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海嘯の灯  作者: 石井鶫子
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7

 闇夜の海から目覚めると、階下がいやに騒がしいのにライアンは気付いた。何をやっているんだと多少うんざりもしながら扉を開ける。扉外に詰めているはずのダルフォはいなかった。螺旋階段を下りて廊下を端まで歩くまでは通路は一本だから、そのどこかにいれば同じことだ。

 一つ下の階へ降りると、その通りにダルフォが壁に寄りかかっていた。ライアンに気付いて、軽く会釈する。騒ぎの元になっている部屋から出てきたチアロがぱっと明るい顔つきになった。

「あ、今、呼びに行こうと思ってたんだ」

 手間が省けたと思っている抜け抜けさが憎めない。ライアンはつい苦笑をもらした。チアロが出てきた部屋からひどい喊声がする。扉はチアロが開け放したままだが、その内側からの声が妙に上ずって興奮した声であるのにライアンは眉をひそめた。この興奮の種類には覚えがある。女だ。

「何だ、これは」

 外で何をしようと勝手だが、この根城に連れ込むことはないではないか。ヴァシェルやドォリィの放った間者かもしれないし、そうでなくとも得体が知れないのはこの場所に入れたくない。

 不機嫌なのが伝わったのだろう。チアロは申しわけなさそうに肩を丸めて小さくごめん、と言い、

「街ですっげえ綺麗な女、見つけたんだよ。いいとこの嬢らしくてさ、学校の制服なんか着ちゃってさ」

と付け加えた。ダルフォが黙って頷いた。

「大丈夫なのか」

 ライアンの問いにも再びうなずき、どうしますか、と聞いた。そうだなとライアンは少しの間思案する。なんの因縁もない女なら幾つかの手を選んで金になる。家が名家だったら身代金、貧しければ人売りというわけだ。

 微妙な時期だからこそ、渇えるほど金は欲しかった。その女は運が悪かったのだ。年は、と聞くとダルフォとチアロが顔を見合わせて首をかしげた。

「おそらくは十二、三だと思いますが」

 ダルフォの答えにライアンは面食らった。

「子供じゃないか」

 言った口調は我ながら強く苦いものだった。ふとあの格子の中の少女を思い出したのだ。あの強いまなざしが恨みがましくこちらを見ているような感覚に捕らわれてライアンは舌打ちした。

 彼女ではない。理屈ではありえない。見習いであれ妓楼所有の女に手を付けてはいけないし、それを知らない者はいないはずだ。

 あの少女でないにも関わらず、僅かにためらうのをライアンは自分で女々しいと思った。中年の娼婦と真向かえないのも、年端の行かない少女というだけでこの前の彼女と重ね合わせるのも。

 ライアンは扉を潜って部屋の内側を覗く。床に押し伏されている人影は確かに制服を身に付けていた。深い青に染められた上着と同じ色のスカートは確かとてもいい学校の物だと聞いている。頭がいいのか、学費がいいのかはわからない。学校など縁がないのだ。

 もがいている手足は華奢で、肌は抜けるように白い。編んで結い上げた黒髪がもつれて半端に解け、床に広がっている。

「……美少女、ということだな」

 そう呟くと、ダルフォがうなずいて苦笑した。

「実の所、こんなに綺麗な女がこの目で拝めるとは思ってませんでした」

 ダルフォの率直な賛美に、ライアンはあいまいに頷いた。ダルフォが手放しでここまで褒めるのは初めて聞いた気がする。ライアンは少女を見て、それから微かな驚きに眉をぴくりとさせた。ダルフォを見ると、大きく頷く。

「口がきけないようです」

「確かか」

「……医者に診せた訳ではありませんから。でも、確かに一言も声を上げないので」

 ライアンは身をよじり手足を振り回して逃れようとしている体を見下した。既に制服の上着は袖と身頃がちぎれて足下へと投げ出されている。上着の下の薄黄色のブラウスも破れかかっていた。

 それほどまでに激しく抵抗しながら少女の唇からは荒い吐息以外は何も漏れてはいなかった。白い腕がのたうちながら自分を抑え込む少年たちを押し退けようとしている。唇は苦しげな呼吸をくり返しているが、悲鳴も、うめき声も聞こえてこなかった。

 むしろうるさいのは少年達の方で、これは多少は仕方のないこととも言えた。ダルフォが絶賛するほどの美女だそうだから。

 顔がよく見えない。ライアンは一つ踏み出した。意図を察したダルフォが押さえていろ、と低く素早く言った。打たれたように少年達がその言葉に従う。ダルフォも元はといえば、リァンの組織の幹部の末端に連なっていた身だった。肩で息をしている少女の頬に手をあて、ライアンは強引に自分を向かせ──そして、目を見開いた。

