教育方針は親なら誰でも悩むモノ
彼は平和な世界の、平和な国に生まれた、どこにでもいる普通の学生だった。当然のように親が居て、当然のように友人が居て、当然のように不自由のない豊かな暮らしを当たり前のように享受する、そんな幸せな人間。
「こ、ここは……?」
しかし世の理不尽は例外なく襲ってくるものらしく、彼はその中でも最たる災いの渦中にいたと言っても過言ではないだろう。
それは何時ものように学校で授業を受けていた時の事だった。教室全体に魔法陣のような図式が浮かび上がり、強い光に包まれたかと思えば、気が付けば彼はクラスメイト三十名と一緒に、白い石材で覆われた神殿を思わせる部屋、その中央に設置された大きな台座の上に居たのだ。
「よくぞ来られた、勇者たちよ」
「だ、誰ですか!?」
突如、台座の下からかけられた声に真っ先に反応したのは、授業中だった担任教師だ。諸手を広げて生徒たちを庇う教師の視線の先……そこには、昔の王族か何かが着ていそうな服に身を包んだ、金髪の美男がローブを羽織った複数人の人間を従え、心から歓迎するような笑みを浮かべている。
「私はこの帝国の皇帝、アルベルト・ラグドール。諸君らが女神に選ばれた勇者と見込んで、頼みたいことがある」
金髪の美男……アルベルトは、右手を胸に当てながら恭しく頭を下げ、誰も彼の表情など分からない中で醜悪に表情を歪ませながら懇願する。
「この世界を混迷に導く邪悪な魔女を倒し、連れ去られた私の妻子を取り戻してほしい」
パキリと音を立てて、持っていたマグカップの持ち手が根元から折れたのを見て、シャーリィはカップから零れ落ちる飲み物を空中で掬い上げながら机に戻す。
「……老朽化したのでしょうか?」
食器類が割れること然り、黒猫の行列が目の前を通ったり、前触れもなく靴紐が千切れたりするのは不吉の前兆だという。
とは言ってもただの迷信。嫌なことが起こるなど本気で考えるのもバカバカしいと、シャーリィはすぐに大したことでは無いと思いながら、マグカップを店員に渡す。
「このマグカップ、老朽化していたようですよ。交換した方が良いのではないですか?」
「あぁ、すみません。服は濡れたりしませんでしたか?」
「ええ。問題はありません」
マグカップを受け取った店員は、厨房の方へと向かう途中、昼間から酒を呷り、肉を食い千切る冒険者に呼び止められ、ポケットに入れてあった伝票用紙を取り出しながら忙しなく動き始めた。
ここは冒険者ギルドと併合された酒場。タオレ荘で食事をすることが大半のシャーリィが使用する場所でもないのだが、今日は珍しく冷たい飲み物だけ注文していた。その理由は至って単純……単なる水分補給だ。
「うぇぇえ……げほっ!? げほっ!?」
「背中が……背中がすっごく痛いよぅ……!」
「ぼ、僕たちの……ランクが上がってから……シャーリィさん、やけに訓練中に……厳しくなったような……」
訓練場となっている敷地内の広場。秋に入り、枯れ始めた草の上に満身創痍で転がるのは、カイル、クード、レイアの三人パーティである。
「め、珍しくシャーリィさんから訓練に誘ってくれたから乗っかったけど……ほんと、酷い目に遭った……」
「皆さんも少しずつ実力を身につけてきましたからね。このくらい厳しくしなければ、身に入らないでしょう」
訓練方式は実戦。三人は身体強化や身体硬化を始めとした様々な支援魔術を重ね掛けしたカイルを前衛にしながら、クードやレイアが遠距離攻撃を仕掛けるという、基本的な陣形で挑んだものの、ハンデとして素手で相手をしたシャーリィに結果は惨敗。
幾度も繰り返しても結果は変わらず、最終的にはカイルの死角に潜り込みながら通り過ぎるや否や、クードが腹に蹴りを入れられて吹き飛ばされ、レイアは背負い投げで樹に背中から叩きつけられ、ようやくシャーリィの居場所を察して振り返ったカイルは顎に掌底を打ち込まれた。
