プロローグ 後編
母親にとって、子供とはどれほど大きな存在なのか、それを意識して書いてみました。
「へへへ、この売国奴めぇ……今すぐ正直にさせてやる、よっ!」
パシィンッ!!
「あああああああああああああああああっ!!」
拷問係が振るう鞭が鋭い音を鳴らし、白い肌に裂傷を刻む。
これまで受けたことのないような灼熱にも似た激痛に、シャーリィは堪らず悲鳴を上げた。
「おぉ! 良い悲鳴だぁ! もっと俺を楽しませてくれよなぁっ!」
サディスティックな笑みを浮かべ、何度も何度も白い肢体に鞭を打つ。
こうなった理由はシャーリィには理解できた。拷問係がいるという事は、犯してもいない罪の自白を取ろうとしているということだ。
物証か自白が無ければ裁くことは出来ないのが現在の帝国の法。仮に濡れ衣を着せられたのなら、アリスは大義名分の元シャーリィを排除するべく、自白の強要くらいはするだろう。
(大丈夫……必ず、いつか必ず誤解が解ける……!)
妹に貶められ、婚約者に裏切られ、周囲に罵られても、シャーリィはまだ信じていた。
アルベルトなら必ず真相に辿り着き、以前と同じように過ごせる。何の根拠もない、ただアルベルトと過ごした思い出だけを寄る辺にして、苛烈な拷問に必死に耐えた。
だが、たかだか十九の小娘が抱いた淡い期待は、呆気なく裏切られる。
鞭で打たれるなどまだ可愛いものだった。
爪剥ぎに水攻め。三角木馬に火炙り。屈強な戦士ですら悲鳴を上げる残虐の数々に心は摩耗し、当初抱いていた希望など気付かぬ内に消え失せた。
もはや誰もが羨んだ美貌は見る影もない。全身の皮膚は爛れ、至る所に消えない傷を負い、美しい白髪は老婆の様に煤け、シャーリィは見るに堪えないほど醜くい姿に変わり果ててしまった。
投獄から一ヵ月が過ぎ、待てども待てども誤解は解けず、視界が白ずんだ頃には、シャーリィが胸に抱いていた愛は反転し、身を焼き焦がしそうな憎悪の炎が燃え滾っていた。
「が……ぁ、ぁ……あっ……あ……っ!!」
潰れた喉から声にならない咆哮が上がる。
(許すものか……! 誰一人、許すものか……!!)
かつて慈愛に溢れた穏やかな二色の瞳は、灼熱の憎悪を宿した紅と、絶対零度の殺意を宿した蒼へと秘めた光の質を変える。
悪魔に魂を売ってでも、地獄の底に堕ちたとしても、自分を貶めた者たち全てを同じ場所まで引きずり落とさなければ気が済まない。
(……かつての父と母、兄と弟)
髪と瞳の色だけで、実の娘を虐げた家族。
(……私が絆を結んだと思い込んでいた人たち)
騙されたのか権力を恐れたか、誰一人自分を信じる事無く手のひらを返した人々。
(……私から全てを奪うばかりの妹)
ようやく手に入れた幸福すら奪っていったアリス。
(そして……私を裏切ったあの男……!)
今だからこそ分かる。アルベルトはシャーリィという婚約者がいながら、アリスと浮気したのだと。
アリスと結託して邪魔な自分を排除したのだろうか? だがそんな事は関係ない。
例えアリスに騙されていたとしても、少し調べれば真実が詳らかになるであろう杜撰な罪状で自分を裁いたあの男が、誰よりも愛していたからこそ、囁かれた愛が本物だったと知っているからこそ、今は誰よりも憎い。
(復讐を……! たとえ地獄に落ちたとしても、この手で彼らに鉄槌を……!)
