愛は盲目
泰地は青空を眺めていた。雲一つない、正に快晴と言うべき天気だ。
暖かい陽射しに、代菅泰地は眠気を覚えた。つまらない入学式の後とあらば、尚更である。
校舎から流れ出る人波を、泰地はぼんやりと眺めていた。疲れた首をコキコキと鳴らし、あくびを一つ、噛み殺す。 流れの中には、もうナンパをしている野郎がいる。入学早々お盛んだこと。
血気盛んな野郎を見ていると、疲労が倍増する。何をしに大学へ来たんだと叫びたくなる。だが、泰地自身何かをしたくてこのU大学に入学したわけじゃない。だから、文句を言える立場でないことは、泰地本人も分かっている。ただ、ここしか入ることが出来なかっただけなんだから。
勉強なんてクソ喰らえ。それが泰地の信念だった。目標もない、そしてやる気もない泰地は、社会からあぶれるのが嫌で、取り敢えず大学へ入っただけだった。
何とか合格し、入学こそ出来たのだから、大学にいる間に何か見つけたい。そんな曖昧な考えしか抱いていなかった。
人の波に流されるまま歩いていた泰地は、再び空を仰いだ。その所為で歩みが止まり、泰地は後から後から流れ出る波に押された。そして、泰地は派手に倒れてしまった。ビタン! と大きな音が鳴った。
「いたたたたた……」
「大丈夫?」
顔面を強打した泰地に、ハンカチが差し伸べられる。
「鼻血、出てるよ」
その言葉に、泰地は指で鼻を擦った。指には赤い血が付いていた。
「あぁ、大丈夫。ちょっとつまづいただけだから…」
そう言いつつも、鼻血というアクシデントに恥ずかしくなり、慌てて出されたハンカチで鼻を拭う。するとハンカチが真っ赤に染まる。
「あっ」
そう声を上げ、相手の顔を見上げた。泰地は、一瞬動きを止めた。か、可愛い…
「大丈夫ですか? まだ血、でてますよ」
彼女の顔を見て呆けていた泰地は、その言葉で目を覚ました。
「ご、ごめん。このハンカチ、こんなに汚しちゃって」
鼻を押さえるハンカチが、見る見る朱に染まる。
「いいんですよ。ハンカチ一枚ぐらい」
向き合って話していると、泰地の頬はだんだん紅潮してきた。さっきは彼女のことを可愛いと思ったが、あれは間違いだ。ものすごく可愛い。見れば見るほど可愛いと思う。彼女が何か言っているが、耳には入っていない。ただ、可愛いという感情しか湧いてこない。
「ねぇ、大丈夫?」
その言葉に反応して、身体がびくんと震えた。茫然自失だった泰地は、今度は恥ずかしくなり、頬を赤く染めた。
「え、あ、あぁ、ダイジョブダイジョブ。あ、こ、このハンカチ後で、返すから」
そうまくし立てて、泰地は走り去った。
「あ! まだ鼻血止まってないのに…」
帰宅してからというもの、泰地はあの女の子のことしか考えられなくなっていた。何をするでもなく、ただ悶々とし続ける。ストレスが溜まっていた泰地は一つ大声を上げた。
「あぁぁぁぁあああああぁぁあぁぁぁああ!!」
そう叫ぶや否や、泰地は居ても立っても居られなくなり、家を飛び出した。
足は自然と大学へ向かう。頭ではどんなことを言おうか考えていた。キザでクサい台詞、遠まわしに、でも優しい言葉、有無を言わせぬ強引な告白。色々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
考えがまだまとまらない内に、大学へと着いてしまった。言葉を選ぶことも大事だが、先ず何よりも彼女を探すことが先だ。俺はとにかく歩き回った。
何も考えずに歩き回っていたが、10分もすると彼女を見つけることが出来た。彼女は、芝生の上で木を背に、本を読んでいた。歩み寄ろうと前へと進む。だが、泰地の右足は一歩前に出ただけで、停まってしまった。始めに話しかける言葉は何にしよう。考えていなかった。
浅はかだった。思えば、俺は彼女の名前さえ知らない。そもそも面と向かって話し合ったこともない。ただあの瞬間、目が合っただけだ。考えれば考えるほど、泰地はネガティブになっていく。さっきまでの勢いが、瞬く間にしぼんでいく。彼は完全に勇気を無くし、すぐ側の噴水の縁に腰を下ろした。彼女は、春の心地良い風に吹かれながら、穏やかな表情で本を読んでいる。
