幕間の迎撃・中編
最近……仕事の勤務時間が早朝になり、最も執筆するやる気の出る午前6時から8時を潰されてしまいました。これからは気を取り直し、午前3時から6時の間にやる気が出るように心を入れ替えたいと思います
走る。走る。ただひたすら、走る。物心も付かない幼少の頃より暗殺者として育てられた男は、洗脳に近い訓練によって恐怖や絶望といった、身を竦ませるありとあらゆる感情から切り離されて生きてきた。
「はぁ……! はぁ……っ!!」
そんな男は今、さる人物の娘の殺害の為に国外からはるばるやって来て、いざ暗殺を実行しようとした矢先、先ほどまでいたはずの民間学校の風景から一転し、辺境の街からほど近い平原に突如として移動し、戸惑っているところを世にも恐ろしい魔力を放出する魔族の女に遭遇。
死んだ感情を揺さぶられるほどの高濃度の魔力と、満面の笑みの裏に見え隠れする残虐な殺意を見た時、気が付けば自害することも障害を排するという意思すら忘れ、組んで行動している、自分と同じ境遇の男二人と全速力で逃げていた。
「くはははははははは! 待て待て~。今捕まえてあげるのじゃ~」
まるで幽鬼のようにフヨフヨと浮かびながら尋常ではない速度で迫る少女の姿は、最早恐怖でしかない。放出される魔力が物理的な力を宿し、通り過ぎる大地を砕きながら迫ってくるなら尚のこと。
「ははははははははっ!! 捕まえたのじゃあああっ!!」
逃げた時間はせいぜい十秒にも満たないだろう。彼らの必死の抵抗も空しく、魔術によって液状化し、生物のようにうねる地面が三人の全身に纏わり付き、すぐさま硬化。身動きを完全に封じられるら否や、またもや蒼穹と緑の平原の風景から一転、気が付けば石造りの密室の中に彼らはいた。
恐らく転移の魔法だろう。そう考えたのも束の間、その部屋の中には自分たちと同じく暗殺の任を受けて街まで訪れた者たちが幾人もいて、皆一様に拘束台に縛られ、奇声を上げながら泡を吹いて白目を剥いている。
「くくくくく。これで十五人目。これまでの十二人は情けないことに数分で心が壊れたが、お主らは冷静さを保ちながら、キリキリ吐くべきことを吐いてくれることを期待しておるぞ?」
何らかの魔法薬に塗れた針を五本の指で挟み、空いたもう片方の手で男の頭を鷲掴みにした少女……カナリアに、男は地獄の底の悪魔を連想しながら、初めて感じる心の躍動を恐怖一杯で染め上げた。
逃げる。逃げる。ただひたすら、逃げる。暗殺者として、幼少の頃から血反吐を吐くような思いで身につけた、盗賊職も顔負けの身のこなしで建物と建物の隙間を縫い、壁から壁へと跳躍し、透過や迷彩の魔術をも駆使しながら、一心に逃げる。
「想定の範疇……で、ありながら、想定を遥かに超えている……っ」
矛盾しているようなその言葉。彼らは暗殺任務を受けてこの街まで訪れたが、標的の母親にだけは注意するようにと厳重に警告されていた。
BランクでありながらSランクすらも凌駕する、知る人ぞ知る冒険者であるという事は聞いていたが、自分たちの腕を以てすれば出し抜ける相手であると理解しているつもりだった。
当然と言えば当然の驕り。暗殺に特化した者と近接戦に特化した者とでは住むべき土俵が違う。暗殺者とは戦士の理解に及ばない数多の方法で、影から命のみをかすめ取ることに特化した職業。加えて冒険者とは基本的に魔物を相手にする者たちだ。人間である暗殺者の業に、魔物と真っ向から戦う戦士が気付く道理はない。
……そう、勘違いしていた。
「生憎、今の私は鬼遊びに興じている時間はありません」
対面した瞬間、長年の訓練で殺した感情すら総毛立たせる震わせる猛烈な殺意。それを言葉よりも雄弁に語る、氷よりもなお冷たい蒼い眼と、炎よりもなお熱い紅い瞳。それを見て堪らず逃げ出そうとした瞬間、三人の内の一人が上空に打ち上げられ、遅れて打撃音が響き渡った。
音が鳴るよりも早く鞘で顎を下から上へと打ち上げられたのだ。同胞の無事を確認することもなく、残った二人は瞬時に二手に分かれたが、その数秒後にまたしても打撃音が響く。