例え気力に溢れても、本来なら牢から出ることも叶わないシャーリィに復讐の機会など訪れはしない。
だがどんな奇跡が起こったのか、それとも悪魔か邪神が魂と引き換えに彼女の願いを叶えたのか、劇的な変化がシャーリィの身に起こる。
「な、何じゃこりゃあ……!?」
それに一番最初に気付いたのは、拷問係の男だった。
最近何の反応も示さなくなったシャーリィに飽き始め、ほぼ作業的に拷問を繰り返していたが、彼が牢の扉を開けて中に入ると、そこには拷問を受ける前の美しい姿をしたシャーリィが横たわっていた。
爛れた肌は美しさを取り戻し、煤けた髪は輝きを発し、無残に引き剥がされた二十の爪も桜色の綺麗な爪が新しく生えている。
つい昨日見た時は醜く薄汚い姿だったはずなのに、翌日にはまるで時間が巻き戻ったかのように、かつての美しさを取り戻していた。
「こ、こりゃあ、なんかヤバそうだ。 お上に伝えねぇと……!」
その唐突で劇的な変わりように嗜虐心や劣情が沸き上がるより先に、何処か途方もない薄気味悪さを感じた拷問係りは、鍵も閉め忘れて急いで上に報告しに行く。
「……残念です。あのまま近づいてきたならコレを喉に突き刺していたのに……」
起き上がり、石を擦り合わせて作った石包丁を投げ捨てるシャーリィ。
かつての彼女を知っている者が聞けば、別人だと錯覚してしまいそうなほど、ゾッとする低い声だった。
「それにしてもこの体……話には聞いたことがありますが、まさかこの身で体験するなんて……。でも結果オーライです。あの男が杜撰で助かりました」
元々、平民の間では施錠の習慣が無い者が多い。城に仕える者は几帳面な事務員以外、鍵の施錠に無頓着になっていると問題視されていることは知っていた。
いつかチャンスが来るだろうと最近考えていたが、意外にも早くそれが訪れたことにシャーリィはほくそ笑む。
「さぁ、行きましょうか。……報復の始まりです」
開きっぱなしの牢から外へ踏み出し、地上へと昇って誰にも気づかれないように使用人の服を拝借した。
目立つ長い白髪をキャップに収め、途中で兵舎から剣を二本盗んでまんまと街まで抜け出したシャーリィは、壮絶な殺意を瞳に宿し、城に居るであろうアルベルトを睨む。
「待っていてください。いつか必ず、死よりも恐ろしい目に遭わせて上げます」
そしてシャーリィは街を抜け、森に打ち捨てられた小屋を見つけてそこに潜伏し始めた。
名目上、犯罪者で脱獄囚であるシャーリィは、権力を身につけることは叶わない。
ならどうすれば良いのか。答えはすぐに出た。
権力を持てないなら、圧倒的な暴力で憎き者たちを滅ぼす。幸い、アルベルトの婚約者になってから英才教育として身につけた剣や魔術の心得はある。
それらを独学で昇華させ、騎士や兵士の守りを突破してアルベルトやアリスたちに凄惨な死を迎えさせる。いっそのこと殺してくれと懇願されても尚苦しませる方法を考え続けた。
シャーリィの準備は上手くいっていた。意外にも剣を振るう事は性に合っていたのか、魔物を相手にした実戦で早い段階で並の騎士以上の力を身につける。
必要なものは街から奪い、時には実践を兼ねて盗賊からも殺して奪い、シャーリィは早くも生活基盤と復讐に足る力を手に入れ始めた。
「ゲホッ……ぅえ……っ!」
婚約破棄から二ヵ月、脱獄から一ヵ月が経とうとしたある日。シャーリィは突如吐き気を催した。
初めは体調を崩したのかと思った。しかし変化はそれだけに止まらず、風邪に似た症状を始め、胸や下腹部に違和感、急な眠気や酸味の強い果物を求めるようになる。
一体どうしたのだろうか、一度無理を通して医者に診てもらうべきかと考え始めた頃、あることに気付く。
「そういえば……最後に生理が来たのっていつでしたっけ……?」
妊娠という二文字が、脳裏に過る。
それを証明するかのように、日を増すごとにゆっくりと重みを増していく腹。時期などを考慮しても、父親が誰かなんてすぐに分かった。
「なんて事……あの憎い男の子供が私の腹に居るだなんて……!」
心底忌々しそうにアルベルトの子が宿った自らの腹を睨む。本当なら腹を裂いてでも引きずり出したいところだが、シャーリィは嘆息と共に剣を下す。
「まぁ、いいでしょう。子供に罪はありません。もし無事に生まれたら、孤児院に届けるくらいの事はしてあげます」
まったく罪のない無垢な魂を自ら殺めるほど、シャーリィは堕ちていない。
追われる身で誰の手も借りられない状況下、無事に生まれるかどうかなど定かではないが、堕胎はしないという女として最低限の情は残っていた。
「弱い魔物位なら戦っても大丈夫でしょうし、産み落とすまで本格的な鍛錬は控えるとしましょう」
強い魔物、群れで行動する魔物を省き、極力弱い魔物を狙う。剣の素振り、魔術の練習を繰り返し、動けない間でも軽い鍛錬は欠かさない。
それでも、本来妊婦がするべきことではない。世の母親や医者が見れば血相を変えるであろう蛮行でも、シャーリィからすれば「流れたら流れたでそれで良い」といった感じだ。
容赦なく栄養を吸い取り、日に日に膨張していく腹など、復讐を誓ったシャーリィには邪魔な存在でしかない。
それが憎い男の血を引いているのなら尚のこと。むしろ無事に産めたら孤児院にまで届けるんだから感謝してほしいくらいだ。
「……おかしいですね。どうも最近鍛錬に集中できません」