彼女を見つめていると、その表情の柔らかさに和んでしまう。ページを繰っては微笑み、繰っては顔を曇らせ、また繰っては瞳を潤ませる。遠くから眺めているだけなのに、彼女の感情の豊かさに驚かされる。そして、やはりその表情を見ているだけでは辛くなる。もっと側で見たくなる。
どうして俺は、こんなに純な気持ちになっているんだろう。こんなに初な感情はのは、初恋の頃にも抱いてはいなかった。
全くの他人に、突然告白されても困るだけだろう。彼女の表情を見ているだけで悶々としていた泰地は、そう考えて、今日は告白を諦めようと思った。
帰ろうと泰地が腰を上げたそのとき、彼女も本を閉じ、立ち上がった。そして、本を鞄にしまうと、彼女は泰地の方へと歩み寄ってきた。泰地は動揺した。心の準備が出来ていなかった。そんな彼の挙動不審さを気にもせず、彼女は表情をそのままに、泰地との距離を縮める。そして、彼女は泰地の横を素通りした。
通り過ぎる瞬間、泰地は彼女の顔を見た。透き通るような白さ。それを感じた時には、もう彼女の腕を掴んでいた。
振り返る彼女。泰地は自分のしたことが分からず、何も考えられなくなる。そして、泰地ははっきりと言った。
「あなたが好きです。」
目の前の女性が、目を見開く。泰地は自分が発した言葉に驚いた。そして、彼女は泰地を真っ直ぐ見つめた。
「うん」
その言葉には泰地は驚かなかった。そして2人は見つめ合った。泰地は彼女の腕を掴んだまま、唖然としている。彼女は、ただ微笑んでいた。
泰地は、真緒の公園へと歩いていた。今日も泰地は、真緒に呼び出されていた。今日は、料理の味見をしてほしいらしい。いつも色々な用件で呼び出され、泰地は忙しく真緒の家を訪ねる。おかげで、まだ付き合い始めて2週間だと言うのに、彼女の家までの道を覚えてしまった。俺は記憶するのが何より苦手なのに、と思いながら、泰地の表情はほころんでいた。
泰地は、岩崎真緒と付き合っていた。真緒とはもちろん、大学の入学式の翌日、泰地が告白した女性である。
告白の後、2人は10分ほど見つめ合っていた。しかし、泰地には全くの一瞬に思えた。そしてその後、2人は一言も話さずに、帰路へとついた。互いの家は、思いの外近かった。泰地の借家から、公園を抜け、4分も歩けば、真緒の家に着く。2人は待ち合わせの場として、よく公園を利用していた。
公園に着くと、もうそこに真緒は居た。
「おーい、真緒ぉー!」
泰地が声を上げると、俯いていた真緒の顔が上がった。
「もぉ、遅い。何分待ったと思ってるの?」
「ゴメンゴメン。ちょっとヤボ用でね」
眉を軽くしかめる真緒に、泰地は手を合わせて謝った。
「うん。もういいよ。泰地が来てくれただけで嬉しいから」
微笑む真緒の言葉に、泰地は感動し、真緒を軽く抱きしめた。真緒は全く抵抗せず、泰地に身を任せている。
そして、泰地は静かに身体を離した。そして、互いに見つめ合い、泰地からキスをした。
一瞬、唇が触れ、そして離れた。
そして、また顔を見つめる。泰地は、少し笑みを零し、真緒の手を取り歩き出した。
2人は、いつものんびりとしていた。世界が回る速さより、ずっと遅かった。今も、一人で歩けば10分もかからない距離だ。でも2人は歩を緩めて談笑し、20分かけて真緒の家へと着いた。
「ただいまぁ」
「お邪魔します」
2人が言うと、リビングから真緒の母親が出てくる。
「いらっしゃい、泰地くん。」
「あ、おばさん。お邪魔します」
泰地は礼儀正しく会釈する。確か真緒の母親は、舞子さんだったっけ。泰地は、頭の隅で確認した。
「パパ。泰地くんがいらっしゃったわよ!」
おばさんが振り向き叫ぶと、リビングから低い声が響いた。
「え? おじさん、もう帰ってるんですか?」
玄関に掛けてある時計を見る。まだ夕方の7時だ。
「あら? 帰ってちゃいけなかったかしらぁ?」
おばさんは口元を緩め、泰地に微笑む。真緒はおばさんに肘で小突かれ、「もう、ママぁ」と文句を言っている。
「あ、じゃあ、挨拶させてもらってもいいですか?」
「もちろん。じゃ、上がってね」
おばさんに促され、リビングへと上がる。
「今晩は、おじさん」
