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海嘯の灯  作者: 石井鶫子
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 地下の川は変わらず暗く、深い死の淵へ注ぎこんでいる気がした。ライアンは行く末を眺め、そちらの方向へ歩き出した。

 地下水路は外界から完全に遮断されているから通年で気温は一定に保たれている。この季節はやや暖かく感じるほどだ。そのせいで、湿気がすぐに汗に変わって鬱陶しい。

 ライアンは黙々と下流へ向かって歩く。いつかリァンと二人、興味半分で行ったある道程を、今こうして独りで歩いている。

 さあさあという川の音が静かにライアンの横を滑っていく。それ以外はあまりに静かで、時の螺旋を巡っているようだとも思った。くり返す一日が重なって一月になり一年になる。何の変哲もなく過ぎてきた日々は、過去だから暖かく、幻想に満ちて懐かしい。優しくライアンを許してくれる。

 リァンと呟いた。ライアンにとって、おそらくは生涯にたった一人の主人だった。あなたのために死ぬことばかり考えていた。温かなものはリァンだけだった。そこから抜けて自分になるのはあなたの為に他人を手にかけているときだけだった。それは何と哀しかったろう。それをライアンに刻みつけたのは見事と言うべきだった。

 俺はもうあなたと共に歩んで行けるわけじゃない、とライアンは思った。いみじくもクインの言った通り、リァンはきっと心を預ける者を持たなかったに違いなかった。

 自分の身変りも配下の将軍も切れる宰相も持っていたが、たった一つ、リァンには心の帰る場所がなかった。ライアンはリァンに深く寄り添いすぎて、自分も同然だったろう。自分に寄りかかるほどリァンは病んではいなかったのだ。

 だけど、とライアンは思う。ライアンをそうしてきたのはリァン自身だった。ライアンが彼の模倣をしようとするのを面白がって助長してきたのは、リァン自身だったのだ。

 ライアンはゆっくり歩きながら考える。

 リァンと過ごしてきた日々を。

 彼の言葉を、態度を。

 ライアンへの苦言を、忠告を。

 そうしてどこか遠くで雷鳴がひらめくような、かすかな怒りを見た。理不尽、と呟くと、それが的確な気がした。

 あなたの言葉に従った俺を、自分に近しいと思う。あなたが自分の好きなように俺を育てた挙句、自分に張りついている殼のように思ったのだろうか。

 だが、それは俺のせいじゃない、俺のせいじゃないんだ。

 そこまで思ってからそれでもリァンを好きかと自分に問えば、ためらいもなく臆面もなく直ぐに頷くことができる。

 だから自分を哀れだと思う。二度と届かない想いに焼けるほどに焦がれている。振り向いてくれない面影を追い続けている。それはリァンだったし、母だった。いずれも手に入らない。入らないからこそ愛しいのかもしれないとぼんやり思った。

 しばらく歩いていると、通路の行き止まりにたどり着いた。昔の運河だったんだろうというリァンの言葉にライアンは納得した覚えがある。

 橋げたのような半円の穴が空いているのだが、上は瓦礫の山で、向こう側へ渡ることができない。川は音が殆どしなくなっているから、相当に深いのだろう。

 何にせよここから先へ行くことは無意味だとリァンが言って、以前奥を確かめに来たときはここで引き返した。

 橋によりかけるように添えてある小太刀を手に取る。目印にとリァンが置いたものだ。鞘から引き抜くと、白銀に輝く刃が立ち現れた。

 鞘のおかげで錆びてはいない。若干鍔の辺りに薄い茶の錆びが一筋ついているが、今夜磨いてやれば問題ないだろう。

 俺を護ってくれとライアンは小太刀を握りしめる。リァンの残した小太刀は特別製という訳ではなかったが、ごく一般的に使いやすい作りだ。

 ライアンは小太刀を腰のベルトに差し込むと、細刃刀を一つ、替わりに置いた。リァンの加護を願うための供物にはこれしかなかった。

 それからライアンは水の流れに目をやった。水は音もなく、この橋の向こうへと続いていた。

 リァンの身体もこの門を越えて死の海へ帰ったのだろうか。命の水門へ流れついただろうか。リァンの魂が甦ってくることもあるだろうか。

 この暗い死の川の流れの向こうに暗い、嵐の海がある。死の海は生命の海だ。そこへ還り、生み出されるための束の間の安らぎの海だ。

 だからライアンは深く頭を垂れる。リァンに最後の敬意を表する。そのために今日、ここへ来た。リァンに別れを告げるために。

 そして、生きていくために。

 例えその先に何も無くても、誰も居なくても、何かを掴み取り捜し当てることを信じて生きていくために。それまではリァンの名を刻んで生きていくために。自分がたった一人なのだと知ってしまっても、それでも、生きていくために。

 いや、きっとリァンが一人だったように、俺が一人だったように、誰もが一人なのだ。だから俺は一人を怖がるまい。

 誰も俺にはなれないように、俺もリァンになれなかった。

 だが自分は自分でいいのだから、自分を愛してやるために生きていたい。

 だから自分の大切だったあなたの面影を、ずっと心に灯そう。あなたが俺を本当に信じていたのかどうかなんて、もうどうでもいい。

 大切なのは俺があなたを信じていたということだけだ。自分のために必要なのはそれだけなんだ。かえして貰えなかった気持ちを恨まない。僻まない。

 あなたをとても好きだった。あれを愛だというなら、愛していた。だからいなくなってとても寂しい。とても辛い。

 けれど、あなたを想っている。いつまでも、この生命が終わるまできっと忘れない。生命が尽きるときはあなたの眠るこの海に、俺も還ろう。

 ライアンはまっすぐに顔を上げ、流れの見えなくなる暗闇を見つめた。

「さよなら、リァン……」

 呟く言葉に頬を伝っていく涙がある。立ちつくしたまま、ライアンはしばらく泣き続けていた。

 溢れる涙はとても暖かく、許しに似ていた。

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