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ノックをしても返事が無かったので、ガリーナは「失礼しまあす」と小さな声で断ってから、そろそろと控え室の中へと足を踏み入れた。中央に置かれたテーブルの上には沢山の菓子が積み上げられ、子供を魅惑する甘い芳香を放っている。
あまり広くない室内を見渡し、探しものが一番隅っこで備品のブランケットを頭から被って座り込んでいるのを見つけた時、ガリーナは小さく笑って飴色の菓子をひとつ手に取った。
そっと少女の隣に座る。相手は何も言わず、膝に顔を埋めたままだった。
やがてガリーナの事をちらりと一瞥し、鼻をすすって再び顔を伏せる。彼女に差し出そうとした菓子が宙ぶらりんとなり、ガリーナは仕方なくそれを自分の口に入れた。
ぽりぽりと軽く咀嚼する音だけが響き、それに耐えかねたジスティアスが顔を跳ね上げる。
「……もうッ! なんなのお前! お前の所為で何もかもパアになったんだからな!」
「そ、そうなんですか? ごめんなさい、そんな事とは露知らず……えっと、ところで、何がパアに」
「もう最悪だ。家出する。決めた。もう絶対帰らない、絶対」
それだけ言うと再度顔を埋めて沈黙する。ガリーナも沈黙を守った。
暫くすると、小さな声でジスティアスが言葉を紡ぎ始めた。
「――私、本当はジスティアス家とは関係ない寺で、孤児として育てられてたんだ」
まるで懺悔の様な告白だった。少なくとも、貴族が平民に打ち明ける類ではない、深い秘密の告白。鬱屈された心情の吐露。「あいつが私を迎えに来るまで、自分が貴族の血を引いてるなんて知りもしなかった。想像出来るか? それまで泥まみれになって友達と暴れまわってたのが、ある日を境に、大理石の宮殿で知識と教養を教えられるようになったんだ」
ガリーナは黙って聞いている。相手が言葉を返さないことに安堵したのか、小さく鼻をすすって、ジスティアスは続けた。
「すごく頑張ってるつもりなんだ、これでも。ジスティアスなんだから、高貴なるものの義務を果たすために一所懸命勉強して、領主らしい人間になって、みんなの期待に応えなきゃって。でも、でも――。お父様は死んで、お母様も死んで、お爺様は私の事を嫌ってて、バトラーは冷血漢で、使用人も兵も口をきくことを許されてなくて、他の貴族達は腹の探りあいばかりで心が狭くて……私、すごく、すごく――帰りたいんだ」
前領主の祖父は常に彼女を冷徹な瞳で見る。
息子がどこかのつまらない平民の女に産ませた娘。彼の目はそうジスティアスを責めていた。祖父が彼女の名前を呼んだ事は一度だって無い。どれだけ彼女が努力しても、決して呼ぶ事は無い。お前、娘、あれ。それが祖父にとっての、ジスティアスの名前だった。
それでも、何時かは認めてくれると信じて、不器用なりに努力し続けた。今の今まで。
「……寺にはお前よりもっと暗い色の服を着た教会の先生達がいて、毎日大騒ぎだったんだ。みんな先生の前では綺麗な言葉を使ってたけど、こっそり影では町の大人の真似をして悪い言葉を使ってみたりした。泥団子を本気で食べて泣いた子もいたし、殴り合って鼻血を出したこともあったし、雨がお風呂の代わりにならないか皆で試したこともあった。すごく下品で、教養が無くて、品も無くて、貧しい生活だったけど、楽しかったんだ。毎日が、楽しくて仕方なかった」
今は決して許されない、失われた理想郷。
富にどれだけの価値があるんだ、とジスティアスは良く考えるようになった。美味しいものが食べられても、楽しくなければ、そこに価値は無いのだと。
バトラーは彼女を叱り付ける為の存在だ。自分の仕事を全うする為の対象であり、任務の一環、大事な商品、それが彼にとってのジスティアス。彼女の気持ちなど、彼にとってはどうでも良いのだ。強いて言えば文句を言わなくなる様に成長する事が望ましいのだろう。