そこには、しかめっ面のおじさんがいた。おじさんの名は、龍男さんだ。名は体を表すとはよく言ったものだ。いつもこの顔を見る度に、少し怯えた感情が蘇る。
「ん。ああ」
おじさんは泰地を見、そう言うとTVに視線を戻した。
「ゴメンなさいね、無愛想で」
おばさんが、泰地に向かってそう言った。
「いえ、そんなことないです、よ…」
言い終わるより先に、真緒に腕を引っ張られ、一瞬言葉が詰まる。
「もう、真緒ったら。泰地くん、こっちはいいから真緒と遊んであげてちょうだい」
「あ、はい」
腕を引かれたまま、泰地はおばさんの言葉に頷く。
真緒に腕を引かれ、2階へと上がる。泰地は、真緒のなすがまま、2階の真緒の部屋へと連れてこられた。
「もう、ママと話してないで私に構ってよぉ!」
「うん、分かったから。怒らないで。ほら」
そう言って、泰地から手を握り締める。真緒は、これをしてもらうと落ち着く、とよく言っている。 実際、彼女は怒りを鎮め、もうすっかり落ち着いた様子だ。
「ねぇ。さっき電話で、料理食べに来てって言ってたけど、創らないの?」
「うん。まだね。もうちょっとしたら作るよ」
泰地はさっきリビングに入ったときの部屋の様子を思い出した。
「でも、リビングにはもう料理あったじゃん」
真緒は少し不安な顔をした。
「うん。でもあれはママが作った料理だから… やっぱり私が作ったのじゃ嫌なの?」
真緒の表情に、泰地はギクッとした。またやってしまった。泰地はそう思った。彼は、雰囲気を読めず、彼女の気持ちを読み切れず、それが理由で今までの彼女とは終わってしまったのだ。幾度も己の性格を呪ったが、呪ったところで直せはしない。だから、今もボロをだしてしまったのだ。
「ごめん。そういう意味じゃないんだ。ただ、早く食べたいなぁって思ってさ…」
その言葉に、真緒は表情を取り戻し、「良かったぁ」と小さく言った。泰地は、嘘をついたことに、少なかれ罪悪感を抱いていた。早く食べたい。それは嘘だった。何せ、真緒は可愛いが、家事が大の苦手なのだ。そして、彼女の料理は泰地の口には合わない。不味いのではない。俺の口には合わないだけだ。泰地はそう考えていた。それが彼なりの優しさだった。
「じゃあ、料理は後の楽しみに取っとくとして、何する?」
泰地は何気なくそう言ったが、また真緒がふくれた。
「何もしなくていいよぅ。わたしは、泰地と一緒に居るだけで幸せなんだから」
泰地は真緒の好意に嬉しく思いながらも、女心は分からないとも思った。
2人はしばらく、談笑していた。笑い声は、リビングに居る真緒の両親にまで届いていた。両親は微笑み合う。しかし、舞子は俯き、少し悲しそうだった。
泰地と真緒が1階に降りてきたときには、時計は9時半を過ぎていた。真緒はおばさんを呼び、台所へと入った。泰地も手伝うと言ったのだが、2人が大丈夫だと言うので諦めた。彼が手伝うと言ったのは、2人の手助けをする為でもあったが、最も大きな理由は、自分が味付けなどをして、少しでも食べられるモノを、と思ったからである。それが彼の小賢しさだった。因みに、おばさんは見守るだけで、決して真緒の手助けはしない。以前に、同じ状況で作られた料理を口にしたことがある。惨事だった。
泰地は渋々とリビングに戻った。ソファーに座ると、空間は泰地と真緒の父親のモノになった。泰地は真向かいに座る真緒の父親を、少々苦手としていた。顔が怖いというのもあるが、それより何より、接点が少ないことが難点だった。泰地がフった話題を、ことごとく撃ち落す。それが、龍男の印象である。真緒の父親である以上、仲良くしておくべきだろう。しかし、泰地は今まで、彼と接することを避けてきたので、今ひとつ掴むことが出来ない。
沈黙に耐え、悩んだ挙句、たった一つ互いを繋ぐことが出来るポイントを見つけた。それは真緒の話題である。泰地は、無い勇気を振り絞った。
「あの、おじさん」
「ん。なんだ」
「えっと、真緒…さんって可愛いですよね。小さい頃はどんな子だったんですか?」
普段は余りしない、形式ばった聞き方をする。
「ん。そうだな。昔っから元気な娘だったぞ。」
よし! 食いついた!
