終わった世界の幽霊
終わった世界。
崩落したコンクリートの束。赤や緑に染まった鉄の板を、一滴でどんな生物も死に至らしめるほど有毒な液体が滴る。黒くて厚い雲に覆われた、荒廃したビル街は灰色一色だった。
ずっと昔に人間が捨て去ったこの星は、静寂に包まれ、徐々にしかし確実に滅びの一途を辿っていた。それはまるで、人間によって汚され、生物の住む余地のないこの星がリセットをしようとしているようだった。
今、そのビル街の中に、ポツンと独り立つ白い人影がある。
ずっと昔に人間がいなくなったこの街に立つその影は、生きた人間ではない。つまりは死人――そう、幽霊である。
半透明の白い体。さらりと伸びた明るい色のストレートロングヘア。厚い雲の先に微かに見える太陽にかざす手は、か細く美しい曲線を描いていた。永久に老けることも朽ちることもない、あまりにも可憐な少女だ。
黒い空を見つめる彼女の瞳は、雨模様の青をしている。
何十年も前から彼女はずっと孤独で、ずっと独りだった。人類がこの星にいた時から幽霊で、人類が去った後は街の滅び行くさまをただ見守ってきたのだ。
しかし彼女は、死ぬことも眠ることも、気が狂うことも許されない身体だ。このまま永遠に解放されることのない孤独の檻に閉じ込められるのである――――かに思われた。
「え……?」
ふと、瓦礫の山の中に、何か人の手のような形のものを見つけた。ほとんどのものが消え去ってしまった世界では珍しいものに興味を惹かれ、少女はそこまで行ってみる。
「手……よね?」
それはどこからどう見ても人の手だった。泥にまみれているが、その内にはきっちりと五本の指が覗いている。しかし、この汚染された環境下では、生身の人間の手が色も変わらずに存在し続けるのは半日とて無可能だ。すると思い至る答えは一つ。
「――人形ね……」
人類が残していった遺産の一つ。人間を模した機械に憧れた人々が作った、心も魂ももたない人形だ。
全身があれば、もしかしたら動くかもしれない。少女は淡い期待を胸に、その周りの瓦礫をどかし始めた。
幽霊になりたての頃は非常に苦労したものだが、物体に触れるというのにも慣れ、今では生きていた時では考えもしなかったほどの力で物を動かすことができていた。それゆえ、アンドロイドの全身を掘り起こしきるまでは、さほど時間がかからなかった。
アンドロイドは、白が基調のぴっちりとした服に体が覆われ、縦長の印象を受ける銀髪の少年だった。あたりまえだが、顔には人に作られた美しさがある。もはや芸術品の域に達する輪郭、すっと通った鼻、形の良いきゅっと締まった唇。目は瞑っているが、きっと美しい瞳の色をしていることだろう。その身体は、偶然か奇跡か、瓦礫の中に埋もれていたのにほぼ無傷だった。その身体が、力なく少女の腕の中に納まっている。
(きれい……)
少女はその少年に見とれた。永久に変わらぬ少女にとって、半永久的――逆に言えばいつかは消えてしまう姿は憧れだったのだ。
(スイッチはどこかな……?)
