残念な姉は、幸せを諦めている。
「なんでお前は、自分のことを諦めているんだ?」
妹の婚約者は私のことが嫌いだ。まるで毛虫でも見るような嫌悪感丸出しの目で見てくる。
「……確かに、色々足りない部分があるのは事実だ」
ええ、そうですね。
妹とは違って目に入るだけでも不快な容姿。頭も要領も悪くて、引っ込み思案。
「だが、努力することくらいできるだろう? 妹は将来、国母になる。足を引っ張らないよう精進しろ」
妹と同じく煌々しい男が、冷たい声色で諭してくる。
でも、一つ言わせてもらっていい?
彼の目は節穴だ。
なんせ、一目惚れで婚約者に選んだ私と姉の中身が入れ替わったことに未だに気づいていないのだから。
そんな人の言う言葉が響くわけがない。
私は無言でカーテシーをすると、踵を返した。
◇◇
ポーレット伯爵家の次女として生まれたエミリアは、生まれた時から全てを持っていた。
太陽の光を浴びて光り輝く金の髪。瑞々しい若葉色の瞳。
美しく整った顔立ち。白く透き通るような肌。
まるで妖精のようだと称えられる容姿だけでなく頭の回転も良くて、マナーでもダンスでも手先を使う事でも、なんでも器用にこなせた。
そんなエミリアは両親や使用人達、周りの人達からの愛に包まれて育った。
――ただ一人、例外はいたけど。
二歳上の姉のデリアは、誰からも愛されるエミリアに憎しみを向ける唯一の人物だった。
煌びやかで美しい両親の特徴をひとかけらも持っていなかった。父方の祖父に似たそうだ。
焦げ茶の髪と瞳の印象に残らない顔をしている。唯一のチャームポイントである奥二重のつぶらな瞳は残念ながら、肉に埋もれていた。彼女は体質なのかストレスなのか、少々ぽっちゃりしていた。
努力をしないせいか地頭の問題か、勉強も苦手でマナーやダンスの飲み込みも悪い。手先も不器用で刺繍や楽器なども壊滅的だった。
姉はこの世の全てを恨んでいた。特に妹の私に憎悪の念を燃やしていた。
いつも不機嫌で物や使用人に当たり散らし、両親の目のないところで恨み辛みを私にぶつけてきた。
「お前さえいなければ、お父様やお母様から愛されたのに!」
「お前ばかり、ドレスを買ってもらって!」
「お前なんて生まれなければよかったのに! お前が生まれてきたせいで、私は不幸なのよ!」
どうすればよかったのか、未だに正解がわからない。
幼い頃は戸惑うばかりだった。
確かに両親は子供にもわかるくらい、エミリアばかりを可愛がり、物を買い与え、デリアに無関心だった。
だから両親に「お姉様に買ってあげたら? 私は前も買ってもらったから、いらないわ」「お姉様と一緒にお茶会に行きたい」と子供なりに知恵を働かせて訴えてみた。
しかし両親は「お前は本当に優しい子だね。心配しなくて大丈夫だから」とエミリアの評価を上げるだけで、姉の扱いが変わることはなかった。
「この偽善者! お前からの施しなどいらないわ!」
「憐れんでいるの? よけい惨めになるからやめて!」
「そうやって、優越感に浸ってるんでしょ? 嫌らしい」
姉のためを思ってした行動や態度は余計に、彼女を怒らせた。
気を遣ってもだめ。優しくしてもだめ。
姉の十歳の誕生日に刺繍入りのハンカチをプレゼントした。それを目の前で破り捨てられ踏みつけられた。
姉との関係の修復を諦めた。それからは、できるだけ姉の目に入らぬようにして過ごした。
そうこうしている内に姉は部屋に引きこもるようになった。食事も部屋で取るようになり、顔を合わせることはなくなった。
時折、姉の部屋から使用人を罵倒する声や物が壊れる音がしたが、私にできることはなにもない。
極稀に顔を合わせた時には、相変わらずギラギラと憎しみに満ちた目で睨まれた。
◇◇
あれは十四歳の誕生日の前日だった。
興奮して寝付けなかった私は、部屋から出て廊下を歩いていた。踊り場の出窓から月でも眺めようと思ったのだ。
「エミリア」
「ひっ!!!」
暗がりに立っているのは久々に見る姉だった。
引きこもっているせいか、どこかすえたような匂いがして、背は伸びていないのに更に肉が付いたように見える。
顔には吹き出物が出来ていて、どこか愛嬌のあった顔も恐ろしい魔女のような相貌になっていた。
姉の異様な様子や外見より、醸し出されている殺気に気圧される。
――今日こそ本当に殺されるかもしれない。
本気で命の終わりを覚悟した。
「ふふふっ。お前がその体でいられるのも今夜までよ。せいぜい満喫しておくことね」
それだけを言うと姉は静かに部屋へと消えた。
その場にへたり込む。短時間の姉との邂逅でびっしょりと汗をかいていた。
そこまでだったのか――。
今まで憎み嫉まれているとは思っていた。でも、先ほど感じたのは紛うことなき殺意。
殺したいくらい憎い。私は姉にとってそんな存在なのだ。
翌朝、目が覚めてほっとした。
――私、生きてる。
もしかしたら、昨晩のあれは夢だったのかもしれない。
仮に現実にあったことだとしても、さすがに貴族令嬢が妹を手にかけることはしない。心配しすぎな自分に笑った。
体を起こそうとして違和感に気づく。
いつもより部屋が暗い。そして、なにか腐敗しているような匂いがする。
エミリアが起きる時間には侍女がカーテンを引き、部屋に光を入れてくれているのに。
それに寝室に飾られている花の香りではなくて、古びた匂いがする。
視野がいつもより狭い。
「!!」
自分の手を見て驚く。むくみなのか脂肪なのか、ぱんぱんに腫れた手。
体が重く、顔や背中が痒い。
ぞくっと背中に悪寒が走った。
嫌な予感がして、ベッドから転がり落ちるようにして這い出す。
「ひっ!!!」
部屋は一夜にして様子が変わっていて、花瓶の欠片や本などが散乱し、食べ物の腐敗臭がする。
壁一面に呪詛のような言葉が書かれていて、床には怪しげな模様や図形が描かれている。
窓にかかる重いカーテンはぴったりと閉じられていた。
息苦しくなり、思わず部屋から飛び出した。
「あはははははっ!! 本当に成功したわ! あーはっはっはっは。こんな、こーんな愉快なことってないわ」
廊下に出ると、そこには高笑いする自分の姿があった。
混乱の最中、私が私に告げる。
「ふふふふふっ。私とあなたの体を入れ替えたのよ。これからはデリアとして、地に這いつくばって生きるといいわ! これからの長い人生、地獄を味わいなさい! ああ、体が軽い! 最高だわ。今日のエミリアの誕生日パーティー、あなたも出席するのよ! ふふふっ。きっと無様でしょうねぇ……」
私の姿形をした姉が去ると、もつれる足を叱咤して部屋へと戻る。散乱する物を避けて、クローゼットの扉を開ける。扉の裏側にあるヒビが入った鏡には、顔色をなくした姉の姿が映っていた。
「体を入れ替える……そんなことが……本当に?」
そんな話聞いたことがない。まるで出来の悪いおとぎ話のようだ。
黒魔術や呪術と呼ばれるものが存在するのは知っているが、眉唾物で信じている者などいない。
でも部屋の壁や床にあった不思議で禍々しい図形や文様から、姉の執念が滲み出ていた。
――姉の私への憎悪と執着が、体の入れ替えなんて有り得ない事態を引き起こしたのだろうか?