「館に来てからは、昔の友達皆が私を見るとかしずく。誰もが私をジスティアスとしてしか見てくれない。ジスティアスとしての私でなければ意味が無いから。……誰も私を、本当の名前で……呼んで、くれない……」
そっとガリーナが少女の肩に手を置いた。
びくりと震えるジスティアスは、視線を隣に向け、吃驚するほど真剣で優しい翠色の瞳と真正面からぶつかる。
そんな事はありません、と少し年上の翠の目の少女が言った。
「貴方はとても素敵な方です。ですから必ず、貴方の事を心から思い遣ってくれる方がいます。貴方が気付かないだけです」
反射的に肩に乗せられた白い手を払い落とす。
適当な言葉など欲しくない。慰めなどいらない。もう心は決まってる。ぼろぼろになるまで働き続けた心は、もう既に叫んでいる。
「気休めなんか言うな! 私の事を何も知らない癖に! もうイヤだ、ジスティアスなんか、生まれた時からジスティアスとしての価値しか無かった私なんか、無くなっちゃえば良いんだ!!」
その時、ジスティアスの絶叫の向うで、遠い喧騒を聞いた気がした。
喧騒はやがて悲鳴に変わる。その不快な遠い音響にガリーナは眉を顰め、再びジスティアスの肩に手を置いた。
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突然悲鳴が上がったのは、祭会場から離れた路の方からだった。
なんだァ、とマーブルが不安げな顔で祭会場の舞台下から首を伸ばした時、小鹿のような細い足の少年が文字通り飛んで来た。ガリーナの鐘の音が封じたはずだったから、舞台に立っていたカイムは驚いて少年を見上げる。少年の体は殆ど透明で、消え入る寸前の陽炎のようだった。
何かを伝える為に必死で来た――それは彼の発した第一声で理解出来た。
『自棄っぱち系、臆病者がこっちに来る! あいつら穴から潜り込んだんだ!』
慌てふためきながらもくるくる回転する事を忘れない少年に多少苛立ちながらも、カイムは眉を顰めた。その言葉が信じられなかったからだ。
「なんだって? お前らの同族か?」
『そんな訳無いだろ、僕ら臆病者はあんな邪悪じゃない! やばいよ、逃げた方がいい! 沢山の命の匂いを嗅ぎ付けて、嫉妬に狂ってる!!』
「そんな馬鹿な、まさか」
ありえない、と呟き、カイムは色を失くす。
そして唐突にバトラーに歩み寄ると、その襟首を掴み上げ、叫んだ。
「貴方は一体何を召喚したんだ! 何が目的で!」
「……貴族が好む観賞用の無害な小さい冥獣だ、既に捕獲し宿に確保してある。呼んだらすぐ術式は閉じた。私が呼んだのはそれ一匹だ!」
「くそっ」
青年はバトラーを突き放し、唇を噛んだ。祭会場に異様な動揺が駆け抜ける。
何か、良くないものがこちらへやって来る。
不吉な空気に誰もが顔を見合わせた時、カイムは舞台上から村人達に向けて叫んだ。
「急いでここから逃げて、家から出るな! 冥界の住人が来る! マーブル、急がせろ! 執事殿、バトラー殿、何でもいいから術を紡ぎ上げろ。あいつの注意をこちらへ向けるんだ!」
一瞬の沈黙が場を支配する。
けれど、それはすぐさま破られた。
会場の入り口に立てられた看板の向うから、黒い何かが顔を出したのだ。黒く大きく、おぞましい何かが。
刹那、全ての村人が悲鳴を上げながら逃げ惑い、そのおぞましいものから離れようと駆け出す。親は子供を抱え、青年は老人の手を引き、顔に恐怖を貼り付けながら、我先にと遁走する。
遠目に、キリアが母親に腕を掴まれて引き摺られて会場を出て行くのが見えた。
蜘蛛の子を散らすような彼らを悠然と眺めながら、その冥界の住人は肢体の全容を現した。
執事がうろんな目でそれを一瞥し、ぽつりと呟く。
「あれは何なのですか、カイムスターン殿。貴方はあれと戦った事があるのですか?」
