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「ゾルデア式っていうのは、オロー式に出来ないことをカバーする感じかな。オロー式では、まず術者本人が直視出来てホップ、対象物を手に取るように把握出来てステップ、かつ呪文を発声してジャンプって感じ。これだと目に見えない遠距離では一切冥魔術は発動出来ないし、術自体も刹那的だ。それを補うのがゾルデア式。声と違って書式は形として残るから、継続的な術を使用するのに効果的だ。例えば、植木の花の鮮度を長く保つとか、嫌な奴に風邪をひかせるとか」
キリアはノミで地面を掘り、図形を描きながら説明を続ける。
ぐるぐると屋台の脚に包帯を巻きつけ、固定しながら、カイムは上目遣いに少年の弁舌に頷いた。
「へえ。じゃあ、ゾルデア式も勉強しておくと便利なのかな」
「うーん、便利だけどね。右利き左利きみたいな癖で、最初にどっちかを習得した人間はもう一方を習得するのは難しいみたいだ。多少は使えるらしいけど、おれは取り敢えずオロー式一直線」
少年は得意げになって話し続ける。年上で何でも出来るような雰囲気のあったカイムが、真剣に自分の教授に頷くのが妙に心地良いのだ。
あれほど強力な風の冥魔術を使うカイムが、本当に冥魔術について何一つ知らない事は信じられないが、彼はキリアのつたない説明にもいちいち感心したように頷き、時々考えこむように手に収まった屋台の脚の傷痍を見つめる。一応、折れた脚は地面に立つまでに回復はしたが、傍目に見てどうにも痛々しい。
「で、クラビト式ってのは。学者先生のつけた単なる烙印」
「と言うと?」
一呼吸置いて、勿体ぶる調子で少年は続ける。
「本家本元の冥人が使う発動経路のこと。誰も冥人を見たことが無い癖に、概念だけは作っておこうってさ。つまり、他の二つと違って、『発動経路』が『皆無』」
「……力場の転換だかを行わずに、冥界の力をこの世界に引きずり出すということ?」
そういうことだ。
そもそも、冥魔術の源自体、どこからやって来るのか誰も知らない。聖教会は冥界を満たす力だと言うし、冥魔術協会は冥府を形成する精神だと言っている。とにかく、「どこか」から自らを通して外に力を引きずり出すという事だけは分かっていた。
人間は瑕疵ある存在ゆえに力を引きずり出す際に手順が必要であるが、冥界、或いは冥府に存在する冥人は、魔性の存在ゆえに手順を必要とせずいくらでも力を引き出せるというのが学者の机上の理論だ。冥魔術協会に至っては、冥人そのものが冥府と同義であり、力そのものが力を発するのにどのような手順が必要だろうか、とまで主張している。
「それがクラビト式か。それじゃ瑕疵ある存在である人間はオロー式かゾルデア式に頼るしか無いんだね」
先程から感心したように何度も頷くカイムの本心は、見えてこない。自分がクラビト式かもしれないということに対して、何の言及もしないのだ。アルプーの館を壊した時と同じように。
キリアは鎌をかけるつもりで、桜の樹の幹に背を預けながら言った。
「冥人ってのは、お菓子を食べたことが無いのかね?」
「はあ?」
カイムがなんとも形容しがたい不思議な表情をした時、背後の草むらががさがさと蠢いた。ぎょっとして二人が振り向くと、両手一杯に砂糖菓子を抱えたジスティアスが、周囲を伺うように顔を出した。
彼女は唖然と見下ろしている二人の村民がいることに気付くと、一瞬顔をこわばらせ、
「わ……我輩は犬であるわん」
「そうですか。夏場にお菓子をかかえて地面を這うと蟻がたかりますよ」
「うぎゃっ! わ、私のおやつがー!」
カイムの落ち着いた一言に草むらから飛び出す。菓子どころか体中蟻だらけだった。
少女は泣く泣く砂糖菓子を愚蟻にくれてやると、きっと二人を睥睨した。
「我輩はジスティアスじゃないからな! お前たちは夏の白昼夢に踊らされているのだわん。我輩は犬なのだわん」
「そうですか。バトラー殿に黙って一人で外を徘徊すると、後で怒られますよ。犬っころ」
「犬っこ……。そ、それでいいのだ。バトラーには内緒にするのだ、我輩はすぐに帰るのだから。わん」
相変わらず言葉の端々に何かが漏れている気がする青年に、釈然としない表情で視線を投げかけると、ジスティアスは再び草むらに戻ろうとした。キリアは「何で徘徊してるんすか?」と何気なく尋ねた。
