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海嘯の灯  作者: 石井鶫子
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4

 ライアンは、自分が震えているのを自覚している。膝頭がまるで定まらないのだ。辛うじて表情だけはいつもと変わらぬ鉄塊に徹するように努めてはいるが、それも他の二人に対する意地だけの話だ。

 あの刺々しい視線の意味をライアンは今はもう理解していた。あれは、罰だ。リァンの代わりに死ななかった。自分に対する。何故お前が生きているのだと、だれもが言外に語っている。リァンの護衛としてライアンは多少の特別扱いを享受してきたのだから当然のことだ。それが肝心のときに側におらず、みすみすリァンを死なせた。あの敵意はもっともなことだった。

 隣でドォリィとヴァシェルが何事か激しく言い争っているが、ライアンはまるで興味を持てなかった。それよりも、リァンの死を受け止めることで精一杯だった。

 リァンの言葉が脳裏にささやく。

(お前はもう少し、謀叛気を持ったほうがいいな)

 あれは、いつのことだったろう。ライアンは記憶を手繰り寄せる。確か去年の夏辺りではなかったろうか。リァンが半袖から伸びた腕をさすりながら今日は涼しいと言ったのを覚えている。

 皇帝だか皇子だかの誕生日で帝都のいたる所で振る舞い酒があった。その流れで散々仲間と遊び廻った。リァンはそういった祭りや縁日や芸事などが好きで、手の空いているものを連れて見に行くことも少なくなかった。一度自分を売った芸団をライアンは見かけたが、どうとも思わなかった。いずれにしろ、もう縁は切れている。

 街から帰ってきてリァンの住みかの一つで馬鹿騒ぎになっている仲間を見ながらリァンと二人で飲んだときのことだ。

 リァンはライアンの手元の盃に酒をそそぎ込みながら言った。

「あまり俺を絶対だと思うなよ」

 それがライアンには意外だったから何故です、と問い返した。

「……俺はカレルには嫌われている」

 タリアを事実上の自治領たらしめている暗黒街の王の名をリァンは挙げた。リァンが少年達の上に君臨するようになってから、カレルはリァンをじっと観察していたのだろう。役に立つのか、災いとなるのか。

 勢力的にも数の少ない大人たち(それは無事に成人する子供が少ないという事実そのものだが)と桔抗しつつあったその力、勢いを鑑みてカレルはリァンに使者を送ってよこした。リァンを自分の手元で幹部として、また将来の自分の後継ぎとして育てようと思ったらしい。リァンが薄く笑いながらそう言ったことがある。

 その話をリァンは蹴った。他人の配下に立つことなど、思いもよらぬ男であった。

「俺があなたを守ります」

 ライアンは強く言った。それは偽らざる、彼の本心だった。それ以外に何も望みなど無かった。ただリァンだけが絶対だった。

 リァンに拾われて初めてライアンは人としての扱いを受けた。母も座長も、そして彼を一時愛玩した老人も、ライアンに意志や望みがあるなどと、思ったこともないだろう。

 どうしたいか、とライアンに聞いたのはリァンが初めてだった。リァンだけがライアンに選択を聞いた。それがどんなにくだらないことでも、ライアンには震えるほど嬉しかった。

 ライアンに話しかけ、笑い、そして武器の扱いを教えて裏町での生き方を沢山見せてくれた。ライアンにとってかけがえのない師であり、兄であり親であり全てだった。何もかもだった。

 リァンはライアンのそうした切羽詰まったような思いを知っていたのだろう。

「俺と一緒に心中するつもりか」

 そう言って軽い笑い声を立てた。リァンは本当に表情が多かった。喜怒哀楽もはっきりしており、ふだんは明るい為に勘気はそうと知ることができた。

「リァン、俺は」

 言い募ろうとした言葉を、リァンは首を振って封じた。

「思い詰めるな」

 軽やかな口調にそぐわない真剣な眼差しに、ライアンは気後れしてうつむいた。リァンは苦笑しながらライアンの肩をたたいた。

「お前は俺によく尽くしてくれる。それは嬉しいがライアン、もう少し自分自身のことも考えろ。ドォリィにしろヴァシェルにしろ、自分の子飼いの部下を持っているだろう。何かあったときに頼りになるのは俺ではなく、そうした部下たちだからな。……お前はもう少し、謀叛気を持ったほうがいいな」

