、俺たちは頭上の扉に手をかけた。
二人で力を込めると、床の鉄板が音を立てて開け放たれた。
すかさず俺たちは機関銃を手に、廃車両の内部に飛び出す。
「構え、撃て」
フジノの号令で、俺たち二人は一斉掃射を開始する。
エアガンといえど、場にはけたたましい発射音が鳴り響いた。
「な、なんだァ!? 痛ェッ!?」
「エアガンだ! さっきのヤツらが……っ!」
既に一度エアガン攻撃を喰らっている連中だったが、こんなの慣れるもんでもない。
しかも今回ヤツらは酒でも飲んでいるらしく、反応がとても鈍っている。
「チッ。お前たち、外に出ろ!室内では奴等のいい的だ」
リーダー格の男が声を発し、連中は這々の体で入り口目掛けて逃げていく。
さっき俺を殴ったヤツも前回のように向かってくることはなく、乱射攻撃からの離脱を選んだようだ。
フジノの読み通り……だ!
エアガンを打ちながら追撃を始めるフジノを援護するように、俺はすかさず車内の電灯ランタンを消す。
暗闇に包まれる車内で、慌てふためく不良たち。
突然暗くなった場所で、エアガンを自分に向けて撃ちまくられるというのは、恐怖でしかないだろう。
「留美。ロープを」
「あぁ!」
言われて、拘束具の用意をする。
なんて素早いんだ。フジノは暗がりと銃撃のどさくさにまぎれて、逃げ遅れた一人を捕まえてまたもや締め上げていた。
あれは、廃車両にラクガキをしていたノッポの男だ。フジノにとって、特に憎たらしい相手の一人かもしれない。
指示通り、俺はロープで男を縛り上げ、ガムテープで口を封じた。
「ん―っ! んーっ!」
「ふふ、恐怖に歪んだ無様な顔をしているわ」
「おまえ、それじゃ完全にこっちが悪役だ……」
「これであと三人。本当はもう一人くらい捕まえる予定だったけれど」
「次の作戦に移行ってことで、いいな?」
「ええ。ここが命の張りどころよ、留美」
「冗談じゃねぇって……!」
そんな言葉を交わし合って、俺たちは別方向に移動する。
俺は来た道――廃車両の腹を抜けて外へ、フジノは入り口から外へ。
「命拾いしたつもりでしょうけど、逃がしはしないわ。
地獄の直行便はあなたたちが思っているより、ずっと足が早いのよ?」
俺に聞かせるようにして、そんなセリフを口にするフジノ。
その言葉をもって次の作戦が、開始される――!
★ ★
「いたぞ! あそこだ!」
「やられっぱなしではいられん。捕まえろ!」
俺を見つけた不良たちが、そんなことを言いながら追いかけてくる。
もうしばらく逃げ回っているかと思ったが、追いかけてくるのは意外と早かった。
でも、途中で反撃に転じてくるってのも、フジノが読んだ通り。
ここまでは、面白いぐらい、あいつの作戦通りに事が進んでいる。
どうか、最後までそうあって欲しい。
インドアな俺があいつらと徒競走をしても負けは目に見えている。だから、そんな馬鹿な真似はしない。
「……よし!」
俺は覚悟を決めて、制服の上着を脱ぎ捨てる。
そして、事前に用意していた移動手段――ロードバイクにまたがった。
軽快に走り出す自転車を運転しながら、俺はフジノが語った作戦の説明を思い返していた。
『――いいこと? この作戦の要点は「各個撃破」よ。こちらは数で劣っているのだから、その不利を覆す必要があるわ。
まずはブラックパレードの外で待機をして、誰かがトイレに出てきたら一人。
その後、私たち二人で突入からの強襲によって、さらに一人か二人。
ここまでの流れで、二人以上は仕留められるわ。
問題は、連中がブラックパレードを飛び出してから。
留美の任務は陽動。要は囮ね。ロードバイクの機動力を生かして、彼らの注意を引きつつ、上手く逃げ回って欲しいの』
言われた時は無茶を言う、と思ったが、今実際にやってみて本当にそう思う。
もちろん、機動力では負けるはずはないが、ロードバイクはそもそもこんな舗装もされていない悪路を走るようには作られてないんだよ……!