早くその瞳を拝みたい。完璧な姿で動く少年を見てみたい。はやる気持ちを抑えられなくなり、少年の身体を探ってスイッチを探した。すると、少年の胸のあたりにちょっとしたくぼみを見つけることができた。きっとそれがスイッチに違いない。少女はそのくぼみに指を押し込んだ。
――カチャリ
鍵が開くような金属音がしたかと思うと、少年の身体は電気が走ったかのようにビクンと動いた。そして、少年はゆっくりと瞼を開ける。
静かに金色の瞳が姿を現したが、その焦点は遠い空の奥へと向いている。そのまま少年は兵隊のごとくきびきびとした動きで立ち上がり、少女を見下ろして言った。
「私の名前はシエロ。ご主人様のお世話をするために参りました。なんなりとお申し付けください」
突然そんなことを言われ、少女は戸惑ってしまった。何しろ、誰かと会話をするのなんてもう半世紀ぶりだ。それに、何でも命令をしろと言われても頼むことなど少女にはなかった。
ゆえに彼女は少年と同じ目線で話せるよう立ち上がり、
「わ、わたしの名前はソラ……よ、よろしくお願いします」
とりあえず自己紹介をしてお辞儀をした。
少年はしばらく少女の言葉の意味を電子頭脳で受け止める作業をした後、
「はい。よろしくお願いします。ソラさま」
とお辞儀を返した。
これが、幽霊の少女とアンドロイドの少年の初めての出会いだった。枯れた星で、歪な二人の運命の出会いだったのである。
◆◆◆
「ねえ、シエロは何をするロボットだったの?」
瓦礫で散らかった大地を歩きながらソラが訊ねた。
「私はご主人様に仕え、身の回りのお世話をするために作られました」
シエロは彼女の三歩後ろを付いてきている。
普通の人間では越えるのが大変そうな瓦礫の山も、幽霊であるソラは軽々と跳び越えて見せる。物理の法則に縛られてしまうシエロのほうが遅く、彼女はそれをいちいち待たなくてはならなかった。けれども、ソラはそれに対して全く苛立つ様子はなかった。むしろ、シエロの動く姿を見る彼女の目はルンルンとしていた。
「じゃあさじゃあさ、お世話ロボットってこと? なんだが優しそうなロボットだね」
太いコンクリートのブロックを乗り越えたばかりのシエロに彼女がそう言うと、彼は首を傾げた。
「優しい、ですか?」
「そう、優しい。だって、自分ではなく、誰かのためだけに生まれてきたんだもん」
「誰かのため……それが優しい、ですか?」
シエロは電子頭脳のメモ帳に書き留めるように呟いていた。
そのようにして話しながら、あてもなく二人は歩き続けた。ならば、ずっと座って話していてもよいのではないかと思うことだろう。だが、退屈が嫌いなソラがそうするわけもなく、とにかく世界中を歩いて見て回っているのだった。
酷く汚れてしまったこの星には、生物なんてものはいない。音を発さぬ無機物ばかりが横たわっているだけだ。それでも彼女は、それらを見て回っていた。
そしてシエロは、そんな彼女に何も聞くことなく付いてきていた。
「ねえ、シエロ。今度はそっちから何か質問してよ」
「質問、ですか? しかしソラさま、私は何をお尋ねしてよいか分かりません」
「何でもいいのよ。好きなものは何ですか、怖いものは何ですか、とか」
「そうですか。では、好きなものは何ですか?」
「そのまま訊くんだ……まあいいや。えっと、好きなものはねぇ……」
ソラは顔を上に向けた。しかし、そこに空は無い。厚く濁った雲に覆われてしまっている。もう当分、この星に空が現れることはないだろう。ソラは、その雲の奥に答えを探すように見つめ、そして再度口を開いた。
「たぶん、本物は見たことないんだけど、ね。写真で見た、お花っていうものがすごく綺麗だったの。だから、お花が好き」
「お花、ですか? 資料参照します」
そう言ったかと思うとシエロの瞳から一瞬光が消え、頭の中の辞書を紐解いているようだった。
「なるほど……」
いつものシエロに戻り、彼はまた分かったことを書き留めるように呟いた。
「これが綺麗、ですか……」
「うふふっ」
唐突にソラが吹き出した。堪えていた笑いのダムが決壊したかのようだ。口元を押さえて、鈴の音にも似た声を上げている。
「? どうかされましたか、ソラさま?」
「いや、ごめんね。ずっと思ってたんだけど、シエロって相当変だよね」
「変、ですか?」
「そう、変。すごく変わっていて、すごくおもしろい」
「変なのに、おもしろい、ですか? 私には理解できかねます」
「うふふふふ、ほんと変! おもしろい! ふふふふふふ」
腹を抱えて笑いだすソラを前に、シエロは困ったように首を傾げるのだった。
それからも彼らの会話が途絶えることはなかった。ソラは何十年も溜めこんでいた、話したかったことを発散していたのだ。しかし、シエロからは質問することも話題を振ることもなかった。
ロボットと人間の大きな違いは、新しいものを自分で作れるかどうか、だという。シエロは、新しいもの――質問を作ることができなかったのだ。