 これは生半可な美女などとは桁が違う。肌のつややかなこと、黒髪の緑の照りの見事なことは幼さと若さの中間から来る溌刺とした命の輝きなのだろう。だが、それはこの際関係がない。

「……なるほど」

 低く落とした言葉はかすれ、上擦っている。

 人にはあらぬほどの美貌というのだろう。その容貌を一言で言うなら、まさしく完璧、ということだ。夜の闇よりも濃い黒髪も絹よりすべらかな肌も飾り物でしかない。その下に輝く、深く冷たく鮮やかな青の瞳こそがこの美貌の主であった。ほっそりとした肢体さえ、美しさに連なる春属に過ぎない。

 ぞくりと背が震えた。少女の長い腱毛が開き、下から至高の宝玉のような瞳がライアンを見て止まった。次の瞬間ライアンは撃たれたような衝撃を覚えた。

 少女の瞳に浮かんでいるのは哀れっっぽい懇願や慈悲を求めてすがる、卑屈な眼差しではなかった。それはライアンを見定め、何かと引き比べ、値踏みしているものだ。奥が焼けるような感触をライアンは胸に感じる。こめかみがずきずき脈をうつ。

 その視線はあまりに尊大で、まるきりライアンを見下していた。それが少しも少女の美しさをどす黒く損ねていないのは、おそらくはその燃え立つ気品の輝きが、微かな燐光のように少女の体から漏れているような気がしたからかもしれない。凌辱されかけた悲惨な姿で、だからこそ彼女の持っているものが圧倒的に迫ってくるのだった。

 わずかな一瞬、あるいは永遠の時間。ライアンは食い入るように、憎むように、激しく少女を見つめていた。

「すごいでしょう」

 ダルフォの押さえた声がライアンを引き戻した。ライアンは少女から目を逸らして短く肯定した。長く見つめているとおかしくなりそうだった。ダルフォの声もいつもより抑揚がない。何かを堪えているせいなのだろう。

 気付くと、自分を熱っぽく見ている幾つもの視線があった。ライアンは唇の端で小さく笑った。自分たちが捕らえてきた獲物の扱いをライアンが決めかねているように思えて気が気でないのだろう。何事もこのようにあけすけに見えればいいのにとライアンはつい口もとを緩めた。

「手はつけるな」

 言い落とすのとほぽ同時に少年たちから歓声が上がった。ライアンは許しを出したのだ。最後の線さえ越えなければ何をしてもいいと言ったのに等しい。

「お前はどうする」

 ダルフォを見ると苦笑しながら頭を振った。心持ち意外にライアンは片腕を見返した。ダルフォも少女の美しさに心動いた様子だった。

「ああいう普通でない女には普通でない宿命が宿ると聞いています……関わると、うつるので」

 ライアンの視線に答えてダルフォはぼそりと言った。ライアンはわずかに眉をひそめたが、それはそれでダルフォの信念なのだろう。年端の行かない女に特別興味があるわけではなかった。行こうとライアンはダルフォの肩を叩いて背を返す。

 背後で悲鳴が上がったのはその時だった。反射的にライアンは振り返った。何か黒い塊が床へかがんで突進してきたのが目に入った。ダルフォが咄嗟にかわす。

 ライアンの瞳に白銀の細いものが光った。顎を引く。その引いた場所にナイフが押しつけられ、人影が素早くライアンの背に回った。ダルフォが腰を屈めて飛びかかろうとするのをライアンは手で押し留め、少年たちを見た。中心にいたはずの少女の姿はなかった。

「ライアン、そいつ……!」

 我に返った仲間が叫ぼうとするより早く、憎々しげな声がした。

「悪かったなあ……男でさ」

 声は、わずかに高い。声も変わっていない子供なのだ。

「武器をおいて、俺の上着と鞄をよこせ」

 何を、と色めき立つ仲間を目で止めてライアンはいう通りにしてやれと小さく言った。

 不承不承投げよこされた上着と鞄を背後の声が拾え、とライアンの背をつついた。言われた通りにそれらを拾うと、襟首が捕まれて出口の方向へ歩こうとする。自分を人質に取ったまま脱出するつもりでいるのだ、とライアンは苦笑を漏らした。

