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この国は十二の州から成り立っている。
それぞれには一人の長が立ち、世襲制として家名を州の名とした貴族が治め、その貴族はそのまた上の王に仕えている。そこまでがキリアの知識の限界だった。
この村の属するのは、オルドラン州。ヘイムバスク=オルドラン=ノム=アルプーを領主とする、名の無いド田舎村だ。
村の隣を走る川を境とした向こうの州の名はたしかガレナ州だったから、この少女の名前はなんとか=ガレナ=ノム=ジスティアスなのだろう。こんな辺境の、まさに州の境界にある村だから、どちらの州に属したとしても何の不思議も無いと思っていたので、領主が変わってもあまり驚きは無い。
帽子と上着とブーツを放り投げ、巨大な氷塊の隣の寝椅子に転がったジスティアスは、機嫌良く相好を崩した。小麦色の細い足首が顕わになり、キリアは思わず目を逸らす。
「子供、良い所があるじゃないか。なんでこんな所に氷があるのか知らないけど。なんか彫りたくなってきちゃった」
はあ、とキリアは自分より少し年上であろう少女から少し離れて頭を掻く。彼女のすぐ隣ではバトラーが立膝で控えている。人々の目から解放され、二人はどこかくつろいだ顔を見せていた。領主様が休まれているから、ということで案内人のキリア以外の人間はそそくさとこの場から立ち去ってしまったのだ。つくづく胆の小さい村民性である。
尤も、ガレナ州の長を前にして、仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。
「それで、お嬢、これからどうするんですか。こんな村に用は無いでしょう、適当に新たな主人として顔見せしたらとっとと帰りましょう」
バトラーは随分と横柄な口調だ。仮にも自分の主人にそんな言葉を使うとは――執事とは皆こんなものなのだろうか、とキリアは九里金豚から漂ってきた良い匂いを嗅ぎながら首をかしげる。
「んー、まだ。ガリの聖女に会う」
「……なんですって?」
「だから、ガリの聖女。知ってるだろ」
眠たげなバトラーの瞳が、一瞬鋭い光を浮かべた気がした。
しかしすぐにジスティアスを見下ろすと、「ところでお嬢、お話があるのですが」と言いつつ胸元から白い紙を取り出す。少女は横目でそれを見るなりあっと短く叫んで飛び上がった。
「一週間前の邸内試験の点数が六十台でしたね。どういう事ですか、お嬢?」
「お前私の寝室に入ったな! 折角ベッドの下に隠してたのに、何するんだ!」
それはこちらの台詞です、と相手は主の怒りを意にも介さず続ける。
「国民の二大義務を答えよ、その解答が『服を着ることとゴミを捨てることと仲良くすること』って何ですか。そもそも二大だと言ってるでしょう、何故三つもあるんですか。更に第五問、領内で殺人を犯した者の刑罰を答えよ、解答が『だいぶ怒られる』って当たり前でしょうがあんたアホですか。それとも馬鹿ですか」
「か、家庭内の問題を白昼の下堂々と暴露するなんてはしたないぞ!」
「はしたないのはこの回答です。領主とも思えぬ愚答、いやある意味面白い答案ですな。ご褒美に暫くお小遣い500エンス引きです」
そんなあ、と何時の間にか正座してバトラーの言葉を受けていたジスティアスが悲しげな声を上げて俯く。目にうっすらと涙を溜め、「いじわるだ」と呟くが、答案を再び仕舞いこんだバトラーは鼻を鳴らしただけだった。
その一部始終をしっかりと見てしまったキリアは、思わず「また馬鹿が来た」と口に出しそうになって慌てて息を飲み込む。
一見すると麗しい男装の美少女とそれに追従する優雅な男だが、実は二人の力関係はまるで逆なのだ。
そして何よりも、馬鹿だ。
「それから先程の衆人環視の中でのあの態度、あれは何ですか。あんたは裏山の猪ですか? 領主なら領主らしい態度というものがあるでしょう。恥をかきましたよ、私は」
「うううううう」
キリアは溜息をついて嫁と小姑のような二人に背を向ける。見ていない聞こえていない振りをするのはなかなか大変だ。
ジスティアスという少女は、領主にしては若すぎる。バトラーは彼女の教育係を兼ねているのだろうが、それにしては言葉の端々に冷たいものを感じてしまう。あれでは領主が可哀想だ。自分なら、多分悪態を吐きながら脛を蹴って逃げて夕飯までは帰らない。
そんな事より、問題なのは――。
(アルプーのおっさんじゃなくて、このアホの子が領主になるのか……。究極の選択だなあ。ていうかもっとまともな奴はいないのかこの辺)
腕を組んで顰め面で暫く考え込む。
