足枷を外されて自由になった私ですが、あなたに繋がれた首輪はいつ外れるのでしょう?〜手のひらの上での踊りっぷりにはかないませんわね〜
貴族の子息令嬢たちが通う王立学院には、騎士候補生が剣技を磨くための訓練施設がある。
最奥に位置する第二演習場は、通常であれば人目につかない場所だ。
「はぁ……」
にもかかわらず、そこにはいつも人だかりができていた。
(またやっているわ……)
木製の塀の隙間から覗き込むと、歓声が聞こえてくる。
『フルニエ様、素敵ですわ!』
『さすがは学院一の剣士ね』
『フルニエ様は、次期筆頭騎士の座も夢じゃないわ!』
オリビアはため息を吐き、光景から目をそらした。
中央で汗を光らせて剣を振るうのは、自身の婚約者であるフルニエ。
名門公爵家の次期当主であり、将来を嘱望されるエリート。
オリビアもエリートの婚約者として、周囲から羨望の眼差しを向けられる存在だった。
だが、フルニエが常に心を奪われているのは、彼が師と仰ぐ騎士団長の娘、リーゼだ。
リーゼは見習いだが、有望な女騎士として有名で、美しくも勇ましいその姿は、多くの生徒の憧れを集めていた。
フルニエは学院に入学するやいなや、リーゼのもとへ弟子入りを志願。
それ以来、女性のお尻を追いかけることに夢中になっている。
婚約した当初は、週に一度は手紙をくれることもあった。
けれど最近は、とんと手紙の返事すら途絶えている。
それでも、オリビアは特に何も言わない。
深い問答の末。
(彼にとって、ただの付属品でしかないの?)
そう思えば、胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。
この感覚は、自分でも不思議と心地よかった。
次の週末には、王都の広場で大規模な模擬試合が開催される。
皆、その話題で持ちきり。
騎士志望の令息たちが、実力を示す重要な場で、フルニエももちろん参加する。
去年もフルニエは模擬試合に出ていた。
婚約者のオリビアは義務感で彼の雄姿を一目見ようと、早朝から席を取って応援に行く。
すると、彼は試合直前までリーゼの横に座って、真剣な顔で剣の構え方について助言を求めていた。
試合が終わると、真っ先にリーゼのもとへ駆け寄り、感想を請う。
犬のような姿を見て、心の中でため息をつくことしかできなかった。
婚約者として渋々、祝福の言葉を伝えようと手紙を書いたが、フルニエからの返事は来なかった。
薄っすら、察していたけれど、がっかりだ。
模擬試合の当日、会場には向かわなかった。
代わりに、王都で開かれている慈善バザーに足を運んでいた。
毎年、この時期に開かれるこの催しは、貧しい人々を支援するためのものだ。
豪華なドレスではなく、動きやすいシンプルなワンピースに、顔が隠れるほどの大きな帽子を被って出かける。
会場には様々な露店が並び、活気に満ち溢れていた。
(ああ、清々しい!開放感が違う)
久しぶりに、自分のためだけに時間を使っていることに気づいた。
フルニエを追うことも、彼の手紙を待つこともない。
ただ、好きなものを見て、好きなものを手に取る。
ガラス細工の露店で、精巧な鳥のオブジェを眺めていると、背後から声をかけられた。
「おや、珍しいね。こんな場所で君に会うなんて」
振り返ると、そこに立っていたのは隣国から留学している第二王子、ルイスが。
彼とは、学院で何度か顔を合わせたことがあるが、深く話したことはない。
きょとりとなる。
ルイスはニヤリと笑うと、オリビアの手に持っていた鳥のオブジェを指差した。
「気に入ったのかい?それ、私が作ったんだ」
「え?」
思わぬ言葉に、オリビアは目を丸くした。
ルイスは、優雅で気品のある立ち居振る舞いから、芸術には全く縁がないと思っていたから。
「意外かい?まぁ、君の婚約者殿は私のようなナヨナヨした男には興味がないだろうしね」
少し寂しそうな表情を浮かべた。
思わず、ルイスの顔をじっと見つめてしまう。
「あぁ、すまない。他意はないんだ」
慌ててそう言ったが、オリビアは彼の言葉に深く考えさせられた。
(彼は、フルニエ様と同じように、孤独なのか)
ルイスは、隣国の王族という立場上、周囲から常に一線を引かれている。
親しい友人さえもいないという噂だ。
ふと尋ねた。
「あの。ルイス様も、今日は模擬試合に行かないのですか?」
ルイスは少し驚いた表情を浮かべると、ふっと微笑んだ。
「うん。だって、行く理由がないからね」
胸が締め付けられるような気がした。
同じ孤独を抱える二人は、そこから何時間も話し続けた。
オリビアとルイスが話し始めて数時間が過ぎた頃、ふいにルイスが立ち上がる。
「そろそろ行こうか」
「え?どこへ?」
オリビアが首を傾げると、楽しそうに笑う。
「君の好きな鳥のオブジェ、こっそり買っておいたんだ。このまま君と話し続けていたら、日没になってしまう」
ルイスの手には、先ほどオリビアが見ていた鳥のオブジェが丁寧に包まれている。
「私、何も言ってないのに」
オリビアにルイスは不思議そうに目を丸くした。
「ああ、すまない。てっきり、君が欲しがっているものだと思って。余計な真似をしてしまったかな」
ルイスは、自分の言葉に気づいたように顔を赤くした。
「いや、違うんだ。君が嬉しそうな顔をするのが見たくて」
オリビアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
キュッとなる。
