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漆黒に飲まれながら、ジスティアスは心の隅に安堵感が広がる事にぼんやりと疑問を覚えた。友達が欲しくて、話し相手が欲しくて、似た立場の子に逢いたくて、そしてあの派手な髪色の迷子が身振り手振りで語った聖女の話がとても面白くて、聖女自身に興味が湧いて――でも他人の領土にのこのこ直接逢いに行ったらバトラーに叱られるから、領地争いに乗じて聖女ごと手に入れようとして。その為にこんな辺鄙な村まで来て、結局領土も手に入れられず聖女にも逢えず、そして命を失おうとしている。
こんな無駄死に、滅多に無い。
それなのに、何故こんなにもほっとしているんだろう?
(終われるからかなあ)
多分、全ての願いや望み、苦しみや悲しみが命に確執しているからだ。
逢いたい、逢えない、帰りたい、帰れない、寂しい、辛い、愛されたい、愛されない。
死んでしまえば、楽しい想いを失う代わりに、それらの苦痛を手放す事が出来る。どうせ富にあかせて幸福を売った貴族の生活になど、価値は無いのだ。今ここで手放した処で惜しくは無い。
だから安堵があるのだ。全ておしまいに出来るという、とてつもない安堵が。
(ああ、疲れた。ほんと疲れた。毎日絵を描いて歌を歌って新しい機械の事を考えたかった。領主なんて厭で厭で仕方なかった)
でも、今ここで死んじゃったら、バトラーがお祖父様に物凄く叱られるかな。ちょっとだけ悪い事したかな。
それでも終焉の安息の前では、小さな罪悪感など消えてしまう。闇はどんどん深くなってゆく。ジスティアスは緩く目を閉じて、沈み込むように落ちていった。
――その、浮遊する落下の狭間で。
ふと小さな灯火のように、心に思い点いた事があった。
(……あれ?)
薄く目を開けようとする。けれどもう無理だった。
(厭だって事は毎日バトラーに言ってたけど、私が本当にしたい事って、ちゃんと言った事あったっけ?)
ふっと灯火が消えた。
+
どうしてこんな事になった、とバトラーは絶望と酸欠で茫洋とする頭で考えた。
お嬢の我侭はいつもの事だ。あれが厭だ、これが厭だ、かと思えば良い事を思いついたと言って突飛な行動をする。大抵はそれが領主としての行いに相応しくないものだから、自然と否定し諫める事が多い。それが彼女の不満になっていることは知っている。
だが、彼女が本当に求めている望みというものが、どうしても解らない。
寺に帰るのは無理だ。既に彼女は領主ジスティアスなのだから。
勉強をしないのも無理だ。既に彼女は領主ジスティアスなのだから。
教育係として叱ると、彼女はいつも不貞腐れて口を噤む。涙目で喚く。今日ほど激しく激昂したのは初めてだ。恐らく、ずっと鬱積していたものが噴出したのだろう。身の丈に合わない事を強制される苦しみは、自分も良く理解している。
理解しているはずなのに。
――くそ、私の所為だ。何もかも、最初から!
少し前に、ペットが欲しいと珍しく建設的な望みを言った事がある。誕生日にペットが欲しいと。犬でも猫でも鳥でもなんでもいいと。
部下であるバトラーから主である領主に対して贈り物など有り得ない。誕生日のプレゼントという風習は、同じ立場の者同士、或いは位の高いものが気紛れに位の低いものに下賜するものだ。そう言うと、また不貞腐れて口を噤んだ。
けれど、その時気付いた。彼女はどうしようもなく寂しいのだと。バトラー以外の誰かを求めているのだと。一緒にいて、話をしてくれる誰かを。
私では無理だ、そう気付いたから、今度の誕生日にプレゼントをやる事にした。ひどく例外的な事柄だけれども。バトラーが上の者に贈るのだから、せめて貴重なものでなくては外に対して格好がつかない。何事も恥と外聞を気にする世界だから、気にしすぎて損をする事は無い。
だから、ジスティアスがこの村を領土にすると言って来たがった時、内心では千載一遇の機会だと思った。この村は、最も冥界に近いと冥魔術遣い仲間から聞いたことがあった。眉唾の聖女もどうやら嘘ではないらしい、冥獣を召喚するには一番良い場所なんじゃないか、と。冥獣。存在すらあやふやで、召喚さえ困難な貴重な獣。知性を持ち、人語を解する、この世界にはいない獣。
これ以上のペットは無いと思った。