そして、可愛いからやっぱりジスティアスで良いと結論が出た。同じアホなら駄目男の悪食よりも将来性のある美人の方が良いに決まってる。誰だってきっとそう言うに違いない。
とても良い笑顔で顔を上げた時、何時の間にか目の前に立っていた執事と目が合って大いに体を仰け反らせた。執事は少年の笑みを思い出し笑いだと思ったのか、眼鏡の奥から一瞥をくれただけでその脇をすり抜け、ジスティアス達の前に立った。
「あ、豚領主の」
正座したままジスティアスが上目遣いに執事を見ると、バトラーが立ち上がって執事に相対する。余り背の高くない執事の目は、丁度バトラーの顎にくる。
先に声をかけたのはバトラーの方だった。静かな語り口に、妙な挑発が垣間見える声音で、
「久しぶりだな、驚いたよ執事殿。アルプー様の元を遁走したと噂に聞いたが、まさかこんなところにいるとは……。出来の悪い主を持つと苦労するものだな」
「偶には静かな所で額に汗して労働に従事するのも悪くないものです、バトラー殿。貴方のような悪趣味な方にはこの平々凡々とした良さは分からないでしょうが」
キリアは思わず黒服二人から離れるように一歩後退りをした。
(なんだ? この殺気は……)
見える。見えない雷が二人の背後に見える。
透明の火花が空気を陽炎のように揺らし、夏だというのに汗一つかいていない二人の周囲を城壁のように囲っている。寝椅子に正座したジスティアスは、こんな二人の対面には慣れているのか、痺れてきた足をどうにかしようともじもじしている。
奇妙な殺気に戦慄したたった一人の少年キリアは、ごくりと喉を鳴らしてその一挙手一投足を見逃すまいと瞠目した。
沈黙の中、眠そうな黒髪のバトラーが、僅かに口の端を上げ再び口火を切る。
「その若さながら執事の中の執事と呼ばれた君が、落ちたものだ」
赤茶色の長い髪を後ろで一つに束ねた執事も同じく鷹揚に微笑む。
「ええ、そのわたくしから見れば貴方は邪道なのですが。赤薔薇白薔薇どちらの学校を出ている訳でもない、執事の家系でもない、眼鏡もかけていなければ白髪でもなく髭を生やしている訳でもない。全然駄目」
「ほう、それは牽制のつもりかね? 懐剣を忍ばせているのは自分だけだとでも?」
「まさか。しかし、最早わたくしはあのデブ様の執事ではない。喧伝されて余程困るのは貴方の方かと。――まあ、わたくしが恐ろしいというのは理解できます。アルプー様の元から去った途端にこの塩梅ですから、多少は優越感を感じても宜しいのでしょうか?」
「ふん、君がここにいると知っていたなら絶対に手出しはさせなかった。余計な手間が増えるからな」
バトラーは顎をしゃくって、背後で顔を青くしてもじもじもじもじ体を揺らしているジスティアスを示した。「お嬢、良いですよ」と初めてそれに気付いた風に言うと、彼女は盛大に体を倒して必死に足を擦り始める。
キリアは二人の会話の断片から、どうやらこの村を二人の領主が水面下で取り合いをしていたらしいことを知る。それも、領主同士よりも、その執事たちが争いに大いに加担していたことが。
先程、執事が言っていた領主たちの確執とは、この村のことだったのではないか。
黙って執事を見上げるキリアに気付くと、相手は笑って頷いてみせた。その通りだ、という事だろう。
(ということは、だ。もしかしてこのジスティアスって子、勝手にこの村を自分のものだと宣言しちゃったって事じゃないのか? そんな事になったら、黙ってないぞ。あの小心者が)
脳裏に浮かぶ丸いシルエットに、キリアはかぶりを振る。春の厭な思い出が走馬灯のように乱舞し、鼻のあたりがひくついてきた。
「あのさ」
遂に耐え切れず、言葉を発してしまう。三人の視線が一斉に集まり、キリアはえへんと咳払いをした。
「この村の人間として聞いておきたいんだ。今あんたたちがしている事は、要するに領地獲得の為の戦いってことなのか? この村の主を決めるための」
違う、ここは私のものだ、と頬を膨らませた領主を無視し、執事はもう一度微笑を浮かべて頷く。
そして荘厳に言い放った。
「その通り。我々二人は主に代わり、長年に渡りこの村の争奪戦を繰り広げてきました。わたくしの脅し……手腕によりアルプー様の物ということにはなっていましたが、わたくしが辞めた事によって両者の力のバランスが逆転しつつあるのです。そしてキリア殿、我々の名誉の為にも言っておきます。お互いが握っているお互いの弱み、それは主には全く関係がありません」
「無いのかよ!!」
思わず叫んだ。それまでの沈黙と緊張感に復讐するように、キリアは怒号を発した。
領地の取り合いを牽制し合っていた最後の砦、それは両執事の個人的なプライバシーの問題――。
笑えない。笑えないというより、ありえない。
(しまった、忘れてた。皆まともじゃないんだった! くそ!)
