プロローグ
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帝国貴族の長、アルグレイ家没落。数多くの不正や犯罪に加担、自ら手に染めてきた、腐敗した名家が消えた影響は凄まじいものがあった。
これまでアルグレイ家の傘下に入ることでその栄光の笠を着て不正を隠してきた汚職貴族は自分たちも同じ末路になることを恐れて身動きが取れない状態になり、奴隷や違法魔法を取り扱ってきた、帝国にのさばる悪徳商人たちは捕らえられた貴族たちの証言によって一斉逮捕。
アルグレイ家ほどではなくとも、帝国の重鎮と呼べる高位貴族たちは証拠隠滅の為に他の事に一切手を回せず、アルグレイ家の国際条約の違反に対する償いと称した、フィリアによる売国活動を止めることが出来ずにいた。
平民からすれば貴族たちが横柄な態度をとる余裕もなくなり、日々の生活が楽になったほど。それを招いたのがフィリアと、彼女によって立ち上げられた治安団体、警察の働きによるものだということで、平民たちの間では更にフィリアへの支持が高まっている。
シャーリィという要素が抜け、十年以上の時を経て再び現れたことによって生じた歪みが、面白いくらいの勢いで腐りきった利権の温床である帝国貴族制度を瓦解させていく。国内の膿が吐き出される中、皇帝アルベルト・ラグドールは失われた城に代わる住まいである別荘の執務室で項垂れていた。
「そんな馬鹿な……長年に渡って私を支え続けたアルグレイ公爵が、我が父と母を殺めたなどと」
変化したと言えば、アルベルトを取り巻く環境もそうだろう。何せ最大の後援者が帝国史上でも五本の指に入る大罪、皇帝暗殺の黒幕だったのだ。信じ切っていた義父が自分の親を殺した上に、これまで何食わぬ顔で味方面をしていたと思うと、流石のアルベルトでも騙されていたと感じざるを得ない。
「しかも事の詳細が忌々しい我が妹、フィリアによってまたしても下民どもに知れ渡ってしまった……」
この特大不祥事を帝国滅亡を目論むフィリアが利用しない筈がない。先の元帝国騎士団長グランが起こした不祥事と同様に、本来秘すべき事情をすぐさま民衆に暴露。アルグレイ家の傘下にあったり、関わりが深かった貴族たちの民衆に対する求心力は著しく下がり、アルベルトは皇帝でありながら自らの両親を殺した者を信じ切って言いなりになっていた、帝国史上もっとも情けない愚帝と陰で謗られ、元々低かった支持を更に下げることとなった。
「どうしてだ……私は世界の頂点に立ち、最も神に近い帝王になるはずなのに……なぜ私の支持率が下がり、フィリアの支持率が上がっている? 私の何がいけないというのだ?」
かつてアリスが自らを惚れ込ませるために適当に吐いた嘘を今でも信じ切り、自分が為すこと全てが正しいと信じて疑わないアルベルトは、想定と現実の激しすぎる乖離に頭を抱える。
一連の事件の仔細が詳らかとなったことで他の後援者もアルベルトと距離を置き始めた……というよりも、勢いが止まらない警察の捜索、逮捕劇に恐れて保身に忙しく、アルベルトに構う余裕すらもないといったところか。
元々、アルベルトを支持していた、アルグレイ家を含めた多くの貴族からすれば、傀儡の皇帝から染み出る甘い汁を啜る為に後援者をしていただけであって、その甘い汁を啜る余裕すらもなければ必然的にアルベルトの優先順位は下がる。
そこまでくれば、流石のアルベルトも求心力が落ちていることに、遅まきながらに気が付いたのだろう。一回り以上年の離れた妹に嫉妬の炎を燃やしながら、机を蹴り上げ、調度品を叩き割る癇癪を起こす。
「くそっ!! これから城の立て直しで忙しいという時に、誰一人として私を助けようとしないなど……フィリアといい、公爵といい、私の周りには裏切り者ばかりではないか!! ……がぁあああああああああああっ!!」
それに加えて、アルベルトが獣のような叫び声を上げながら破り捨てた報告書には、アルベルトの支持者の中から、少なくない数の離反者……つまり後援者を辞める者たちが出た、と書かれていたのだ。
後援者を辞めた者たちが次に持ち上げようとする相手はアルベルトでも分かる。今現在、帝国で最も民衆からの支持を集めているフィリアに他ならないだろう。彼らが心からフィリアを支持する者たちなのか、アルベルトの時と同様に甘い汁を啜ろうとしている者たちなのかは定かではないか、どちらにせよアルベルトにとって看過できる問題ではない。
「はぁ……はぁ……どうしてこうなった? 私はただ、アリスを愛し、アリスの為にやってきたというのに……」
