帝国閑話
帝国中心部、アルグレイ公爵領。石造りの建築物が並ぶ壮麗な街並みの、帝国でも屈指の大都市の一つであり、シャーリィの生まれ故郷でもある。……彼女自身に良い思い出は全く無いとしてもだ。
そしてその街を治めるのは当然、ジェナンである。彼は建国より帝国の中枢を担ってきた一族の長として、身分の低い者を徹底して見下すありふれた貴族主義者、血統主義者でありながら、領民の不満を上手くコントロールして安定した治世を敷いてきた。
金銭にせよ、食料にせよ、衣服にせよ、多くの貴族たちが自分が神にでもなったかのように振る舞う中で、アルグレイ家だけは平民が貴族にもたらす物を知っていたのだ。
皇帝アルベルトが強いる重税の中でも、アルグレイ公爵領だけがそれを免れる。今の帝国民の間では、この地は地獄の中の天国だという者も少なくなく、他の領地から流れてきた者も大勢いる。
「ふん……愚かな連中だよ」
救われたと言わんばかりに、アルグレイ公爵領に受け入れられた難民たちを、屋敷の窓から見下ろしながら、ジェナンは鼻で嘲笑う。
表ではどれだけ安定した善政を敷いているように見えても、ジェナンは良くも悪くも人の子だ。人の子として、欺瞞と欲望が強すぎた。
考えに耽っていると、執務室の扉からノックの音が聞こえてくる。入室の許可を出すと、入ってきたのは長年自分に仕える、酷薄な雰囲気を漂わせる家令だった。
「失礼します、旦那様。実は例の帳簿なのですが、文官が誤って濡らしてしまったそうなのです。今現在、至急で書き直させているところなのですが……」
「構わない。急ぎの物でもなければ、取り返しのつかない物でもないのでな。その文官を罰することもすまい」
「流石は旦那様でございます。その寛大な処置に、彼も大変感謝することでしょう。……では、私はこれで失礼します」
家令が部屋を出ると同時に、ジェナンは思わず忍び笑いをする。
帳簿を濡らしたから書き直させる……などと、よく言ったものだ。単なる脱税を始めとした不正を隠すための隠蔽工作、その隠語だというのに。
「やはり世の中大事なのはバランスだな」
善と悪。正と誤。表では良き領主として振る舞いながらも、裏では貴族優先の帝国法の中でも貴族にすら適応される犯罪行為に手を染めて抜け出せないところにまで達しているのが、アルグレイ公爵家の実態だ。
特にジェナンは、混迷渦巻く帝国にあって、歴代の当主の中でも最も上手く立ち回っていると自認している。先帝の時代の頃から、領民にも、政府より派遣された徴税人にも悟られることなく、少しずつ脱税を繰り返しては自らの懐を潤していたし、今に至っては大っぴらに不正を行うことすらもある程度は可能なのだ。
(あのバカで幼稚な皇帝を煽てるだけでこうもやりやすくなるとは……アリスを皇帝家に嫁入りさせることは、公爵家としてもやはり間違いではなかったな)
アルベルトは、客観的に見ても暗愚な皇帝である。自らを歴史に残る名君となる男と自認していながらも、やっていることは民衆に重税という名の圧をかけて巻き上げた税金でアリスの欲求を潤す事ばかり。しかも国家間の対談では自尊心から他国を見下す発言を連発して顰蹙を買う羽目に。
城が破壊されたら破壊されたで、再建の予定も上手く組めずに後ろ盾や後援の貴族に泣きつくばかりで、自分では何も成すことが出来ない哀れで愚かしい皇帝。若かりし頃は、国の運営についても学んでいるはずなのだが、アリスに惹かれてからは途方もない愚物になったと、臣下であるジェナンや他の貴族たちですらそう思っている。
(だからこそ、操りやすい)
時折暴走するのが玉に瑕だが、気に入った相手の心裏を探らず、疑うこともない。おまけに欲望に忠実な上に間抜けで無知。高すぎる自尊心を心にもない言葉で満たしてやれば、すぐにいう事を聞いてくれる。
アルベルトは皇帝でありながら、完全に帝国貴族の傀儡と化していたのだ。彼自身が望む姿とは真逆……それこそが、帝国貴族が皇帝に望む姿でもあるのだ。
(この国は貴族の国だ。《白髪鬼》や先帝夫妻のように、好き勝手国を動かされてたまるものか)
帝国の貴族たちは、昔から分担して広大な国土を支配してきたという自負がある。そして何時の時代からか、皇帝など所詮帝国貴族たちの指針を纏めるための神輿に過ぎないと考え始めるようになった。
しかし三百年前の白髪の革命家や、それに協力したカナリアによって皇帝家や平民が権限や自由を手にし、貴族たちは既得権益の殆どを失う羽目となった。そして時は移ろい、再び貴族たちの力が盛り返したかと思いきや、先帝ルグランドやその皇妃、エリザベートの活動によって復権すらも妨げられたのだ。
(しかし既に《白髪鬼》も先帝夫妻も過去の人物だ。もはや恐れる者は何もいない……そう、思っていたというのに……!)
