10
突然、落下が止まった。乱暴な力で腕を掴まれる。引き摺り上げようとするその無粋な手を払いのけようとしても、手はジスティアスを逃そうとしない。
(なんだよ、私はもう落ちるんだ。そっとしといてくれ!)
苛立ち、噛み付いてやろうかと思った時に、微かな声が聞こえた。
ウ ナ
行かな でく
あ て んだ
(……え?)
急激に光が広がった。
+
それはまるで、黄昏に去り行く夕陽を見送る儀式のようだった。
この世界に居てはならない存在は、キリアの剣を受け、全身を蠕動させた。真っ二つに斬られた体は戦慄き、震え、声にならない無念の絶叫を上げ、そして金色の光を放って宙へと溶けていった。後には夏の夕立と、傷ついた四人の大人と、二人の子供だけが残った。
「や、った……?」
キリアが呆然と呟く。カン、と硬い音を立ててノミが地面に落ちた。
「ああ、やったんだよ。君が倒したんだ。冥界の化け物を!」
料理人が椅子を放り投げ、キリアに駆け寄る。少年の両頬を掴み、その額にキスをした。そして振り返り、柔らかくなった雨音に曝される四人に視線を戻した。
ジスティアスは地面に蹲って丸くなり、バトラーは仰向けで倒れている。
ガリーナが少女の背中に触れ、カイムに向けて嬉しそうに顔を綻ばせた。
「大丈夫です、怪我は無さそうです。ちゃんと息もしてます!」
「ああ――」
良かった、とカイムが息を吐く。けれど、冷たい声音がその安堵を打ち破った。「右腕は、もう使えませんね」
執事がバトラーの傍に膝をつき、無感動に呟いたのだ。カイムは慌ててバトラーの腕を見る。
未だジスティアスの細い手を握っている彼の右手は、真っ黒に変色していた。ナーバスネリイと似た泥のような漆黒。腐り落ちたのだ。ジスティアスが受けるはずだった攻撃を防ぐ代わりに、その力が彼の方へと逆流した。ぐずぐずと崩れ落ちてゆく右手に、カイムは唇を噛んだ。
「………お嬢」
バトラーが微かに唇を動かす。
その瞬間、丸くなっていたジスティアスがぱっと飛び起き、寝起きのように腫れぼったい目で周囲を見回した。そして目の前で倒れている青年と、自分の左手の先に繋がれた彼の腕を見て、息を飲む。
「お嬢、怪我は?」
「え……、無い、無いよ。ねえ、バトラー、黙って。血が、手が」
「どうなって、いますか」
ジスティアスはしゃくり上げる。相手の手を握ろうとして、そしてそうする事で黒い手が崩れる事を知って、涙を零す。
「……死んじゃうよ……」
構わない、と青年は呟いたようだった。
最期にあんたを守れたなら、それで十分だ。
「嫌だ!!」
少女が絶叫する。止んだ夕立の代わりに、雨を降らせるように、ぽたぽたと泪の雫を落としながら。
行くな。終わるな。
それは彼女に常に与えられ続けた楔。それを与えた男は、全てを置いて独りで逝くつもりだった。
そんな勝手なこと、絶対に許さない。
「私を二度もここに連れて来たのは、お前じゃないか! 責任とれ、逃げるな! ずっと私の傍にいろ! 私を誰だと思ってる、領主の命令だぞ!」
バトラーは目を伏せたまま、僅かに顔を歪ませた。微笑むように、苦悩するように、泣き喚く少女の言葉に息を吐く。手首から下が崩れて床に落ちた。命の灯火を翳るように。
「どいてください、ジスティアス様。その人を助ける」
何時の間にか少女の後ろに立っていたカイムが、無感情な言葉を落とす。その瞳は決意の黒い光に満ちていた。
少女は料理人を見上げ、そして頬を拭いながらバトラーから離れた。震える肩を抱き、所在無げに呆然と佇む。
カイムは瀕死の青年の耳元に唇を寄せると、彼にしか聞こえない、それでいて毅然とした響きで囁いた。
「貴方に治癒の呪いを与える。その代償は、貴方が幸の象徴であると無意識下で考えるもの」
そして少し目を閉じ、微かに首を振る。
「貴方は彼女に、真実を話してはならない。その代わり、今は死を免れる事が出来る。良いですか?」
バトラーは今度こそ口を三日月に形作った。
残酷だな。元よりそのつもりだったが、確実に逃げ道が無くなるじゃないか。
「やさしい、呪いだな」
「そうとも言えませんよ。解ってるでしょう」
ああ、解ってるとも。
「……お嬢を」
言えなくなる前に、言っておかなければならない事がある。全てではない。ほんの一部を。