 穏やかな言葉は、だからこそリァンが真摯にライアンのことを案じてくれている証だった。

 ライアンはふと、誇らしさで胸が一杯になって絶句する。ここまで言ってくれるのなら、やはり自分はこの人の楯になって死ねるのなら本望なのだと改めて思う。拾った得体の知れない子供を信頼してくれる、本気で心配してくれる。これが生命と引換で何が悪いのだ。

 ライアンの髪にリァンは手を入れ、くしゃくしゃとかき回した。

「俺は、あなたの犬でいい」

 ライアンはぽつりと落とした。リァンは呆れた顔をしながらライアンの頭を小突いた。それからふと真面目な表情に戻って自分の腹心の手を握り、ありがとうと言った。リァンはそういうことが何のてらいもなくできる性格だった。その天性をどれだけライアンは焦がれたろう。

 貧民窟の少年たちを束ねてゆくのに明るさや部下に優しいことなど何の役にも立たない。どれだけ強いか、これだけのはずだ。

 無論リァンの強さは今更語るものではないし、戒律を破ったときの厳格さは、少しの言い訳も妥協も許さないほどだった。破戒の代償は必ず生命だった。ライアンもそうした子供たち少年たちを嫌というほど見てきている。だが、それでもリァンの豪気な明るさは少しも損なわれず、圧倒的に輝いていたのだ。

 リァンをライアンは思う。リァンという羅針盤を失ってライアンには今まるきり方向が見えない。どこへ行くのか、どうしたらいいのか、そんなあてのない海を漂流している。誰かに教えを請えるならそうしてしまいたい。何もかもを頼んでしまいたい。

 そうして自分に持てるもの一切合切を捨ててしまえばきっと自由が手に入るだろう。自由を得たら、何をすればいいかはもう分かっている。

 リァンの敵を討つ。生きながら八つ裂き、皮を剥いでなお憎み足りない心のままに殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる殺して……

「ライアン、ライアン!」

 続けて呼ばれてライアンは意識を現実へ戻した。ヴァシェルが猛々しく彼をなじった。

「何を呆けている、この役立たず」

 役立たず、という言葉に一瞬我を忘れかけ、ライアンは言い返す資格など無いのだと気付いて唇を結ぶ。

 ヴァシェルの言うことは、尤もだと思った。リァンの一番大事な時に役に立たなかった。誰もが無言のうちに了解していた、ライアンも当然だと思っていたリァンの為に犬死にすることも出来ず、こうして茫然と座ったまま、何を考えることも出来ない。

 すまない、と短く謝罪すると、ドォリィが顔をしかめて人の話を聞いているように、と言った。ライアンは頷く。頷くしかない。

 ヴァシェルが口の中で何か呟いたが関知しないことにした。そんな些細な事をいちいち気になどしていられない。リァン亡き後、残された組織と人をどうしたらいいのか、自分たちは何か考えなくてはいけないのだ。

「……とにかく、俺は反対だ」

 ヴァシェルがもどかしそうに口火を切った。寸断されていた議題を再開したいのだろう。今までの経過とやらをライアンに教えてやるほどヴァシェルもドォリィも親切ではない。聞いていないほうが悪いのだ。

「復讐もいい。だが、今まで通りに俺たちの領分を確保しておかないとすぐに足元をすくわれる。見入りのことはなんとかなる」

 ライアンは腕を組んで、ちら、とヴァシェルを見た。

 ヴァシェルは小柄な少年だ。ナイフの名手だが、それよりもリァンが望んだのはヴァシェルの頭の良さだった。何が得で損なのか、予測してはっきりと区別できるし、宇も読め、計算も出来る。これは貧民窟ではかなりの才能であるというべきだった。

 ヴァシェルがリァンの参謀役だったとすれば、ドォリィは実行部隊の長で武器なら大抵扱うことができ、破格に強かった。ヴァシェルほどではないがドォリィも頭は悪くなかった。きちんと自分の思考の経路を確立している。