ぐしゃぐしゃと髪をかきまわす少年を尻目に、二人の執事は徐々にヒートアップする。笑顔は崩さず、体から立ち上る陽炎は炎のように燃え盛る。
「ええ、言いませんとも。実はバトラー殿が―――趣味などとは!!」
「ああ、言わないとも。実は執事殿が―――だったなどとは!!」
その瞬間、キリアは遂に頭のネジが飛ぶ音を聞いた。
「お前らの喧嘩のネタにするなよこの村を! うち帰って王国騎士団カードで対戦でもしてりゃいいだろ、貸してやるからさあ! おれレアカードだって持ってるんだぜ、ほら!」
声を荒げてポケットに常備している遊戯用の王国騎士団カード略して王カーを地面にぶちまけると、キリアは氷の後ろに駆けていって、顔を膝に埋めた。
そして、少しだけ、泣いた。
ひんやりとした氷の冷気が心地よい。
どれくらいそうしていただろう、蝉の声に混じってしょりしょりと微かな音が存在していることに気付いたのは、もう涙もすっかり乾いた頃だった。
顔を上げると、執事達の会話を聞き飽きて暇そうにしていたジスティアスが、氷に手をかけているのが目に入る。間近で見る青い瞳は、空よりも深い美しい色彩を放っていた。
彼女が右手に持つのはノミ。
氷の向こうでまだ会話をしている執事達をちらちらと横目で見ながら、ジスティアスは「いいなあ、仲良いなあ」と見当違いな感想を口にする。
ぞりぞりと、氷をノミで削る手を休めることなく。
じっとりと少女を凝視するキリアは、眼前の巨大な氷が見事な程に華美な教会へと変容しつつあることに更に脱力した。上手すぎだろ!と叫んで氷に一撃を入れる事も出来たが、その気力が湧き上がらない。深い深い溜息は、きっとありもしない冥界の深遠にまで響いただろうと思う。
不適材不適所を地でいくような人間達である。ガリーナと共に生きてきたはずなのに、いや、共にいたからこそ、キリアは彼らの様な人種に対して過剰に反応せざるを得ない。
放って置けば一人でずぶずぶ底なし沼に沈んでいく。一人で地図も見ずに歩いて迷子になる。一人で思ったことをそのまま口にして逆鱗に触れて追い掛け回される。一人で食べられそうになる。一人で幽霊屋敷に行く。
だから誰かが止めねばならない。キリアが隣に立って頭を叩いて手を引いてやらなくてはならない。
こういう人種は一人では駄目なのだ。そして逆説的に、意外と寂しがり屋だったりするが、かと言って馬鹿と馬鹿が手を組めば馬鹿が二乗になって困る。水に水を足しても水だが、馬鹿に馬鹿を足せば生まれなくても良い無限の可能性が生まれてしまう。そんな小宇宙は発生以前に滅ぶべきだ。
だからキリアは平手を振るう。
今日も明日も明後日も、忌むべき希望を摘む為に。
戦え、キリア! 村の未来は君が握っている!」
「どっからお前の台詞だ――!!」
殆ど発作的に言葉に魔力を乗せ冥魔術をぶつける。襲い掛かる数々の小隕石を華麗な足技で全て蹴落とすと、執事は満足げに頷いた。
「ふむ、なかなか器用。強くなりましたな」
「ならざるを得ねえんだよ! 気付けよ! 頼むよ!」
眼窩から赤い涙を噴出させた調度その時、カイムとファイが料理の盛られた大皿を持ってやってきた。氷の異変に目を見張ったのはちょび髭の中年だけで、二人と面識のあるカイムは一瞥すらせずジスティアスの前に机を引っ張って来る。さっき避暑に来ていた老人達が王カーで遊んでいた、小さなテーブルだ。
「お口に合うかどうか」
言いながら、二人分の料理を少女の前に並べてゆく。ジスティアスはノミを放り投げ、それがバトラーの頬を掠って背後の木に突き立った事にも気付かず、心底嬉しそうにカイムの料理を見た。
