・病院に行く理由・ 生きるため?それとも死ぬため?
読んでる途中にイライラする時やムカムカする時、本当かどうか気になるの時はグーグル先生にお尋ねください。
病院
そう聞くとどのような物が連想されるでしょうか?
消毒薬の臭い?それともそこで働く医者や看護師たちの姿でしょうか。
因み自分は病院なんてものは予防接種以外でいかないので注射ぐらいしか連想できません。
そんな私も四~五十年も生きればこの施設にかかりっきりにならなければ生きれない様な体になる事は血筋と家系的に明白です。下手すれば心臓か脳の血管が詰まって昇天している事でしょう。
まあそうでなくてもそう長生きする気なんてさらさらなにのですがね!(キリッ)
ですが日本人の最近の傾向としては人生の最期を迎える場所は畳の上ではなく病院のベットの上という事になってきています。逆に言うとそこ以外で死亡すると警察がすっ飛んで来て犯罪じゃないかと徹底的に捜査される事になるからで、家でで死亡して日には家じゅうを調べて証拠になるんじゃないかと尻の毛までむしり取られる事になりかねません。全く世知辛い世の中ですが、昨今のニュースを見てたら仕方ないのかと思わなくもありません。(老人の虐待や介護疲れからの殺人など。まあ介護施設でも虐待があったりするのでどっこいどっこな気もしないではないですが、あんなものはごく少数なので安心して預けておきましょう)
では病院ならどうかというと危篤もしくはそれに近い状態になると連れてこられるか運び込まれ亡くなった際には担当医が、「〇〇 ◇◆さん何時何分何秒死亡」と死亡報告してきちんと書いてくれます。
因みにこの時新人看護師などが亡くなっている事にパニックになって誤って警察に連絡したりするとさっき書いた事が病院でなされます。その為絶対に、ぜ っ た いにやってはいけない事です。
(大事なことなので二回書きました。)
だがこうならない場合があります。すなわち延命治療です。
何らかの病気もしくは事故、年齢から危篤状態になった人、もしくは各種判断材料から脳死と判断された人がこれ以上回復の見込みがないとしてもする治療の事であり内訳が大きいので今回は先に書いた三つについて取り上げます。(ガンやうつ病でも定義としては同じ延命治療なので)
見た目的に分かりやすいのは人工心肺とカテーテル等が付けられ目に見えにくい形では胃ろうが取り付けられます。
「胃ろう」というのは聞き慣れないかもしれませんが、簡単に言ってしまえば胃に直接ドロドロの液体状の食べ物を流し込む物で口が動かせないでも栄養が取れるものです。
これをすることで多くの人は何事も無ければ3年生きるが、人間とはかくも残酷な生き物で2年目にはその人の面倒を見るのに嫌気がさすらしい。
聞いた話では一年目はそれはもう!かいがいしく会いに来て話しかけてお世話をして帰っていくそうなのだが二年目になると大分億劫になり三年目には来なくなってしまい亡くなるんだそうだ。これは老人の寝たきりで意識も戻らない患者さんの場合であり若くて体力のある方だともっと長い場合もある。
ならこの延命治療に耐えられなくなったらどうすればいいか?というとどうしようもないね!というのが今の法律上の問題である。
例をあげるとある患者さんの奥さんがもう耐えられないから人工呼吸器をはずしてくれと担当医に頼み担当医は了解を得て人工呼吸器を外したのに後から私はそんな事頼んでいないと掌をかえすどころか真逆の事を言い出し訴えられるという事件がありました。この時からやっとこういった所にも人々の目がいくようになりましたがこの裁判に付いて言えばいまだに決着がついていません。
このときその患者さんの奥さんがどのような理由でそんな事をい出したかはなんとなく察しがつきます。親族、特に夫の方の家族や周囲の人にその事について言及されたり責められたりしたのでしょう。だから許されるかと言えばそうではないでしょうけど、医者の方にもそんな事を言われてしまう状況を作ってしまったのも事実なのです。
そこで口約束ではなくきちんとした「了承しました」という契約書にサインして置いて貰えばそんな事は起こらなかったのですから。