しばらく呆然としているうちに、使用人達が働き出す時間になった。
エミリアの誕生日パーティーの準備で、屋敷はいつもよりせわしない雰囲気に包まれている。
デリアが部屋で蹲っていても気にする者はいない。
「さぁ、こういう時は初動が肝心よ」
私は自分に言い聞かせるように言葉を掛けると立ち上がった。
何が起こっているかはわからないけど、気持ちを切り替えて動かなければ。
異常事態でも、冷静に次の手を考えられるのは王太子妃教育の賜物だろうか?
部屋から廊下に出た。
ちょうど通りかかった侍女に声をかけるものの、頭を下げて足早に立ち去ろうとする。
「私を誰だと思っているの?」
腹から声を出すと、こちらを見る目が恐怖に見開かれた。
「呼び止めているのだから、きちんと用件を聞きなさい」
「あの、私はエミリア様専属なので……」
「だから、なに? 主家の者に声をかけられたら、立ち止まり用件を聞いて人を呼ぶなりして対応すべきでしょう? 担当でなかったとしても。急いでいても。そんな教育も受けていないの?」
伯爵家の使用人達は職務はこなすものの、感情で動くところがある。エミリアを過剰に世話して、デリアをぞんざいに扱った。当主夫婦の行動に倣ったのかもしれないけど、伯爵家に仕える使用人が令嬢の扱いに、自ら差をつけてはいけない。
普段、姉は癇癪を起すことはあっても、正論を淡々と説くことはない。年若い侍女は今度は驚きの表情で固まっている。
「あなたが忙しいなら、二、三人、手の空いている侍女を呼んで。ちゃんと職務を遂行できる侍女をね」
「あの、本日はエミリア様の誕生日パーティーで……」
「あなたは侍女長なの? 人や物事を仕切る立場なの? 話にならないわ。侍女長を呼んでちょうだい」
侍女はしばらく呆然としていたが、目をぱちぱちと瞬かせると足音を響かせて走って行った。
それから一時間経った頃、ようやく侍女長が姿を現した。
「デリアお嬢様、また我儘ですか? 侍女達を困らせるのは止めて下さい。今日はエミリアお嬢様の誕生日パーティーで皆忙しいのです。あなたに構っている暇などないのですよ」
厳しい表情を浮かべる侍女長は、両腕を組み子供に言い聞かせるような態度だ。エミリアだった時は、彼女の微笑む顔しか見たことがない。
「あなたは誰に仕えているの? 何のために働いているの?」
「……それは伯爵様で、……伯爵家のために」
「雇っているのはお父様だわ。使用人を取り仕切っていて、権限を持つのはお母様。でも、伯爵家に仕えているのでしょう? それなら伯爵家の令嬢の世話をすることも仕事の一つではなくて? あなたは職務を放棄すると言うの?」
きつい物言いになってしまったのは、いくらエミリアが諫めても変わらなかった使用人達への怒りからだ。
仕える家の令嬢の扱いに差をつけるなど以ての外だ。一番悪いのは、それを許し放置した両親だけど。
最近の姉の態度が酷いからというのは理由にならない。彼らは姉妹が物心つく前から、子供でもわかるくらい扱いに差を付けていたのだから。
「……しかし、今日はエミリアお嬢様の誕生日で」
「これはあなたたちが愛してやまない妹のためでもあるのよ。あの子の希望で、今夜の誕生日パーティーに私も出ないといけないの。エミリアに確認してもらってもいいわ」
「……エミリアお嬢様……なんと慈悲深い」
「妹の晴れ舞台に、こんな姿では出られないでしょう? 湯を用意して、支度をしてちょうだい。ドレスの準備もお願い。それなりに見える……というか体が収まるなら地味でもなんでもかまわないわ」
「……」
「あと、この部屋を片付けて。こちらは急ぎではないわ。価値のありそうなもの、判断に困るものは倉庫へ。汚れていたり匂いの付いている物はカーテンなんかも含めて全部処分。その間、空いた客間を使うから準備してちょうだい。指示は以上よ」
「……」
「忙しいのはわかっているわ。でも、こっちだって想定外なのよ。申し訳ないけど、なんとか対応してちょうだい。できるわよね? ポーレット伯爵家の侍女長なのだから」
いつも機敏に動く彼女が惚けたままなので、パンッと一つ手を打つ。
「わかった?」
「ハイッ。かしこまりました!」
侍女長はまるで幽霊でも見たように顔を引きつらせて、やっと返事をすると小走りで去って行った。
誕生日を華々しく祝われているエミリア。隣には婚約者を愛おしそうに見つめる王太子。
美男美女の二人がいる空間だけ、ここが斜陽の伯爵家だと思えないくらいの華やいだ雰囲気だ。
両親をはじめとして、招かれた貴族達も彼らを眩しそうに見つめている。
「なんか、うさんくさいと思ってたのよね、彼」
手元の葡萄ジュースをぐびっと一気に飲み干す。
会場の片隅にいる私の周りに人気はない。
ビュッフェスタイルのデザートコーナーから、次々と可愛らしいドルチェを皿に盛る。伯爵家のパティシエは腕がいい。エミリアが甘い物が好きなので両親が腕のいい菓子職人をどこかから引き抜いてきたらしい。あの頃は体型を気にしてほとんど食べられなかったけど、今日ばかりは好きに食べさせていただく。
「真実の愛なんて、あるわけないわよねー」
彼はきっとエミリアの外見だけを愛していたのだろう。
体を入れ替えても表情や仕草は姉のままだ。あんなに近くに居ても、違和感を抱かないらしい。
本来、王族ましてや未来の国王の婚約者が幼い頃に定められることはない。