「合うに決まってる! 私はお前のファンなんだから。なあ、うちの城に来ないか? お前の作ったスープを毎朝飲みたい。良いよね、バトラー?」
「八十点で許可しましょう」
彼は無表情でノミを引き抜き、キリアに放る。少し困ったが、キリアは持っておくことにした。
「折角ですが、私はここにいるつもりですので……」
「なんだ、つまんない」
「ワタシ、ワタシ平気ね。毎朝愛情たっぷりスープを作って差し上げるよ」
「そもそも八十なんて出るわけ無いじゃないか、馬鹿だなあバトラーは。あはは。そだ、光の成分についての新しい考察なら七十五点はいくかも」
「お嬢、そろそろ怒りますよ」
無視されたファイの上げた右腕は、引っ込みが付かずにぷらぷら揺れる。キリアは、美味しそうに自分の料理を口に放り込む少女から離れた所に控えたカイムが一瞬だけ執事を一瞥したのに気付いた。いつもの困ったような、憂鬱な表情は先程から崩れていない。
(なんか、腹減ったな……。疲れちまった)
キリアも彼に負けずにアンニュイな相貌でしゃがみ込む。暑いはずなのに、氷のせいで妙に寒気がした。
心配なのは村の未来と、それに付随する自分の未来。結局は権力者の手の内で転がされるしかない小村の運命に、苛立ちを覚える。
おいしーい!とジスティアスの歓喜の声とそれを嗜めるバトラーの台詞が聞こえた時だった。
遠くから微かな地鳴りが聞こえてきた。それは徐々に大きくなり、キリアがそれが馬の蹄の音だと気付いた時、疾走してきた一頭の白馬が轟音を上げてキリア達の前に急停止した。もうもうと舞う土埃に包まれた少女が咳をし、同時に料理が砂塗れで台無しになる。料理人の憎々しげな舌打ちが聞こえ、キリアは馬上の人間を見上げた。
これから大いに説教される哀れな闖入者の顔を確りと見てやろうと思ったのだ。料理関係でカイムの機嫌を損ねるとどういうことになるか、彼はちゃんと知っている。
白馬に乗っていたのは、整った顔立ちを怒りに歪めた三十代半ばごろの痩身の男性だった。水色の瞳はまっすぐに少女を捕らえ、
「貴様ぁ、ジスティアス! この土地を誰の物だと思っている! 疾く去ね!」
馬上から一喝した。
「…………」
しかし誰もがその見知らぬ男性を一歩引いて眺め、お互いの顔を見合わせてこそこそと内緒話を始める。誰、知らない、可哀想な人、などの単語が輪を作った領主と執事の四人組から発せられた。カイムは沈黙を保って男を睥睨している。
慌てたのは男だ。
「何を陰険な事を……戦争でも始めたいのか、小娘。バトラー、貴様が手綱を握っていなくて何とする! さっさと帰って絵本でも読み聞かせてやれ、しっしっ」
「何だとこの見知らぬ中年め! 絵本なんか偶にしか読まないぞ、失礼な!」
「ほう、やはり読むのか、そうかそうか。何なら我が都で流行りの『守銭奴ころ助大冒険』でもプレゼントしてやろうか、ジスティアス嬢?」
「むきー! 馬鹿にするな! どうせくれるならぬいぐるみ付きでないと貰ってなどやらん!」
同レベルの良い諍いだ。
次の瞬間、害虫でも見るような目で手を振る男の態度に、キリアはふと思いついたものがあった。
この器の小ささ、子供相手に本気になって声を荒げる大人げのなさ――。
するとそれまで殺意をもって男を睨んでいたカイムが、ふと表情を凍らせて口を開いた。彼はキリアと同じことを、考えていた。
「………もしかして、アルプー様、ですか?」
びく、と男は肩を震わせて青年を見下ろす。目には明らかな恐怖の色が宿っていた。
「カ、カイムスターンか。なんというか、その、まあこの間の件についてはもう怒っていないというか忘れてくれというか……」
一呼吸置いて、カイムとキリアとジスティアスとバトラーと執事と釣られたファイの叫び声が曇天にこだました。