少女はその言葉に振り返ると、思案にくれる相貌でしばし佇む。秘密を暴露しようかしまいか、迷っている様子は明らかである。
カイムがそっとキリアに囁いた。
「なんでって、犬だからでしょ?」
「兄ちゃん、前から言いたい事があったんだけど、あんた絡みにくいんだよ」
キリアは眉間に皺を寄せ、唸るように返す。
この青年は時折、馬鹿にしてるのか冗談を言っているのか自棄になっているのか、判別がつかないことがある。馬鹿一辺倒のガリーナに比べると、相手をするのが難しい。この辺は自分の修行不足であると思い、キリアは気合を入れなおした。
「あのな。バトラーには秘密だぞ」
ジスティアスは躊躇いがちに話し始めた。まだ蟻が必死に服にしがみついている。そっちの方が気になって仕方ないが、仮にも貴族である少女の服を掃うことなど出来ない。
「この間、うちの館で保護した迷子が、ガリの聖女について話したんだ。それで興味を持ってパンフレットとか取り寄せて、色々調べて、面白そうだから逢いたいと思って。世界の均衡を守るという重大な責務を負っている聖女だろう? お互い責任ある立場、領主である私と話も合うかなあって」
「合わないと思いますよ」
「合わないと思うよ」
同時に二人に応えられ、ジスティアスは一瞬顎を引いた。
「だ、だって……歳もそんなに離れてないって聞くし、聖女だから淑やかで秘密を守ってくれそうだし、色々話してみたいことが」
キリアとカイムは顔を見合わせた。
「淑やかかなあ?」
「聞くなよ、否定する労力さえ起きない」
「でも名前負けしてるよね。聖女って」
「少なくとも聖なる女ではないな」
「責務も負ってるのかなあ?」
「鐘鳴らして彼氏作らないことぐらいじゃない? 守ってるの」
「……どっちも破られたしね」
「……ああ、そういえば」
「そもそも木槌で暴れかねない」
「十一連撃を習得中らしいよ」
二人はジスティアスに視線を戻した。
「合わないと思いますよ」
「合わないと思うよ」
再び同時に応えられて、ジスティアスは口を噤んだ。否定された事に気分を害したのか、頬を膨らませ、青い瞳を潤ませて地面の砂糖菓子に視線を落とす。「逢ってみなきゃ分からないもん」と呟いて、蟻がせっせと食料を解体するのを凝視し始めた。
(ああ、選挙どうしよう。本当にどっちもどっちだ)
きっと凄まじい接戦になるだろう、とキリアは領主の様子を眺めてぼんやりと考えた。
その時だった。背後の草むらが動き、中から黒髪のバトラーが飛び出したのだ。
「お嬢、大人しく控え室の壁にらくがきしているかと思えば、こんなところに! 勝手に出ちゃ駄目だって言ったでしょう、あんた領主なんですから。それからあの絵、なんか死んだばあさんが見えるとか言って老人達が拝み始めてますよ。変なもん描いて人心を惑わせるのはやめなさい!」
ぎょっとした表情で後ろ退ったジスティアスは、柳眉を下げて現れた部下を見上げる。
「どうしてここが分かったんだ? 誰にも見られなかったのに……」
「蟻が葬列のごとく脈々と控え室からここまで大河を作ってますからね。しかも途中で駄菓子屋に寄ってる。あんた、控え室のお菓子を食べ歩きながら駄菓子屋でまたしても買い食いしてここまで来たでしょう」
萌黄色の瞳はあくまで冷静で、言葉だけが激しい。主の襟首を掴むと、頭から体にかけて何度もぱんぱんと叩き始める。お仕置きか、と思いきや、彼女の体にたかった蟻を払い落としているのだった。
ばらばらと大地に落下していく蟻に目もくれず、ジスティアスは相手を見上げて小さな声で言った。
「あの……お小遣い、下げたりしないよね? 買い食いじゃなくて、蟻さんが可哀想だったから恵んであげようと思ったの」
バトラーは鼻を鳴らすと、「何故」と返した。
「お小遣いが下がらないと考えるのか不思議ですね。あんたのその優しさがお小遣いを奪うのです。さあ、戻りましょう。選挙をやると言い出したのはあんたでしょう」
「うううううううう」
いじわるだ、と呟き、またしても目にいっぱい涙を溜めてしまった少女を見て、キリアは不憫でならなくなった。実際、彼女程度の馬鹿ぶりなら、ガリーナの足元にも及ばない。ガリーナ以上の馬鹿がこの世界に存在するのかも疑問だ。ガリーナは馬鹿の権威なのだ。それなのに、ガリーナは罰を受けることなく、ジスティアスは厳しい罰――お小遣いを更に下げるなんて、拷問だ――を受けている。
これが、平民と責務ある貴族の差なのだろうか。
それともガリーナと比較すること自体に無理があるのだろうか。