ジェナンは窓枠を強く握りしめながら実に忌々しそうに顔を歪める。
後ろ盾とは名ばかりで、アルベルトを陰から操っている賢しい貴族が多いが、中でも皇妃アリスの実家として、事実上帝国の支配者となったジェナン。それは皇帝を差し置いて帝国の頂点に立ったと言っても過言ではなく、自分こそが古き良き帝国の姿を取り戻すのだと……そう思っていたのだ。
しかし、アルベルトはつくづく予想外の事をしでかしてくれた。以前から不利益になる行動を独断ですることも多かったが、それでもまだリカバリーが効く程度。即位してから最初の世界会合で王国を下に見る発言をした時は頭を抱えたが、こちらの真意に気付かない傀儡としては及第点だ。
(だからと言って、まさか王国と事を構えるようなことを独断でするようになるだなんて……!)
ジェナンたち後ろ盾の貴族が揃って領地に戻っている間を狙い澄ましたかのように、皇帝自ら宮廷魔術師を動かし、実の娘とは言え王国に籍を置いているソフィーとティオを誘拐しようとしたのだ。精強な軍を持つのに反して戦争嫌いの国王エドワルドもこの事態には黙ってはいられず、あわや戦になりかけた。
神前試合で穏便に済ませられるかと思えばそれにも敗北。しかも謎の超常現象によって城は崩壊。帝国ではカナリアの魔術によるものだという説が有力視されているが、真偽の所はいまだ不明だ。
(その産物が、あの忌々しい連中か……!)
自らが統治する街を我が物顔で巡回する青い制服を着た集団が目に入り、ジェナンは心底忌々しそうに顔を歪める。
先の神前試合によって、帝国は王国への不干渉を誓うという条約に判を押さなければならなくなったのだが、アルベルトの行動に触発されてか、今年の夏の初めに騎士団長グラン・ヴォルフスが独断で王国に侵入、再びソフィーとティオを誘拐しようとした。
それが成功したのならともかく、またしても失敗。グランは死刑となり、条約に違反した帝国は賠償として南方領土を奪われる事となった。
そうして生まれたのが、反皇帝派の筆頭であるフィリアが組織した警察という、団長の不始末によって解体された騎士団に代わる治安維持組織。フィリアを慕う平民たちは公平な警察を受け入れたが、生真面目なまでに法律に従って貴族すら問答無用で逮捕する警察は、今の帝国貴族には非常に目障りな存在なのだ。
今まで貴族たちの間では権威を振りかざして行われてきた殺人や略奪は勿論のこと、国際法で禁止されている奴隷や危険薬物の売買も厳しく取り締まられるようになり、いくら貴族の威を示しても正当性と皇族を後ろ盾とする連中は怯みもしない。
(これまで一体どれだけの貴族が逮捕され、家が潰されてきた事か……。しかも、潰された家が治めていた領土の半数は、フィリア殿下の息がかかった貴族が治めるように……!)
アルベルトと敵対するフィリアは、ジェナンにとっても政敵だ。皇族であり、民衆の人気を一身に集めるが故に十七歳の小娘と侮ることも出来ず、その権力は日を重ねるごとに絶大になっていく。
まるで先帝の遺志を継いでいるかのような皇女だ。このまま放置すれば、帝国貴族の権威は間違いなく失墜する。
(早々に手を打たなければ……これ以上、奴らの手によって我らアルグレイ家が損害を被る前に……!)
