《彼岸の聖者》
この日、辺境の街に天使が舞い降りたと、誰かが言った。
そんな話が出回る事柄を目撃した大勢の内の二人が、ソフィーとティオ。二人並んで学校からの帰路につく最中、五歳くらいの少年が走っている最中に盛大に躓いて転んだのだ。
どこにでも見かける普通の光景で、よくある事故。地面に腹這いになりながら瞳にみるみる涙を貯め込み、大きな声で泣き叫ぶ少年にソフィーたちを含めた幾人かが駆け寄ろうとした、その時。
「痛みと苦しみに悲しむ声が聞こえたわ」
突如、上空から白い羽が舞い落ちる。
上空を見上げてみれば、そこに居たのは天空の女神に仕えるとされる天使を、そのまま体現したかのような世にも美しい少女の姿があった。
腰を超すほどの豊かな金髪の髪。大きな翠玉を思わせる瞳が嵌めこまれた顔には限りない慈愛の笑みを浮かべており、背中には大きな白い翼を生やしている、白衣の女。
何も知らないものが見れば、本物の天使が降臨したと思い込むであろう、どこか浮世離れした少女は怪我をして泣いている少年の前に静かに舞い降りた。少年は少女の存在感にすっかり目を奪われたのか、一時痛みも忘れて呆然と少女を見上げている。
「もう大丈夫。これ以上、貴方を苦しめさせはしないわ」
誰もが安心できるような優しく、それでいて頼もしい微笑みを浮かべながら少女は少年をゆっくりと仰向けにすると、擦れて血が出ている膝に手を翳す。
「今、貴方を痛みから救ってみせるわ」
すると少女の手から優しい光が放たれ、患部は見る見るうちに塞がっていく。
これといった魔術の知識がない者が見ても、少女が行使しているのが治癒魔法であると理解できるだろう。これで少年の怪我も塞がり、一件落着と周囲のものが安心して見守るが……突如、少女の表情が鬼気迫るものに変化する。
「そう……私の全てを懸けて……!」
その瞬間、天空の雲を突き破るほどの巨大な魔力の奔流が大渦となって辺境の街を呑み込む。
「はあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
「え!? ちょ、何これ!? 何これ!?」
それは一切の破壊を伴わない、触れる者全てを包み込む癒しの嵐。怪我をした野良猫も、包丁で指を切った主婦も、捻挫した憲兵も、重い病魔に苦しむ余命宣告者も、重傷を負った冒険者すらも、問答無用で健全な肉体に戻していく圧倒的な力。
やるところでやれば、奇跡が起きたと大騒ぎするような現象。これで「転んで膝を擦りむいた少年を癒すためにやった」と言われ、誰が信じるだろうか。
「お姉ちゃん! もういい! もういいよぉ!!」
「はぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
そして事態の中心にいる当の本人は、全魔力と全生命力を振り絞るような力の拡散にみるみる表情を青くし、全身から滝のような汗を流していても尚、癒すことを止めようとしない。その様子は先ほどまで泣いていた少年すらも心配するほどだが、それでも止められない。
やがて魔力の奔流は収まると、そこ中心には全ての力を振り絞り、真っ白に枯れ果てた少女が弱弱しい微笑を浮かべながら、まだ少年の目尻に残っていた涙を優しく拭う。
「大丈夫……? もう……どこも痛くない……?」
「う、うん」
「そう……良かった……貴方を、救うことができ……て……」
それだけ聞いて、何もかもに安心したような安らかな表情で、少女は倒れ伏す。そんな彼女に駆け寄るのは、白い髪の姉妹。
「へ、ヘルメスせんせぇえええええいっ!?」
「はぁ……また無茶した」
「貴女は本当に人騒がせな人ですね」
莫大な魔力の奔流。それに驚いた大勢の冒険者の内、発生源の近くに娘たちが居ることを素早く察したシャーリィが現場に駆け付けると、そこには倒れている白翼の少女を必死に揺さぶるソフィーと、呆れた表情で教会に人を呼びに行こうとしているティオの姿があった。