本人の資質や、その時々の情勢を鑑みて成人前に慎重に決められる。
それなのに裕福でもない伯爵家の令嬢が七歳で王太子の婚約者に据えられた。ただ彼が一目惚れした、という理由だけで。
婚約者として、それはそれは大事にされた。
手紙は欠かさないし、ドレスやアクセサリーも衣装部屋に収まり切らないくらい贈られた。
二年前に入学した貴族が通う学園でも、登下校や昼ごはんの時間を共に過ごし、寵愛している様子を周りに見せつけている。
でも結局、エミリアの外側だけを愛でていたのだろう。
「別に全然、惜しくないけど……」
頬を染め、王太子をうっとりとした目で見つめる姉を見ても、私の胸が軋むことはない。
金髪碧眼の王子様。婚約者に関しては我儘を通したが、優秀な彼は次代の施政者として評判が良い。
幼い頃に結ばれた婚約者を大事にし、溺愛する様子は更に好感度を上げている。
普通の女の子なら、恋に落ちていてもおかしくない。
でもエミリアにそんな余裕はなかった。
王太子の婚約者として、ギリギリ身分が足りない。それなのに望んでもいないのに婚約者に選ばれた。
七歳の頃から王太子の婚約者、未来の国母というプレッシャーを掛けられ、必死になって必要なものを身に着けた。勉強、語学、社交、マナー、ダンス、手習いの楽器、刺繍。それに王太子妃教育も。
毎日、すべきことに追われて、彼にときめく心のゆとりはなかった。
だから王太子の婚約者の座が欲しいなら、喜んで姉にくれてやる。
「私の努力ってなんだったのかな~」
私にとって代わった姉は得意げな顔で、王太子に贈られた見事なブルーのドレスに身を包んでいる。
表情だけでなくマナーや所作が身に付いていない姉の動きは、いつものエミリアとは違って優雅さに欠けていた。
それなのに、婚約者はもちろん両親も誰一人として気づかない。
ダンスの練習をしたことのない姉は、王太子からのダンスの誘いを必死に断っているようだ。
「うらやましがってばっかりいたお姉様には、私も地獄にいたなんてわかんないんだろうな~。人をうらやましがる時には光だけじゃなくて、陰もちゃーんと見なくちゃね」
エミリアの外見を愛する両親や婚約者、使用人達は過剰に干渉して、世話をする。
そこに自由はない。
王太子の婚約者として、常に品格を保ち優秀で、美しくなければいけない。
人前で優雅に振る舞いながら、裏では毎日クタクタになるまで努力を重ねていた。
いつも必死だった。
みんなの理想のエミリアから外れないように。王太子の婚約者として相応しいように。
だって美しさや王太子の婚約者という立場を無くしたら、きっと誰にも愛されない。そんな気がしていたから。
愛される妹と放置される姉の違い。
それは美しいか、美しくないか。
その美しさに見合う中身があるかどうか。
まるで薄氷の上を歩いているような気持ちだった。
気の休まる時なんてなかった。
「さぁ、この体で行けるところまで、行きましょうか!」
姉は憎しみに囚われるあまり視野が狭くなっていた。きっと物事を俯瞰して見ることは私の方が得意だ。姉の体や立場だって、決して悪い物ではないのに。
普通は美しい体が醜い体に入れ替わったら発狂して、誰彼構わず訴えるだろう。
そして、体を再び入れ替える術はないか捜し回るに違いない。パーティーの様子を見るに、そんなことをしても無駄だろうけど。
私はそんなことはしない。
無駄だからじゃない。もう、エミリアに戻りたくないからだ。
気合いを入れるために、もう一回ドルチェを一通り攫うことにした。
◇◇
あれから三カ月経つ。
醜い姉と体を入れ替えられてしまった美しい妹は、自分の状況に悲嘆にくれて……いなかった。
今まで出来なかったこと、主に娯楽を楽しもうと奮闘していた。
護衛と侍女を連れてカフェにも観劇にも行った。
休学していた学園に復学し、そこそこ勉強もしつつ、図書室で恋愛や冒険小説を借りて読み漁り、刺繍や楽器を楽しんだ。
「あー最高~」
ようやく自室を自分好みに設えて、悠々と午後のお茶を楽しんでいるところだ。
姉の部屋からは、呪術や黒魔術の古書や、黒魔術の材料となる薬草や干した黒トカゲや貴重な鉱物が山ほど出てきた。それらを出入りの商人に売り払ったらけっこうな額になった。
それを元手に部屋の物をできる限り入れ替えて、心地よい空間を作り出したのだ。呪いの言葉で埋め尽くされていた壁紙も好みの物に貼り換えた。残金とお小遣いで、遊び回っているという次第だ。
ミニサイズのマカロンを口に放り込む。やっぱりポーレット家のパティシエの腕は最高だ。カラフルなだけではなく、色によって生地の味が変えてある。
ふむ、これは苺味のようだ。甘いだけでなく酸っぱさも感じられる。
「なにがいいって、人目がないことよね」
エミリアの周りには常に人が侍っていた。
家にいるときには両親や使用人達が。学園では王太子や取り巻きが。
そして常に誰かの目があった。
もちろん好意的なものもある。
でも、中には欲を孕んだべったりしたものや、蹴落としてやろうと一挙一動を見張るようなものあった。一番堪えたのは、姉の憎しみに満ちた目。
眠る時以外は気を抜けなかった。
生きているというよりは、皆が求めるエミリアを演じている、そんな心地だった。
「このくらいの、ほどよい可愛さがいいと思うの」
規則正しい生活のお陰で、ぷるんっとした感触になった頬に手を添える。