ジェナンが確かな焦りと共に汗を一筋流したその時、遠くの部屋から花瓶か何かが割れる甲高い音が聞こえてきた。音の方角はアリスの私室だ。一体何があったのか……大方、アリスが苛立ちと共に何かを壁に叩きつけたのだと、見なくとも察することが出来た。
「あぁ、アリス……! あんなに傷付き、苦しんで、可哀想に……!」
手足に醜く大きな傷を付けられたアリスは、あの事件からしばらく経った今でもあぁして荒れていることが多い。常に目に入る大きな傷なだけあってか、どんな気分転換をしていても目に入るので、常に不機嫌なのだ。
しかも本来慰めるべき夫であるアルベルトは、どうにも最近アリスとは疎遠がちだ。不審に思って情報を集めてみると、再びソフィーとティオを帝国に連れ戻し、引いては忌々しい娘であるシャーリィを側室に迎えようとしているようだ。
それこそが、ジェナンやエレナを最も悩ませる理由。かつての婚約者とその娘を求めて考えなしに行動し始めたであろうアルベルトは、長年接してきたジェナンですら何をしでかすか予想も出来ない。
「ふざけるな……! せっかく……せっかく生涯私の目の届かぬ場所に行ったと思ったのに……!」
ジェナンもエレナも、シャーリィの事が嫌いだ。むしろ憎いとすら思える。そんなシャーリィが傀儡皇帝の側室とは言え、表面上は身分が上になるなど我慢がならない。しかもアリスがああなった今、すぐに他の女を側室に迎えれば、アルベルトがアリスを見限ったかのようではないか。
懸念はそれだけではない。もしアルベルトの目論見が成功し、シャーリィの輿入れと共にソフィーとティオが皇女となったら?
アリスが子を望めない以上、どちらかが次の皇位に就くこととなるだろう。そうなればますますアリスの立場が悪くなるのは明白だ。
「……普段は王国に居ながらどうやって陛下を誑かしたのだ、あの卑しい娘は! ……まさか、グラン・ヴォルフスの一件もあの娘が顔と厭らしい体つきで誑かして……!? くっ……! そこまでアリスを貶めて、一体何が楽しいんだ!?」
都合の悪いこと、その原因は全てシャーリィにあるように思えてきたジェナン。
「……そもそも、あの娘はなぜ双子など産み落とした!? そのせいで我がアルグレイ家は……!」
これでシャーリィが生んだのが一人だけならまだ良かったかもしれない。しかし、双子である以上どちらか片方が皇位に就いた場合、もう片方はどうなるのか。
ジェナンは今のアルグレイ家を取り巻く問題と合わせて考え、身震いする。もし想像通りの展開になればと考えると、屈辱のあまり頭がどうにかなってしまいそうだ。
「どうにかして陛下を諫めなければ……。いや、それよりも先に芽を摘み取ったほうが効率的か」
感情が抜け落ちたかのような表情でぼそりと呟くジェナンは、血縁上は孫にあたる少女たちを思い浮かべる。その目には、明確な悪意が渦巻いていた。
帝国最東部に位置するレグナード侯爵領の屋敷。敵だらけの帝国中心部に住むことは出来ないフィリアは、こうして信頼における臣下の実家に身を寄せて、アルベルトと、兄を取り巻く老獪な貴族たちを打倒するために政務に励んでいた。
「姫様、こちらは違法薬物の製造と売買の常習犯であったギニー伯爵に関する報告書です。ギニー伯は既に逮捕され、現在留置所で法廷の沙汰を待っているそうです」
「ありがとう、ルミリアナ。そこに置いておいてくれる?」
借りている客室に、ノックの後に入ってきた赤毛の女騎士、ルミリアナに少し疲れた笑顔で応対し、フィリアは軽く息を吐いた。
「それにしても、三月も経たない内にかなりの数の貴族が逮捕されましたね。流石は姫様が集めた有能な者たちで固めた治安組織というべきでしょうか」
「私の力ってわけじゃないけどね。そもそも構成員だって、他国やギルドから派遣してくれた人ばかりだし」
他国に帝国領土を明け渡し、自国を瓦解させることによって圧政や重税に苦しむ民を穏便に解放することを目的とするフィリアに賛同する者は、エドワルドやカナリアを始めとした他国の有力者の間では決して少なくはない。むしろ多いくらいだ。
だからこそ、彼らはフィリアに優秀な人材を貸し与え、それを元に警察という帝国の腐った膿を取り出す組織を設立したのだ。警察の構成員はフィリアに忠誠を誓っているのではなく、あくまで本来の主の為に、帝国法に基づいて不正もなく働いている。そうすることこそが、貴族たちの力、ひいては帝国の力を弱め、主たちの利に繋がるからだ。
「でも、こうして優秀な捜査員や密偵たちが集まったのは僥倖だった。警察は過去の事件も洗い直して捜査しているのだけれど、もしかしたら、あの事件も解決できるかもしれない」
「あの事件、でございますか? それは一体どういう……?」
フィリアがルミリアナの耳元で囁くと、女騎士は驚愕に彩られた表情を浮かべた。