「そんな訳あるもんですか! 冥界にしか居ない連中ですよ。だからこれが初戦です」
やっぱり我々は戦うのか、と呻くバトラーを睥睨し、カイムはやって来た敵に視線を戻した。
頬に空からの水滴が落ちた。
「あいつは冥界の幽霊、何一つ益の無い害虫のようなものです。冥界と人界は自由に行き来が出来ないから、普通は冥界からこっちには来ない。ただし、召喚魔術などで冥獣を召喚した際、それにくっついてやって来る事も無くは無いと聞きました」
「……私の所為か」
「今はどうでもいい。あいつを倒す事に集中してください。あいつは弱い者を食いたがる」
大人の頭程もある背丈、二トーマス程の胴。手足は多く、その長さがどれも均一ではない。曲がっていたり、伸びていたり、途切れていたり。漆黒の身体はまるで汚泥のように濁っている。腐った川魚の鱗のようだ。
それは、狂った巨大な飛蝗のような姿をしていた。
「――冥府の星に還る勇気の無い、臆病者。とかく命に嫉妬しているあの害虫を、ヒトに殺せるかどうかは」
分かりませんけど。
最後の一言は余計だったかもしれない。執事とバトラーは顔を見合わせ、視線で共闘を約束する。勝負事にするにしては、どうも生命が脅かされそうな気がしたからだ。
そして、間も無くそれは確信に変わる。
「何だあれは! 新種の虫か!?」
「話聞いてましたか、アルプー様」
「いいや!」
執事は今回ばかりは主人を蹴り倒さなかった。残念ながら、それどころではない。
巨大な黒い飛蝗のようなそれは、粘着質な粘土で出来たような足を蠢かせながら祭会場へと這い入って来た。それは余りに禍々しい姿だった。例えば古い墓を百掘り返して出てきた物を繋ぎ合わせたような、百年の妬み怨みを捏ね上げたような――この村には不釣合いな生物だった。否、代物だった。
それに命が備わっていない事は、誰もが直感的に理解出来た。
飛蝗がテーブルを薙ぎ倒し、皿を破壊しながら、逃げ惑う人を追う。まるで自分に備わらないものを求め、相手から奪い取ろうとするかのように。冥魔術遣い達はまだ魔術を編み上げている。そしてナーバスネリイは一番間近に居た老人に向けて歪な腕を伸ばし、掴み取ろうとして――銀の矢に射抜かれた。
アルプーは銀と青玉でつくろわれた弓を番え、唾棄するように叫んだ。
「貴様、我が領土の資源を何と心得る! 公共の物を破壊するなど不届き千万、神が許してもこの領主アルプーの財布の紐が許さん!」
続けて一矢、もう一矢。煌く矢は一筋の光芒となって、降り始めた雨の合間を縫い、冥界の飛蝗の体に突き刺さる。しかしナーバスネリイはそれに対し、アルプーに一瞥を投げただけだった。
「ちっ、30万の損失だ……いや、これで40万! 幾らでもくれてやるわ略奪者め!」
四本目の矢が飛蝗の頭部に突き刺さり、ついに敵は完全にアルプーへと興味を移す。腰を抜かし動けない老人を捨て、黒い頭部を領主へと向ける。秋の収穫を待つ赤豆がその莢を割って体を覗かせるように、十数個の赤い眼が頭皮を剥いて現れた。
次の瞬間、凄まじい速さで舞台目掛けて駆け出す。それは誰もが怯む程の、まるで空を滑る燕のような速さだった。
その巨体がアルプーに激突する直前、カイムの風の魔術が発生し、執事の氷の壁が生まれる。
突風がナーバスネリイの体を押し返し、突進の軌道が逸れる。その先で執事の作り出した大きな鏡台のような氷に激突し、氷の塊ごと舞台の脇へと吹き飛んだ。
二人の攻撃をまともに受けたナーバスネリイは壁をも突き破り、大きな地響きと共に姿を消す。
「お嬢ッ!!」
その先が控え室である事に気付き、バトラーが血相を変えて飛び出した。
四人が控え室の中へ踏み込むのと、少女の悲鳴が上がるのは、殆ど同時だった。
控え室の薄い壁は吹っ飛び、隕石が墜落したような様相を呈している。その最奥で、ガリーナとジスティアスが怯えたように小さくなって飛蝗と直面していた。聖女は領主を守るように抱きかかえ、必死で相手の沢山の瞳を睨みつける。弱みを見せたら負けだと言わんばかりの気迫だったが、ナーバスネリイには効くはずも無かった。