初めはそれでもいいと思っていたソラも、段々とそのことに苛立つようになった。会話のキャッチ―ボールと言うほどだ。片方からボールを投げて、もう片方がそれを自分の懐に収めるばかりでは、キャッチボールではない。
「ねえ、たまには自分で考えて質問してみてよ?」
倒壊したビルの上に座ったソラが、珍しく棘のある声でシエロに言った。
「はい、ソラさま。怖いものは何ですか?」
「それはこの前私が言ったことでしょ。そうじゃなくて、あなたが純粋にわたしの気になっていることを訊いてほしいの」
「しかし、ソラさま……」
「ねえ、お願い」
これはロボットに発明をしろと言っているものだ。そのことはソラも分かっていた。だが、見た限り人間にしか見えない、話しても人間にしか感じない彼に、それを求めざるを得なかったのだ。
無言の沈黙が続いた。ソラは言葉を待ち、シエロはただ彼女を見つめていた。
このまま夜まで待っていようか。ソラは一瞬そう思った。
この終わった世界にも夜はある。いやむしろ、昼間はあると言うべきだろうか。暑い雲を潜り抜けたわずかな陽光が昼間を作るのだ。つまり、この世界の夜とは、真の闇を示す。どこにも光は無く、ただただ暗い空間が続く。本当にそこが空間なのかも分からない世界だ。
だが、それがこの世界で唯一、一日の時間の変化を告げてくれる存在だった。もっとも、幽霊であるソラとアンドロイドであるシエロには、明るかろうが暗かろうが関係のない話であるが。
「もういいわ、ごめ――」
「ソラさま」
「――え?」
不毛だと思ったのか、夜になる前に諦めて切り上げようとしたところで、シエロが彼女の名前を呼んで、言葉を紡ぎ出す。
「ソラさまは、どうして亡くなられた後もこうして存在しているのですか?」
単調な声でそう言われたソラは、眉を曇らせて訊き返す。
「……シエロは、わたしが邪魔だって言いたいの?」
「違います」
「じゃあ何?」
不機嫌に拍車がかかったソラに向かって、シエロは淡々とその質問のわけを話す。
「データを参照すると、数々の物語作品では、人は亡くなられた後、心残りがあると魂だけが切り離されて存在することがある、そうです。ソラさま。ソラさまは一体、どんな心残りがあるのですか?」
「わたし……」
ソラは考えた。
「分からない。いや……」
もう当分考えてなかったことだ。分からないのではない。ソラは、自分が幽霊になったわけを忘れてしまっていたのだ。遠い昔、生きていた時の自分は、いったい何に憧れていただろう。彼女は改めて、死んでも死にきれない後悔を作り出すように考えて、言葉にしてみる。
「たぶん、わたし、恋をしてみたかったんだ、と、思う……」
「恋。人が人を好きになること。大切に思うこと。自分より相手のことを考えること。ですか。優しい、と関係しそうですね」
「そ、そう、だね。でも、もう叶いそうにないや」
「? なぜですか?」
ソラは苦笑しつつ答える。
「だって、人が人を好きになるんでしょ? もう、どこにも人なんていないもん」
「そう。そうですね」
そう言うシエロの声は、どこか寂しそうな感じがするとソラは思ったのだった。
◇◇◇
数日後、ずっと歩きっぱなしだったシエロが、時々何かを拾ってはそれを手元でいじるようになった。初めはゴミか何かで遊んでいるのかとも思ったが、その内何かを作っていると分かり、気になって訊いてみることにした。
ソラは歩くのをやめて振り向く。
「ねえ、シエロ。さっきから何作ってるの?」
シエロも立ち止まり、自分の手元に視線を落とす。一応は完成ということか頷いて、手の中の物をソラに差し出してきた。
「ソラさま。データを参照し、花を作ってみました」
「……えっと、わたし、花を作れなんて言ったっけ?」
「いいえ、そんなことを申し付けられてはおりません」
「じゃあ、自分の意思で作ったってこと?」
「左様でございます」
シエロが自分の意思で何かを作ろうと思った。そのことには驚きだったが、それよりももっと驚くべきことがそこにはあった。
「すごい……写真で見たのとそっくり」
シエロが作ったという『花』は、灰色の景色の中で一際輝いていた。甘そうな印象を受ける赤。花びらが何枚にも重なり、ふわりとした一つの塊を生み出していた。
「きれい……」
気が付けば、ソラの口からは無意識にその言葉が飛び出していた。こんな素晴らしい贈り物をもらった喜びを伝えたいと、それも言葉にする。
「ありがとう! すごく嬉しい」
今までにないくらいの明るい笑みでそう言われたシエロだったが、いつものように言葉を反芻する。
「嬉しい」
「嬉しいは、前にも教えたよね?」
「はい。嬉しい。ソラさま、私も嬉しいです」
シエロのその発言にソラは目を見開いた。
「え、嬉しいが分かるの?」
いよいよシエロは人間の感情まで理解できるようになってしまったのか。だとしたら、シエロはアンドロイドではなくもはや人間はないのか……?