「可哀想に。話し相手が欲しかっただけでしょう、犬の振りまでして」
カイムがぽつりと呟いた。バトラーは振り返ると、目を擦り、青年を正面から睨みつける。
「犬の振り?」
「ち、違う! 守銭奴ころ助の真似して遊んでたんだ!」
青ざめて首を振る少女に視線を戻すことなく、バトラーはカイムに告げた。
「ジスティアス家において、お嬢の教育方針は私に一任されている。話し相手になら私がなる。口を出さないで貰おう」
「出していませんよ。俺もアルプー様の元に居た人間だ、ジスティアス家の事情はそれなりに知っている。ただ、ガリの聖女がジスティアス様に逢いたがっているので、無礼を承知で引き合わせようと俺が誘ったんです。非難なら俺が受けるべきですが」
キリアは驚いて青年の顔を見上げた。少女も吃驚して目を見開いている。
少女を庇おうとしているのか――それなら、とキリアも追従するような笑みを浮かべて言った。
「お菓子もおれがあげたんだ。お菓子以上に立派な贈り物って思い浮かばなかったから。おれ、ガキだし」
輝かんばかりの笑顔で言うと、カイムもキリアを一瞥した。その目が一瞬だけ笑みを含んだ気がして、不思議と気分が良くなる。
「本当ですか、お嬢?」
ジスティアスは困惑したように二人を見つめていたが、やがて躊躇いがちに頷いた。
「判りました。これは、身分を弁えない無礼な行いです。貴族たる者が悪意ある者に襲われかねない、危険な状況を作ったのですから。彼らの罪状は――」
「やめろ、私が彼らの行いを許可したの! 彼らに罪は無い!」
「ならば、やはりあんたに責任があるわけですね」
「……それは、そのう……あのう……」
バトラーは溜息をつくと、呆れたように周囲を見回した。「まあ、良いでしょう。カイムスターン、そしてお嬢のお互いに問題があったとして、不問とします」
キリアはその言葉を聞いて、脇からどっと汗が噴出すのを感じた。
自覚のないままに緊張していたらしい。それはそうだろう、領主誘拐未遂という罪状さえ、無理矢理にでもこじつける事の出来る状況だったのだ。安堵に息を吐くと、隣の青年が相変わらず平然としているのが妙に頼もしく見えた。
(やっぱり、大人だなあ。兄ちゃんは)
彼は何の躊躇も安堵も見せず、真っ直ぐに黒い瞳でバトラーの視線を受けている。すると、萌黄色の瞳の男はカイムの前に立ち、耳元で囁いた。
「嘘はもっと上手に吐くものだ、料理人。冥獣を召喚した時もな」
「勘違いされていますね。あれは冥獣ではありません、ただの幽霊です。俺に冥獣を召喚する力はありませんよ。穴が開いていないと、召喚は不可能でしょう」
バトラーはカイムの肩越しに家と木々を眺めたまま、小さく笑った。そのまま踵を返すと、来た道を引き返してゆく。蟻の葬列を辿り、控え室へと戻るのだろう。その後姿を追いかけながら、ジスティアスは一瞬こちらを振り返り、再び何も言わずにバトラーの後についていった。
その姿が木の陰に隠れ家々の向こうに消えてから、ようやくキリアは盛大な溜息をついた。
「寿命縮んだぜ……十日ほど」
考え込むように二人の去った方向を凝視していたカイムも、その言葉で笑みを見せた。
「キリア、なかなか男らしいじゃないか。そういうところを大事にしていけば、きっとモテるぞ」
「まじで? 超大事にする、超育む。じゃあ、兄ちゃんもモテるだろうな」
「はは、駄目だね。いくら好かれても自分が好きにならなきゃ意味が無い。それに、例え好き合っても――」
「ても?」
カイムはもう一度笑うと、「なんでもない」と呟いた。人の好い笑顔でキリアの頭を軽く叩くと、もう一台の屋台を作るために金槌に手を伸ばした。キリアはその様子を眺めていたが、今度は手伝うためにポケットの中をまさぐった。出てきたのは、ノミ一本と釘数本だった。諦めて再び木に背を預けて座り込む。
曇天の下、鳥の無く声と、楽団倶楽部の練習と、カイム同様工事に勤しんでいる人間たちの楽しげな掛け声が響いてくる。かすかに雨の匂いが強くなってきた。
「あの子さ、可哀想だな」と呟く。
「犬っころ?」
「……もう忘れてやれよ」
残酷な大人め。
ますます不憫になってきて、キリアは厚い雲の流れを見上げた。蝉の声はいつしか止んでいる。それでも暑さは変わらない。
「アホの子かと思ってたけど、アホなりに結構頑張ってるんじゃない? それなのに、領主だからって事であんなに厳しく躾けられてさ。きっと本当は領主に向いてないんだよ、あの子の生来の気質が。まだあんなに子供なのに」
