憤激の剣鬼
時は、もう少しだけ遡る。
「……最悪だ」
「……泣きたい」
「……今すぐお風呂に入りたい」
まるで泥の道を延々と歩いたかのように疲弊したクードとレイア、カイルの三人は、ゲッソリとした表情を浮かべて辺境の街の門をくぐる。
アステリオスが率いる新人育成パーティ、そのEランク冒険者たちは今回初めて上位冒険者抜きで魔物の討伐に赴いたのだが、そこには色んな意味で恐ろしい怪物が待ち受けていた。
「もー最悪! 巨大蜚蠊の討伐がこんなに大変だなんて思わなかった!」
「お前は後衛だからまだいいだろ。中衛の俺なんか素手で潰す羽目になったし、前衛に出てたカイルなんかもう気にならなくなるレベルだったんだぜ?」
「いや、気にするからね? もう必死に見て見ぬ振りをしてただけで」
辺境と王都の中間に位置する都市から出された依頼、地下水道に巣食う巨大蜚蠊の討伐に向かったまでは良かった。
しかし、真っ暗な地下水道を光球を発生させる魔術、《フラッシュ》で照らしてみると、そこに居たのは数十単位で密集する人間大の大きさを誇る巨大ゴキブリの群れ。
「あー……駄目だ。目ぇ閉じたらまだ連中の触角がピコピコ動いてんのが浮かぶわ」
「ちょっと止めてよ、アタシまで思い出しちゃうじゃんか。……うぅ、鳥肌が……!」
普段から喧嘩の絶えない二人が、今に限ってやけに大人しい。
この依頼に備えて連携の訓練をしたがそれも意味を成さず、見た者の生理的嫌悪感を迸らせる光景に半狂乱状態に陥ったEランク三人。
真っ先に悲鳴を上げたレイアに驚いて四方八方、床や壁、天井をカサカサと這い回る巨大蜚蠊の群れは、思い出すだけでも怖気がはしる光景だ。
「大体シャーリィさんもシャーリィさんだよ。知ってたんなら教えてくれても良かったのにさぁ」
「そこはほら、シャーリィさんなりの親心って奴じゃない?」
「お陰で俺らゴキの体液塗れになったんだけどな」
一般人なら情けない声を上げて逃げ出すところだが、何とか耐えて見事地下水道中の巨大蜚蠊を退治しきったのは三人がまた一歩、一人前の冒険者へと成長した兆しか。
しかしその代償は結構大きかった。開戦早々、遠距離から火球を撃ち出す《ファイアーボール》を、ルーン文字を刻んだ鉄矢を、石を操る地属性魔術を連発したせいであっという間に魔力や矢が尽き、ポーションを飲む暇も無く迫ってくる巨大ゴキブリを脚で踏み潰し、それで足りなければ手で対処していたのだ。
「まさかあんなに大きいゴキブリを手で潰す日が来るなんて思わなかったなぁ」
「今更だろ……俺なんか素手で首千切る羽目になったんだぜ?」
「ちょっと止めてよ! もうこの話はお終いだかんね!?」
疲労が一周したせいか、乾いた笑いを浮かべながら巨大蜚蠊討伐の時の事を思い返す男二人をレイアが諫める。
武器越しに伝わる嫌な感触。飛び散る汚液。汗や体液で武器が滑り落ちたせいで素手で立ち向かう羽目になり、直に触った時の感触は今でも生々しく残っている。
何とか合間を見つけてポーションで魔力を回復させながら進んではいたが、如何せん敵の数が多すぎて結局近接戦必至という悪循環に。
幸いというべきかは当事者である彼らには判断が困る事だが、子供でも首が千切れるくらいには柔らかいので攻撃手段には困らなかったが、全身が体液や足の棘塗れになってしまった。
「とにかく、アタシはさっさと家に帰ってお風呂に入る! 全身くまなく石鹸とシャンプーで洗うの!」
レイアの叫びにカイルとクードは無言で同意する。
当然、道中の川で全身を隅から隅まで洗いまくった三人だが、それでも感覚的には全く洗い足りない。よって風呂に入るのは最優先事項だったりする。
「それじゃあ、僕こっちだから」
「はいよー」
「また明日な」
帰路の途中でカイルは二人と別れる。住いである孤児院へ足を進めながら、武器屋や道具屋を見ては装備のメンテナンスやポーションの補充をしなければと疲れた頭で考えていると、屈強な男五人が路地裏に入っていくのを見た。
(冒険者……? それにしてはやけに身綺麗だったけど……)
それは何となく気になっただけ……他の者が聞けば、だから何だと言われるような些細な出来事に過ぎない。
それでも妙に引っかかったのは、あの入っていった路地には建物に入る扉も何も無いという事を彼が知っていたからだ。
(何かあるのかな……?)