――親父には悪いけど、どうせならマウンテンバイクを買ってくれればよかったのに!
そもそもこんな使い方をしていたら、今回で乗り納めになってしまうかもしれない。
せめて作戦完了まで、持ってくれよと俺は祈る。
『私はその合間に、少し離れた場所から彼らを狙い撃つわ。
銃撃を受けながらの全力疾走なんて続くものじゃない。やがて少しずつ、留美を追う数は減っていくでしょう。
私はそうして、走り疲れた相手の背後からそっと忍び寄って、一人ずつ……刈り取っていくから』
ダラララララッ!!
銃声が聞こえる。エアガン特有の軽い連射音。
そして、それに紛れて何かが倒れるような音や、悲鳴が混じっていく。
俺は、背中から迫りくる追跡者にビクビクしながら、フジノを信じてロードバイクを走らせる。
緊張する。恐い。逃げたい。息苦しい。
ああ、なんて面倒だし、無茶苦茶な作戦なんだ。
でも、決して出来ないわけじゃない。
フジノだって、そう判断したからこそ、俺に任せたんじゃないか。
――だったら、やらなきゃ。
フジノに、ちゃんと付き合ってやるって決めたのに、何をすれば役に立てるのか、わからなくて、恐かったけど、
『追いかけてくる敵が一人になったら、留美はその相手を私のいるところまで誘導して』
『おまえの居場所……? そんなの、どこに行けばいいんだよ』
今も、
恐いのは、何も変わらないけど。
『それはこの、”召喚の魔笛”が教えてくれるわ。
この笛の出す高周波を、きちんと聞き取れるのはあなただけよ。耳を澄ませて、私のところまでたどり着いて』
でも、
俺にしか出来ないことがあるって、フジノは言ってくれたんだ。
ニイイイィィィィィィィ――
聞こえないはずの笛の音を、俺の耳は確かに捉えた。
音に導かれて進んだ先に、見間違えるはずのない、黒い立ち姿が目に入る。
俺は、笑ったんじゃないかと思う。
あいつが、よくそうするみたいに、
ニヤリと。
「フジノォッ!!」
名前を呼びながら、駆け抜ける。
「了解」
すれ違いざまにそんな応答を受けて、俺は戦線を離脱した。
俺の出番はここまでで、ここからは、あいつの出番だ。
俺は、ちゃんとやり遂げられたみたいだ。犬笛の音と、あいつの姿を確認して、それが確信できた。
今はそれが、嬉しくって、誇らしい。
★ ★
「あら」
ロードバイクにまたがって疾走していく留美を見送ったフジノの元へたどり着いたのは……、遠藤祐希だった。
「最後まで残ったのはあなただったの。なかなか頑張るわね」
ぜーぜーと息をつきながら、祐希は足を止めた。
フジノを見据える視線は、どこか恨みがましい感情が込められている。
「お前……くそ、騙しやがって……! 何が、ヒーローだよ……!」
祐希からすれば、そのような気分だった。
彼にとってのフジノは、彼を鬱屈から拾い上げてくれるヒロイン。
そう信じて、ついていってもいいと思っていただけに、彼女から受けた手痛い逆襲には、まるで裏切られたような気分にさせられた。
――しかも、俺じゃない……違う男と一緒に……!
祐希は、留美のことなど知らない。
彼と彼女が、どのようにして出会って、どのような関係性でいるのかも。
「騙すだなんて人聞きの悪い。今更言っても仕方のないことだけれど、あれは本気の言葉だったのよ。留美に助けられたのは、正直、予想外だったもの」
白々しい言葉であるように聞こえた。
本当に今更だ。
――じゃあ俺はいったい、どうすれば良かったんだ。
あの男が出てくる前に、お前の言葉に応じてれば良かったのか?