しかし、次にシエロの口から出てきた言葉は期待外れのものだった。
「はい。嬉しいとは、何かよいことがあった時などに感じる感情。心が躍るような明るい気持ちです」
辞書的な文言。データを丸読みしただけの文章。
シエロが人間の模倣をして嬉しいと言ったと分かると、途端にソラの肩から力が抜けた。そう、所詮はこの造花のように何かを真似ることまでが限界なのである。
けれども、模倣と分かっていても、彼の優しさはソラにとって素直に嬉しいものだった。
「本当にありがとうね。大切にするよ」
この頃からシエロの行動はおかしいと思いつつあった。ソラは生きていた頃に何体かアンドロイドを見たことがあるが、それはどれも木偶の坊の人形で、こんな人間的な優しい行動をするなんてことはあり得なかった。
そして、数日後にシエロはもっと決定的な行動を見せた。
それは、旅をしている途中、大蛇のようにうねるレールや横たわる大きな車輪、所々コンクリートが見える小山のある場所へたどり着いた時のことだった。
「ここは?」
他とは一風変わった場所だったからか、シエロが訊ねた。
「遊園地って言って、ずっと昔は子どもから大人までが集まってたくさん遊んだ場所なの!」
ソラは浮ついた声音で、遊具の残骸を指差しながら次々に説明していく。
「あれがジェットコースターって言って、あそこを乗り物に乗ってスリルを味わったんだって。あれは観覧車って言って、本当は立って回っていたんだよ。で、あの不自然な山は、人が作ったもので、アトラクションの一つなの」
話をしていて想像してしまったのか、テンションが頂点まで達し、ソラはシエロの手を掴んで提案する。
「ねえ、シエロ。せっかくだから遊びに来たつもりで少し――」
と、その時偶然、ソラの足元が崩落した。崩れた地面は、奈落の底へと吸い込まれるようにして落ちて行く。遊園地の敷地は、スタッフが移動できるよう地下を設けていることが多い。長い時間をかけて敷地の地面がもろくなって崩落したのだろう。
「――おわっとっ!?」
幽霊である彼女も、普段は重力に従うようにして地面に足を着けている。そのため、このような不意の事態が訪れると、つられて落ちてしまうのだ。
シエロも崩落に巻き込まれるようなかたちになったが、アンドロイドの反射神経ならばこの窮地を脱するのも容易だ。ソラはそう思っていた。
しかし、どういうわけか、シエロは片手で地面を掴むと、もう片方の手でソラの手を掴んで宙づりになった。
「待って大丈夫! 大丈夫だから早く上に登って! わたしは幽霊だから一人で上に上がれる! だからこの手を離して登って!」
慌ててソラがそう言うが、シエロは手を離そうとはしなかった。重さのない彼女だが、このまま片手だけで自分の体を維持していたら落ちてしまうだろう。
「どうして……?」
「ソラさまから手を離すのは、優しい、とは違うと判断しました」
「でも、それじゃあ!」
それではまるで、自己犠牲ではないか。これは模倣? いや、違う。今彼は確かに命令に逆らってそれをやり通そうとしている。明らかに、彼自身の意思で行動しているのだ。
「シエロ……」
シエロはどうしてかソラを重そうに引き上げた。それは物理的な重さではない。もっと別の、もっと特別な重さのような気がした。
二人とも地面に上がって少し落ち着いたところで、ソラが声を荒げて言った。
「わたしはあなたがいなくなるのは嫌! だから、今後こんなことがあっても絶対に助けようとはしないで!」
「……」
「返事は?」
「……」
ここはちゃんとしておかなければならない。ソラは二度と危険な真似はしないと誓わせようとしたが、返事は返ってこなかった。透き通るような金色の瞳で、ただただ彼女を見つめるばかりだった。
「ねえ、シエロ!」
「ソラさま、そのご命令には従えません」
ようやく口を開いたかと思うと、堂々と命令違反の発言をした。命令という糸に操られるだけの人形が、それを振りほどいたのである。
「どうして……?」
「ソラさまは、私よりも大切だからです」