 ドォリィが激しく頭を振った。

「それよりもカレルを倒しちまったほうがいい」

 ドォリィの声に、ライアンは顔を上げる。なぜ、今までそれに気付かなかったのかが不思議なくらいだった。

 リァンが今いなくなって一番得をするのは、どう考えてもカレルだ。リァンの強力な指示と意志の元、タリアの裏町の一角、チェインは既に少年たちを中心にした年若いものの巣窟と成り果てている。リァンがまとめている限り、それは驚異かその芽だったろう。まだ小さいうちに潰しておくに限るのだ。

 間違いないとライアンは確信する。直接手を下したのかは分からないが、リァンを殺したのはカレルだろう。だが、そうすると少し話が複雑になる。

「リァンの死の清算はカレルを倒した後だ」

 ドォリィの口調は激しい。リァンとは幼い頃からの友だったというから、思いも特別濃いのだろう。もっとも、リァンは誰にとっても特別なのだ。自分が特別に思われている、という錯覚を人に起こさせるのが上手かった。と言うべきだろうか。カレルを倒して後リァンの後継が自分たちであることを示す必要がある。とドォリィは説いた。ドォリィらしいとライアンは思った。

「今仕掛けても、勝ち目はないぜ」

 ヴァシェルが苛立ちを隠さずに吐き捨てた。そうしてドォリィと二人、ライアンを同時に見た。

「俺か……」

 ライアンは困惑を殺しながら呟いた。彼の思考は現在完全に停止してしまっている。何か考えようとするとひどく疲れた。だが、懸命の思案の末の結論は、どちらかといえばヴァシェルに似ていた。リァンの仇を討つのは当然の事だが、まずはリァンの残した組織を瓦解させてはならない。

「俺はどちらか、というならヴァシェルの方がましかと思うが」

 まし、という話をドォリィはそうは取らなかった。怒りのために赤黒くなりながら、ドォリィはライアンの肩を押した。

「リァンに拾われた恩を忘れたのか。あのときリァンが止めなければ俺はお前を殺していたぞ」

 リァンがライアンを拾ったとき、まさしくドォリィは彼に飛びかかろうとしていた。リァンが口を挟まなければライアンはドォリィに切り伏せられて、ずっと以前に生を終えていたろう。

「そういう意味じゃない。だがドォリィ、カレルは強い。悪いが、今の俺では役に立たん」

 ヴァシェルが大きくうなずいているのが横目に分かった。ライアンはヴァシェルを好きではなかったから、それは愉快ではなかった。少なくとも、彼に積極的に賛同したと思われるのは不服だ。ドォリィが食い下がる。

「俺でも危うい。だが、三人なら──」

 言いかけた言葉を、失笑といったヴァシェルの声が消した。

「三人でまとめてかかるってか。そしてカレルの死体を前に、俺たち三人でまた殺し合うって言うんだな」

「ヴァシェル!」

 ライアンはけたたましく笑いだした少年を怒鳴った。言ってはならないこともある、それが恐らく事実になるとしても。ドォリィが立ち上がりかけたのを片手で制してライアンは言った。

「何を先走ってるんだ、ヴァシェル。俺たちは三人で一組だとリァンが決めただろう。無駄に争いの種を撒くことは許さない」

 へええ、と小馬鹿にした仕種でヴァシェルは肩をすくめてみせた。ライアンは唇を軽く結んだ。彼とて、リァンの名をこういうときに使う狭さは承知している。

「まるでリァンの後継者だとでもいいたいようだな、ライアン」

 不機嫌な声でドォリィが言った。

「いつリァンがそんなことを言った。俺もヴァシェルもお前の風下に入るくらいなら出て行くさ」

 ヴァシェルが頷く。こんなところだけは意見が合うのだと頭の片隅でライアンは思った。

「俺は上だの下だの言ってはいない。今は身内同士で分裂していい場合じゃないだろうと言っているんだ」

「お前はお利口さんだからな」

 ヴァシェルの言い様は、まさしく悪意の固まりだった。

「俺を怒らせて楽しいか」

 苦い気分のまま言うと、ヴァシェルは鼻を鳴らした。

「ああ、楽しいね。お前は自分の展望も方策もないくせに、何だって俺に意見するんだ!」

 それは完全に図星をついていたから、ライアンは返す言葉を持たなかった。沈黙したライアンに構わずドォリィが割ってはいる。

「だがヴァシェル、独立したところでカレルの圧力に潰される。それより、元凶を取り除いたほうが早い」

「だからお前はいつまでたっても殺し屋稼業だったのさ」

 ドォリィの顔が朱をはいた。ライアンは疲労を覚えて椅子に深く座りなおした。ヴァシェルとドォリィの言い争う声はまだ続いていたが首を突っ込むほどの気力が残っていない。それにヴァシェルのいう通り、自分には何の考えもない。意見などないのだ。