祐希の中に、詮無い思考が渦巻く。
「ふふ、どうしたの? 私たちとの冒険が楽しみで仕方がなかったという顔をしているわね」
「……っ!」
「なんなら特別に、今からでも一緒に連れて行ってあげましょうか?」
歯噛みする。
今更そんな言葉、応じられない。
――どうして、もっとちゃんと誘ってくれなかったんだ。
あの時、俺の心をもっと強く揺さぶって、お前についていくのが一番最高だって思わせてくれたなら、
こんな気持にならなかったのに……!
「俺らに手も足も出なかったくせに、っザケんじゃねえぇぇ!!」
吼えた。
最早祐希には、それぐらいしか残されていなかったから。
不良としての最後のプライド。
喧嘩もできない、特技もない、凡庸で普通な自分を見出して、あんな扱いでも仲間として迎え入れてくれた塚本たちに対する義理もある。
それらの想いを込めて、フジノに立ち向かうしかなかった。
ただ、どうしてだろう。
彼らと共に過ごす日々よりも、
……この少女と過ごせたかもしれない仮定の未来に、魅力を感じてやまないのは?
「可哀想な子。全員でよってたかって出した結果を、どうして一人で出せると思うのかしら?」
そんな祐希の高望みを嘲笑うかのように、
既に救われておきながら、より良い救いを求める強欲さを見下すように、
フジノという名の彼女は、ニヤリと笑って、
「一対一なら、
――私が遅れをとることなどなくってよ」
気付けば祐希は地面に投げ倒されていた。
「あれ? え?」
一瞬の出来事だった、自分が殴りかかっていたはずなのに、今は自分が仰向けに倒れ伏している。
気がつくのが遅かった。
腕っぷしの強い敷田も、あんな図体の奥井も、一対一とはいえ、なんでこんな少女に為す術なく敗北したのかを、もっと考えるべきだった。
力で相対したわけはない。それを制するだけの技を、この少女は身につけている。
否、考える暇もなかった。
彼らは皆、一様に、影のように忍び寄った彼女に、叩きのめされていたのだから。
「留美のように、一人で私と対峙したことがあれば、解ったはずのことなのにね」
仰向けに転がされ、手首を極められている。
徐々に伝わる痛み。怪我させたりはしないだろう。でも耐え難い苦痛がもたらされる。
負けを認める以外の選択肢なんて、なかった。
そんな中で、祐希は思った。
――ああ、こいつはなんて鮮やかで、格好良くて、楽しそうなんだろう……?
そんな風に自分もなれたら、どんなに気分がいいだろう。
そのようなことを、祐希は思った。
★ ★
廃車両を巡る、壮絶な戦いを終えた翌日。
あの後、無事に不良たちを追い出した俺たちは、勝利を祝うのは後日にしてひとまず解散した。
夜中に家に帰った俺は疲労困憊で、そのまま泥のように眠りに付いたのだが、どういうわけか翌日は奇跡的に普段の起床時間に目が覚めて、とりあえず学校に行った。
就寝しながらも、戦いの最中に感じた高揚がずっと続いていたのかもしれない。
だが、そんな体調で授業がまともに受けられるはずもなく――、
「あ、起きた?」
気付けば、机に突っ伏して眠っていた。
重たい頭をどうにか持ち上げると、声がかけられる。
「すごい、今日の授業、ほとんど寝てたね」
「篠原か……」
あくびが自然と漏れ出た。頭も痛い。
俺のそんな有様を、篠原は呆れた様子で見ている。
確かにそんな、全授業寝倒して過ごしていたら、何をしに学校に来ているのかと思うことだろう。
「あーくそ……全然寝たりねぇ……」
「よっぽど夜更かししてたんだね。大丈夫?」
「んー、なんとかな……今、何時間目だ……?」
「……なに言ってるの河野――」
と、篠原の言葉とともに、チャイムが鳴り響く。
キーンコーンカーンコーン……、
「――もうとっくに放課後だよ?」
言われて、気付く。
もう教室内の席にはほとんど誰も座っておらず、そもそも俺の隣の席ですらない篠原がすぐ横にいる時点で察するべきだったのだ。
――というか、まずい! 完全に寝過ごした!!