「一つ、いいか」

 合わせてゆっくりと歩きながら。ライアンは聞いた。

「お前、男だな」

「そうだ。悪いかよ」

 年を聞くと十だという答えが返った。年より上に見えたのは化粧のせいだろう。薄く粉をはいて愛らしい色の口紅をつけていた。

「だが、学校には女で通っている、というわけか」

 言ってライアンは小さく笑った。これ以上に都合の良い相手など、早々いるものではない。

 わずかに、相手が怪訝に怯んだ気配がした。ライアンが何を考えているのかを感じ取ったのだろうか。その脅えはいつか人の愛玩物になったときの、自分の得体の知れない恐れに似ているだろうとライアンは思い、そして胸の内にわだかまっていた黒い物が急速にまとまり形になって、思わず喉を鳴らして笑った。

 自分の喉元へ突きつけられているナイフを握る、細い手首を掴む。小さく呻き声がした。骨も折れよと握りしめると、小刻みに手が震えているのが視界に入らなくとも分かった。ナイフを取り落とさないだけでも、いっそ褒めてやりたいほどだ。

 だが、とライアンは薄く笑う。それでもまだ子供だ。

 ライアンの余裕が伝わったのか、仲間たちの雰囲気も騒然としたものから余興を楽しむように変わってきている。

 ちらりとダルフォを見ると、既に彼の表情からも焦りが消えていて、ライアンは小さくうなずいて見せる。腕に力を込めて下へ押しつけると、若干の抵抗をしながらゆっくりとそれは下がっていった。

 腕を掴んで肩越しに投げ下ろすと、軽い身体がくるりと宙をひるがえって床へ落ちた。腕を後ろ手にしたまま押さえ込む。若い関節がきしんだのが手に直に伝わってきた。

 何か紐を、と言うと麻縄が差し出された。ライアンは首を振って、綿の帯を取りに行かせた。麻縄は繊維が荒くて、せっかくの肌に傷をつけてしまうような気がした。チアロが慌てて取り戻ってきた帯で腕を後ろにと足首を結わえ、ライアンは立ち上がる。

「監禁しておけ──上の階だ」

 少なくとも、飛び降りることの出来ない場所へ。逃げようという気のおこらないところへ。傷つけたいわけではない。ただおとなしく自分の運命を呪っていてくれればそれで良かった。

 ──あの誇り高さと美しさは十分にカレルの気に入るだろう。意地も衿持も、それが燦然と輝いているほど叩き折っていく者の歓びもあるのだから。

 それはきっといつかの自分のように。追い出したい記憶、忘れたい記憶の中から甦ってくるのはいつでも苦痛だ。人に屈伏する、その痛みだ。肉体の苦しみよりも、焼きつけられた白い傷のようにいつまでも残る熔印のほうがよほど辛い。それは思いもかけない時にライアンの背を貫いて立ち止まらせる。

 自意で膝をついた相手はリァンだけだ。だが、カレルの前に出るとすくむ自分をも知っている。

 この少年もそうなるだろう。予測をひっそりと胸に育てながらそれを苛烈に望んでいる自分に気付く。そうなってしまえと思っている。自分の痛みを他人になすりつけたがっている。それはどうしようもなく汚い事だとも思ったが。ほくそ笑む声もまたしていた。自分に似た者の破滅を見たがっているのだ。自分と彼と、運命をすり替えるために。

 引き立てられていく少年の騒ぎ声が廊下を遠くなっていく。ダルフォが苦笑気味に、

「あんな男もいるんですね」

と言った。

「あなた以上に綺麗というのが似合う男に、出会えるとは思いませんでした」

 ライアンはダルフォを見て、唇で笑う。顔立ちのよさは彼にとっては結果、災難でしかなかった。ライアンの表情でそれを悟ったらしく、ダルフォが緩く首を振った。

「俺はあなたが一番リァンに近いのだと思っています。だからドォリィにもヴァシェルにもついて行かなかった」

 顔の善し悪しなど関係ない、ということをダルフォは言った。ライアンは小さく頷く。他意がないことは分かってはいるのだ。

 外へ、とライアンはダルフォを促した。日に何度か、一応他の二人との間に引かれている境界地区へ足を運ぶことにしている。大抵は何事もないが、時には争った跡といくつかの死体を見つけることがあり、その殆どは自分の所かヴァシェルの所にいる少年達だった。

 つまり、ドォリィの勢力は殆ど減っていない、ということでもある。いずれ何とかしなければいけなかった。

 狭い路地には薄く、鉄に似た臭いが漂っており、すぐに何かがあったのだと分かった。そこへ倒れている体を一つ一つひっくり返して確認すると、ダルフォが溜め息を一つ落とした。