愛嬌のある奥二重の瞳に、小ぶりな鼻と口。美人ではないけど愛嬌はある。
荒れていた肌や髪の手入れを侍女にしてもらうようになってから、それなりに見られるようになった。
太っていた体も、だいぶ絞り込めた。
女性は痩せていて華奢な方がもてはやされるので、貴族令嬢の基準としてはまだ太っている方だ。
でもエミリアの時のように、好きな甘い物を我慢してまでこれ以上痩せようとは思わない。
本人はかなり劣等感にまみれていたが、姉は醜いわけではない。確かに神が造りたもうた最高傑作である妹と比べられ続けたら、心が折れてしまうのも仕方がないことかもしれないけど。
人から注目を浴びたいと思わない人種にとって、飛び抜けた美しさは不要だ。
「ふふっ。体を入れ替えてくれたお姉様に感謝しなくちゃいけないわねぇ」
こうして、大好きな甘い物も楽しめる。
「さてさて、どこまで読んだっけ?」
最近はまっている冒険小説の続刊へと手を伸ばす。
エミリアだった時は、自分がなにを好きかを表明すると大変だった。
「マカロンが好き」と言った日には両親や婚約者はおろか、信奉者からの差し入れがマカロン一色になる。
「冒険小説が好き」と言った日には、その著者の作品が山のように積まれるだろう。
ああ、その前に婚約者に「そんな庶民が食べるような物は似合わない」「冒険小説などという野蛮な物は止めておきなさい」と止められていたかもしれない。
全方位に気を遣う生活からの解放感に思う存分浸っていた。
◇◇
一方、切望して体を入れ替えた姉の方は苦戦しているようだった。
私に嫌味を言ったり自慢したりする余裕すらない。
「あらあらあら……大変そ」
家族揃っての晩餐で、優雅にナイフとフォークを操りながらもエミリアに目が行ってしまう。
音を立てたり、酷い時はカトラリーを落としたり。
王宮でのお茶会や晩餐会ではどうしているのだろう?
マナーの講師も驚いているだろう。
食事のマナーや所作は頭で理解しても、実践するのは大変だ。エミリアだって日々、試行錯誤して身に付けていったのだ。
一人部屋で好きな物を好きな時に、無作法に食べていた姉には難しいだろう。
私だってデリアの太い指と不器用さのせいでなかなか思うようにいかない。でも、今のエミリアよりは優雅に見えるだろう。
冷静に見れば、デリアの所作の方が美しいのだが未だに気づく者はいない。
両親は多少、首を傾げているけど、エミリアに注意することも話を聞くこともない。
「偉い偉い、でも成り代わりたかっただけあって、がんばってるのよね」
鴨肉のソテーを味わう。甘酸っぱいソースと絡み合っておいしい。
姉は時折、癇癪を起しているが日々、成長している。
エミリアは頭の回転が速くて、器用なのだ。
姉の以前の部屋の様子から見るに、引きこもっている間、勉強していたようには見えない。
ひたすらエミリアを呪う方法とか入れ替わる方法を探して、恨み辛みを垂れ流していたのだろう。
そんな人間が何年も努力していた人間に追いつくのは、至難の業だろう。
でも体を取り替えてと言わないところを見ると、それなりに満足しているのかもしれない。
「自分で望んだのだから、がんばってね。お姉様」
姉のことから意識を切り離して、目の前のおいしい食事に集中することにした。
「あらあらあら……大変そ」
復学した学園で姉を見かける度にそう思う。
学年が違うので、校舎は違うのだが食堂や中庭などでどうしても顔を合わせることがある。
もっとも人の輪の中心にいる彼女は、隅でひっそりと過ごしている私に気づいていないだろうけど。
どうやらエミリアの取り巻きが替わったようだ。
子爵令嬢や男爵令嬢など身分が低いが、裕福な者ばかり。
外見は可愛らしいが、王太子や側近達への距離感がおかしい。
「けっこう、苦労して派閥を作りあげたんだけど……。崩壊するのは一瞬ね~」
貴族名鑑を頭に叩き込み、家門や爵位のバランスを考慮し、最新の情報を収集する。幼い頃から頭をフル回転させて周りを固め、学園で派閥を作った。将来、王太子妃になった時のために。婚約者の利になるように。
取り巻きは友達ではない。王太子の婚約者の座を虎視眈々と狙っている者もいた。それすらも利用し、必要と思う人材を傍に置いたのだ。居心地がいいわけがない。
残念ながら、姉はそんな状況に耐えられなかったようだ。
「蹴落とされないように気をつけてね」
遠くから健闘を祈る。
以前の取り巻きの令嬢は、隙が出来た姉を蹴落とそうと動き出すだろう。
新しく取り巻きになった、無礼な下位貴族達は捨て身で王太子を落とそうとするだろう。
彼女の周りに味方はいない。
◇◇
体が入れ替わって半年が経った。
相変わらず、体が元に戻る気配はない。
「あああああ!! もー、なんで思った通りに動いてくれれないのぉぉ! 中指ぃぃぃ」
今まで、教えられたらすんなりできたのに、デリアの頭と体ではそうはいかない。
ぽっちゃりした指は器用に動いてくれない。頭で思い描く動きと現実の乖離がひどい。
「だめだ、楽器はだめだ。あああ、せっかく自由な時間が手に入ったのに……」
音感もないのか、好きだったバイオリンもキーキーキーキーと耳障りな音がするばかりで上達する気配がない。家令に頼んでつけてもらった講師も匙を投げた。
「醜いわねぇ……」
振り向くと久々に見るエミリアの姿。
以前あった人を惹きつけるような輝いたオーラがなく萎びて見えるのは、私だけだろうか?