「シャーリィさん……剣が無くてもこんなに強かったんですね」
「まぁ、剣を失った時のことも想定していますから」
剣の無いシャーリィなどただ華奢な女性、棍棒を持っていないオーガだと挑んだ自分たちの浅慮を呪った。
たとえ棍棒は無くてもオーガはオーガ、剣を持たなくても鬼子母神。一人前未満の若者たちが雁首揃えた程度でどうにか出来る相手でもなかったのだ。
「でも珍しいですね。シャーリィさんが僕たちの訓練に付き合ってくれるなんて。僕たちは訓練相手が得られるから歓迎ですけど」
「…………私も少し、訓練のことで悩んでいることがありまして」
「あの……それってソフィーちゃんたちの事だったりします……?」
少し驚いてカイルを見ると、彼は慌てた様子で「前に武器屋で見かけたので」と答えた。
「……今年に起きた様々な出来事や、魔物蔓延る世の中を考慮して、戦う術を教えているのですが……厳しくしなくてはならないのに、どうしても厳しくできないんです」
娘たちが望んだ以上、母として徹底的に、妥協なく教えるつもりではいた。戦いと言うのは、甘いやり方でどうにかなるものではないからだ。
だがその事を、半不死者としての本能が拒否反応を示す。食事を摂ることや眠ることを無理矢理拒むように……いいや、それ以上の拒絶感がシャーリィを縛るのだ。
「この身と魂は一度、復讐心から変質し、娘たちが産まれてもう一度変質しました。もはや考え方云々の話ではなく、生物的な構造上の関係で娘たちを傷付けることがどうしても出来なくなくなっている」
天性の悪逆な暴君としての気質によって半不死者に変質したカナリアは、小さな悪徳を重ねて善行とのバランスを保ち、何とか社会に受け入れられるように調整しているが、シャーリィの親バカは憚られるものが微塵もないが故に歯止めが利かない。
体の自律神経を止めることや、肉体を守るためのリミッターを外すことは意図的に出来ても、訓練とはいえソフィーやティオの体に傷を付けることが肉体も魂も拒否する……それがシャーリィという半不死者の在り方だ。
「半端に身につける力ほど危険な物はない。下手な慢心を招きますからね。だからどうにかしなくてはと思っているのですが……」
娘たちとは別の人物……カイルたちの訓練に付き合ってみれば、何かを掴めるかもしれないと思ったが、依然として手掛かりはないまま。まるで無明の闇の中で、手探りで一粒の砂を探しているような気分だ。
「それでいいんじゃないでしょうか……?」
代り映えの無い空を見上げながら思い悩んでいると、カイルがポツリと呟いた。
「あぁ、いや……シャーリィさんの悩みを気軽に考えてるってわけじゃないんです。僕たちだってアステリオスさんやシャーリィさんが厳しく教えてくれたから、今まで生き延びてきたから」
「では一体、どういう事でしょう?」
「……前にこの場所で僕が言ったこと、覚えてますか?」
春と夏の間の季節。帝国が初めてソフィーとティオに干渉を始めた頃のことを、シャーリィは思い出した。
「何か困ったら依頼を出せ……貴方はそう言いましたね」
「そうそう! 僕みたいな半人前じゃあ頼りがいが無いかもだけど……教えるのが上手い人なんて他にも一杯いる。適材適所って言うには少し違うけど……お金払って厳しく当たるための指導役を雇って、一緒に教えていけば問題ないんじゃないかなって」
「…………」
「だからシャーリィさんが無理して厳しく当たる必要はないと思うんです、はい。無理してやっても上手くいかないかもしれないし、シャーリィさんは今まで通り丁寧に教えてあげればいいと思うんですけど……どう、ですかね?」
目から鱗が落ちた気分だった。親の自分が教えられない部分を教えられる者を雇う……考えてみれば当たり前のことだ。
「……どうやら私は、また一人で考えすぎたようですね」