 ついさっきまでリァンの死に呆然としていたし、今も何も考えられなかった。それを軟弱だと笑われてもとても突っ撥ねることなどできない。ライアンの思考は再び過去へと動き出す。拾われたときのこと、剣を教えられたこと、細刃刀を扱わせてもらったこと、煙草。

 各々の思い出が連なってライアンの脳裏へ甦ってくる。全くリァン無しでは何も成立しないのだった、それももう、過去のことだけれど。

 リァンはまさに巨大な支配者だった。彼の台頭以前には小さな群れがまとまりなく抗争を繰り返していただけのをあっという間にまとめあげ、しかも組織化して全てを握った。中途に幹部を置き、それらを通じて末端までに神経を使っていたのだ。

 リァン自身はカレルを恐れてもいなかったが甘く見てもいなかった。カレルと取引しながら対等の関係を築き、自然に境界を線引いていくのもいいかと思うが。リァンがそう言っていたのをライアンは思い出した。

 それを口にするために俺は、と言いかけてライアンは絶句した。ヴァシェルとドォリィの二人が立ち上がり、互いを凄まじい形相で睨んでいたのである。

 じりじりとヴァシェルのつまさきが動いた。間合を計っているに違いなかった。ドォリィの肩がゆっくり沈む。額に手をあて、ライアンは立った。わざと大きく椅子の音を立てると、それでようやく二人が彼の存在を思い出したらしい。反射的に体を震わせると真向かいの壁を背に付けて離れた。

 ほんの短い間、三人の唇は動かないままに沈黙を守った。三人が三人とも自分以外の者の力量をよく把握していたから相手の出方を気にしている。嫌になるほど時間が長いとライアンは思った。

 ヴァシェルが油断ない目付きでドォリィを睨みながら言った。

「何か思い付きでもしたか」

 そう言って、先を促す。ライアンはリァンの遺志の話を口に乗せた。ドォリィは思案する顔になりヴァシェルは苦く笑った。

「……それがお前の作り話でないという証拠はあるのか」

 ヴァシェルの言葉に、ライアンは首を振る。リァンと最も長く近くいたのはライアンで、それは誰にも否定されるものではないが、こうした二人だけの会話の証拠と言われても無い、としか言い様がない。

「具体的にはどういうことだ」

 ドォリィはそれでも食い下がる。

「……暫くはカレルの下に入る」

 ライアンが言った瞬間、二人から悲鳴のような怒声がとんだ。

「ふざけるな!」

「俺は嫌だね!」

 ライアンは肩をすくめた。今カレルと対立してもいいことなど何一つ無い。隷属することが被害を最小にとどめるだろう。永遠に配下だと思わなければいいのだ、自分たちに相応しい実力がついたあたりでリァンの死の帳尻を合わせても遅くはない。利息は当然いただく。

 そうでなければリァンの残したこの組織は空中分解してしまうだろう。独立区、というヴァシェルの主張は悪くないが、それをまとめる者がいない。維持するのに強力な統率力を要求される、今までリァンがしてきたそのたがの役割を、肩代わりする者がいないのだ。

 自分なら、と思うほどにはライアンは自分を信じていない。しかし、それは他の二人についても同じだった。

「──リァンの犬からカレルの犬へ、ご主人様を替えるだけ、か」

 ヴァシェルの顔が醜く歪んで呪う言葉を吐いた。ライアンはわずかに瞳を細めた。侮蔑には慣れている。最初からリァンに目をかけてもらったから、そうした意味の無い中傷はいつでも彼に聞こえるように囁かれ続けてきた。それを封じたのはライアン自身の実力であった。ドォリィが太く笑った。