「無駄よ。お姉様。足掻いてなんとか人の気を引こうと頑張っているようだけど、不細工がいくら努力したって誰も見てくれないわよ。それに頭も悪くて不器用で、努力したところでなにもできやしないわ」
確かに、私は姉の体になって苦戦していた。
姉は思った以上に頭の出来が悪くて、音感も運動神経もなくて、手先も不器用だった。
今までは簡単に覚えられていたのに、一つのことを理解し覚えるのに時間がかかる。
ダンスで華麗にステップが踏めないし、楽器も刺繍も壊滅的だ。
この体になって自由を得たが、いいことばかりではない。
一方の彼女は、この半年で見違えるように成長した。
以前のエミリアには敵わないものの、所作も驚くほど美しくなった。
懸念されていた社交も、王太子の助言を得て立て直している最中だという。
ようやく私に嫌味を言う余裕まで出来たようだ。
目が飢えたようにギラギラしていて、それだけが姉の名残のように思えた。
「なにもできない上に、不細工で豚みたいに醜く太っていて。ああ、可哀想!!」
「本当にそうよねぇ」
私もそう思う。
必死になってエミリアを演じているあなたを見て、可哀想だと思っている。
お互い様だ。
◇◇
入れ替わりから一年が経って、王太子がやたらと絡んでくるようになった。
それまでは、同い年であるにもかかわらず、デリアの存在を無視していたくせに。
伯爵家や学園で、顔を合わせるたびに説教してくる。
卒業まで一年を切って、婚約者もいない姉は彼にとって頭の痛い存在なのかもしれない。
『なんで、お前は自分を諦めているんだ?』
先日言われた言葉は、ちょっと刺さった。
「まぁ、くやしいけど、あいつの言うことも一理あるのよね」
学園の裏庭にある池のほとりでスケッチを始める。
ここは空の青と辺りに広がる緑が良いバランスで、天気がいいと澄み切った池に周りの風景が映り込む様が見応えがある。
「確かに、このままではいささかまずい……後妻か、介護妻かぁ……」
スケッチの手を止めて、うーんと考え込む。
デリアに無関心な両親が縁談を用意してくれることはないだろう。
学園でもデリアに声を掛けてくれる令息や令嬢はいないし、自分で縁を繋ぐことは難しい。
スタイルも悪いし、顔はそこそこ。夜会で見染められることはもっと難しいだろう。
このままでは後妻か訳あり妻コース一直線。
「けっこう、詰んでるのよね~」
なにせ頭の回転や物覚えが悪い。
エミリアだった時の十倍は学ぶのに時間がかかる。
最低限の学力や語学力はあるが、文官や家庭教師などで自分の身を立てることは無理だ。
そうかといって、手先も不器用で要領も悪い。
王宮や高位貴族の家で侍女をすることも難しい。
「勉強、料理、刺繍、歌、脚本、楽器……」
芸術的な才があれば、道が開けるかと思って、色々と試している。
音感も文才も全くない。
今のところ、絶望的。
「唯一、絵だけはいい線いってるんだけどな~」
パラパラとスケッチブックをめくる。
ないない尽くしの姉だが、どうやら絵の才があるようだ。
幻想的な絵が描ければ本の挿絵。人物を描ければ、肖像画。画家としての道が開ける。
しかし、上手に描けるのは写実的な風景だけ。
「なんの腹の足しにもならないぃぃ~」
白紙のページを開き、木炭を走らせる。
他所事を考えながらも、手は止まらない。
目の前にある風景を正確に写し取って行く。
下書きの段階で、どの色をどこに乗せるか考えずとも感覚でわかる。
やはり老人の後妻くらいしか道はないだろうか?
優しくて人徳のある人なら介護生活も出来るかもしれない。
とにかく私はのんびり暮らしたいのだ。
愛などという不確かなものは求めない。
「ははっ。腹の足しになるかもよ?」
なんの気配もなく人が現れて、目を剥いた。
どこからか曲者が現れやがった。
安全な学園の中ということで油断しすぎていたかもしれない。傍に置いてあった絵筆を構える。
「そんなんじゃ、なーんの攻撃にも防御にもなりませんよ。ね。筆を引っこめて、商売の話をしませんか?」
ジト目で目の前の男を観察する。
一応学生服を着ている。タイの色は最終学年を示す緑色。
襟元には、金色に光る船を模したピンバッチ。
「金色?!」
「おぉー。これがなにかわかってるんだ。さすがは未来の王太子妃のお姉様!」
彼が指先で弾いたピンバッチは一介の学生が持てる物ではない。
大陸共通の商人の証で、グレードごとに色分けされている。
金色は王室などとも取引のある商会のもので、大陸中の国をフリーで通行できる。
「なーんだ。偽物かぁ……」
本物そっくりだけど、偽物に違いない。
だって、彼自体がとてつもなく胡散臭いから。
濡れたような黒髪とその間から覗く黒い目。
左の目元にある黒子。唇も赤くて艶やかだ。
妹とは違う種類の美形で、色気が全身から滴り妖艶な雰囲気を放っている。
おまけに人好きのする笑顔を浮かべている。
「いやいや、本物だって!! 一応、学園も見てみたいから留学生として最終学年に在籍してるけど、君より五歳は上だし! ね、それよりお金に困ってるんだろ? 君の絵を言い値で買い取るよ!」
「詐欺師……?」
「この国では風景画は売れないだろう? でも北の国で最近、昔の絵が発掘されてね。なんの変哲もない写実的な風景画をその国の公爵が気に入ったお陰でブームになって、こういう絵が高値で取引されているんだ!」
彼が必死になればなるほど怪しさが増す。
「本人は、のほほーんとしているのに、この殺伐とした寂寥感のある絵。これはいけるよ! ね。一枚買い取るから。お金が必要なんでしょ? じゃんじゃん描いて、売ってよ!」
「……」
「信頼はおいおいってことでいいから。ほら、介護後妻になるしか道がないんだろう?」
一体、こいつはいつから独り言を盗み聞きしていたのだろうと、余計に不信感が増すのであった。
学園の裏庭で遭遇したマルクは、怪しい男だった。
とにかく、胡散臭い。
それなのになぜ一緒に行動しているかというと、寂しかったからだ。
姉と体が入れ替わって一年、お一人様ライフを楽しんでいたけど人との会話に飢えていた。
マルクはお金にも女にも、不自由していない。
たぶん面白いからっていう理由で、私にちょっかいをかけているのだろう。
彼が飽きるまで、こちらも利用させていただくことにしたのだ。
「今日はありがとうございました」
今後のために自分でお金を管理したいと言うと、大陸共通の商業ギルドに登録することを勧められた。
知らなかったのだが、商人でなくても登録することができるらしい。
そして親切なことに、なにも分かっていない私につきあってくれたのだ。
何枚か絵を買い取ってくれて、その代金も納めた。
「私を煮て食べようとしてる?」
胡乱気な目を向ける私を見て、腹を抱えて笑っている。
「どうせ、食べるならアレにしよう」
ひとしきり笑った後に彼が指差したのは串肉の屋台。
「……」
食欲を刺激する匂いにつられて、フラフラと屋台に近づく。
自分の二の腕とこんがり焼けた肉を見比べる。
これ以上太ったらやばいのでは?