その妻は今、人前に出られない傷痕を体に残した上に、実家が重罪によって没落したため、皇妃としての権威もなくなっている。その上、子を為せない石女……そう考えた時、アルベルトの中でアリスへの愛情が薄れていった。
彼女の為なら何でもしてきた。常に最高級のドレスや宝飾も用意したし、執務を後回しにしてでもアリスとの蜜月に時間を費やし、虐げられていると訴えられればかつての婚約者だって断罪してみせた。
アリスもそれに応えるかのように、アルベルトにとって耳あたりの良い言葉で甘やかしてくれた。……だがそれだけだ。偉大な皇帝になれると持ち上げてくれた当の本人は何もしないどころか、今のアルベルトに最も必要な物の一つである金を湯水のように使い捨て、その結果が現状だ。
――――アルベルト様、どうか自制してください。貴方は帝国に生きる全ての者の未来を背負って立つ御方なのですから。
その時、アルベルトはかつての婚約者であり、若かりし頃のシャーリィの言葉を思い出した。アリスとの蜜月に浮かれて次期皇帝としての勉学も蔑ろにし、国庫にまで無断で手を伸ばし私欲を満たし始めた頃、異変に気付いたシャーリィの言葉。
あの時はただ煩わしいものとしか聞こえなかったが、最近浮き彫りになり始めたアリスへの不満が膨らんだ今、アルベルトはようやくシャーリィの言葉が婚約者の事を思っての発言だったと自覚する。シャーリィのあの言葉こそ、アルベルトを名君にするべく放たれたものなのだと。
「あぁ……私は何という事を……」
アルベルトは今更ながらに理解した。自分にとって必要不可欠な存在……それがシャーリィであったのだと。
そしてこうも曲解した。シャーリィがアリスを虐げたのは、愛するアルベルトが妹と懇意にしていたことへの嫉妬であったのだと。……当時アリスから聞かされたシャーリィの悪事を所々忘れた結果、アルベルトは何が真実なのかを知らないまま、自分の認識を真実だと確信する。
「シャーリィ……君は私をそんなにも愛してくれていたんだね」
事実といえば、事実である。しかしそれを全て台無しにしたのは他ならぬアルベルトであり、最低限良識がある者が聞けば『何を今更』と呆れ果てるだろう。だが、フィリアを筆頭とする反皇帝派と呼ばれる面々から密かに脳内お花畑と称されるアルベルトは、更に頭の中で花を咲かせた。
かつてアルベルトが嫉妬するほどの教養と才覚を備え、半不死者として生涯衰えることも老けることもない、類を見ない美貌を誇るシャーリィ。そんな彼女を伴侶として側に置く、あり得た未来を夢想する。
しかも、彼女が産んだ実の娘たちは母に似て天使の様に愛らしい。そんな彼女たちの本当の家族になっていれば、アルベルトは男としての幸せも、皇帝としての栄光も得られたに違いない。
そんな未来を手にするのはもはや不可能。……だが、アルベルトはその現実を否とする。
「まだ間に合う。まだやり直せる」
何をどう考えればそんな結論に至れるのか、常人では理解できないだろう。しかし、アルベルトは自分にとって都合のいい妄想を現実と決めつけて思考している。
(なぜならシャーリィは今でも私を愛している。かつて私とあれほど愛し合ったのだから、それは必然だ。今はこうして離れているが、それは彼女の嫉妬を受け止められなかった若かりし頃の私の責任。狭量だった昔の私に対して拗ねてしまい、アリスへのヤキモチも合わさって、彼女は私を愛するがゆえに遠ざかろうとしているのだ。嫉妬に押し潰されそうになる自らの心を守るために!)
当時のシャーリィの心境はヤキモチどころの騒ぎではなかったと知らないアルベルトは自信満々に断定した。
(だが今の私は違う。十年の時を経て、皇帝としての懐の深さを手にした今の私ならば、彼女の嫉妬心ごと受け入れることができる。……それにしても、思わず実の妹を苛めてしまうほど私を愛していただなんて、可愛いじゃないか)
(ただの濡れ衣だが)長年愛を捧げ続けたアリスが虐げられていたという事実は、アルベルトの中では最早どうでも良いらしい。今の彼の頭の中は、捨てて拷問にまで掛けたシャーリィへの思慕で一杯だ。
(しかし……幾ら嫉妬して拗ねてしまったからと言っても、十年以上音沙汰なしだったのは長くはないだろうか?)
そこでふと、アルベルトはごく当たり前の疑問に思い当たる。普通ならば最早アルベルトに未練はないのだと分かるところだが、アルベルトの誤解は止まることはない。
(もしや、《黄金の魔女》カナリアの仕業か!? 時を経て機嫌を直し、子供も生まれて私の元に戻ろうとしても、あの魔女がシャーリィや私の娘たちの弱みを握り、冒険者などという危険な仕事を強要しているのか!? きっとそうだ……そうに違いない!!)