「俺たちの仲間でなくて良かった、ということですか」

「……ヴァシェルに連絡してやれ」

 これが甘さなのだと思うが、勝手に死体を始末するわけにもいかない。ダルフォがうなずいて去ろうとしたとき、細い抜け道から小柄な体が滑り出てきて、必要ない、と言った。

「久しぶりに顔を見るな」

 ちらりと足元の死体群に視線をやってヴァシェルが言った。

「俺は今来たところだ」

 ライアンは軽く片手をあげて見せる。既に染みついているその癖はリァンの前で誓いを立てるときの仕種そのままだ。

「分かっている。皆、斬られている。お前の細刃刀の斬り口と違うし、手袋もはめていない」

 細刃刀を操るには誤って手を切らないように皮の手袋をはめるのが常だ。それに斬り口はどう見ても剣のものだったし、ライアンもダルフォも今、帯剣していない。

「……何とかしなくてはいけない」

 ライアンは細く溜め息のような言葉を紡ぎ落とした。ヴァシェルは頷いた。ライアンの言いたいことを彼もまた、考えていた様子だった。ヴァシェルが低く呻くように呟くのが聞こえた。

「奴は血に酔っている」

 奴、が誰かを聞き返す必要などなかった。恐らくは、そう徹底させているのだろう。他の群れを見たら斬り捨てるように。

「放っておく訳にはいかない。俺たちが勝手に食い合って自滅するのを待っているのもいる」

 ヴァシェルの言葉にライアンは再び深く頷いた。話合いというなら、このヴァシェルとの方が楽だろう。基本的な考えは似ているのだ。カレルにひざまづくか否かが合わないに過ぎない。

 わずかな沈黙の後、ライアンがそっとヴァシェルを見ると、彼と視線がかち合った。探るような静寂は息を潜めている獣の気配にも似ていた。

「一度お前とは話をした方がよさそうだな」

 一人言に近い囁きに、ライアンは頷いた。

 これ以上少年たちの人数自体が減るのは避けたかった。数は力という側面を否定は出来ない。ドォリィの率いている集団は既に他者にとっては災厄をもたらすものに成り果てている。住み分けが可能なヴァシェル達のそれとは、境界と禁忌を取り決めれば無駄に争わなくてすむだろう。

「日は追って連絡してほしい」

 とりあえず何かすることがあるわけではないが、こちらの利害をゆっくりと考える時間がほしかった。ヴァシェルも同じことを思ったのだろう。何も言わず頷き返す。

 ライアンはヴァシェルの意外な素直さに内心で面食らった。彼は自分の才能を鼻にかけた、一言で言えば嫌な奴で、人の提案にも何かしら難癖を付けては潰していく姿をリァンの側で何度も見ている。だからライアンはヴァシェルを口先だけの利口ぶった奴だと思っていたし、おそらくヴァシェルはライアンのことをリァンの犬と思っていたに違いないのだ。

 ちらりと投げた視線の意味を敏感に察したらしく、ヴァシェルが苦く笑った。

「自分が頭になってみて初めて痛感するリァンの偉大さに頭が下がるな、そうは思わないか、ライアン」

 人は変わらざるを得ない、という事かとライアンも薄い笑みのようなものに唇をゆがめる。思い知ることばかり、失ったものの大きさに茫然とするばかりのライアンには、耳に痛い。

「リァンは特別だった」

 ライアンの言葉を、ヴァシェルは少しも嗤わなかった。おそらく同じことを感じもしたのだろう。

「……俺はお前のようにリァンに拾われた訳じゃないからな。知恵を貸してるんだと思ってたさ。だが、そうじゃなかったんだと知っただけでも、俺の理屈ではリァンの死にも意味はある」

 そうか、とライアンは短く応じた。リァンの死の意味など、彼には何も訪れては来ない。ただリァンのために為し遂げなければならないのは、おそらくはドォリィにとっては復讐であり、ライアンとヴァシェルにとってはリァンの遺産の継承なのだ。

 ライアンとヴァシェルは少しずつ方法論が違うが、目指しているものは大して変わらない。手を組むなら、お互いが違和感がないだろう。あるいはこれも、自然な流れとも言えた。

「連絡しよう」

 ヴァシェルが片手を挙げた。それは先程のライアンと同じ、誓うときの動作だった。ライアンが頷くと、ヴァシェルは片頬で笑い、背を返した。

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