その事件からはどこの病院でも延命治療をするかどうかきちんと聞き、しつこいまでに聞き、きちんと契約書にサインをさせ、その後延命治療を取りやめるなんて事は決してしない。そういう体制が確立されました。これが良い事か悪い事かは自分からは何とも言えませんが、少なくとも病院からは訴えられるリスクを減らせたのはいい点なのでしょう。
医療ミスや何かで賠償金を要求する様な事例は昨今とても増えています。
それというのも言い方が悪いですそこそこ大きな病院では弁護士が溜まり場のごとくたむろしている場合があります。それというのもそう言う現場で何か困ったような顔をしている患者やその関係者にどうしました?声をかけ内容を聞き、それなら訴訟が起こせます、勝てますよと、こう進めてくる一種のビジネスが成り立つんです。人の不幸で飯を食おうってんですから太い連中です。
医療関係者側からすればそれこそハイエナ呼ばわりされていますが当分減る予定はなさそうです。
おっと、話がそれましたね。さきの延命治療、これをなされるの何もあそこに書いた人たちだけではありません。
生まれたばかりの時に医療ミスではなく本当に些細なことで脳死になってしまう子どももいます。そういった子たちは生きています。生きているんです。
髪や爪だって伸び、キチンと世話をすれば大きく成長だってします。
でも話さないんです。目を見て笑ってくれないんです。動いてだってくれません。
けど生きています。汗だってかくし、鼻水だって出る。栄養だって必要だし水だって必要だ。
けど目を覚ます事は無く。親に反応する事は無い。
その子どもであろう「人」に親であるはずの「人」は愛情を持って接する事が出来るでしょうか?
結論としては先ほどとそう変わりません。三年持てばいい方だそう言われています。
だが、問題はここでは終わりません。法を守る限り医療に携わる人は活かし続けなければならないのです。その親が見にも来ない子どもを、家族のだれにもみとらずに死にゆく老人を医療に係わる物はみとどけ続けなければいけないです。
そして更に問題は起こります。
病院のベッド数の減少そして医療関係者の仕事量の増大。前者は治るかもしれない人、絶対になせるだけの力を持った人を入院する為のベッドが無いからと断らなければならない事に繋がり、後者は過労に繋がります。
そしてその人たちの為に医療費を振り込みたくないというエゴから医療費の滞納だって起こります。
バカバカしいかもしれませんが実際に起こりうる、いや起こっている話なのです。
とここまで書きましたがその問題をどうにかできるかといいますとまず、NOでしょう。
人間は極力自分の周りから死という物を遠ざけようとする生き物です。そしてこの遠ざけるという行為は自身の安全だけでなく心理的な距離感をも遠ざけ自身の心的安定を求める行為です。
安っぽい言い方をすれば目に見える形で目の前に突きつけられなければいいだけ、誰だって目の前に血濡れのナイフを引っ提げた男を見たくないと何の違いもないのです。
個人的にはそう言ったあたりの価値観がそれぞれ違うので面倒なだけだと思うのですがね。自身としては「死ぬのなら即死がいいな苦しくないし」何て言う家系の出身者なので理解に苦しむのです。親に至っては延命だけはするな、死んだら海に散骨しとけと口を揃えて言います。
『幸福は個人の物で誰かに決められる物じゃないのに、いつの間にか幸福は全てモノが誰かに理解される物だと定義されていた』そんな印象を受けます。それこそ選ばれた人だけが幸福になれる新興宗教の様にだ。
誰もが幸福である事は誰も幸福でないことの裏返し、人は誰しも比較しあいながらでないと自身の幸福を認識できないわからずやばかりで、どうにもうまくいかないのが過去から現在という事だ。
欲望は希望の裏返しで、理想は渇望の暗喩だ。
そしてここに書いた様々な問題も表面に浮き出てこないように押し込まれた目に見えない現実。
どこまで本当で何処までが真実かは、あなたがその目と耳で確かめてもらうしかないのだけどね。
じゃなきゃそうそう見ようとはしないんだから。
なお全てが全て真実かは申しあげかねます。