何とアルベルトは、シャーリィが王国から出てこないのをカナリアのせいにし始めたのだ。これには流石のカナリアも脱帽だろう。
(そう言えば神前試合の後、私が妻と娘を連れ戻そうと説得しようとしたら、如何にも下民と分かるみすぼらしい小僧が偉大な皇帝となる私の尊顔を殴ってきていたな……! 奴はきっと、あと一歩でシャーリィが機嫌を直し、私の元に連れ戻されそうになったからと、カナリアが仕向けた刺客に違いない……!)
そして怒りの矛先はカイルの方にも向けられる。アルベルトは二人してシャーリィを王国の片隅に閉じ込めていると考えた。
「私の可愛い娘たちもよく分からない事を言って私を拒絶していたが、それだってカナリアが心にもないことを無理矢理言わせたに違いない……幼い娘たちに何て卑劣な真似を! 愛し合う家族を引き裂こうだなんて、許すまじ外道!!」
風評被害もここまでくれば清々しい。アルベルトは妄想一つで、カナリアはアルベルトの元に戻りたがっているシャーリィに危険な戦闘行為を強要する下劣な魔女だと思い込んだ。
(あんな凶悪な魔女の元に愛しい女性と、可愛い娘たちを何時までも置いてはおけない。早急に帝国へ連れ戻し、再び婚約者の座に戻ってもらわなければ)
元々婚約者だったのだから、それが元鞘に戻るだけで何の問題もない……と、問題だらけの発想に至ったアルベルトだが、現実的な問題として帝国の公人は王国への出入りに対して厳しく規制されている。
皇帝であるアルベルトが王国に入ることなどできないし、グランを始めとした条約違反者たちの二の舞になりたくないと、アルベルトを支持する貴族たちが口々に言っているのを聞いたことがある。
(だが諦めないぞ。私は必ず邪悪な魔女を倒し、シャーリィ……君と子供たちとの日々を取り戻して見せる……!)
思い返せば、フィリアはシャーリィを非常に慕っていた。改めてシャーリィが自分と婚姻を結べば、フィリアは自分の支持者ごとこちら側に付くだろうし、全てが良い事尽くめだ。
「しかも真に愛する人だけでなく、娘たちも……その力ごと手に入れられるのだ。やがて私が偉大な皇帝になるには、彼女たちが必要不可欠だったのだな」
アリスとは離縁は難しいが、別荘なり後宮なりに追いやってしまえばいいだけだろう。そう考えたアルベルトは手紙をしたため、それを配達するように使用人に渡すと、馬車に乗り込んで帝都の大聖堂へと足を運ぶ。
大陸全土で信仰されている天空の女神ではなく、今はもう信者の居ない別の神を奉じていた、帝国に存在する最も古い聖堂。歴史的価値があるということで今もなお取り壊されずに残されている建造物、その地下に広がる空間を目指し、アルベルトは供も付けずに階段を降りていった。
一方その頃、王国では。
「くちっ」
「どうしたの、ママ?」
「……風邪でも引いた?」
「……いえ、風邪を引いたわけではないと思うのですが」
シャーリィが娘たちと一緒になって洗濯物を干している最中、妙な悪寒に襲われた。残暑が完全に過ぎ去り、空気に冷たさが混じり始めたこの時期による寒気によるものではない、まるで全身を触手が撫でるような、そんな気味が悪いという意味での悪寒だ。
薄気味悪さを感じながらも、洗濯籠に入っている衣服を干そうと腰を曲げると、ティオがシャーリィの額と自らの額に手を当てる。
「ん……熱くはないっぽい。よく分かんないけど」
「駄目じゃん……でもママ、本当に大丈夫? 何だったら、洗濯物は私たちで干しておくから休んでていいよ」
「いえ、平気なので大丈夫ですよ」
「いいからいいから! 普段一杯お世話になってるし」
「休みの日くらいはゆっくりしてて」
タオレ荘の中に入る扉の方へと、二人掛かりで背中をグイグイと押されながら、シャーリィは内心で穏やかな気持ちに包まれていた。
(まだ遊びたい盛りのはずなのに、日に日にしっかりしてきますね)
娘たちの成長をこの目で見て、体で実感できる、そんな日々が何よりも輝かしい。この世に生を受けてからの十一年と、元婚約者を妹に奪われてからの数ヵ月は闇の底を這いずるような時を過ごしていたのが嘘のようだ。
(今更ながら、復讐に時間を掛けなくて正解でしたね。この子たちの成長を余すことなく見守れましたし、今となっては帝国に居た時の事など、フィリア殿下やルグランド陛下、エリザベート妃殿下とのこと以外は殆ど思い出せません)
実の父母、ジェナン・アルグレイとエレナ・アルグレイとの決着以降、シャーリィは帝国……ひいてはアルベルトの事などすっかり思い出さなくなり、充実した日々を送っていた。
みんな大好きアホベルト、登場と同時に大暴走。