残された一人は脚が千切れるのではないかというくらいに必死に足を動かし、女から逃げ続けるが――――。
「この街に住んで十年近くになる私相手に逃げ切れるとでも?」
死角から死角に飛び込み、ようやく撒いたと思った瞬間、目の前に回り込んだ女……シャーリィが振り上げた鞘の一撃。顎が砕けながら脳が激しく揺さぶられ、上空から地面に落下しても身動きが全くできない。
それでも何とか逃げようと身動ぎする男の頭を踏みつけながら、シャーリィはカナリアに対して念話の魔術を発動させる。
(二十一人目を確保しました。そちらに運んでください)
(うむ)
黄金に輝く魔力の渦に巻き込まれながら消える男の姿を見届けると、シャーリィは懐中時計を確認。そろそろ次の競技が始まる時間だ。
「戻り際にもう一組狩るとしましょうか」
空間転移もかくやと言わんばかりの速度を誇る縮地によって影も残さず路地裏から消え去るシャーリィ。その数十秒後、街の誰も気付かれることなく、人目の付かない別の路地裏から打撃音が三度鳴り響き、二十四人目となる密入国者にして暗殺者という被害者が増えることとなった。
「あ、戻ってきた」
レイアはそんな暢気な声を上げる直前、シャーリィは足音も立たせずに観覧席に戻ってきていた。白組の観覧席を見てみれば、カナリアも何食わぬ顔で戻ってきている。
「先ほどの競技はどうなりましたか?」
「白組が勝って逆転されちゃいましたね。まぁ、一回勝てばまた紅組が逆転になるし……一進一退って感じです」
今年の運動会は何時になく接戦している。その事もあってか、双方ともに諦めが脳裏をよぎらないらしく、少し目を離した隙にまたしても運動場を包む熱は増しているように感じた。
「おい、シャーリィ! 次アンタの出番だろ!? さっさと来い!」
「……いいでしょう。私がこれに勝って巻き返すとしましょう」
次の競技は親子競技……シャーリィが最も楽しみにしていた、娘との合同競技だ。必然、シャーリィから炎のような闘志が運動場の熱を全て呑み込むかのように立ち上る。
「カイルさん、私の代わりに映写機を。ソフィーの勇姿をその魔道具に刻み込んでください」
「は、はいっ!」
競技に参加する為に一旦映写機を託し、シャーリィがソフィーと合流すると、ソフィーはどこが上機嫌になりながら駆け寄ってきた。
「えへへへ。ママ、頑張ろうねっ!」
「随分と嬉しそうですね」
「だって、こういう行事をママと一緒にするなんて、初めてでしょ?」
言われてみれば確かにそうだ。今までも数々の行事を娘たちと共にしてきたが、運動会という明確な競い合いの場を共にすることは一度も無かった。
「何か一足先に夢が叶ったような気がするんだ。大きくなったら、ママと一緒に冒険者になって戦って、色んな場所を巡る……勿論、本当に魔物とかと戦うのとは別物だって、分かってるけどね? 一緒になって相手に勝とうとするって意味なら、同じでしょ?」
「……そう、ですか」
はにかみながらそう言うソフィーを優しく撫でる。
(そんなこと言われたら……何としても勝たせたくなるじゃないですか)
この瞬間、白組から参加する父兄……その中に居る冒険者たちが猛烈な殺気に似た何かを感じ取り、一斉にシャーリィの方を振り返る。彼らの心情は一様に、出張ってきた戦場に自分よりも遥かに格上の魔物が現れたかのようだ。……今日は楽しむ事前提の運動会のはずなのに。
『それではこれより、親子騎馬戦のルール説明を始めたいと思います!』
出場者が全員運動場に入ると、司会からの競技説明が始まる。
『ルールは簡単。まず父兄の方が馬役として、お子さんを騎兵役として肩車し、頭に巻いたハチマキを奪い合い、相手チームを全滅させる。ただそれだけです。お子さんが肩車から落ちても失格となるで、注意してくださいね! 最後に禁止事項として、馬役の父兄に出来るのは移動だけ……ハチマキを取れるのは騎兵役のお子さんだけとなります! 今までの競技みたいに、魔術で騎兵役を妨害みたいなことをしちゃダメですからね? 特に冒険者の方!』
そこかしこから笑い声が響く中、これまでの競技と比べると随分地味に見えるが、それも仕方ないことだとシャーリィは内心で納得する。