「今日は私のおごりです」
匂いに負けた。ギルドに預けた時の端数のお金で二本買って、一本を彼に差し出す。
先ほど、硬貨の種類と使い方も教えてもらった。
「男前だなぁ。ありがとう」
いつもの胡散臭い笑みではなくて、子供みたいな笑顔。
焼きたての串肉がおいしくて、マルクの笑顔が嬉しくて、いつの間にか一緒に笑っていた。
いつものお気に入りの池の傍のベンチで、今日は絵を描くのではなく本を広げている。
図書室に一冊だけあった、一つ国を挟んだ先の都市の本。
「自由商業都市……。すてきな所みたいねぇ……」
マルクが暮らしている場所。お隣の国を挟んだ先にある都市だ。
我が国とは全然、制度が違う。王侯貴族などの身分制度はない。
統治は民の代表が選出されて行っているようだ。それも一人ではなく複数人の組織で運営されている。
どうやら女性も生きやすい国のようで、治安もいい。
「そーだ、そーだ。いい所だぞ。海も自然もいっぱいある。絵も描き放題だ」
今日もいつの間にか現れたマルクをジト目で見る。
やっぱり、胡散臭い。
どこにでも現れるストーカー男。
妹を付け回すなら分かるけど、卒業を間近にしても私の傍をうろちょろしている。
「妹と仲は悪いし、王族に繋ぎはつけられないわよ。本当になにが目的なの?」
「なにって今さらぁ。お友達でしょ? 俺達」
「商人が得にならない時間の使い方をするはずがないでしょう?」
彼の襟元で輝く金色のバッジをつつく。
時折、外せない商談があるようで学園には来たり来なかったりだ。
でも定期的に私の元へ顔を出す。
「そうだねぇ……益にならないことはしないのは確かだね」
いつもの埒が明かないやり取りに、ふぅっと一つため息をついた。
「確かに夢のような場所ね。移住する条件は、商業ギルドで登録があって、犯罪歴がないことだけ。でも暮らし続けるには、それなりにお金がないと無理」
商業都市の名の通り商売をする者が集う場所で、民には平等に高額な税が課されているし物価も高い。
「詰んでるわ~。夢だけ見させてもらったかんじかな……」
パタンッと本を閉じた。
「一個だけ、方法がある」
「やはり私を売るつもり? 食用として」
「だから、そこから離れろよ。契約結婚、しない? 俺と」
質の悪い冗談に怒りが湧いてきて、思わず彼を睨みつける。
「普通の女の子なら、はいって即答すると思うんだけど!」
なぜか彼は腹を抱えて笑い出した。
「あなたのメリットはなにかしら?」
「絵だよ。君の描く絵はこれからすごい値がつく」
「……それを無償で渡せば、養ってくれると?」
「あと、商人って結婚してた方が信頼されるんだよねー。ご夫人や令嬢の誘いもうっとうしいし、夫も警戒するんだよね、寝取られないかって。でも俺、結婚願望なくってさ。全然マメじゃないし」
「ふむ」
この国が、息苦しいのは事実。
介護妻か? 怪しい商人の契約妻か?
どの道、ギャンブルに変わりない。
それなら、自分の人生を賭けるとしたら――。
◇◇
あの子が消えた。
せっかく妹と入れ替わったのに、全然思い通りにいかない毎日。
傍から見ていた時は両親や王太子に愛され、使用人や周りの令息や令嬢からチヤホヤされているだけに見えたのに。
王太子の婚約者として課される知識、マナー、語学力、ダンス、社交の腕。
更には手習いの楽器や刺繍まで。
全方位、気が抜けない。
妹より二年多く生きてきたけど、勉強も何もしてこなかった分、必死になって睡眠時間を削って身に付けるしかなかった。
妹は頭が良く、器用だった。お陰で、この二年間でなんとか必要最低限は身に付いた。
それでも、家庭教師や王太子は怪訝そうな顔をする。エミリアを溺愛する両親は無条件で愛してくれているのに。
中断された王太子妃教育は一切、進んでいない。
周りに自慢し、妹をいびり踏みつけにしようと思っていたのに、そんな余裕はなかった。
気付いたら、妹は卒業を前に姿を消した。
両親に聞いても、「気にするな。お荷物がいなくなっただけ」と埒が明かない。
伯爵邸の彼女が使用していた部屋は、家具に埃除けの布がかかり私物は全て処分されていた。
まるで、元からこの家に存在しなかったように。
王太子に尋ねると、「確認してくる」と席を外した後に、数刻して顔色を悪くして現れた。
「伯爵家から除籍し、平民となって結婚し、自由商業都市へ移住したようだ」
「結婚?」
「ああ。結婚相手は留学生として来ていた商人だ。留学生といっても、商人の気まぐれというか……視察みたいな一時的なものだが。伯爵夫妻は多額の支度金と珍しい鉱物と姉をあっさり引き換えたようだ」
「へぇ」
扇で隠した顔にうっすらと笑みを浮かべる。
あれだけ目障りだった妹は、不細工で残念なデリアのまま平民となり結婚し、平民が暮らす国へ移住した。
平民になったのは別にいい。
商人の妻、というのも。でも、妹のために相手が大枚を叩いたという所が気に食わない。
でも、あんな醜くてなんの役にも立たない妹を愛する者など現れない。
きっと、伯爵家に払った以上の金で売り払われるのだろう。
遠くへ行ったあの子を、助けてくれる人などいない。
妹が幸せになることはない。
ざまぁみろ。
でも、どこかモヤモヤする。
ぎりぎりと爪を噛んだ。
私が王太子妃となり幸せを見せつけて、落ち着いたら妹にひどい嫁ぎ先を用意してやろうと思っていたのに。
もう手の届かないところへ行ってしまった。
この目で不幸のどん底に落ちる所を見たかった。
その夜、妹と体を入れ替えるのに使った呪術の道具にはまった石が一つ割れた。
手のひら大の道具の中央に並ぶ二つの石。
これを使用する前は透明だった二つの石は、私と妹の血を垂らすとそれぞれの瞳の色に変わった。
緑とこげ茶の石。緑色の方が割れた。
それを見て高笑いする。
この道具が繰り返しの使用に耐えるかはわからないが、二つの石がそろわないと起動しないと聞いている。
これで永遠に私と妹の体が入れ替わることはない。
大丈夫。すべては思う通りに進んでいる。
その後もエミリアとして、多忙な日々を過ごした。
でも、あの子が移住したと知った日から王太子の様子がおかしい。
二年後に無事結婚式を終え、夫は義務的にこなした初夜で「エミ」とつぶやいた。それは幼い頃の妹の愛称。
初夜を終えると呪術の道具にはまったもう片方の石も割れ、跡形もなく崩れ落ちた。
夫はたぶん、気づいたに違いない。
私達姉妹が体を入れ替えたことに。
義務は果たすけど心は許していないし、もう愛おしい者を見る目で私を見ない。
それどころか時折、殺しそうな目で見てくる。
それはかつて、私が妹に向けていた目だ。
憎悪と妄執にぐるぐるに絡めとられている者がするような。
自分を憎んでいる夫の隣で幸せなふりをする。
いつまでがんばればいいの?