シエロのその言葉は、偽りでも模倣でもない。ソラは一瞬でそれを理解した。シエロは――もうアンドロイドではない。
それからしばらく、会話のない旅が続いた。
どこに行っても、何を見ても、お互いに何も言わない。だが決してそれは、悪い雰囲気というわけではないようだった。ソラは彼が嫌いになったから何も言わないのではない。どうしてか、何を話してよいか分からなくなってしまったのだ。
彼のことを考えると、ないはずの鼓動が早まるような気がする。ソラは、いよいよ自分はこの世界で狂ってしまったのではないかと思った。
「はあ……」
質量を感じそうなほどの闇に包まれた夜。ちょっとした平地に腰かけながら話せることはないかと考えていると、どうにもソラは疲れてしまった。幽霊なのに疲れてしまったというもの変だが、彼女は考えるのをやめてみることにした。
視界は闇に覆われている。認知しようとすれば倒壊したビルや、根強く建ったままのビル、瓦礫の山が確認できる。音は、風の通るものや砂の舞い散る音、遠くで何かが崩れる音などさまざま聞こえる。そして、何よりも近くて、何よりも大きい音がここにあった。
ドクン、ドクン、ドクン、とソラの胸を打つ鐘の音。
「どうして……わたし……?」
とうに死んでしまっているはずなのに、ソラの心臓は脈を刻んでいるのだ。懐かしくて、落ち着く音。ソラはしばらくその音に耳を澄ました。
「ソラさま」
「ひゃい!」
びっくりして変な声を上げてしまったが、すぐに正気を取り戻して訊く。
「あ、えっと、何?」
「今夜は、月が綺麗です」
「え、月? 月なんて出てるわけが……」
そうだ、厚い雲に覆われて、空なんてあるはずがない。けれど――
「本当だ……」
そこには真ん丸に輝く金色の月の姿があった。暑い雲が切れ、その間から顔を覗かせていたのである。
ソラは月を初めて見る。これも写真でしか見たことがなかった。が、まさか月というものが肉眼で見るとこんなにも美しいものだなんて思ってもみなかった。
ソラはその輝きを浴びていると、徐々に落ち着いた気分になるのを感じた。
頭の中でぐちゃぐちゃしていた思いが解けていき、シエロに言いたいことがはっきりと見えてきた。
「ねえ、シエロ。わたしね、あなたと出会ってからすごく幸せだった」
そして、彼女は自分自身の気持ちに気が付いた。いや、本当はもっと前から気付いていたのかもしれないが、ありえないと思って気付かないふりをしていた感情に。
「でね、気が付いたんだ。わたし、もうとっくに……」
が、運命の神は最後まで言わすことを許してくれなかった。
突如、月が影に覆われた。しかし、それは雲ではない。背後にそびえていたビルだ。それが今、このタイミングで倒壊を始めたのだ。なんたる偶然。いや、本当はもっと前にこうなっていてもおかしくなかったのかもしれない。何と言っても、ここは終わった世界なのだから。
「っ!?」
反射的に動いたのか、シエロはソラに被さるようにして庇った。
「シエロ!!」
倒れたビルから瓦礫が飛び散り、轟音とともに粉塵が舞う。ソラはすり抜けるため爆風を受けることはなかったが、シエロは無事では済まないだろう。
「ねえ、どこ! シエロ! 返事をして!」
塵の沼を泳ぐように掻き分けてシエロを探す。
「ソ、ラ……さま」
ノイズ混じりの消え入りそうな声が聞こえた。ソラはその声のした方へと駆け寄った。
「シエロ!」
そこには、下半身がコンクリートの下敷きになったシエロの体が横たわっていた。ソラはそのコンクリートをどかそうと試みたが、すぐに無駄だと分かった。どう見ても、シエロの下半身は紙のように潰れてしまっている。これではたとえコンクリートを除けたところで、修復不可能な状態になってしまっているに違いない。よく見れば、頭部や胸部も所々中身の機械部が覗くようになってしまっている。ただ事ではない。
「シエロ! 言ったでしょ! わたし死んだりなんかしないから助けなくていいって!! どうして!」
「あ、の位置では……どの道、助かりませんでした……だから、ソラさま、を……」
