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海嘯の灯  作者: 石井鶫子
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 踏ん切りがつかないまま、ライアンはもう幾日も何もせずにぼんやりとしている。カレルのところへ行かなければいけないのは分かっているが、最初の一歩が踏み出せない。

 心底カレルの記憶が染みついているのだと舌打ちして煙管を吸う。最近また苛立ちが溜まってきているのは薄く自覚していた。煙草の量もてきめんに増える。

 チアロはクインと遊びに行っているのだろう。クインの制服が談話室の隅にたたまれ、鞄と一緒においてある。それを眺めていると、ノイエがあの子供なんですが、といった。

「あれはよそ者ですよね。何故、放っておいてるんです」

「……実害はないだろう」

 ノイエは焦点をずらした回答に不満げに首を振った。

「あまり格好はよくありませんね」

「特に困ってもいないからな」

 噛み合わせない会話がおかしくて、ライアンは唇の片端で笑った。ノイエは大きく溜息をついた。その腕をライアンは軽く叩く。

「今日は処刑はなしか」

 切り替えた話題に、今度はすぐにノイエは頷いた。最近特にドォリィの所の連中の流出は激しく、もうドォリィには戦力と呼べるほどの者は残っていないのだとライアンは思った。

 ドォリィを焚きつけるために、この所処刑の場で一人だけ助命してドォリィの所へ返している。勝負をするつもりならいつでも受けてやる、と告げさせるために。

 対するドォリィの回答はない。だがそれも今のところだろう。既に大勢は決まっていて、挽回するにはドォリィにはそれしかないはずだ。

「正直な話、ライアンがあそこまでするとは思ってなかったので」

 驚いた、とノイエが言う。

「俺もですが、ドォリィも驚いたでしょうね。でも考えてみれば、リァンの影のあなたをそんなに知っていたわけじゃなかった」

 そうか、とライアンは軽く流す。それは確かに事実のとおりだった。ライアンも以前クインに指摘されたようにリァンの考えた結果にためらいも無くうなずいてきたのだから。

「リァンを越えることは難しい」

 呟きはノイエに向けたようでも、自身に向けたようでもあった。

「だが、いつか越えてみせると思い続けることは出来る」

 それにどれだけの罪悪感がつきまとうかだけの話だ。そうですかとノイエが低く言ったとき、軽い足音と共にチアロが駆け込んできた。服に点々と染みが付いているから、途中で雨にやられたのだろう。窓の外を見ると、確かに雨が通りを仕切っていた。

 チアロはまっすぐにクインの荷物に近寄るとそれを抱えて出ていこうとする。ライアンはそれを呼び止めた。

「クインはどうした。一緒だったんだろう」

 チアロは振り返り、嫌な顔で言った。

「途中で雨が降ってきたから帰ろうって言ったら、通り雨だから雨宿りしていこうとか言い出してさあ……走っていけばいいって言ってもいうこと聞かないんだ」

 ちえっ、と唇をゆがめて見せる。

「傘がないと帰れないとか甘えたこと抜かすし、帰ろうとすると泣きが入るし……荷物取ってこいっていうからとりあえず……」

「とりあえず使い走りにさせられた、というわけか」

 からかう言葉が部屋のあちこちに溜まっていた少年達から飛んで、チアロは肩身が狭そうにうなだれた。救いを求めてライアンを見ている。

 やれやれ、とライアンは思うがチアロとクインの二人を見ているとなにか微笑ましい気分になる。クインが女だったら簡単なのだ。チアロはこの年で貢がされている愚か者ということになる。クインは金品を強要しないし遊んで貰えるだけで十分なのも分かっている。彼は誰かとじゃれつくように戯れたいのだ。

「待っているなら行ってやれ」

 ライアンは手を振る。チアロはうなずいて再び雨の中へ出ていったが、しばらくして帰ってきた時にはまた一人だった。

「ふられたのか」

 苦笑気味のノイエの言葉に、チアロは困ったような顔で答えた。

「ん、外でダルフォと喋ってる。ダルフォに追い払われちやった」

 珍しいとライアンは思った。ダルフォはクインを嫌いではなかったようだが、さりとて歓迎している風でもなかったからだ。無関心というのが近いかもしれない。

(普通でない者には普通でない宿命が宿りますから)

 だからクインには関わりたくない、とダルフォ自身の口から聞いている。そういうダルフォの思惑が遷るのかクインもまた、ライアンにするほど気安くダルフォに懐いていかない。