それを見て大まかな状況を察したシャーリィは少女を背負い、タオレ荘の部屋のベッドに寝かせておいたのだ。一見死にかけに見える少女だが、シャーリィは彼女がこの程度では死なないということを知っている。
その証拠に少女は少し眠っている内に見る見る魔力と生命力を回復させていき、小一時間ほどで目を覚ましたのだから。
「あははは……ゴメンね、迷惑かけちゃって」
「まったくです。話を聞いた時は、相変わらずすぎて呆れましたよ、ヘルメス先生」
《彼岸の聖者》ヘルメス。
外見年齢だけ見ればシャーリィのそれよりも少し下に見える少女だが、この半不死者の歴史は、カナリアと並ぶ千年も昔から続いている。
魔族と並ぶ長命種であり、今は絶滅寸前の種族、天族に生まれた彼女はかつての大戦時から教会所属の従軍医として目覚ましい活躍を繰り広げており、やがて失われゆく命を余さず救うために半不死者として覚醒。
そして異能が発現すると同時に彼女による救命率は飛躍的に上昇。以降、壮絶な戦争下においても彼女が診た重傷者や重病人は誰一人として命を落とさなかったという、医療界において生ける伝説と呼ばれる聖人だ。
大戦終結後は各地を巡り、目につく怪我人病人を千年に渡って癒し続け、世界中から《天空の御使い》、《奇跡の女》と称えられる存在に。
娘以外には基本的に冷酷なシャーリィや、傍若無人なカナリア、窃盗誘拐で悪名を馳せたクロウリーといった、性格破綻者ばかりの半不死者の中にあって、唯一と言ってもいいほどの根っからの善人だが、ヘルメスの場合、善人過ぎた。
「お礼に何でも言って! わざわざベッドまで運んで休ませてくれたんだもの! 恩返しをしなくちゃ! 私、何でもするわ! 私の全てを懸けてでも!」
「恩返しされるような状況でもなかったような……」
「ん。むしろ先生が恩返しされる側のような気がする」
「え? どうして?」
さも当然のように全てを懸けると言い、さも当然のように疑問符を浮かべる。
ヘルメスの加減知らずとは、こういうところを指す。転んだ拍子に出来た擦り傷を癒すために自身の全エネルギーを振り絞ったように、彼女は世間一般における善行の為なら一切の加減を忘れるのだ。
自己犠牲の善行と言えば聞こえはいいが、ヘルメスの場合やり過ぎている。
「貴女昔もそう言って死にかけたではありませんか。その度に介抱するこちらの身にもなってください」
「うぐっ……」
実は五年前、ティオが発熱した時に偶然この町に来ていたヘルメスがティオを見てくれたおかげで全快したのだが、治療の際に過剰なまでに魔力を消費したヘルメスが寝込んだのだ。
その際にティオとソフィー、そしてシャーリィが治してくれた礼にと看病をかって出たのだが――――
『わざわざ私を看病してくれたのね! ありがとう! お礼に何でも言って! 恩返しをしなくっちゃ!』
と、今と同じような状況になった訳である。その時は遠慮したものの、やたらと強い押しに負けて、シャーリィが仕事に行っている間に幼い娘たちの面倒をマーサと共に見るように頼んだ。
とは言っても、当時二人は既に五歳。四六時中視界に入れて面倒を見なければならない年齢はとうに過ぎており、実際はそれらしい事を言ってヘルメスを休ませようというシャーリィなりの心遣いだったのだが……帰ってきてみれば、そこには凄まじく分厚く強固な結界に守られたタオレ荘と、全生命力と全魔力を使い果たして死にかけているヘルメスの姿があった。
一体どうしたことかと問い質せば、本人曰く見守るなら全力で見守ろうとした結果らしい。心遣いは嬉しいが、それは本当に心構えだけで済ませてほしかったところだ。頼んだ手前、変な罪悪感すら覚えてしまった。
(こんな悪気が一切ない性格のせいで、妙な繋がりが出来てしまったものですね)