「ごめん、シエロ! ごめん」
「ソラさまが、謝る、ことで、は…………機関部損傷。重大なエラーが発生しています。50秒以内に修復されない場合、データの初期化を行い――」
シエロの声はいつもよりも一段と機械のようだった。
「シエロ! お願い! わたしを一人にしないで!」
「ソラ、さま……私はもう……」
もう駄目だ、助からない。ソラは受け止めたくない事実に直面した。だが、受け止めなくてはならない。それが彼のためだ。
だから、彼女は決心した。
「……わかった。あなたが消えるのなら、わたしも消える」
「……っ!?」
「ねえシエロ、聞いて。わたし、恋をしたんだ」
ソラの声は突然落ち着きを取り戻し、この状況でそんな話をし始めた。アンドロイドの電子頭脳でも、もう何日も彼女といっしょに旅をした彼ならば分かる。これが何を意味するのか。
「ダ、メです……」
なんとかして止めようともがくシエロ。ソラはそんな彼の身体を抱きかかえるように起こして続けた。
「不器用で、でも誠実で。よくわからない変なところもあるけれどおもしろくて、好きなの――シエロ。わたし、あなたのことが好き。あなたはわたしよりも大切。わたしはあなたに恋をしたの」
言い終えた途端、ソラの体がうっすらと光を放ち、彼女を構成していた粒子が空へと上っていくようにほどけていった。心残りだった恋をすることが、ここに今果たされたのである。
「ソラ、さま……っ!」
「あの世でまた会おう、シエロ。大好きだよ」
ソラがシエロをぎゅっと抱きしめた。ずっとこれが続けばいい。けれど、それは叶わない。
不意に、ソラの体はタンポポの綿が飛び去るようにして消えてしまった。
霧散した光は蛍みたいに舞っていき、この厚い雲を貫いてどこまでも昇っていくようだった。
シエロはその粒をただ見送ることしかできなかった。
彼女のいなくなった場所には、シエロがプレゼントした花が残った。ビルの倒壊を浴びたせいか、その花びらは散ってしまっていて、くすんだ赤が血のように転がっている。
「これが……好き…………私は、好きな人を……守ることが………………」
出ない涙が癒すこともなく、彼は死の湖に体を沈めていった。
◆◆◆
少年は、目を覚ました。
けれどここは終わった世界。普通の生物は数秒と経たずに息絶えてしまう。
つまり彼は生きた人間ではない――――幽霊だ。
幽霊の少年には、薄らとした記憶しか残っていなかった。
が、どうしてか、果てしない悲しみに心をえぐり取られそうで、目から何かがこぼれた。
「え……?」
少年は自分の頬に手を当て、そこを流れる水滴を拾ってみた。それは透明なダイヤのような雫。紛れもなく涙だった。
「私は、泣いている……」
少年の頭の中に、ある少女の顔が甦った。自分よりも大切に思っていて、恋をしていた少女。素晴らしい人間の感情を教えてくれた少女。だが、その少女の姿はここにはない。ずっと前に体は朽ち果て、その魂はさっき空へと昇って行った。
少年は空を見上げた。ずしりと重い雲がどこまでも続いている。
「…………」
ふと少年が瓦礫まみれの地面に視線を落とすと、そこには花びらが点々と散っていた。少年は器用にそれを組み合わせて花を形作ると、その場に置いて歩きだした。
朽ちることのない身体に彼女から教わった悲しみを抱えて、終わった世界の幽霊はさ迷い続ける。
『終わった世界の幽霊』FIN
まず初めに、普通に恋愛小説だと思って読ませてしまった方は、だましたようなかたちになって申し訳ありませんでした。
烏川の短編を読み慣れている方には、オチの鬱さ加減に気付かれた方もいらっしゃるかもしれませんね。その方はさすがです。
ちなみに、タイトルについてはふざけました(笑)
B級映画みたいなタイトルにして、毎度の読者様もそうでない読者様も別のかたちでだますことができたらと思ってつけました。
オチは、実はもう一つ候補があって、そっちにしようかすごく迷いました。
ですのでこの作品は、いつの日か、オチだけが入れ替わって置いてあるかもしれません。あしからず。