 何の話をしているのだろうとライアンは思い。ダルフォが帰ってきたら聞いてみようかとふと考えたが、それは無駄な思考に終わった。この件でライアンは終にダルフォのロからは説明を受けることがなかった。

 夜になっても帰ってこないダルフォにライアンは一抹の不安を覚え、外へ出た。冷たい雨が降っていた。タリアの大通りへ抜ける僅かに手前、チェイン地区のはずれにうつぶせて倒れているのはダルフォだった。

「……医者を」

 一緒にいた取り巻きに言いつけると、でも、というためらいがちの反論が言った。

「これは、もう駄目だと……」

「いいから医者を呼べ、死んだら死んだで仕方が無い」

 肩が割れ左の腕がちぎれかけている。深い傷は剣で打ち下ろされたものだ。争った痕跡はない。抵抗した跡がないということに気付いてライアンは首をかしげた。

 今、自分たちの敵はドォリィ達だが、既にここは五十人をきった小さな塊だ。動向は逐一つけている見張りから聞いている。それにダルフォは強い。小太刀という腕半分ほどの長さの片刃剣が得意だが、それは彼の腰にさされたまま、抜いた形跡はなかった。

 ドォリィか、とも思う。ダルフォをここまで鮮やかに切るならもう一握りの人間しか残っていない。できるのはドォリィか、それともライアンか。だがドォリィなら、何故ダルフォは剣を抜かなかったのだろう。いや、抜かないということはない。ドォリィが文字通り不倶戴天の敵なのは、彼もよく知っていることだ。

 ドォリィでないとすると誰なのだろう。不意に頭に浮かんだのは、クインのことだった。まさか、という声は今度は素通りしてくれない。だが、最後にクインと何を話していたのかが気になる。

「トリュウムヘ運び、医者を呼べ」

 言い捨て、ライアンは懐の細刃刀を確かめて走り出した。裏切り者の話が脳裏をぐるぐると回った。

 あれから一人の死者も出ていない。抗争に巻き込まれて死んだものが三十人ほどいるが、それは関係ないだろうというのがライアンの結論だ。一人も出ていないのなら、本当は間者はいなかったか。だが情報を流すのをやめたのなら時期が合いすぎる。

 ライアンはチェインの裏からタリアを抜け、いつか彼の住んでいたアパートへ出た。見上げると部屋に明かりがついていた。

 その瞬間ライアンは自分の思い違いを悟った。クインには母親がいる。彼に捕らえられてクインは「母さんには俺だけだ」と言った。返せば、それはクインにも母親だけなのだろう。父はいないのだと聞いている。

 機会がなければクインは自分たちに関わる事なく一生を終えることも可能だったろう。好んで首を突っ込むことはなかったはずだ。ライアンたちに捕らえられたときも最初、呻き声一つあげようとはしなかった。強い心はきっと母のために違いなかった。

 あれは違う、とライアンは自分の愚かしさに唇をゆがめた。クインは違う。重ねて思えば、彼は弱い。幼いのでなくて、裏町で生きていくにはあまりにもか弱い。剣など握ったこともない華奢な手は女に化けるのには良くても戦うにはいけない。愛でるだけのものはチェインには要らないのだ。ライアンは諦めるために、長く緩やかに息を吐いた。

 アパートの一階のホールは記憶のままにあった。

 螺旋階段の下の狭い空間で、いつもライアンは母を待っていた。小遣い銭をもて余しては指で弾き、うとうとしながら男が家を出ていくのを待ち焦がれていた。階段の下には床に開いた節穴があり、そこへもらった小銭を落としていた。持って帰っても使い道がなかったからだ。

 ライアンは階段の下へ膝をついた。あの頃すんなり入り込めたそこは、既に体を収めようとしても窮屈なばかりだった。

 節穴はまだそこにあった。ライアンは指をかけて床板を抜く。子供の頃でも抜くことができたから、今度も抵抗なく床をはずすことができた。

 長細い板の形に開いた穴に手を入れると、金属が指に触れた。その内の一つを摘むと銅貨が現れた。飴や駄菓子を買って終わりの額だった。これをも使う事なく、持って帰れば母に叱られると思っていたのだ。この下にたくさん落ちているはずだ。落とした銅貨の数が、ライアンがここでうずくまっていた回数だ。