「是非! 聞かせてもらえませんか?」
つい身体が前へとつんのめる。
「ん。そうか?」
泰地は小さくガッツポーズをとった。それに気付かずに、龍男は話し始める。
「真緒はな、生まれたときから可愛かった。目がまん丸くて、大きくてな。今のような美人になると私は思っていたよ。まぁ、私に似なかったのが良かったのかな」
泰地はハッとし、慌てて笑った。
「そ、そんなことないですよ。おじさんに似てるじゃないですか」
「ん。そうか?」
「えぇ。笑ったときに出来るえくぼだとか、え〜っと、そうだ首から肩にかけてのラインだとか」
泰地は適当に言ってのけた。そして、後悔した。泰地は龍男の笑顔など見たことはない。そもそも、龍男のポーカーフェイス加減に感心するぐらいなのだから。ましてや、後者に至っては何を言っているのか意味が分からない。しかし、龍男は、泰地の言葉をしっかり褒め言葉ととったようだ。
「ん。そうか。私にも似ているかね」
泰地は、初めて龍男の表情がほころぶ瞬間を見た。笑い方が、本当に真緒に似ていると感じた。もちろん、その頬に浮かぶえくぼも見逃さなかった。
「はい、とても似てますよ。」
今度は本音だった。
「ん。ありがとう。昔、真緒が友達を連れて来たときに、私の顔を見てその友達が泣いてしまってね。まぁ、昔から顔にコンプレックスを抱いてはいたがね。それ以来、真緒が不憫に思えて仕方がなかった。ん。でも、真緒が好きになった君がそういうのなら、安心出来るな」
龍男は、泰地の目を見て笑った。その表情を見て、泰地は色々な感情を覚えた。喜びだけではなく、哀しみや憐れみなどが感じてとれた。泰地は龍男の奥にある感情を読み取ろうとした。しかしその試みは、真緒達がリビングに入ってきたことによって絶たれた。
料理が並べられた今、3人の視線は泰地へと注がれていた。泰地は汗が滴るのを感じた。彼は以前の記憶を振り払い、腹をくくった。
スプーンを手に取る。ごくりと唾を飲み込む。そして、目の前のオムライスにスプーンを差し込む。スプーンと皿のぶつかる、カチンという音が鳴った。スプーンを滑り込ませ、オムライスをすくう。目をつむり、一気に口に頬張る。噛む。噛む。かむ。カム…
飲み込みたいが飲み込めない、そんなジレンマに耐えつつ、口一杯にオムライスを含んだのが間違いだった。まず始めに、舞子をにらむ。しかし、舞子は弱った泰地に微笑を返すだけだ。恐らく、いや、間違いなく彼女は何が間違いか気付いていただろう。何せ、料理の知識に乏しい俺でも分かるぐらいだ。いや、食えば誰でも分かる。まず、口に含んだ米全てに、もれなく芯が残っている。外側が柔らかく、噛めば芯の歯ごたえ。米が歯にくっつく感触は、味わい深いものだ。まぁ、食感は二の次だ。要は、味なのだ。果たして、味は…