だから今朝は先遣隊として日の昇る前から一人でこちらに来て、聖女を召喚の媒介にする為に教会へ来た。もし伝説が本当なら、冥界から人界へ直接魔術を干渉させるより、緩衝材としての聖女を間に置いたほうが遥かに楽になると考えたからだったが、正にその通りだった。幻惑の魔術符を懐に装備したら、彼女はバトラーを友人だと思い込んだ。少々奇天烈な会話を交わし、数時間その場から動かない約束を取り付け、彼女の真上にあたる教会の鐘楼に召喚の魔方陣を敷く。
そして召喚に成功したのがつい先程だった。
現れた冥獣は、自分の感覚からみたらどうとも言えないが、独特の感性を持つ彼女からしたら愛らしいものに見えるだろう獣だった。大人しく、賢く、ペットになれと言ったらはいと答える、従順な獣を籠に入れ、部屋に置いて来た。
後は適当なところでジスティアスを諫め、さっさと引き上げれば全部終わりだった。全て滞りなく終わるはずだった。
――それなのに。
(全部、私の所為だ)
この歪な臆病者も、彼女の激怒も、彼女の涙も、彼女の死も。
何もかも、自分の所為なのだ。
――嘘を吐き続ける、残酷で愚かな人間の所為。
ああ、と息が漏れた。錆びの味がする。錆びの匂いがする。ぼんやりと浮上する意識の中、痛む身体を叱咤して立ち上がる。そうだ、身体に鞭打て。痛めつけろ。それでも終わらせるな。終わらせてはならない。
それが、罪を背負う者としての、絶対の決意の証であり、義務だ。
+
「ジスティアス様!!」
叫んだのは、カイムか、執事か、それとも悲鳴の聞き違えか。ぐったりと気を失った少女の体を抱え込んだナーバスネリイは、頭を擡げて半身を起こした。そして頭から胸郭であっただろうはずの曲線をごぼごぼと泡立て、底なし沼のような口を広げる。
生あるものへの嫉妬に狂った冥界の幽霊は、少女の命を喰らうつもりだった。
「止めさせろ、彼女が殺される!」
魔術によって強化された椅子は鉄塊のように飛蝗の足を弾き飛ばしてゆく。絶え間ない執事の冥魔術も、その凍てつく刃で体を切り刻んでゆく。
だが、飛蝗の動きは止まらなかった。痛みなど端から消失した身体、とうに尽きた命への凄まじい執着心、それがナーバスネリイの全てだった。
執事が鼻腔から血を流した。もう限界が近い。余りに魔術を撃ちすぎた。さすがの執事でも、これ以上魔術を使えば死んでしまうだろう。
「キリアはまだか! 早くしろ、耽美野郎――!!」
前に回りこみ、ジスティアスを捕らえた腕を叩き折ろうとして、別の足に蹴飛ばされる。カイムは壁に背中を撃ちつけ、恨みがましく敵を睨みつけた。
飛蝗が沢山の赤い眼で笑った気がした。
大きな漆黒の体で彼女を取り込み、そしてごぼりと口を閉じ、喰った。
終わりだ――。
だがその寸前、まだ外界に残っていた彼女の小麦色の細い手を掴んだ者が居た。
「バトラー殿!」
シャツを真っ赤に染めたバトラーが、刃のような瞳で敵を凝視している。掴んだジスティアスの左手の甲に、右手の親指で素早く血色の魔方陣を描く。それは、カイムに渡した紙に描かれていたものと同じ図柄だった。
強度が倍増――。
しかも施術者が直接手で触れて力を注いでいる為、倍の倍ほどにはなるかもしれない。
喰われたジスティアスの延命には最適の処置だった。しかし、
「離せ、バトラー殿! 今日何回大きな魔術を遣った? 間違いなく、もうすぐあんたは死ぬぞ!」
咳き込むように口蓋と鼻腔から血を吐き出し、膝を地面につくバトラーは、虚ろに笑った。
「勿論、だが私が死ぬのは彼女を救った後だ。早いところこいつを殺してくれ」
「その通り。曲りなりにも執事の端くれを名乗るなら死んでも離すものではありません。多少、見直しました」
自分の鼻血を拭き取りながら、執事が微笑む。すぐに魔術を編み上げ、敵の体を潰す為に氷を撃つ。
手に入れた命を上手く喰えずに業を煮やした冥界の幽霊が、もがくように蠢き、バトラーの体を打ち据える。足の数が減ったとは言え、今の瀕死の彼には確実な追い討ちだった。
「大丈夫です、必ずひっぱり出してみせます!」
バトラーを庇う様に彼の体に抱きつき、ガリーナがジスティアスの手を取った。脱力しただ掴むだけの彼の代わりに、少女を懸命に引き摺り出そうとする。ばしん、ばしん、と弱った足が彼女の体を打った。その一つ一つを椅子で潰しながら、カイムは地面を見、愕然とした。
腹の下のほうから、ごぼごぼと泥が溢れ出し、新たな足を形成している。あれだけ潰したのに、また新たに生まれようとしているのだ。
畜生、どう足掻いても殺せないじゃないか!