キリアより年上のはずだったが、それよりも幼く見える。キリア自身が同年代の少年よりも大人びている所為もあるのだろうけれど。
「犬っ……あの子はね、妾の子なんだ」
金槌の合間に聞こえた声に、キリアは視線を地上に戻した。しゃがみこんで背を向けているカイムの腕は、休むことなく釘を木板に穿っている。
「妾の子?」
「妾という言い方が正しいかどうか、誰にも解らないけどね。確かにあの子は領主にしては幼すぎる、だから実権は祖父である前領主が握っていると聞いていたけれど、どうも違うみたいだ。あのバトラーが実質的には統治の大部分を握っているんだろう」
それは一介の小村の子供であるキリアが知る由もない話だった。時折忘れかけるが、カイムは曲りなりにもかつてアルプーの厨房を預かっていた重要な地位の人間なのだ。民草の耳には届かない上流階級の噂話も、好きなだけ仕入れることが出来ただろう。
キリアが黙って聞いているのを確認したのか、彼は続けた。
「前領主には一人息子がいたんだ。けれどこれが放蕩だかで、公の場には殆ど現れない。最初は病弱だったから存在を秘匿されていたと聞いたけど、そこらじゅうで遊び呆けて、仕舞いには死んだとも言われている。とにかく、問題のある一人息子だった。普通は子を沢山生す貴族だけど、前ジスティアス領主は一途な男で、夭逝した妻以外に新しい妻を娶ろうとしなかった。だから血の繋がる跡継ぎが、この息子しかいなかったんだよ」
ところが、と息を吐くように言う。
「その跡継ぎが死んじゃうだろ? そうすると、お家騒動が勃発するわけだよ。領主の座を狙っている親族一同は沢山いるし、どいつもこいつも贅に人生を捧げたろくな人間じゃない。前ジスティアス領主は困り果ててしまった。血は何よりも大切なものだし、このままだと統治問題にも関わるから。するとある日、死んだ息子がどこの馬の骨とも知れない女に産ませた子が孤児院にいるという話が飛び込んできた。話半分に会いに行くと、その子はまだ五、六歳で、下町の子供たちと一緒になっていたずらをするやんちゃな子供だった。とても貴族の血を引いているとは思えなかったが、その子はジスティアス家の紋章を持っていたんだ。それで、子供はすぐに引き取られ、領主たるべく教育を受けつつ、傀儡として祭り上げられた。それが、彼女だよ」
キリアは――反吐が出そうになるのを押し戻すのに必死だった。
お家騒動? 自分勝手に子供を作って、自分勝手に政治材料として使う? 何も知らない子供は、突然友達と引き離されて?
「貴族様っていうのは、人の人生を何だと思ってるんだ! とんでもねえ奴らだ!」
「ガリーナは?」
小さな言葉に、キリアは一瞬耳を疑った。カイムを見ると、相変わらず背を向けて屋台を組み立てている。もう殆ど出来上がっていた。
「ガリが、何だって?」
「聖女のシステムさ。彼女は一生家族を持つ事を許されない。志願して聖女になったの? それとも、あらかじめ決まっていたの?」
キリアは息を飲み込んだ。
聖女になる者は、生まれる前から決まっている。生まれながらにして聖女なのだ。
でも、無理矢理聖女にさせている訳では――ある。
聖女がいなくなれば、村が滅びる、だからそれは仕方が――無い。
第一、彼女は聖女が辛いだなんて一言も言っていない。それどころか、村の誰よりも一番幸せそうに毎日暮らしている。聖女がガリーナを束縛する足枷になり得ると思ったことはあるが、彼女は足枷だと感じたことは無いはずだ。多分、そうだ。そうに違いない。そう思って生きてきた。村中の誰もが。
「色々あるんだよ。世の中には」
そう呟いたカイムの言葉は、何よりも強くキリアの心を揺らした。
二台目の屋台は、程なくして完成する。
カイムが立ち上がってその強度を確かめている時、ファイが丸いお腹を突き出して忙しなげに食材を運んでいる姿が遠くに見えた。ぱん、と小さな花火が空に上がる。そろそろ選挙祭が始まる頃合だった。
青年は屋台から離れると、金槌で自分の肩を軽く叩きながら主会場に向かったファイの元へと歩き出した。
正気に戻ったキリアは、慌ててその後を追う。
「あれ、ガリを探すんじゃないの?」
「ん? ああ」
カイムは振り向き、小さく口の端を上げる。
「焦らなくても大丈夫だよ。きっと向こうから動く」
「はあ?」
意味が解らず、混乱した頭で眉を顰める少年に、カイムはもう一度笑ってみせた。