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悪夢の序章

シグと夏初ちゃんは、4歳違う。だから、シグが高等部の1年生だった時、夏初ちゃんは大学2年生だった。

その頃の夏初ちゃんは、本人もまだまだ青くて詰めが甘く、周りから「サロン」とか「取り巻き」と冗談めかして言われていた友人達の中にも、若干世の中を舐めたり斜めから見ている感のある、調子に乗った勘違い野郎が少なからず居た。その中でも最悪だったのが、多分アノ男。元から喜怒哀楽の「怒」と「哀」が希薄だったシグを、怒りも哀しみも恨みも欠落した、鮮血の海の真中で微笑む天使に変えた張本人だと、私は思っている。



あの日、何があったのか。

発端は普段と変わらずうちの居間に溜まっていた夏初ちゃんの友人の1人が、「今度、俺と2人で遊び行かない?」と、私(当時中2)をナンパしてきたこと。それは割とよくあることで、この1年前にちょっと色々あった所為で最も可愛いげの無い時期だった私が、それをこっぴどく断った所までは、いつもの展開だった。問題はその後。私に振られた男は、「じゃあ、代わりに」とシグにも、同じように声を掛けた。「……ぼく、ですか?」

「そう。妹ちゃん程じゃないけど可愛くなくもないし、よく見りゃ夏とも似てるし?」


微かに目を丸くしたシグへの答えで、その男がシグを女子と間違えているのは解った。確かに、前にも言った通りシグは私を地味にしたようなよく似た顔立ちで、シグも私も同じようなシャツとハーフパンツだったし、夏初ちゃんは私達を「下の連中」としか言ってなかったらしいので、間違われること自体は不思議はない。だけど、シグは歴とした男子です。そう訂正しようとした私を、夏初ちゃんと他の友人数人が、面白がって「本人は気にしてないみたいだし」と止めてきた。

その間に、男はまんまとシグとデートの約束を取り付けており、シグはこの当時は一人称こそ「ぼく」だけど、地声もそんなに低くないし「しぐれ」は女子の名前でも無くはないので、名乗った後しばらく会話を交わしても、相手は勘違いに気付かなかったようだった。約束の当日までずっと、ぐずぐずと反対し続けていた私に、夏初ちゃん達は

「一緒に出掛けるだけなら、男でも女でもそんな変わんないし、万一何かされそうになったら男ってことをバラせば平気だって。アイツ根っからの女好きの遊び人だもの」

なんて言って笑っていた。……その読みは、見事に裏切られたわけだけど。


そしてやって来た最悪のあの日。夏初ちゃん達が選んだシグの服装は、ほんのりピンク掛かった白のシャツと薄茶のパンツで、どちらもゆったりとしたデザインだったから、体型が隠れてより一層性別不詳な感じが増していたけど、タケ兄のお下がりなので、一応男物だった。それでも、がっしりした体型のタケ兄が着ていた時は女物には見えなかったのに、顔立ちは中性的で貧相では無い程度に細身─というか華奢─で、清潔感もあるシグだと、「どちらかといえば女子?」といった、女子寄りのボーダーぎりぎりに見えた。事前に聞いた限りでは、どこに行くとか何をするとか、そういった具体的な予定は特に決めていなくて、全て向こう任せで、

「お昼とかお茶くらいは奢ってやんなさいよ、馬鹿ボン。アンタの金銭感覚に、一介の高校生がついていけるわけないんだから」

そんな風に夏初ちゃんに言われていた相手は、どうもかなり良い所の道楽息子らしかった。どこでどう知り合った友達なのか訊いたら、


「元カノの友達の元カレの知り合い……かな。他にもいるでしょ、うちに出入りしてる誰かが連れて来たメンツって」


名前と実家のことが少しと、あまり身持ちが良くないこと位しか知らなくて、世の中を舐めた言動が多いのは夏初ちゃん的にはあまり好きになれないけど、まぁ出禁にする程の理由では無いし。とのことだった。夏初ちゃんは、「人を疑う」という回路のすっぽり抜けているタケ兄と違って、来る者拒まず去る者追わずではないけれど、自分の価値観や好悪だけで他人を選別しない。それは今でも変わらず、精神科医の家に生まれ育ち、自身も精神科医となるに至る上で、大事なことだと理解しているし、私もなるべくフラットに他人を見るように心掛けてはいる。それでも、アノ男に関しては、読みも認識も詰めも何もかもが甘過ぎたと─私が言うまでもなく─、夏初ちゃんも痛感させられたからか、アレ以降は、どこの誰で、どういう価値観なのか等々、それとなく探りを入れ、危険だと判断したら─時に秘密裏に─相応の対処をするようになった。