単なる好奇心がカイルの足を動かす。ある意味冒険者らしくなったが為に路地裏に踏み込んだ瞬間、先程までは聞こえなかった悲鳴のようなものが聞こえてきた。
「や、やだっ! 放してっ!」
「くっ……!」
それは聞き覚えのある少女二人分の声だった。嫌な予感が胸中を満たし、急いで声がする方へと駆け付けると、そこには先ほど路地裏に入った男五人の内二人に羽交い絞めにされた白髪の少女たちと、仕立ての良い服を纏った茶髪の男が幼子に向けて何らかの魔術を行使しようとしている姿。
本能は灼熱し、理性は焼失する。気が付けばカイルは、憧れの人が自身の命よりも大事にする愛娘……ソフィーとティオを羽交い絞めにする男二人を身体強化魔術、《フィジカルブースト》で威力を増した拳で殴っていた。
「えっと、シャーリィさんのとこの娘さんだよね? 何か犯罪臭が凄かったから思わず殴っちゃったんだけど、これってどういう状況?」
そして話は戻る。
嫌がる幼気な少女二人と、それらを取り押さえようとする見るからに怪しい男六人を見て思わず殴ってしまったが、カイルは事情を一切理解できていないのだ。
「何ですか貴方は? 何も知らない部外者が割り込まないでいただきたい。その上、皇帝陛下より命を受けた騎士を殴るなど……相応の処罰は覚悟の上ですか?」
「え? こ、皇帝?」
何一つ状況を理解できていないことを先の台詞で察したのか、明らかに小馬鹿にした視線をカイルに送るルドルフ。
一方、カイルはカイルで更に困惑していた。口ぶりから察するに緊張状態にある隣国の中枢に関わりのある人物であると何となく察せられたが、なぜ一般人である双子を狙うのかが理解できない。
「……ていうか、質の悪い人攫いとかじゃなかったんだ」
「貴様っ! 我ら帝国に仕える騎士を愚弄するか!?」
「へ? あ、あぁ、す、すみません!」
つい本音が……と口に出しかけたのを手で塞ぐ。憤怒を目に宿してこちらを睨む屈強な男五人を前にして思わず怯むが、腕の中で少女二人が震えているのを自覚する。
《白の剣鬼》の娘といっても、僅か十歳の子供に過ぎない。その姿に孤児院に居る年少組を重ねて、カイルは恐怖に臆する足を叱咤して双子の盾になるように前に出た。
そんな姿を見て、ルドルフは手で軽く騎士たちを制しながらまるで聞き分けの効かない子供を諭すかのように嘆息する。
「いいですか? 我々は皇帝アルベルト陛下と皇妃アリス様の命により、お二人を迎えにあがったのです。それをたかが小国の庶民が邪魔立てする事の重大さを、貴方は察せられますか?」
「わ、私たちは帝国のお姫様なんかじゃないもんっ! なんて言われてもこの街で暮らすんだからっ!」
「ひ、姫ぇっ!?」
またしてもとんでもないワードが飛び出し、カイルは愕然とする。会話の内容から察するに、ソフィーとティオは帝国の姫君で、帝国人が迎えに来たという事らしいが、話が飛躍しすぎて正直ついていけないというのが実情だ。
「もし姫君たちが本来帰るべき地に行くのを立ちはだかるというのなら、それは明らかな重罪であるという事を知った方が良い。分かったらそこを退きなさい、今なら私の裁量により〝勘違い〟で騎士に暴行を振るってしまったという形で罪を軽くすることにもできますよ」