どこまでがんばればいいの?
煌びやかだけど、まやかしの世界で。
確かに頭は回転する。知識もどれだけでも詰め込める。
何か国語覚えたらいいの?
刻々と変わる国内外の情勢を、どこまで追えばいいの?
どれだけマナーを体に叩きこめばいいの?
人の表情や言葉の裏をどこまで読めばいいの?
気が狂いそう。
暗殺未遂に誘拐未遂。
この美しい容姿に惹きつけられたのか、王太子妃としての立場を狙っているのかはわからない。
周りにいる全ての人間が信用できない。
それなのに唯一心を許せるはずの伴侶を頼ることはできない。
欲しかったはずなのに。
この国の女性としての頂点。権力。美しさ。寵愛。
綺麗なドレスと宝石。
人からの羨望のまなざし。
全部奪って、手に入れたはずなのに。
なのに、ちっとも幸せじゃないのはなんで?
もう、私に逃げる場所はない。
◇◇
マルクから契約結婚を持ち掛けられて、二つ返事で頷いた。
大陸に名だたる商家というのは本当だったようで、伯爵家と直接交渉に挑んだ彼。
支度金と言う名の大金を叩いた上に珍しい鉱物まで付けて、私を伯爵家から除籍することに成功した。
そして伯爵家から籍を抜いて平民になった私を連れて、自由商業都市へと移動して結婚した。
契約結婚という話だったのに、彼の親族と友人と商会の人達に囲まれて盛大に結婚式をしたし、白い結婚でもなかった。
結婚してからは、海の見える街でのんびり絵を描いて過ごしている。
かつて私が願った通りの悠々自適な生活。
彼は仕事に飛び回っているけど、月に一度は顔を出してくれる。
そんな生活が続いて一年後、彼に全てを話した。
一緒に生活を共にするうちに自然と彼に惹かれて、マルクのことをすっかり信頼していたからだ。
「その話が本当だとしてさー、なんで体を戻そうとか復讐してやろうとしなかったわけ?」
現実主義の彼は半信半疑のようだ。
大陸中を駆け回っている彼でもそんな話は聞いたことがないという。
「めちゃくちゃ怖かったんだって! あれは体験しないとわからないわよ。嫉妬なんていう可愛いものじゃない。憎悪、殺意。そんなものを実の姉にずーっと向けられているのよ。殺されるよりマシだと思ったし、それに自分の体や立場に未練はなかったから……」
姉の捻じれて歪んだ強烈な思い。
命も尊厳も、全て根こそぎ奪われてしまうのでは? という恐怖が常にあった。
あの恐怖を感じながら生きる位なら、自分の体に戻れなくてもよかった。
冴えなくて、なにも出来なくて、残念な姉のままでいい。
平穏に暮らせるのがなによりの望み。
だから、原因も探らなかった。
古の魔術か、黒魔術か、呪いのようなものか?
異国の怪しげな道具なのか?