初めから好感は持てなかったけど、危険を察知していた訳では無く、単に大好きなお兄ちゃんであるシグに、変な奴が近付いたのが嫌なだけだった。それでも、面白がって口止めした夏初ちゃん達に白けられようとなんだろうと、あの場でバラして止めておけば良かった。そうしたら、シグはあんな目に遭わなかったのに。お昼前に出掛けて、流石に夜までは付き合わされはしないだろうけど、今はどこで何をしていて、いつ帰って来るんだろう。そんな風にやきもきしながらシグの帰宅を待っていた夕暮れ時。居間の電話が鳴った。

ナンバーディスプレイには「公衆電話」と表示されていて、変なセールスや何かの可能性も高かったけれど、この当時は今みたいにみんながみんな自分の携帯電話を持っていたわけではなく、シグも持っていない口だったので、迷わず出ると、予想通りシグからだった。けれど、妙に声が掠れているように聞こえたことと、

「お父さんかお母さんか、お姉ちゃんって、今家に居るかな?」

という問いに、何となく引っ掛かった。


「3人共出掛けてて、タケ兄なら居るけど?」

「そっかぁ。出来れば、車で迎えに来てもらいたかったんだけど……」


確かに、タケ兄は免許を持っていなかったから、最初の質問から除外されたのは解ったけど、行きは相手が迎えに来て、帰りも送ってもらえることになっていたんじゃなかったの? なのに迎えを頼むって、何かあったの?? そう聞き返そうとしたけれど、何だか厭な予感がして、


「マナトさんが来てるから、お願いしてみる」


タケ兄の所に、小学生の頃からの友達が遊びに来ていて、免許も車も持っているから、その人に頼む。と答えると、シグはちょっと遠慮しようとしたけれど、有無を言わせず「どこまで迎えに行けば良いの?」と場所を聞き出すと、電話を切るなりタケ兄の部屋に行き、開口一番「マナトさん、車出して」

と頼むと、案の定怪訝そうに眉をしかめ

「は。何でだよ」

と聞き返された。


「シグに何かあったみたいで、迎えに来て欲しいって電話があったの」

「解った。……タケ、お前も来るか?」

「うーんと、マーくんの車4人乗りだよね。そしたら、僕まで居るとぎゅう詰めだから、留守番してる」


車の鍵を手に素早く立ち上がったマナトさんの問いへのタケ兄の答えは、結論で言えば正解だった。法定速度ギリギリで裏道も使いまくって車を飛ばしたマナトさんと、同乗させてもらった私が指示された公園に着くと、気付いてベンチから立ち上がり近付いて来たシグは、足取りは覚束ず、手で押さえたシャツのボタンは飛んでいて、お礼を言いながら車に乗り込んですぐ、「すみません。着くまで、横になっていても構いませんか?」


と言いながら、座席に崩れ落ちた。


「ああ、構わねぇよ。んじゃ、嘉月は前来て、時雨に1人で後ろ使わせてやれ」

「あ、はい。そうですね」


行きは、ナビの為に助手席に座っていたけれど、帰りはシグと並んで後部座席に座ろうとした私に、マナトさんはそう指示を出した。


「……。タケの奴、時雨がこんなんなってんの見越して来なかったのか?」

「タケ兄だから、そこまで考えてはいないと思いますけど、怪我とか具合が悪くて横になりたい可能性くらいは、気付いてたのかも?」


何があったのか、いくつか予想がつかないでもないが、今は訊ける状態じゃないよなぁ、多分。小言でそう呟いたマナトさんに私も同感で、その代わりに、ひそひそとそんなことを囁きあっていたけれど、シグは聞こえているのかいないのか、後部座席で微睡み掛けていた。


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