 胸の奥に疼くものがある。憎んでいいのだ、とライアンは言い聞かせる。怒っていい、許さなくていい。あの女を憎むことはきっと強くなれることなのだから。

 ライアンは床板をはめて足で踏み押さえる。きしむ音を微かにたてて床は元に戻った。蓋をしてしまおう。塗り込めてしまおう。過去を、忘れてしまいたい思いを。

 たった一つ手のひらに残った銅貨をライアンは握りしめた。やや迷った末に、それを節穴へ落とした。固い音が床の下で響いて、それきりまた静かになる。

 もう行こう、とライアンは階段の下から出てホールヘ戻る。そこで知った顔と出くわして驚いて足を止めた。いや、ライアンはクインがここへ住んでいるのだと見当をつけていたから偶然とはいえ確立の悪くない賭であったが、クインのほうはなぜライアンがここにいるのか分からなかったろう。

 唖然と言った顔つきで立ちつくし、ようやく口を開こうとして慌てて唇を噛む。徹底しているとライアンは思った。普段の生活の「口の聞けない少女」の役割を忘れていないのだ。

 クインは手招きでライアンを寄せると、袖をつかんで階段を上がった。この反応でライアンはダルフォを殺したのはクインでも彼が仕向けたことでもないのを理解していた。クインの顔にあるのは何故ライアンが自分の家を知っているのかという純粋な驚きと疑念だけだったのだ。

 家に入るとクインは鍵をかけてから低く、ほとんど囁くように

「何で俺の家を知ってるんだよ。俺を尾行したのか」

と言った。怒りに瑠璃の瞳が燃え立つように輝いていて、とても綺麗だとライアンはクインの怒りなどに頓着なく思った。

「尾行てはいない。ただ、ここだろうなと思った」

 答えるとクインは消化し切れない、妙な顔をした。

「俺の昔のことを誰かから聞いたことはあるか」

 問い返すとクインは首を振った。

「……俺は母に売られた芸団で芝居をやってた。どこかで俺を見たらしい奴のところへ売られて、二年ほどで逃げ出した後、リァンに拾われた」

 クインが眉を寄せ、溜息とともに胸の前で祈印を切った。同情は要らなかった。ライアンはよせ、と言った。

「俺は別にお前に幸運を折ってもらいたいわけじゃない。爺の所から逃げたときに、俺はお前の母親を見ている。だからここだろうと思った」

「……確かにここには五年前から住んでるけど」

 まだ納得し切らない顔でクインは首をかしげた。

「何でこんなところへ逃げてきたんだよ。他にもっとあるだろう」

 そうだな、とライアンは応じた。他にも行くところはあったかもしれない。だがリァンにも会わなかったかもしれない。それなら、それは正しかったのだろうか。

「俺は昔……子供の頃、ここへ住んでた。芸団に売られるまでは」

 母が客をこの部屋で取っていたことは、話さないほうがいいだろう。無駄な気世話をさせたくなかった。

 そう、とクインが言った。その表情から、彼がライアンの「可哀相な」境遇に心底同情をよせているのが知れたが、それには関心がなかった。それより、とやや落ち着いた調子でクインは腰に手を当ててライアンを見返した。

「俺を捜してたのか、じゃあ? 何かあったのか」

 ああ、とライアンは頷く。返答を口に乗せようとした瞬間、鍵の回る軽い音がした。はっとしてライアンはそちらへ体をずらし、一瞬後には苦く笑った。全くタリアでの習慣は染み込んでいて彼の体を離れてくれない。

「おかえり、母さん」

 クインが明るい声をかけた。入ってきた女はライアンが四年前ここで会い、そしてタリアで見かけた女だった。

 母親はライアンを見て立ちすくみ、咎めるようにクインを見た。クインは首を振って言った。

「話したろ、ライアンだってば」

 ああ、と女の顔に安堵の笑みが浮かぶのにライアンは何か恐れのようなものを覚えて俯いた。

「いつもこの子がお世話をかけてごめんなさいね」

 女はそう言って深く頭を下げた。ライアンはいいえ、と低く言った。それ以外に何も言えなかった。

 母親というのはこういうものなのだろうか。ライアンや劇団の子供たちが語りかわしてきた理想の慈愛を、この女からたわわに感じる。それに包まれてライアンは不意に泣きたくなった。

 自分にとって災難の巣だったこの家も、他人にとっては違う。そんなことは頭で分かっていたが、突きつけられるのは始めてだった。ねえ、と言われてライアンは女を見た。女は微笑んでいた。あくまでも優しくて、泣きたいほど切なかった。