しかし何時からか、腹が気になって剣を振るうことが億劫になってきた。その感覚は、日を重ねる毎に大きくなっていく。
左右に大きく頭を振る。憎しみと悲しみを必死に思い起こし、腹の子など関係ないと違和感を振り切って剣を無理やり振るった。
「やっと初期症状も収まりましたか……本当に、迷惑……ですね」
腹の子に向かって忌々し気に吐き捨てようとした言葉が詰まり、下腹部を撫でることが多くなったことに、我が事ながら戸惑う。
理由は分からない。分からないが、特に気にする必要も無いような気がした。
「……あ、動いた」
本格的に腹が膨らみ始めた。手で触れると、中で動いているのがよく分かる。
眠る時も気を遣う。気付かぬ内に、シャーリィが剣を持つ時間は極端に短くなった。
「食料や日用品を貯めててよかったです。これなら生まれてくるまでの間は…………何を、考えてるんでしょうか? 私は」
妊娠期間を見越した蓄えを眺めて、真っ先に子供の事を考えていた事自体に疑問を感じた。どんどん大きくなる腹に優しく触れ、胎動を感じて元気であることを確かめるのが日課になる。
そんなこと、復讐にはまるで関係のない無駄な事の筈なのに。
「幾らなんでも、あの男に似るのは少し、嫌ですね」
気が付けば子供の事ばかりを考えるようになった。
顔はどちらに似ているだろうか。父親が父親なので、出来れば自分に似てほしいという、そんな下らない事ばかりを。
復讐の為に孤児院に預け、その後一切関わるつもりが無いとしても…………そう考えると、胸の奥が締め付けられたような気がした。
そして出産が間近に迫った頃。
「もうじき生まれそうですね。そうしたら、さっさと孤児院に置いて行って、復讐の続きを――――」
そこまで言いかけて、背中に氷柱を刺しこまれたかのような恐怖を感じ、手足が震え、呼吸が荒くなる。
自分が言いかけた言葉。妊娠が発覚してから口癖のように呟いていた言葉の意味、その得体の知れない恐怖に思わず膨らんだ腹を抱く。
誕生を待ちわびるような心音を感じると、ひどく安心できた。
「ああああああ、ぐ、ぅうううう……! ひ―っ……! ひ―っ……! ふぅ……! ん、ぁ……ああああああああああああっ!!」
そして、シャーリィが二十歳を迎えて幾月か経った頃。
遂に迎えた出産の時。シャーリィは産婆も呼ばず、たった一人で陣痛に苦しみながら準備し、森小屋で新しい命を産み落とそうとしていた。
誕生に伴い、母胎が受ける苦しみと痛みは、かつて受けた拷問にも匹敵しうるほど壮絶なものだった。
それでも、産みたい。一体何がシャーリィを駆り立てるのか、彼女自身にも理解はできない。
ただ、無事に産み落とさなければならないという、本能に似た衝動がシャーリィを駆り立てていた。
「ぜーっ……! ぜーっ……! はぁ……はぁ……う、産まれ、た……?」
長時間に渡る出産の末、シャーリィは二人の女の子を産んだ。
どちらもシャーリィと同じ白い髪。先に生まれた姉は蒼色の眼を、後から生まれた妹は紅色の眼を持って。
小さな森小屋に二人分の産声が響き渡る。その二人の小さな手が、シャーリィの指を握りしめた時、二色の眼からツゥと雫が流れ落ちた。
「あぁ……ぁぁぁぁあ……! っぐ……ぁぁ……!」
シャーリィは、泣いた。
自らの胎から産み落とした我が子の穢れの無さと、無限に湧き上がる愛おしさに、なす術もなく泣いた。
そして気付いてしまった。自分が犯そうとしていた過ちの先に起こる、娘たちの悲劇に。
無理に剣を振るい、流産してしまったらこうして触れる事が出来なかったであろう、その恐ろしさ。
孤児院に預け、捨てることで二度と関われなくなってしまう、その絶望。
復讐を成し遂げたとしても、大罪人の子供という烙印を押される、その結末を。
実際、あのまま復讐に身を任せれば、シャーリィは悪魔に憑りつかれて、二度と後戻りできなくなる修羅道に堕ちるところだった。
そんなあり方は人ではない。血肉を貪り、狂気と憎しみに従って生きるのは、まさにケダモノ、怪物の所業だ。
血濡れの怪物に成り果てようとしていたシャーリィを人間に引き戻したのは、他でもない我が子の温もりだったから。
「守らないと……何に代えても、この子たちの未来を……」
もう復讐のことなど考えられなかった。
生活基盤、育児環境という事ばかりが頭を過る。
誰の血を引いていたとしても関係無い。自分の腹を痛めて産んだ子供というだけで、世界中の何よりも愛おしい二つの命を守り、導くため、シャーリィは生まれたばかりの赤子を優しく包み、帝国の外へと向かって歩き出す。
元々、帝国にシャーリィの居場所はない。ならいっそのこと隣国である王国で娘二人と新しい生活を始めた方が良い。
身分を一切証明できない立場のシャーリィが就ける職など、常に命の危険と隣り合わせである冒険者しかないが、それでも精一杯やろう。
時には残酷に変質した本性を恐れられるかもしれない。それでも、娘たちが幸せを掴めるその時まで、この手は離さない。
こうして、娘の為に復讐を止め、新たな誓いを立てたシャーリィは王国の辺境の街へ辿り着き、十年の時が流れた。
少し駆け足気味になってしまいましたが、プロローグはこれで終了です。
もしお気に頂ければ評価してくださると大変ありがたいです。
次回からは冒険者、《白の剣鬼》の話、本編開始の第三話は近日中に公開します。