親子競技というのは、民間学校の運動会では初めての試みだ。これまでの競技を見れば分かるように、子供に怪我を負わせるような内容にするわけにはいかない。
『よーし、そのまま動くなよ。ロープで体を固定すっからな』
『《固定・定着》……よし、魔術はきちんと発動しているな』
しかしやりようはいくらでもある。肩車した子供が落ちないように道具や魔術で固定し、その上で馬役の父兄……その中の大多数である冒険者たちは身体強化を容赦なく使用するつもりのようだ。冒険者ではない少数の一般父兄は戦々恐々としている。
「よぉ、シャーリィ。どうやらお前の快進撃も年貢の納め時みてぇだな」
ソフィーを肩車するシャーリィの対面でニヤニヤと不敵な笑みをこぼすのは見覚えのある白組の冒険者。それもかなりの長身の男で、ソフィーが精いっぱい手を伸ばしても、その上に居る生徒のハチマキを奪うのは至難だろう。そしてそれは、その親子にだけ言えたことでは無い。
「これだけの身長差じゃハチマキを奪うことも満足に出来ねぇだろ。親バカのアンタじゃ、ガキを肩車した状態で自慢の速さも活かせねぇ。遊びや祭りの場じゃ締まらねぇが、俺がアンタの無敗伝説に終止符を打ってやるよ」
「むっ」
頭の上でソフィーが不機嫌になるのを感じながら、シャーリィは心配無用とばかりに両足を握る。
「問題ありませんよ、ソフィー。何も相手の言っていることが全てではありません……それを証明してみせましょう」
「本当?」
「ええ、本当です。なのでソフィーは、落ち着いて相手のハチマキを奪うことだけに集中してください」
「……分かった! 私、頑張るねっ!」
そして視界の合図と共に競技は開始され、白組の冒険者たちは他の騎馬には目もくれず、一直線にシャーリィの方へと駆ける。その速度と圧力はさながら砲撃のようだ。
「まずシャーリィに一斉に襲い掛かれ! あいつを仕留めれば紅組の戦力は激減だ!!」
恐らく開始前にある程度示し合わせたであろう一斉襲撃。シャーリィの動きは間違いなく制限されている。しかし何かをする可能性は高い。だからその前に叩こうとした、彼らの判断は間違っていないだろう。
「なっ!? き、消え――――」
「バカっ! 横に――――」
いざ上に乗った子供がソフィーのハチマキを奪おうとするや否や、その親子の眼にはシャーリィとソフィーが消えたように映ったが、周りにはその動きが良く見て取れた。
傍から見れば大した速度は出していない。普段音速以上の速さで戦場を駆け巡るシャーリィの動きとは思えない、それこそ一般人の眼にも追える速さだ。しかし、それでも身体強化のみならず、動体視力も魔術で強化した冒険者はシャーリィの動きを捉えられなかった。
全ての相手の死角を割り出し、最も隙の大きい相手を見定め、その死角に入り込む。目に見えなければ如何に動体視力が優れていようが、それは目にも留まらぬ速さで動いていることと大差ないのだ。
「やった! 取れたぁっ!」
「お見事……この調子で次に行きましょうか」
まるで風に舞う花びらのような緩やかにして華麗な動きで、相手の視界に入り込みながら軽く跳躍。一般人でも目に追える速さで動く視界ならば、ソフィーも落ち着いて相手のハチマキを狙うことが出来る。ただやみくもに速く動くだけならばこうはいかない。
豪速で駆ける冒険者たちの間隔を縫うように滑り込み、幼い少女でもハチマキを奪えるように立ちまわり続ける。そうして奪って奪って奪い続け……白組側が全滅する頃には、ソフィーは最も多くのハチマキを奪う形で、紅組の勝利に貢献していた。
『勝者、紅組!』
「やった! 見てみて、ママ! ほら、こんなに取ったよ!」
「ええ、よく頑張りましたね」
「えへへー」
するとソフィーはスッと手のひらをこちらに向けてきた。それの意味するところをしばらく考え、やがて思い出したかのように、シャーリィも内心似合わないことをしていると自分自身に苦笑しながら手のひらを向けると、軽く跳んだソフィーは軽快な音を立てながら母の手のひらを叩いた。