「これから食事なの。良ければ一緒に食べていきなさい」

 それから思い出したようにマリア・エディアルと名乗った。

 マリアの作った食事は高価なものを使っているわけでなかったが、例えようもなく旨かった。技巧を凝らしたわけでもないのに暖かい味がするからかもしれなかった。

 食事を終えるとマリアはすぐに洗い場に立った。その背を見ながらライアンは記憶を掘り起こしていた。母もああしてあそこに立っていたことがあった。何の気紛れだったのかケーキを焼いてくれたこともあった。

 ライアンを折檻するときの悪鬼のような顔と、慈母の面が両方存在している。どちらが本当の母かは分かっている。ライアンを散々殴ったほうだ。そちらの方が記憶が多い。だから痛みの記憶は忘れて、優しかった方だけを思い出すのだろう。

「なあ、本当にどうしたんだよ」

 クインが母に聞こえないようにひそやかな声で言った。ライアンも同じくらいにささやかに言った。

「ダルフォがやられた」

 クインは面食らったような顔でライアンを見て、うなずいた。

「ダルフォと外で何か話していたそうだな」

 重ねて言うと、ふうんとぼんやりとした返答をしながらクインはソファの上で膝を抱えて思案する顔つきになった。

「……それでライアンは俺を疑ったってわけだ」

 クインは呟き、ほんの少し寂しそうに笑った。

「いいさ、俺はよそ者だものな。俺が奴としていたのは、いつかの裏切り者の話だよ」

 突然その話が意外なところから出てきて、ライアンは驚いた。クインを見返すと、クインのほうは溜息まじりに黒髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

「随分長い間死者が出ていなかったから、少し気になって。なあ、怒らないで聞いてくれよ──俺は、裏切っていたのはダルフォだと思ってる」

 何故、と咄嗟に返したのは、その言葉を吟味したくなかったからかも知れなかった。

「ライアンはちゃんと俺の言った通り嘘をついてたろ」

 ライアンは頷く。クインの言うことにはきちんと道理があった。理屈が通っていれば試してみるのは悪くなかった。だが、敵はそれには結局かからなかった。

「だけどそれ以降一度も網にかからなかった。ライアンに嘘をつけと言ったときにその場にいたのは俺と、あんたと、ダルフォの三人だけだ」

 ライアンはゆるく首を振った。それが理屈であるのなら、今まで死人がでなかったのが偶然でも良かった。

 だが、とライアンの記憶はクインの言ったことの整合性を照合し始めている。ダルフォにだけは話していたことも多い。ヴァシェルとの日時を確かにダルフォは知っていた。境界線のひき方まで教えてやっていたのだ。そんな馬鹿な、とライアンは不機嫌に黙り込む。クインが隣でためいきをついた。

「だって、ダルフォはあれから最初の死者じゃないか」

「まだ死んだと決まった訳じゃない」

 力ない言い訳のような言葉を吐いて、ライアンは首を振る。ダルフォは最初から彼についてきた本当の意味で腹心だった。自分が途中で倒れたときは彼に全てを与えようと思っていた。

 だが、それも嘘の上の花に過ぎなかったのだろうか。しかし、とライアンの心へ直接声がむごい答えを囁く。

 ──ダルフォは何もかもを知っていた。ヴァシェルとの最初の接触をも知っていた。その時点でドォリィに連絡すれば、ドォリィも策を考える時間があったに違いない。だからあんなに鮮やかにヴァシェルを葬ることができた……

「だから俺は聞いたんだ。ドォリィって奴とどういう関係ってさ」

 ダルフォの顔から表情が消え、どういう意味だと聞いたという。

「あいつ、あんたよりも頭悪いね。かまをかけられているだけかもしれないのに、喋ったのと同じだ」

 その通りだ、とライアンも苦々しく頷く。ダルフォは確かにあと一つの詰めが甘いところがあった。だがそれはあくまでも知恵を巡らすという一点においてのことで、後は強さも実直さも申しぶんなかった。

 だが、自分はそれよりもはるかに詰めが甘いのだと証明してしまったようなものだ。

「では、ダルフォに傷を負わせたのはドォリィ自身である可能性が高いということか」

 ライアンが言うとクインはうなずき、それから急に子供の顔に戻って、水場の母親に言った。

「母さん、今夜ライアンをここに泊めていいかなあ」

 母親はにこやかに笑いながら頷いた。その顔に少しも嘘がないのを知りながら、ライアンは戸惑ってクインを見た。頼むよ、とクインが小声で言った。しかしと思う側から是非にと勧めるマリアの声についうなずいてしまったのは、やはり自分の底の甘さなのだろうか。

