第八話 雲の道
第八夜 雲の道
ここのところ数日間、空は快晴つづきです。空には私が勝手に「雲の道」と名づけている一筋の白い雲しか見えません。この雲は此処のところこの歪曲都市の上に見えるようになった不思議な雲で、空の高い所に消えもせず端も見えないほどに連なっています。まあ、ここは非常識がまかり通る場所、歪曲都市です。移動する雲があったって気にしません。むしろ、あれが生き物といわれても納得できるほどです。
そんな雲が夕焼けで茜色の筋のように染まるころ、私は酒場の戸に開店のカードを掛けます。今日もお仕事の時間です。夕食時はお客さんで混雑するので気合を入れて接客しなければなりません。私が注文を取ったり料理を出したりして、一番忙しい第一陣のお客を捌き終えた頃、ドアベルが鳴り私は「いらっしゃいませ」と両手に皿を乗せたまま挨拶します。
「今日も元気だね。稀人のお嬢さん」
そう言って現れたのは私が「ビッグバードさん」と密かに呼んでいる浮羽という種族のヒトでした。このビッグバ……浮羽さんはこの店の常連さんで3日と見ない日はありません。首の長い大きな鳥の様な形ですが、羽の先端に指が付いていて手の代わりにもなります。地味な薄い灰色の羽で顔も覆われていて、いまいち年が分からないのですが、マスターや本人の言動からすると結構お年を取っている方のようです。私は浮羽さんお気に入りの窓辺の席に案内すると、いつもの、という注文をマスターに伝えにいきます。マスターはすでにボトルを棚から出していました。穀物から作ったお酒を蒸留して、樽に詰め込んで造った度数の高い透明なお酒、それを氷を入れたグラスに注ぎます。私はマスターからグラスを受け取ると、浮羽さんの席にお持ちします。浮羽さんは「ありがとう」と翼に付いた手でグラスを受け取ると外を見ながら呑み始めました。
少し遅くなって人が少なくなった頃、お酒のお代わりを持っていくと浮羽さんに話かけられました。
「稀人のお嬢さんは綺麗な黒髪だね。それだけ綺麗な色をもっていたら浮羽では別嬪さんだよ」
「色……ですか?」
「色は重さだからね」
「では浮羽では生まれつき濃い色を持ったヒトがもてるのですか?」
「いやいや、子供は空から貰ったものだから生まれたてはまだ白い。親が一生懸命育てて子供は色を身に着ける。そっからはその子が自分でどうにかする番だ。みんな一生懸命になって色を探して身に着ける。」
「たまに綺麗な色の浮羽さんもお見かけしますが、若い方なのですか?」
「若い頃は特に頑張って色を探すんだよ。そうしないと番が見つからないからね」
遠くを見るような目つきで暗くなった窓の外を見やる浮羽さん。昔を思い出しているのかもしれません。
「色を身に着けるってどうするのですか」
「おかしな事を聞くお嬢さんだね。……ああ、お嬢さんは稀人だったか。年を取ると忘れっぽくていけないよ。まあ、稀人はこの都市に慣れることが仕事だからね」
「ええ、未だに驚くことは多々ありますが頑張っています。それで……」
「色を身につけるにはね。色を食べるのだよ。赤い林檎や玉虫色の甲虫、青い魚。そういうものをいっぱい食べて色を身体に身につける。これにも色々個性があるよ。赤くなろうと林檎や赤魚、唐辛子といった赤い色しか食べない者もいたりしてね。あとは毎年焦って絵の具なんかを食べて腹を下す子供がいるものだよ。」
子供を想ってくすくすと笑う様子はまさに好々爺といった風です。だから、他の浮羽さん達はゲテモノっぽい色をした料理を良く食べるのですね。赤い以外の原色は料理の色ではありません。そういえば、年を取ると色がなくなってしまうのでしょうか。
「若くなくなると色は探さないのですか?」
「一応食べるよ。子供を育てるのに必要だからね。番が二人で一生懸命に色を集めて空にお願いするのだ。そうすると雌が卵を抱く。それから二人で暖めて孵すんだ。そうさね。普通は番で2~3個の卵を孵すと親は色を摂れなくなる。そうしたら番は分かれて過ごすようになるんだ。」
「色は好きではなくなるのですか?」
「そうだね。もう色を食べようという気にならなくなるんだよ。不思議だね、若い頃はあんなに一生懸命色を集めたのに」
そう言って浮羽さんは透明な蒸留酒の入ったグラスを持ち上げて振ります。この浮羽さんは白に近い灰色です。昔は鮮やかな極彩色だったのでしょうか、それとも目も覚めるような青とか赤色だったのでしょうか? 私がそんな埒の無いことを考えていると浮羽さんが目を細めて言いました。
「稀人のお嬢さんとは短い付き合いだったが、ここのマスターには昔良くして貰った。だから今日は最後に挨拶に来たんだよ。」
「え……?」
「私の色は空にお返しし終わったからお迎えが来た。今日でここに来るのも最後なんだ。」
何を言っていいか分からず、何もいえない私の代わりにカウンターで聞いていたマスターが答えます。
「空にお迎えが来ていましたからもしやと思っていましたが……また寂しくなりますね」
浮羽さんは「ありがとう」とそう言って御代を置いて帰っていきました。それが私と浮羽さんが交わした最後の挨拶でした。私はいきなりのことにちょっとショックでその後はぼんやりとしたまま仕事をして寝たのだと思います。
翌朝、カーテンを開けると外は悲しいくらいの晴れ。そして、雲の道が随分低いところにありました。良く見るとどんどん雲の道が降りてきています。なんとなく分かりました。これが浮羽さんの言っていた「空にお迎えが来た」ということでしょう。雲の道は緩いカーブを描いて下側に蛇行して、雲は窓から届かんばかりの高さにまで降りてきていました。私は無言で間近でその雲を見ていましたが、やがて雲の道は上昇し始め、飛行機雲の様になり、ついには見えなくなってしまいました。
私は着替えてから、階下におりグラスを磨いていたマスターに開口一番に尋ねます。
「マスター、もしここで死んだら私もあそこに行けますか?」
「君は稀人だから、浮羽の様に空の墓場には行けないよ。あれが迎えに来るのは空に住む者だけだからね」
この回答はなんとなく分かっていました。それでも私がこんなことを言ったのは浮羽さんが旅立ったであろうその時に、雲の道の正体を見てしまったからなのです。あの雲の筋に見えたものは、色のない鳥、それらに混じって図鑑や映画で見たことのある飛行船や飛行機がゆっくりと空を行進していたのです。真っ白な大型の旅客機に、色のない主翼に丸や星を付けた穴だらけのプロペラ機、ヘリコプターもいました。あれと一緒に行くことができれば、私は私の生まれたあの世界に戻れるのではないか、あの雲の道の先には私の故郷があるのではないか。そんな忘れていたはずの旅愁が顔を出し一瞬だけ顔を出したのです。