民間学校と同じだ。親元では教えられない対人関係を教えるために学校という場を頼っているのと同じように、また頼ればいいだけの話。それに気が付かなかったのは、シャーリィの悪い癖でもある。
出産直後に抱いた、自分一人で娘たちを育てなければならないという強い思い込みが、今なお彼女の根底に沁みついていた。だがそれは冷静に考えれば、娘の為にこそ妥協できる、親ならではの特に意味のない拘りだ。
これまでだってマーサを始めとした者たちの助けを借りながら娘たちを育ててきたというのに、二人の今後を左右する教育方針の大きな変更ということもあって意気込みだけが先走り、視野が狭くなってしまっていたらしい。
「まさかそれを一回り以上年下の少年に諭されて気付くとは……」
「え!? あ、その……何か、すみません。生意気言っちゃって……」
「どうして謝るのですか。これでも感謝しているのですよ」
真面目と言うか控えめと言うか、はたまた卑屈と言うか小心と言うべきか……頭を掻きながら意味もなく頭を下げるカイルに、シャーリィは思わず苦笑を溢す。
「助かりました。今言われたことは選択肢に入れさせてもらいます」
そうと決まれば、シャーリィは頭の中で算段を組み立てる。
普段の依頼報酬に加え、カナリアとも親交のあるシャーリィは、大金を引き換えにカナリアから直接依頼を受けることも多々ある。竜王戦役や怪盗の拿捕の時もそうだ。
そうしたことを繰り返したおかげで、娘たちの為に貯蓄しておいた金貨は既に数億枚にまで上り詰めている。こういう時の為にこそ、普段は貯め込むばかりの金庫の扉を開けるべきだろう。
(娘たちを指導するに相応しい、実力と人格、そして指導力を兼ね備えた優秀な人材を見つけなければ……)
貯金額に反して一般的な生活しかしていないので、普段はありがたみを感じにくいが、こういう時は金の力は偉大である。金貨数万枚もあれば、人間社会における大抵の願いは叶ってしまうのだ。
(尤も、娘たちへの指導を任せっきりにするなど羨ま妬ましい……ではなく、無責任な真似をするつもりはありませんが)
たとえ指導役を雇ったとしても、自分が伝えられる技や知識は残さず伝えよう。改めてシャーリィは心に誓った。
「助言になったら、良かったです。何か困ったことがあったら、言ってくださいね」
「……そうですね。いつか貴方たちにも、ソフィーとティオの相手を頼むかもしれません」
「二人の相手かぁ……あの二人って才能の塊って感じだし、訓練相手になったら自信無くすかも」
あながち冗談でもなさそうなことを特に気に介した様子もなく答えるカイル。それを聞きながらひっそりと淡い笑みを浮かべると、シャーリィは悶絶するほどの痛みが和らいできて、落ち着いた様子で地面に転がるクードとレイアの元へと歩み寄る。
「少し、休憩にしましょう。飲み物なら私が用意します」
「や、やったぁ……」
「あ、ありがとよ……」
魔道具《勇者の道具箱》から体力回復のポーションを取り出し、一人一つずつ投げ渡すと、三人は一気に呷った。
疲労を癒す類のポーションは、昔は薬臭さと苦みによって敬遠されていたが、最近の物は蜂蜜の甘さが加わって非常に飲みやすくなったものだ。近頃では果実水などよりも人気があり、一般人に対しても味を楽しむ目的で売られていることがある。
「そういえば、もうじき民間学校はあの季節じゃない?」
「あん? ……あぁ、そういやもう直、あの行事があったな」
休憩中の談笑の最中、クードとレイアが口にした民間学校の行事と聞いて、シャーリィは目の色を変える。
「あの行事とは?」
「シャーリィさん、早い。映写機を構えるのが早すぎるって」
「あははは……少なくとも、シャーリィさんの映写機の出番が来ることはないかもなぁ」
いそいそと映写機の手入れを始めるシャーリィに呆れつつ、クードは顎に手を当てながら告げた。
「多分そろそろ通達されんじゃねぇの? 毎年秋季に予定されてる、2学年と3学年の修学旅行の話がよ」