カイムが頷くと、ジスティアスがバトラーを覗き込んできた。大きな目は涙で潤んでいる。顔をくしゃくしゃにして、青年の額に指先を触れた。冷えた体に、小さな温点が暖かい。その温もりを頼りに、青年は目を開いた。鉄のように重い瞼は、まるで錠前の落ちた門扉のようだ。
「ウルナ」
その単語に驚いたように目を丸くする少女は、やがておずおずと頷いて返す。
「私を、許して欲しい」
「なに、が?」
「私は、あんたが思っている以上に、あんたを大切に想っているんです。もし、あんたが領主を本当に辞めたいなら、私は全力でそれを叶えたい」
「……どうやって?」
「一番、簡単なのは。権利を委譲するんです。例えば、身内に」
「身内って、お祖父様はもうご高齢だよ。他に身内なんて居ない」
ですから、とバトラーは大きく息をつき、掠れ声で続けた。
「私と、結婚するんです。そうすれば、全て、上手くいく。あんたは富だけ得て、義務を放棄することも、出来る」
ジスティアスはじっとバトラーの目を覗き込んでいたが、やがて泣きながらでカイムを見た。
「まずいよ、傷が頭まで届いてるみたいだ。こんな冗談言う奴じゃなかったのに」
「ウルナ」
「やだよやだよ、死なないでよ! お前が死んだら私本当に領主辞めるからな! ちゃんと良い子にするから、元気出してよ! こんなお前なんて、見たくないよ」
べそをかく少女に、バトラーは再び大きく深呼吸すると、薄く目を閉じた。そして消え入る寝言のように、小さな声で最後にこう言った。「帰ったら、ちゃんと、聞かせて下さい。あんたが心から望む事を」
「カイムスターン!」
大丈夫、とカイムは両手を彼の額と胸にあてて呟いた。「眠っただけです。すぐ、治ります」
カイムの手から、黒い蛍のような光が湧き上がる。光はやがてバトラーの全身を包み、土に染み入るように消えていった。後には傷一つ無い青年の眠る姿が現れる。崩れ落ちたはずの黒い腕は、それよりも黒い夜空の光に編み上げられ、再び元の姿を取り戻した。
治癒の呪いが完成したのだ。
「心から望む事、」ジスティアスは深い眠りにつく青年の髪を撫でながら、目をごしごしと擦った。
おやつをもっと食べたいとか、沢山寝たいとか、絵を描きたいとか、歌を歌いたいとか、帰りたいとか、海に行きたいとか、演劇を見たいとか、名前で呼んで欲しいとか、本名を知りたいとか。
でも、とりあえずは。
青空の中の積乱雲を見上げながら、ジスティアスは微かに笑った。
「抱っこして欲しいな。お父さんみたいに。――逢った事ないけど」
そしてカイムと目が合い、頬を赤く染めてそっぽを向く。カイムは座り込んだまま微笑んだ。本当は笑う気にすらならなかったのだけれど。
全く、なんでもっとはっきり言わないんだ?
呪いが発動してしまった後は、チャンスはもう二度とないのに。
どうしようもなく面倒臭い人種だ。
領主という人間は。
貴方は何でも出来るのですね、と執事が呆れ口調で呟くのが聞こえた。そうでもない。何事も結果を得る為には犠牲が必要だ。時には、結果すら凌駕するほどの、残酷な犠牲を。
+
その日、村は一日中大騒ぎだった。
冥界から見たことも無い獣が(「いや冥界からかどうかはよく解らないけど、というか冥界なんて信じてないし、とりあえず悪い害獣」とその日の村内会書記の日記に記された)やって来て、村人を襲い始めたのだ。長い村の歴史の中で、こんな凶事は少なくとも文面では記録に残っていない。ところがもっと驚いた事に、この害獣を、二人の領主と聖女が力をあわせて打ち払ったのだ。しかも止めを刺したのは少年キリアであるという。
結局――祭は加速する事になった。
アルプー領主と、隣地のジスティアス領主、そして聖女とキリアに対する第一回感謝祭は、妙な実感を伴いながら先ほどよりも遥かに大きいものとなり、結局なし崩し的に二日連続開催が決定となった。
主人公である連中は、くたびれ果てて伏せっていた為、出席する事が出来なかったのだが。
カイムの屋敷である臨時宿屋でごろごろしていた兵達を至急呼び寄せ、領主達を運ばせた後、カイムは愕然と佇む事になる。部屋が無かったのだ。全て二つの領土の主達ご一行様で満室となり、彼自身の休む部屋がどこにも無い。ロビーも物置も、あぶれた兵が寂しそうに蹲っている。