「ぅ……」
ソフィーが不安げにカイルを見上げ、ティオは後ろ盾の権力を笠に着て一般人を脅すルドルフを睨む。
しかし当のカイルは「結局処罰する気なんだ」と、どこか軽い方向に考えていた。もし彼らの言う事が事実だとすればこれは国が関わる問題で、一冒険者でしかないカイルに出来ることなど何一つありはしないだろう。抵抗すれば、本当に罪人として捕らえられることになるかもしれない。
人の本性は、自分自身の危機が迫った時に現れる。己の未来そのものが奪われそうな時、命と向かい合った時に一歩踏み出せるか否か。
こと信念に殉じてきた者全てが乗り越えてきた難関を前に、若く未熟な冒険者は立ち竦み、震える足が後退る。
「……《障壁・展開》」
それでも、そんな無様な立ち姿であっても、ルドルフたちとカイルたちを遮る光の壁が、一人の少年が自分自身と双子を天秤にかけて出した答えだった。
結界術の達人であるアステリオスから習った初歩中の初歩、《フォースフィールド》。師のものと比べれば目を覆いたくなるほど拙い障壁は、カイルの不退転の覚悟を表していた。
「どういうつもりです? 抵抗すれば軽罪では済まないと伝えたはずですが?」
「いや、そうなんですけどね? こんな話聞いた後にこれだと、もう後が怖くて怖くて仕方ないんですよ」
今日のカイルは厄日だ。巨大ゴキブリと戯れ、とんでもない大事に巻き込まれようとしている。
彼らの言葉が何処まで本当であるかなど、浅学な自分には図りようがない。未来に落とされようとする影の不確かさ、リスクが与える恐怖に声が震える。
「でも……憧れてる人が悲しんでる顔見る方がよっぽど怖いんです…………なんて、言ってみた……り」
ここで逃げ出せば、もう二度と憧れに顔向けが出来なくなる。あの地竜の巣で命を救われた恩に報いもせず、ゴブリンの巣で再起を誓ったこと全てが嘘になってしまうのが何よりも怖かった。
これで足が怯えで震えておらず、羞恥で台詞が窄まなければ最高にカッコ好かったのにと、自分の不甲斐なさに嫌気がさすが、これが今のカイルだ。
何一つ偽らない、等身大の自分なのだと、カイルは全霊の魔力を眼前の障壁に注ぎ込む。
「二人とも! 早く――――」
「させません! 今すぐ障壁を破って姫君たちを保護するのです!」
「《風よ・刃となって我が敵を切り裂け》!」
「《水塊よ・弾丸となりて敵を討て》!」
「《業火よ・焔の一撃で焼き尽くせ》!」
「《礫よ・槍となりて障害を穿て》!」
「《雷撃よ・我に仇なす敵を貫け》!」
五人一斉に放たれる魔術は、轟音と共に障壁へと叩き付けられる。
「ぐ、うぅ……ううううううううっ!!」
アステリオスなら難なく受け止めたであろう攻撃でも、カイルの拙い障壁では全体に罅が入り崩壊寸前となる。
割れた箇所から魔力を注ぎ込んで修復するが、五人がかりで続けざまに放たれる魔術なら十秒耐えられれば御の字といったところだろう。
(これだけやって、街の人が騒ぎ立てる気配が無い……! やっぱり事前に《サイレントフィールド》を使ってたんだ……!)