確かにケチャップライスの味がする。簡単に言えば、ケチャップの味だ。そして、卵。やはりちょっと硬いが、そんな細々したことはどうでもいい。2種類の味のハーモニーの中に、変なモノが混ざっている、と思う。変なモノの変な感触が、やたらと気持ち悪さを強調している。初めは、それが何か分からなかった。一口目を無理矢理胃に流し込む。泰地は、真緒に涙混じりの笑顔を送る。二口目を口に入れる。咀嚼する。アゴが疲れてきた。少しアゴを休めようとしたときに、やっと変なモノの正体が分かった。
僅かに。本当に僅かだが、鉄の味がする。鉄の。
泰地はケチャップライスの赤に目を移した後、真緒を見、舞子を見た。二人は笑顔だ。真緒は、少し不安げな。多分、味の評価を気にして、泰地の機嫌を伺ってのものだろう。舞子からのは、「あ〜あ、食べちゃった」的な感じの笑顔だ。ずっと、真緒の料理の腕を知った上での、俺への嫌がらせだと思っていた。でも、おかしい。多分、この味は、血の味だ。
一口だけ食べて、俺はスプーンを置いた。これ以上食べたいとは思わない。恐怖心が芽生える。顔を上げると、真緒が眉をしかめてこっちを向いている。
「美味しく、なかった?」
ためらいがちに聞いてくる真緒。
「いや、不味くはないけど… 何か調味料、間違ってないかな?」
泰地は、無難な方へと逃げた。
「え? ううん。間違ってないはずよ。ね? ママ」
「えぇ、何も間違っていなかったわよ」
嫌な予感がする。背筋が寒くなる。
「ちょっと、食べてみてもらえますか?」
そう言うと、急に舞子の表情が変化する。
「いいえ、真緒が折角貴方の為に作ったんだから。私が食べちゃ意味無いじゃない」
これは危ない。本能がそう言う。
「ん〜。じゃ、味見ってした?」
真緒に尋ねると、真緒は首を横に振る。急に龍男が、無表情のまま立ち上がり、リビングから出て行った。
「やっぱり、何か違う気がするんですよね」
泰地は飽くまでとぼけ、食べたくないという意思表示をした。
「美味しくなかったんだ… ゴメンね、泰地…」
そう言うと真緒は涙ぐんだ。とっさに泰地は慰めの言葉を探した。
「大丈夫だって。ちょっと生臭い感じがしただけだから。次は大丈夫だって」
つい口を滑らせてしまった。生臭い。勘ぐられてしまったのでは、と思った。しかし、舞子は微笑を浮かべるだけで、表情を変えない。
やっぱり、勘違いかな。泰地はそう思い始めた。鉄の味に、ケチャップの赤。その所為で血かとも思ったが、単に、間違えただけかもしれない。そうだ。フライパンだって鉄じゃないか。よくは分からないが、何となく溶け込むことだってありそうじゃないか。ほら、よく考えてみろよ。万が一、血だったとしよう。それがどうして、真緒やおばさんの血になるんだ。鶏肉の血かもしれないじゃないか。もっとよく考えろよ。お前の浅はかな推測の所為で、真緒は泣いたんだぞ。しかも、舞子さんを疑ったりして。恥ずかしくないのか?