「ダルフォが抵抗しなかったのは元々ドォリィって奴がダルフォの主だったからだと思うんだ」

 早々にベッドにもぐり込んだクインが声帯を使わない、ひそひそとした声で話を再開した。これがゆっくり話したかったのかとライアンは悟った。夜が遅いと外へは出してもらえないし、ダルフォの件が落ち着くまでクインはライアンたちの巣に近寄るのは危険だ。クインとダルフォが話をしていたのをチアロ以外にも見た者がいる。クインの事情を知らなければこの子供を怪しむことは不自然ではなかった。

「しかし、なぜドォリィはダルフォを斬ったんだ」

 ダルフォがドォリィの意を受けていたのは既に揺るぎない事実のようにライアンには見えていた。辻棲の合うことが多かった。クインが複雑そうな顔をしたのが窓から入るおぼろな月の光の中でも分かった。

「ここから先はただの推測の積重ねでしかないから、本当かどうか分からないけど」

 前置きしてクインは言った。

「奴はライアンに本気でつくつもりだったんじやないかって」

 ライアンは目を伏せた。一度裏切っておいて、さらに自分のために元の主人を見限ろうとするのは汚いと思ったがその穢れがダルフォにそぐわないのが自分でも不思議だった。

 いや、ダルフォが裏切っていたのだと理性で承知した後でも、それが何か他人事のような薄い幕に包まれて激しい怒りも失望も少しも湧いてこない。ただ、とても寂しいということだけだった。信用を信用で返して貰えなかった、その痛みに似たものに胸がきりりとする。クインが毛布の下で体をひねり、枕に顔を押し当てながら小さく続ける。

「裏切るなら、本当にそのつもりならあんたに致命傷を与えるつもりなら、たった一つ有効だった機会を見逃しているからね」

「──ドォリィの奴等を狩ると決めた直後、か」

 自分ならそうする。ライアンがダルフォにこうするつもりだと幹部よりも一足早く通達した直後に、自分に手なずけた部下をすべて連れてドォリィのところへ帰ればいい。

 人数よりも、ダルフォが抜けたということ自体が衝撃になるだろう。なぜなら彼はライアンの部下の中では破格に扱われていたからだ。それすら裏切るとなれば動揺はあっという間に伝播して恐慌になる。いずれにしろ戦力を大きくそぐことができたはずだ。

「おさすが」

 クインは冗談ともつかないことを言って一つ欠伸をしたが、まだ表情は真剣だった。

「ドォリィは怒るだろうな。時限式の罠にダルフォを送ってよこしたはずが、いつの間にか取り込まれてるんじゃな。だからダルフォを斬った」

 ああ、とライアンはそれだけを言って天井を見た。天井に使われている木目の模様にやはり覚えがあって、ライアンは目を細める。節の黒い部分が目に見えて、幼い頃はとても怖かったものだ。

「そして、ダルフォは負い目があるから抵抗しなかった……」

 ライアンは呟く。多分ね、とクインの声が追いかけてきた。ダルフォは、とライアンは思った。

 いつか彼がリァンにライアンが一番近いからついてきた、と言った。あれも嘘だったのだろうか。ライアンを信じ込ませるための罠の一つだったのだろうか。それでもダルフォは影のようにぴたりとライアンに寄り添って共に方策を練ってきたはずだった。

 いや、だからこそクインが口出しをするのを嫌がったのだろう。クインの尋常でない聡明さを目の当りにして何を考えたのだろう。正体が知れることか、それとも今までのように簡単にライアンに対処できなくなることか。それとも。

 ライアンは目を閉じてダルフォのことを思った。クインがどんどん入り込んできて、自分の居場所が狭まっていくような気がしたのか。愚かな、と呟く。

 クインは図らずも彼が言ったように結局は部外者だ。いつか必ずいなくなる。だがダルフォはチェインで、そしてタリアで生きていくしかない、ライアンや他の仲間と同じように。ならばライアンが最終的に選ぶなら仲間でしかありえないことが分からなかったのか。

 俺のためにドォリィを裏切るつもりだったのかとライアンは微かに息をついた。嬉しいかと言われるとそれも違う気がした。

 今、切実にダルフォと話がしたかった。責めるわけでもなく、なじるでもなく、彼の話を聞きたかった。

 隣のベッドでは既に健康な寝息が聞こえてきている。寝付きの早さは子供に特有のもので、ライアンは小さく笑う。

 それから、大人びた口調と態度を思い返してこの子供の不幸は自分たちと種類が違う、けれど確実に根の深い不幸なのだとそんな風に思った。

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