「どうしよう……どうしてこんな事に……」
改築したばかりの豪奢なステアケースを見上げて途方に暮れた。
今寝ないと流石に死ぬ自信がある。冥魔術も沢山使った上に、禁忌として自ら封じていた呪いまで使用したのだ。
しかし、あてにしていた九里金豚もバーバババ亭も大忙しだ。彼の横になる隙などありはしない。屋外も無理だ、先ほどの雨で地面がぐずついている。参った。絶体絶命だった。
「あの〜」
「うわっ」
突然背後から声をかけられ、カイムは飛び上がった。
振り向くと、菫色の聖服を泥まみれにした聖女が、指先をもじもじと弄りながら上目遣いに彼を見上げていた。
「部屋、無いんですよね」
「え、ああ……占領されちゃった」
「ついてきてください」
「え?」
ガリーナはそう言い置くや否や、くるりと踵を返して早足で歩き出す。訳も分からないまま、カイムは取り敢えず少女を追う事にした。
空はすっかり夏の快晴で、西の方がやや紫色に色付き始めている。ガリーナの服の色彩によく似ている。ぬかるんだ道を音を鳴らして歩き続けると、景色には段々と深い緑が増え、やがて常緑樹の茂る小さな森へと入った。
「ごめんなさい」
ガリーナが呟いた。カイムは彼女の謝る理由が解らなかったので、何が、と返す。
「さっきの人、多分冥界から来たんだって皆言ってます。きっと私の所為です。私がかくれんぼにかまけて、鐘を鳴らすのが遅れたから――私の所為で、皆さんが酷い目に」
「違うよ!」
青年は思わず声を上げる。彼は、ナーバスネリイ襲来の理由を誰にも話していなかった。バトラーの召喚がきっかけで不運にも奴の侵入を許した所為だが、それを言えばガレナ州領主ジスティアスの責を問われないはずは無い。公表するのが当然の行動なのだが、カイムにはどうしてもそれが出来なかった。したくなかったのだ。
「君は良くやってる。あれは本当にアクシデントだったんだ、君のミスなんかじゃない。寧ろ、君がいなかったら倒せなかったんだ。君はあいつの星来の色を見抜いたから」
「せいらいのいろ? 白の事ですか?」
「そう。普通の人間には見えないはずだ。見る必要が無いから。君のお陰で、白を打ち消す金のキリアを呼べばいいと分かった。本当に感謝してる」
ガリーナは頬に手を当て、少し俯いた。
「よく、覚えていません……何か変なことを口走ったとは思ったんですが。でも、皆さん普通に見えるものだと思っていました。世界は色に満ちてます」
世界は色に満ちている。
その言葉をヒトから聞くとは思わなかった。矢張りこの少女は、聖女だ。眉唾でもなく、伝説でもなく、真実の聖女。例え周囲の誰もが信じていないとしても。
「カイムさんは、黒ですね」
「そうだよ。風の黒」
「執事さんは青で、キリアが黄色で、バトラーさんは……ちょっと見辛いけど、緑かな。不思議です。冥魔術遣いさんは、他の方よりも輝いてます」
それは人界では属性と呼ぶ。金属、風属、水属、火属など、これらは人には決して色で見えるものではないからだ。それを色で識別し、生まれ持った『星来の色』と呼ぶのは、冥界の者だ。風属を黒と、水属を白と呼ぶのは、この大地の遥か下に棲む者だ。
「カイムさん、普通の人じゃないから、そんなに落ち込んでるんですか?」
「―――」
カイムは苦笑した。頬を撫でる古木の葉を一枚、通りすがりに引き千切る。
どうしてこの子には、解るんだろう。
絶対に二度と使うまいと決めていた呪いの冥魔術。人命を助ける為とは言え、それを使用した事は決して彼の心にとって易い事ではない。呪いは所詮、人を幸福には出来ないと知っているからだ。だが決定的な不幸にもしない。本当に、忌まわしい力だと思う。
「お揃いですね。私も一応、人じゃないって事になってます。なんせ聖女ですから、えへへ」
何故か嬉しそうに笑いながら、ガリーナは小走りで目の前に現れた建物の扉に手をかけた。それは古い教会、ガリーナの居住の場。本日三度目の再来となったカイムは、半ば混乱気味に首を傾げた。
皆さんには内緒ですからね、と言って、ガリーナは扉を勢い良く開けた。そして満面の笑みで両手を広げる。
「お泊まりさん一名様いらっしゃーい!」
…………。
「―――――へ?」