ヘルメスと最初に会ったのは、ソフィーとティオが水疱瘡に罹った時のこと。
当時は今よりも周囲に対する当たりが強く、近づく全てを切り刻みそうな警戒心を常にむき出しにしていたシャーリィだったが、娘に近づく見ず知らずの相手……ヘルメスに剣を向けるシャーリィに意を介さず近付き、彼女はこんな事を言った。
――――斬りたければ斬ってもいい。それでも二人は治すわ。私の全てを賭して。
伝え聞いた話では、ヘルメスは行商人を襲う凶悪な魔物に対しても似たような事……行商人を食べるくらいなら、自分を食べろという旨を言ったらしく、上半身の殆どをその魔物に食い千切られながらも、最終的には宥めてしまったのだとか。
以来、本来人に懐くはずのない魔物は二度と人を襲うこともなくなってしまったそうだ。
ハッキリ言って、半不死者の中で一番精神のタガが外れているのはヘルメスにおいて他にいない。狂気的とも言える善性、人によってはある種の恐怖すら感じるだろうが、それでも彼女に悪意は一切ない。故に彼女は誰からも好意的に受け入れられている。
結論、何が言いたいのかと言えば、ヘルメスはとことん毒気が抜かされる相手という事だ。どれだけ悪意や害意を向けても柳に風といった感じで、辛辣に扱っても一切落ち込まない。そんなのを相手にしていては、いくら昔のシャーリィでもそれなりに良好な関係を築きざるを得なかったのだ。
「貴女を心配する人も多いでしょう。そう言った方々を悲しませないために、貴女はもう少し自分自身を労わるべきなのでは?」
「うぅん……それはよく言われるし、私も色々考えて行動してるんだけど、苦しんでいる子を見つけるとつい……」
特に改善など期待することもなく言うシャーリィの言葉に、困ったように笑いながら頬を掻くヘルメス。
心配の声を聞いて、彼女自身改めようとしているが、言われて直るような精神なら半不死者になどなってはいない。結局彼女は傷病に苦しむ人を見つければ、全身全霊を賭して救おうとするだろう。
遍く苦しみから人を救い、恩を受ければ億倍にして返す……それがヘルメスという半不死者の生態なのだから、仕方のない話だ。
……もっとも、そんな生き様の果てに得たのが、人を癒す代わりに自分は生死の境のあの世側……すなわち、彼岸へと旅立ってしまう聖人という意味を込めた、《彼岸の聖者》という称賛なのか蔑称なのか分からない異名だが。
「もー。ヘルメス先生は相変わらずなんだから」
「お母さん、もしかして半不死者って皆こうなの?」
「待ってください、ティオ、私はヘルメス先生や他の面々と比べても大人しい部類だと自負しているのですが? 同列に扱われるのは不本意です」
「「「「それはないっ!!」」」」
「カイル殿? それにクード殿にレイア殿、ユミナ殿まで……いきなり叫んで一体どうなされた?」
「ご、ごめんなさい、アステリオスさん。どういうわけか、つい叫ばないといけないような気がして……」
「でも先生と久しぶりに会えて嬉しいかな。修学旅行にも来るんだよね? それまでの間はタオレ荘に泊まるの?」
「ふふふ。私も元気な二人に会えて嬉しいわ。泊まるところはカナリアが別荘の一室を貸してくれるから大丈夫。あの子にもちゃんと恩返ししなくちゃ」
その言葉を聞いて、シャーリィは首を傾げる。
「カナリアが? 意外ですね?」
「どういう事? お母さん」
「……いえ、何でもありません」
わざわざ言いふらす事でもないし、藪蛇になりかねない。そう判断したシャーリィはティオの疑問に口を塞ぐ。
「とにかく、旅行中はこの子たちの事をよろしくお願いします。修学旅行に関することで何か用立てがあれば言ってください。薬草調達くらいならギルドを介さずとも私が採取してきますよ。これも娘たちの為ですから」
「こんな厚意を受けるなんて……! とっても嬉しいわ! こうなったら、何か恩返しを――――」
「「「しなくていい」」」
「えー」