勝手に自責し始め、自己完結した泰地は、時間も時間なので帰宅することにした。もう11時をとうに過ぎていた。真緒が送ってくれると言うが、この時間、女性を一人で歩かせるわけには行かない。
「今日はありがとうございました、おばさん」
「いいえ、いいのよ。またいつでも遊びに来てね」
「はい。分かりました」
舞子に挨拶をした泰地は、真緒に向き直った。
「… ゴメンね、泰地。今日はがっかりさせちゃって」
まだ気にしているのか。おばさんの前だけど、ここはいっちょ…
泰地は、真緒の額に自分の額をくっ付けた。
「そんな落胆してる真緒の顔なんてみたくないぞ。俺は笑ってるお前の表情が好きなんだから」
そう泰地が言うと、真緒は目を泰地に向け、「うん!」と大きく頷いた。
「ん〜。まだ甘いな。笑顔が足りない。よし、こんなときは…」
泰地は額を離し、軽くキスをした。
真緒はびっくりした後、にんまりと笑った。
「よし! 真緒に笑顔が戻った。これで今日の俺の任務は終わり。帰るとするよ」
「うん… じゃぁね、泰地」
まだ寂しそうに、でも空元気を使って真緒は笑った。
「あぁ、じゃぁまた明日」
泰地は真緒に背を向け、歩き出した。少し歩くと、振り向き手を振った。それに反応して、真緒を手を振った。
真緒と舞子は互いを見て、家へと戻った。
数日後。
泰地は、公園のベンチに座っていた。泰地は、悩んでいた。彼は、真緒と付き合っていくことに、少しの疑問を抱いていた。最近、倦怠気味なのだ。何が不満というわけではないが、ただ何かが足りないのだ。もちろん、真緒のことは今でも好きだし、可愛いとも思う。しかし、違うのだ。決定的に何かが足りない。泰地の頭の中は、同じ事を何度も考えていた。公園に来てから、もう2時間は経っている。
今日も、真緒の家へ行った。彼女と居ると、楽しいし和む。でも、真緒と一緒に居ても、胸が虚ろになる。決定的だった。今まで、感じてはいたけれど、隠してきた感情。しかし、隠せないほどに、大きくなってきていた。泰地は頭を抱えた。別れようかとも考えた。でも、嫌いではないのだ。愛しているのに、離れることなど出来ない。泰地は、悶々とした夜を過ごしていた。
泰地が考えることを諦め、放心状態になってからどれくらいの時間が過ぎただろうか。公園に入ってくる、1つの人影があった。泰地は人影に気付き、ふと顔を上げた。時計が視界に入る。時計は午前2時をもう過ぎていることを、泰地に知らせた。こんな時間に… と自分を棚に上げて、泰地は思った。人影が街灯の下を通ったとき、泰地はその顔を見た。真緒だった。泰地は、少し気分を高揚させたが、少し気分をなえさせた。少し躊躇したが、ここで話しかけないのも後ろめたくて引っかかる。だから泰地は、真緒に声をかけようとした。しかし、彼女は泰地に気付かないまま、つかつかと歩いていく。泰地は真緒を追ったが、見失ってしまった。
きょろきょろと周りを見渡してみると、茂みの奥に真緒を見つけた。泰地は真緒に近付こうといたが、真緒の行動に驚愕した。
彼女はカッターナイフで、自分の小指を切った。驚きの余り、泰地は声も出せなかった。泰地は彼女がリストカットをしていると思った。でも、違った。真緒はその小指を、自分の唇に這わせた。彼女の唇が赤く染まる。しかし、まばたきをした次の瞬間には血の色は消えていた。元の彼女の唇だった。
そうか。そういうことか。泰地は笑った。
真緒は、ずっと泰地に呪いをかけていたのだ。彼が真緒のことを好きになるように。己の血で。でも、泰地はおかしいと思った。彼は、大学の入学式の日より前に、真緒に会ったことはなかった。それなのに、どうして俺は彼女を好きになったんだろう。そんな泰地を尻目に、真緒は帰路へとついた。真実を知った泰地は、本能で喜んでいた。泰地の胸は、狂喜で溢れていた。彼は自分の望んでいたモノを見つけたのだ。泰地は、真緒の血を欲していた。そして、真緒は泰地を繋ぎとめようと、自分の血を使う。つまり、泰地は真緒をと付き合ってさえいれば、永遠に彼女の血を得られるのだ。彼女を好きになった理由なんてどうでもいい。泰地は笑った。
翌日、泰地と真緒は大学まで一緒に行った。真緒は、いつもと同じ様に楽しそうに泰地に話しかけている。泰地は、微笑んでいる。友達と擦れ違うと、真緒は軽く挨拶を交わした。泰地は、微笑んでいる。そして、大学に着き、校舎内に入る。教室が違うので、2人はここで別れなくてはならない。
「……」
一瞬の沈黙。真緒は俯いている。
泰地は、微笑んでいる。
真緒が泰地の目を見つめる。真緒が目をつむると、その唇に泰地の唇が触れた。互いの唇が離れ、再び見つめ合う。始業のチャイムが鳴る。
「じゃ、また授業の後でね!」
急ぎ足で教室へと駆けて行く真緒。その後姿を見て、泰地は微笑んでいた。
そして、舌なめずりをした。
泰地は、心の底から笑った。
Fin.