「お前は犬以下だったからな。ライアンが羨ましいか」

 悪意に満ちた声にヴァシェルが黙った。それが怒りの沈黙なのだとはすぐにわかった。ヴァシェルの顔が蒼白になっていくのを見兼ね、ライアンはよせ、と割って入った。

「お互いに至らない所は知っている。刺激し合わないほうがいい……俺たちは三人とも気が合わないって事はよく分かった」

 全くだとドォリィが賛同した。ヴァシェルが確かに、と言って続けた。

「なるほどリァンが俺たち三人一緒に仕事させなかった訳だ。気が合うはずがないものな」

 ライアンは頷く。リァンはそれを知っていたから、三人を同時に使わなかったのだろう。それと同時にライアンはリァンの偉大さを思い知る。幹部同士の不和を呼ばず、誰からもひたすら崇拝されていた。その細やかさと豪胆な明るさを。

「ドォリィ、ライアン、俺はお前たちとは何百年話しても無駄だと思う。リァンがいないのなら、無理に嫌な相手と付き合うこともないだろうよ。……俺は勝手にさせてもらう」

 ヴァシェルの発言に、ライアンもドォリィも何も言わなかった。確かにこの先この二人と協力するなどとは考えられなかった。性格だけでなく、あまりに全てが違う。些細なことで衝突をくり返すくらいなら出て行くほうが賢い。もうリァンはいないのだから。

 ライアンは片手を軽く振って見せた。分かったという意味だった。ヴァシェルはこの日初めてにやりと笑うと部屋を出ていった。

「お前はどうする」

 ドォリィが言った。ライアンは深く嘆息してドォリィを見返した。ドォリィはライアンの力量を認めてからはライアンを尊重するようにはなった。他の幹部たちと比べても交流があったというなら確かだ。……ここへ来た最初の頃、ドォリィにも酷い目に遭わされた事も事実だが、認めれば対等に接する彼にライアンは少なくともヴァシェルよりは信用をおいている。

「……俺の趣旨に賛同するものを集めてカレルのところへ行くさ」

 いるだろうか、という自己を皮肉る声がする。保身だとなじられても仕方の無い行為ではあろう。

「そうか。カレルはお前がお好みだからな」

「……何のことだ」

 訳が分からずライアンは聞き返した。しまったと思ったのだろう。ドォリィが気まずそうな表情でそっぽを向いた。重ねてライアンが聞くと、渋りながら言った。

「いや、……リァンから何も聞かなかったのか」

「だから、何を」

 多少苛立ちながらもライアンは聞く。

「境界を決める、と言う話なら、俺も聞いたことがある。ああ、さっきヴァシェルに言わなかったのは悪かったな……何故それをリァンがしなかったか、手をこまねいて迷っていたか」

 俺のせいだというのかとライアンは憤然とドォリィを睨む。睨まれたほうはわずかに肩をすくめた。

「お前を人質として欲しいとカレルが言ったそうだ」

 ライアンはその提案のおぞましさに顔をゆがめた。ドォリィが天を仰いで軽く溜息をついた。

 記憶は生々しくライアンの体に蘇る。来て一年ほどたった頃、リァンがライアンに聞いたことがあった。

「お前をカレルが所望してきている。お前をどこかで見かけたらしいな。……俺は正直、迷っている。奴の嗜好は異常だからな。お前が嫌なら断る」

 どうしたらいい、とリァンは言った。当然のようにライアンは行きます、と答えた。その即答ぶりにリァンは何故か沈んだ表情をした。

「俺は、リァンのところへ来るまで愛人でしたから」

 そういうことには慣れている、とライアンは言ったが、リァンの顔は晴れず、尚更に眉をよせた。

「奴の趣味は異常だと言った。それは同性愛者だとか少年趣味だとかじゃない。奴は人を痛めつけることで快感を得る」

「……痛みには、慣れてますから」

 愛人だった更に以前は日常的に暴力にさらされていた。少年ばかりの集団では暴力という直接の力でのこすれあいは珍しくもなかった。ライアンの言葉にリァンは薄苦い笑いを浮かべた。焦れてリァンと促すと主はそれでもしばらくは沈思に耽った後、ようやく頷いた。