双子に騒がれては面倒だったのだろう。こんな路地裏で遮音の魔術を使ってまで連れて行こうとするならやっぱり後ろ暗い事をしているのだと、ほとんど直感で理解したカイルだったが、その事は事態を好転させないと頭を切り替え、悲鳴を上げる結界から視線を離さず後ろに居る双子に向かって叫ぶ。
「シャーリィさんの所に行って! 早くっ!!」
例え何処の権力者がどのような思惑を持っていたとしても、最後の最後まで味方でい続けるのはシャーリィを置いて他に居ない。
ならば自分がこの場を抑えている間に二人には走って母の元へ向かってもらうのが最善手だ。
「え、えっと、ママの所に……そうだ! ティオ、あれ!」
「ん……! 分かってる……!」
すでにカイルが二人の様子を窺う余裕も無くした時、ソフィーとティオはカバンから懐中時計を取り出した。
「ぐわああああああああっ!!」
それと同時にカイルの障壁が貫かれ、炎と風刃、水弾が彼の五体を打ちのめす。どうっと倒れる少年の顔を踏み躙りながら、騎士とは名ばかりの男が再び双子に手を掛けようとした直前、ティオはゼンマイ巻きの竜頭を押し込んだ。
「失せなさい」
その瞬間、何もない宙空から突如現れた白髪の女が男たちの行く手に立ち塞がる。瞠目する彼らの意に介さず、鬼……シャーリィは一瞬だけ駆け出した。
「……え?」
突如現れた剣鬼もそうだが、その次の瞬間に視界から消えて居なくなった五人の騎士にルドルフは茫然とする。
続いて鳴り響くのはドゴゴゴゴゴッ! という連続で発生する打撃音。何故か上からドサドサという、何かが落ちる音まで聞こえてきた。
よくよく見ればシャーリィの手には剣の鞘が握られており、ルドルフは依然何が起きたのか全く理解できていないが、シャーリィの剣技をその目で見たことがあるカイルだけはこの状況を正しき理解できていた。
(鞘で全員打ち上げたんだ……音を置き去りにする速さで……!)
まさに神速。そんな理外の連撃をなしたシャーリィは娘たちの前で膝をつくと、心底心配したという母の表情を浮かべる。
「ソフィー、ティオ、怪我はありませんか?」
「うぅ……マ、ママぁっ!」
「……っ!」
十歳の少女にしては気丈に振舞っていたが、それでもよっぽど恐ろしかったのだろう。それぞれ蒼と紅の瞳に涙を浮かべながら、危機を排した母に抱きつき、シャーリィも二人を安心させるようにその背中を優しく撫でる。
「お、おぉ……そこに居らっしゃるのはもしや、シャーリィ様ではありませぬか!? 私です、貴女の執事を務めていたルドルフです! ところで、私が連れてきた騎士たちは何処に……?」
しかし、そんな状況下で空気を読まない男が一人。シャーリィはルドルフに顔を見せず、ゆっくりと立ち上がると、カイルに視線を向けて申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「ごめんなさい……貴方を巻き込んでしまったようですね」
「いててて。ぼ……僕の事はいいんです。でも……」
「事情を話すか話さないか……正直今は判断しかねるのですが、少しの間娘を見ていてもらえませんか?」
ヨロヨロと起き上がるカイルを横切り、シャーリィは魔道具、《勇者の道具箱》から最も信頼を置く愛刀を手元に呼び寄せる。
獣王の紋章が刻まれた蒼の直刀、《蒼の国壁》と、王鳥の紋章が刻まれた紅の直刀、《紅の神殿城》。
竜王の軍勢から街に一切の被害を出さずに守り通した、《白の剣鬼》を象徴する二振り一対の魔剣は恐ろしいまでの輝きを放っていた。
「私は……この男に聞かなければならないことがある……!」