慌ててバッと立ち上がる。若干の立ちくらみがしたが、構ってられない。
「帰る!」
「え……?」
俺はそう宣言してカバンを手に取り、教室を飛び出した。
せっかく起きるまで待っててくれた篠原に礼の一つも言わずに。
それすら忘れてしまうほど、焦っていたのだろう。
――しまった―! 今日は学校終わったらすぐ来るよう言われてたのに……!
俺は逸る気持ちのまま超特急で帰宅し、カバンを部屋に放り捨てて自転車に跳び乗った。
悪路を走り続けたロードバイクは、どことなくガタが来たような感じがあって、前はしなかったガシャガシャという音を立てて駆けていく。
――こいつも頑張ったし、今度メンテナンスしてやるか。
この機会に、もっと自転車について興味を持とうかとも思った。
いや、自転車に限らず何事も。
今回のこいつのように、今後自分の何が役立つかなんて、わからないんだし。
あの後、捕まえた不良たちに二度とここへは立ち入らないようフジノが言い含めて、事態は一件落着した。
フジノにあれだけ痛めつけられたあいつらがまたやって来ることはないだろう。
けど。まだ事後処理が残っている。
山道を走るダンプカーに危うく轢かれそうになりながら、俺はどうにか廃工場まで辿り着く。
自転車をいつもの場所に停め、不良たちが開けた穴をくぐって走る。
「フジノ!」
呼びかけた先、
頑張って取り戻した廃車両の前で、彼女は変わらず待っていた。
いや、今日はちょっと違う。
いつものジャケットを脱いで、腕まくりまでしたフジノは、デッキブラシなんて似合わないものを携えている。
つまり今日は、
廃車両の大掃除をする日なのだ。
「遅かったじゃない、留美。掃除は私一人に任せきり?」
「わ、悪い! すぐ手伝うから……」
息を切らせて駆け寄る。
フジノは遅刻した俺を叱ったりはせず、ちゃんと来たことに満足げだった。
「それじゃあ、向こうの水場にもう一つバケツがあるから、留美は車両の中をお願い」
「わかった。雑巾かなんかあるか?」
「バケツの中に一枚入っているわ。乾拭き用の雑巾も側に置いてあるから」
俺は言われたとおり、バケツを取りに行く。
水道をひねると冷たい水が出てきて、浸した雑巾を固く絞った。だいぶ汚された廃車両を、徹底的に綺麗にするぞ、と意気込んで。
「それにしても、びっくりするくらい落ちないわね。溶剤だと、下地の塗装まで溶かしそう」
「上塗りするしかないかねぇ……?」
あいつらが壁に描いていった、何とも言い難い変なマークを見ながら、俺たちはそんな会話をする。
どうせなら、この上に何か描いてもいいんじゃないか?
フジノなら、もっとずっと格好良いエンブレムを考え出してくれそうだし。
俺とフジノは掃除に没頭する。
……きっと、どんなに掃除したって、全部が元には戻らない。
でも、多分、それでも良いんだ。
そうやって、今日頑張った思い出があれば、
明日もきっと頑張れるから。
今回の件で俺が得た教訓といえば、そんなところだろう。
「留美」
また何か思いついたのか、デッキブラシを担いだフジノが俺を呼ぶ。
今度はどんなトンデモ発言で、俺を驚かせてくれるのやら。
そう思って振り向いた俺に対して向けられたのは、
「――――ブラックパレードへ、ようこそ」
そんななんてことない、歓迎の言葉だった。
突然なんだよ、とか、意味がよくわかんない、とか、思うところは色々あったけれど、
そうして迎え入れられるってのは、嬉しい気分にさせてくれるものだった。
ブラックパレードへようこそ。
俺も加わっていいんだな。
フジノが率いる、その冒険に――。