 そうして出向いたカレルの館でライアンは自分が本来の性向として被害者になりやすいのだということを、身をもって知った。彼を金で買った人々はそれなりに心づもりがあったから、そういえば死を垣間見たことはなかったのである。

 半死半生の体で戻ってきた──事実から言えば戻されてきた少年に、リァンは黙って医者を呼んだ。医者は格別のことと言うべきだった。死ぬ間際のことと言い換えてもよい。

 ライアンは四日ほど幽瞑をさまよったあと、回復した。カレルの生贄に差し出した噴罪だったのか、リァンはようやく回復したライアンに自分の最も得意としていた武器の扱いを教えた。

 ライアンは身震いした。あれをもう一度は多少の覚悟が要った。

「リァンは断ったようだがな」

 ドォリィの言葉にライアンは頷いた。あれからしばらくの間、他人に容易に体に触れさせなかった。過敏な反応にリァンは沈んだ顔をして溜息をついていた。リァンはライアンの過敏な神経を見兼ねたのだろう。だから細刃刀を教えてくれた。

「自分を守るのは、最期はやはり自分だけだからな」

 リァンが言ったのをライアンは覚えていて、強くなった。

「お前はどうするんだ」

 ライアンは沈みがちな追憶を振り切り、話をそらした。

「できればお前と協力していきたいと俺は思っている、が……」

 ドォリィは語尾を濁した。分かっている、とライアンはうなずいてみせた。カレルのところへ行くというのが気に入らないのだ。

「俺はカレルと表立って衝突するのは避けたい。リァンの残した俺たちの組織をばらばらにするくらいなら、長らえて機会を窺う方がましだ」

 ライアンが言うと、ドォリィは緩く首を振った。

「意見は合わんな」

「全くその通り」

 肩をすくめて二人はお互いを見た。全く、これで出口はない。わずかな沈黙を破ってドォリィが大きく溜息をついて見せた。

「それならやはり俺も俺に賛同するものを集めてどこかへ行くのがいいだろうよ。お前と話し合いたいとは思ってる。それを忘れないでくれ」

 ライアンは黙って再び頷いた。これはどうしようもない、避けられないことだった。どうしても譲れないものは人それぞれに違うのだ。ライアンにとってはリァンの遺産の消失を防ぐことだが、ドォリィにとっては心のままにリァンの命の償いをさせるほうが大事だというわけだろう。

 そんなことは、とライアンは口には出さずに低く微かに笑った。力さえつけばいくらでも気の済むまで出来る。とりあえずは誰が直接リァンを奪ったのかを知るため、昨晩リァンの護衛につけたラルズを何としてでも死なせてはならなかった。虫の息とはいえ、まだ生きている。

「ラルズを引き取る」

 ライアンが言うと、ドォリィは了承したと頷いた。

「今動かすのはまずい。ある程度回復したら引き渡そう」

 リァンの遺体とラルズが発見されたのがドォリィの住みかの近くだったから、今はラルズはそこにいる。ドォリィは医者へみせることを誓うとライアンの肩を軽く叩き、出ていった。

 ライアンは隣の部屋へと戻った。リァンはまるで眠っているのと同じ様子で横たわっていた。

 直視することさえ難しいような眩しい太陽さえ、日の終いには沈む。リァンが不死身であろうというのはライアンの願望であってそれ以上ではない。

 だがそれでも、だからこそ、夢を見続けていられれば、どれだけ幸せだったろうか。リァン、という低い声は永久凍土よりも冷たく、寒々しく耳の奥へと撃ち反って響いた。

 ぶるり、と体が細かく揺れた。しっかりと自分自身を抱いてライアンは唇を噛んだ。強すぎたのか、わずかに鉄の臭いがする。いや、これは血か。払っても叱っても次々に上がってくるこの振動を止める術を知らず、ライアンはただ立ちつくす。

 それが見も知らぬものに対する脅えなのだと、心の底から警告が叫んでいる。漠冷としたものに見え始めた未来、今まで考えたことのなかった未来、リァンを失った寂寞とした未来、その群像の中でライアンはまだ見ぬものにおそれ、おののき、震えている。

 涙など、出るものではなかった。ただ、ひどく目まいがした。

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