唇を噛んで、自分の無力さ加減に再び絶望した、その時。
「なんだよ、こいつ……」
待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「キリア!」
耽美少年に連れてこられたキリアが、愕然とした面持ちで控え室内の惨状を凝視している。体は濡れ、寒さの為か、恐怖の為か、がくがくと四肢を震わせている。
キリア、とカイムが声を張り上げた。雨に掻き消されないように、明快に、確実に、キリアに伝わるように。
「キリア、こいつは『白』だ。そして君は『金』。ルールがある、君なら知ってるだろう? ある色はある色に弱い。こいつの白を打ち負かす可能性があるのは、この村では君の金だけなんだ!」
「ちょっと、待ってくれよ。なんだよ、色って、何の事だよ。俺にこいつを倒せってのかよ! 無茶だ、出来るはずない!」
「出来る! やるんだ!」
出来ねえよ、とキリアは泣きそうな顔で地団太を踏んだ。知己の変わり果てた傷だらけの姿に怯え、竦んでしまったのだ。たった十一歳に、突然化け物と戦えと言ってもとても無理な相談だろう。カイムは臍を噛んだ。
「なあ、俺の力、知ってるだろ。せいぜい石飛礫を投げる程度なんだ。兄ちゃんがそうやって椅子で殴るほうが絶対に強い。それに――」
血を吹くまで冥魔術を撃つ執事を見て、「無理だよ。絶対に出来ない。俺には倒せない。」
ごぼごぼ、とナーバスネリイが蠢いた。ガリーナが腕ごと引っ張られ、悲鳴を上げる。ぐったりとしたバトラーは指一本も動かさない。
足が完全に再生するまで、暇は殆ど無いだろう。
「キリア」
今にも泣き出しそうな顔のキリアに向けて、ガリーナが言う。顔は飛蝗の陰になって見えない。
「出来ます」
「むちゃくちゃ言うな、俺の冥魔術なんて何も知らない癖に! 無理なものは無理なんだよ!」
「知っています。私は、キリアがこの変態さんを倒す事が出来るのを、ちゃんと知っています」
キリアが顔を朱に染めた。水滴がとめどなく頭から顎へと落ちる。恐怖の代わりに、理不尽な怒りが沸いてきた。大人なんだから、子供に押し付けるんじゃねえよ――そう叫ぼうとした時だった。
「剣です」
「……え?」
「貴方は、冥魔術で作った剣を使って、ばっさり斬ります。絶対に出来ます。ちゃんと知ってるんです、私は」
「お前、いい加減に……!」
――剣?
冥魔術で作った、剣?
そんなもの聞いたことも無い。けれど、例えば全ての属性持ちが、剣を作るとして。最も相応しいのは――俺だ。金である俺。
胸元をまさぐる。ノミが出てきた。短刀に近い長さの、ジスティアスに放り投げられたノミ。
「キリア、これでそれを」
カイムが水で濡れた魔方陣の紙を寄越した。キリアはそれをおずおずとノミに巻き、片手で構える。
じっと見つめると、普段の倍の力が湧いてくるのが解った。ゾルデア式はオロー式を補助する。教科書の文面が脳裏に浮かんだ。
少年は手足の震えを止め、その場に居る大人達に視線を巡らせた。
椅子で化け物を殴打するカイムスターン、鼻血を出しながら氷を撃つ執事、ぐったりしたバトラー、それを庇うガリーナ、――化け物の中から伸びる小麦色の手。
「分かったよ」
今、自分がやらなければ、皆が死ぬ。分かったよ。やってやる、やってみせる。
すっと目を閉じ、ノミを握った右手を前に突き出す。脳裏に金色の煌きが瞬き、舞い降りる雪のように一面に広がる。その輝きを少しずつ集め、一本の細長い糸へと縒り集める。ガリーナの紡ぎ糸のように。
そしてこの世で一番、この場この時自分が発するに相応しい、冴えた呪文を探す。
目を開き、キリアは黒い歪な泥の化け物に向かって駆け出した。とん、と左足を軸に宙に飛び出すと、驚くほど高く舞い上がる。カイムが風で補助をしてくれたのだ。
そしてノミを下に向けて振り下ろしながら、咆哮した。
「大人は皆勝手だ――ッ!!」
眩い金色の光が弾け、金剛石に似た冥魔術の剣が、泥水の飛蝗を両断する。