それを探るのすら怖かった。
姉の体になって、冷遇されるくらい可愛いものだ。
命までは取られないし。
「マルクは、エミリアの体の方がよかった?」
自由商業都市に来てから食べ物が合っていたのか、痩せてそれなりに綺麗になった。
痩せても妹のような目の覚めるような美人になったわけではないけど、そこそこイケてると思う。
たぶん。そうだといいな。最近、情緒がちょっとおかしくて、彼には可愛いって思われたい。
「うううん。いや、どっちでもいいけど。君が心地いいほうでいいんじゃないか? 君こそ、俺に付いて来てよかった?」
「ふふふっ。騙されて売られても仕方ないって思ってたけど……。当たりクジを引いちゃったみたい」
「確かに生き生きしてるな。ワンサイズ小さくなったけど、健康そうだし」
目の前で顔を傾げている端正な顔を見て、胡散臭いと思うことはもうない。
「前のサイズ感の方がいい?」
「うーん、ぷにっとした肌触りはよかったけど、今の腕で包み込めるサイズ感もいいなぁ」
そう言いながら抱きしめられる。
契約結婚だなんて言いながら、こうして気軽にスキンシップを取ってくるから質が悪い。
「要はどっちでもいいと?」
「うん!」
「絵を描けてよかった……」
夫となった彼にすっぽりと包み込まれて、安堵の息を漏らす。
確かに将来が不安になる日もあったけど、恐ろしいくらい理想通りの暮らしが手に入った。
それもこれも、残念だと思われていた姉に絵の才能があったからだ。
願わくば、彼に本当に愛する人が現れませんように。
「まぁ、絵がうんぬんは別にして、どのみち攫ってたけど……」
夫のつぶやきは小さくて聞き取れなかった。
お互いの想いが重なったことを確認した後すぐに、私は妊娠した。
彼は商人としての仕事の引継ぎをした後、貯めたお金でギャラリーを開いた。
審美眼があるのかなかなか潤っているようだ。
ギャラリーには、なぜか私の絵は飾られていない。やっぱり素人が描いたものはダメなのかもしれない。
商品にはならないみたいだけど、私の絵をマルクが気に入っていて二人で暮らす家のそこかしこに飾られている。
残念だと言われていたデリアの周りには幸せが溢れていた。
◇◇
その取引に立ち会ったのはただの好奇心だった。
たまたま立ち寄った国で、ちょっと悪い商売もする叔父に付いて行った。
貴族令嬢だという魔女のような女に、体を入れ替えられるという異国の呪術の道具を大金と引き換えに売りつけた。
それがエミリアの姉のデリアだった。
眉唾物の代物だし、売買したのは叔父で俺に責任はない。
それでも気になって、その国に居座り事の行方を見守った。
学園にごり押しして、留学生としてこの国に滞在し、仕事の合間にポーレット伯爵家の姉妹を観察する。
妹は相変わらず光り輝いていて、姉はそのうち学園から姿を消した。
そろそろ引き揚げるかと思っていた頃のことだった。
潜り込んだエミリアの十四歳の誕生日パーティーで二人を見てすぐに分かった。
――ああ、本当に入れ替わってしまったんだな……
まっすぐに妹を見る姉。
瞳の色や姿形は変わっても、姿勢の良さと澄んだ瞳は変わっていなかった。
しばらく気になって、学園で姉妹を観察してみた。
姉の方は当然だが、苦戦している。
それでも周りは一切気づいていなかった。
それなのに、あいつときたら!
なんだかのんきに暮らしていた。自由を謳歌して、色々な事に挑戦している。
肩の力が抜けて、罪悪感がなくなった。
初めて声をかける時、声が震えた。
贖罪の気持ちがあったわけじゃない。
絵の才能があると思ったのも本当だけど、なにより本人をもっと知りたくなったからだ。
姉が憎しみに囚われなかったら、と思う日もある。
容姿にも能力にも恵まれなかったけど、絵の才はあったのに。
そうしたら、それを見てくれる人と幸せになれたかもしれないのに。
そして妹もそのまま光り輝く道を進めたかもしれない。
契約結婚と言って、連れ出して妻にしてしまった彼女に今でも聞きたくなる。
――王太子妃になりたかったか? 元の体に戻りたかったか? と。
もしかしたら、大陸中の伝手を辿れば解決策があったかもしれない。
叔父に聞けば、解呪する方法が分かったかもしれない。
でも、俺はその努力を放棄した。
彼女に契約結婚を申し込んだのは、のんびり彼女が暮らせる基盤を提供して、それを見守るためだ。
多少心は許してくれていたけど、俺に恋愛感情がないのはわかっていた。
それでも絆されてくれないかなっていう期待はあったけど。
俺の家族や仕事仲間に紹介して、盛大な式を挙げる。これで彼女の基盤は揺るぎない物になった。
申し訳ないけど、初夜だけは行った。叔父から、彼女の姉に売りつけた異国の呪術の道具の効果は、対象が異物を体に入れることで定着すると聞いたからだ。要は彼女が純潔を失ったら、体が元に戻ることはなくなる。
平民になって全然文化の違う場所に放り込まれても、相変わらずマイペースで楽しそうに暮らしている。
あまり毎日は顔を合わせたくないかなと、わざと仕事で忙しくして月一くらいで帰っていた。
でも彼女の傍が心地良くて、顔が見たくてその頻度は段々短くなっていって、一年が経つ頃には月に一度出張するくらいになっていた。
そして突然、姉と体が入れ替わったことを告げられた。久々に罪悪感がちくちくと胸を刺す。
「……名前を失ったことを後悔していない? 今、エミリアじゃなくてデリアと呼ばれていることに」
美しすぎる容姿も王太子妃という立場にもなんの未練もないと、あっけらかんと言い切る妻に気になっていたことを聞いた。
姿形はともかく、生まれた時から親しんだ名前を失って、今も他人の名前で呼ばれることに違和感はないのか気になっていた。
「うーん。私、エミリアって名前があまり好きじゃなくて。あの時はエミリアって役を演じているかんじがしたから……。まぁ、あの姉が使っていた名前っていうのは多少ひっかかるけど。デリアとしての人生を新たに生き直していると思っているから、別にいいかな」
「……ふーん、そうなのか……」
「あと、私、マルクのこと好きになっちゃった」
「え?」
突然の愛の告白に戸惑う。いつ話が切り替わったんだ?
「だから、他に愛する人ができたら言って欲しいの。すぐに離縁するから、私の絵を全部買い取って欲しいの。それでできればこの家は譲って欲しくて、マルクには別の土地に住んで欲しいなって」
「は? 待って。どういうこと?」
「だから、私達、契約結婚でしょ。契約書を読み直してみたけど、離婚の条件とかは書いてなかったから、ちゃんと確認しておこうと思って。マルクに他に愛する人ができたら、当然離婚するんでしょう? マルクを好きになっちゃったから、さすがに目に入るところでいちゃいちゃされると堪えるし、私はこの街が気に入っちゃったし……」
「あー……。あーあーあー」
全部、俺に勇気がなかったせいだ。
あの国にいた時にとっくに好きになっていたクセに、及び腰になって契約結婚なんて言っちゃったから。
「あのさ、俺もデリアのこと好きなんだけど」
「え? いつの間に? ということは両想いなの? 離婚しなくていいの?」
目を輝かせて嬉しそうにしている妻を見ていると、自分のヘタレ具合とか物事の流れなんてどうでもよくなる。
「うん。契約結婚はおしまいにして、普通の夫婦になっていい?」
「もちろん!」
契約結婚でなくなっても、俺のすべきことは変わらない。
これからも彼女が幸せであるよう尽くすだけだ。
いや、違う。
幸せにしてもらった幸運な男は、俺の方なのかもしれない。
なんでも大らかに受け止めてくれる妻の笑顔を見て、そう思った。