「貴様、我が領土の特産品までも手にかける気かッ!」
「止しなさいアルプー様、彼女達に当たったらどうするつもりなんです! わたくしが呼ぶまで引っ込んでなさい!」
真っ赤な顔で弓を番えなおすアルプーを外へ蹴り出す執事。
その合間にもカイムが風の魔術で攻撃をするが、直線上に少女達がいる為、全力で撃てない。相手の足の一本を引き千切る程度で、彼の風は消えていった。飛蝗は背後からの攻撃には全く関心を示さず、二人の少女に向かって手を伸ばす。
少女の命を、奪う為に。
「くそ、タイマンだったら勝てるのに……!」
村を吹っ飛ばす程の嵐を巻き起こす事など、カイムにとっては容易い事だった。しかし、彼は戦い方について殆ど全くと言って良いほど無知だった。状況に最も適した戦法を習得していない。それくらい簡単に、単純に、これまで冥魔術を使っていた。
「母さんに教わっておけばよかった、」と呻きながら、手近にあった椅子を掴み上げてナーバスネリイの体に打ち付ける。人間を殴ったような感触が掌に伝わり、椅子が半壊した。その傷痕からは黒い泥が溢れるが、それで終わりだった。微々たるダメージも与えていないようだった。
「なんですか、この変な方は! 変態さんですか!」
ガリーナがジスティアスを抱えてじりじりと壁沿いを移動しながら、掠れた声で叫ぶ。ジスティアスは声も出ない。ただその大きな青い瞳を見開き、相手の発する赤い複数の光を映している。
執事の氷の飛礫がナーバスネリイの腹部を襲い、その肉のようなものを抉り取る。どぼどぼと泥水が溢れ出し、やがて止まった。執事が珍しく眉を顰める。「執事としての自信が無くなりますね、全く――」
その時、バトラーがカイムの腕を掴み、小さな紙を差し出した。親指の先を千切り、その血で描かれたゾルデア式の魔方陣だ。
「これで武器を包め、強度が倍増する。頼んだぞ」
そう言うや否や、ナーバスネリイの脇をすり抜けて少女達の元へと駆け出す。
「バトラー!!」
手を差し出すジスティアスの悲痛な叫び声。それが消える直前、飛蝗の足が跳ねた。ばねの様に斜め上へと振り切った腕はバトラーの胴を捕らえ、彼の指先がジスティアスに届く前に凄まじい勢いで後方へと弾き返される。
カイムは新たな椅子を持ち、その足を魔方陣の紙で包んで、敵への殴打を再開する。視界の隅で横臥したバトラーが血を吐くのが見えた。
畜生、何て無力なんだ、俺は!!
二本目の足を潰した所で、必死に目を凝らす。香りを凝視する。鼻腔から侵入し、眼窩の底に沈殿する相手の色を見定めようとする。
――駄目だ。見えない。何も解らない!
雨が激しさを増す。屋根から零れる雨水が体を濡らす。絶望に体を蝕まれながら、ただ彼は、黒い醜悪な冥界の飛蝗が少女達へと――ジスティアスへと手を伸ばすのを見た。
悲鳴を上げながらその腕へと十連撃を繰り出すガリーナを撥ね退け、ついに漆黒の腕はジスティアスを捕らえる。
「離せッ! 離せよ、やだああぁ!!」
泣き叫ぶ少女。
降り注ぐ豪雨。
目を据わらせて前へ出る執事。
絶望する自分。
「なんでですか……」
床に倒れたガリーナが、頬を涙で濡らしながらナーバスネリイを見上げる。
「なんでこの人、黒いのに、赤いのに、こんなに白いんですか!?」
――え。
カイムは椅子を振り上げたまま手を止めた。
驚愕の相貌でガリーナを見下ろす。なんでこんなに、白い?
見えるのか?
――この少女には、色が見えるのか!?
「合障団!!」
空中に向けて叫ぶ。
見えるのだ、この少女には。何故ならば彼女は、聖女だから。ヒトでは無い存在だから。
怯えた表情で天井から顔を出す毛深い顔の少年へ向けて、カイムは確信に満ちた怒号を発した。
「キリアを呼べ!!」