こんな風に、自分の気持ちを汲んでくれる人は、これまでいなかった。
フルニエはいつも、リーゼのことばかり。
周りの人は、オリビアの地位にしか興味がない。
そんな中、ルイスはただオリビア自身を見てくれている。
「ふふ。ありがとう、ルイス様」
ルイスは嬉しそうに微笑む。
「どういたしまして。それから。えっと、今日は楽しかったよ、オリビア」
名前で呼ばれたことに、オリビアは驚いた。
ルイスはいつも「オリビア嬢」と呼んでいたから。
「私も、楽しかったです、ルイス様」
夕焼けに照らされた二人の影が、王都の賑やかな通りに長く伸びていく。
その頃、模擬試合の会場では、フルニエがリーゼに剣の助言を求めていた。
フルニエはオリビアの不在に気づくこともなく、リーゼとの時間を楽しむ。
オリビアは、もうそのことに今更悲しみを感じることはなかったが。
心の大部分が、ルイスとの穏やかな時間に満たさる。
(もう、彼を追いかけるのはやめよう)
決意した。
新しい風が吹き始めたような、清々しい気持ちになる。
慈善バザーでの出会いから、オリビアとルイスの関係は少しずつ変化していった。
学院の図書館で偶然会った時、ルイスは隣に座って他愛のない話をしてくれた。
庭園でスケッチをしていると「よかったら、僕の絵のモデルになってくれないか?」と微笑んだ。
彼は決してオリビアを追いかけず、ただ静かに寄り添う。
穏やかな時間の中で、少しずつ自分を取り戻していく。
呑気なフルニエの方はというと、オリビアとの婚約をほとんど忘れかけているようで。
学園のホールで開かれた夜会でも、フルニエはリーゼの隣を離れず、オリビアには目もくれない。
周囲の令嬢たちは、オリビアの惨めな姿を見て嘲笑を隠さず。
だが、視線に傷つくことはなんてない。
(もう、どうでもいいもの)
そう思えるようになったのは、ルイスの存在が大きかった。
午後、学院の温室で、珍しい花の手入れをする。
温室の扉が開き、不粋な婚約者のフルニエが中に入ってきた。
顔を無意識にしかめたが、引っ込める。
彼は、婚約後初めて、オリビアに用事があってと言い、話しかけてきた。
「オリビア。話がある」
フルニエの顔は、なぜか苛立っているようだった。
(怒りたいのは私なんだけどね)
何かと思っていると、彼は続けた。
「リーゼが、僕と君の婚約を解消するよう、君に忠告するように言ってきた」
オリビアは何も言えずに、ただフルニエを見つめた。
ぽかんという他、ない。
フルニエは不満そうに続ける。
「リーゼは、君が僕の足枷になっていると言っている。これ以上、君のせいでリーゼの気分を害するわけにはいかない」
聞いても、オリビアの心は不思議なほど静かだった。
普通はひどく傷つき、泣き出していただろう。
今は、怒りも悲しみも湧いてこない。
無関心、他人事。
オリビアは、静かにフルニエに問いかけた。
「フルニエ様。あなたは、本当にそれでいいのですか?本当に後悔しないのですね?それが、あなたの決めたことなのですか」
フルニエは、少し驚いた表情を浮かべた。
問いは、純粋な疑問だけ。
オリビアは、まっすぐ彼の目を見つめ続けた。
「あなたは、リーゼ様の言葉に従うことで、ご自身の気持ちはどうするのですか?本当に、このまま私との婚約を解消したいと望んでいるのですか?」
具体的な言い方に変えてもフルニエは、何も答えられなかった。
彼は、ただリーゼに認められたい一心で、愚直にも彼女の言葉に従おうとしていただけなのである。
その姿は、あまりにも痛々しく、子供じみて見えた。
正確にいえば、彼の精神面はまだ子供の時のままなのだろう。
オリビアは、静かに花に水をやり続けた。
シャーっという音に、気まずさがあったのか。
男は何も言わずに温室を出ていった。
その日のうち、オリビアの元にフルニエの父である、公爵から手紙が届く。
簡潔な文面で、オリビアとの婚約を解消したい、と綴られていた。
息子も勝手ならば親も身勝手。
オリビアは、何の感情も湧いてこないまま、手紙を丁寧に封筒に戻した。
その翌日。
オリビアは学院の図書館で、ルイスに会った。
オリビアの顔を見て、何かを察したらしい。
「えっと、大丈夫かい?」
優しく尋ねられ静かに頷いた。
「ええ、大丈夫です。もう、何も未練はありませんから」
オリビアは初めて、心から安堵の息を漏らした。
重い鎖から解き放たれたかのように、晴れやか。
婚約解消から数日後、オリビアは中庭のベンチで本を読んでいた。
すると、目の前にリーゼが立っている。
さすがに、びっくりした。
リーゼは、美しい顔に怒りを浮かべている。
横には、困惑の表情を持ったフルニエが立っていて、組み合わせに然もありなん、と思う。
「オリビア様、ほんの少しだけお時間をよろしいかしら」
リーゼの声は、冷たく鋭い。
本を閉じ、静かに見上げた。
「何でしょうか、リーゼ様」
「なっ、とぼけないで。なぜ、あなたは婚約解消を受け入れたの?」
リーゼは、まさか素直に婚約解消を受け入れるとは思っていなかったようだ。
オリビアがフルニエに縋りつき、泣きわめいて、周囲に恥をさらすものだと思い込んでいた。
淡々と答える。
「なぜ、というのは、どういうことでしょうか?フルニエ様が望まれ、ご両親が合意されたことです。受け入れない理由がありません。私の意思を入れる余地がどこに?」
この答えは、リーゼからさらに怒りを募らせた。
「あなたは、フルニエ様の気持ちを弄んでいるの?わざとそうやって、フルニエ様が私に心を向けるのを邪魔しているのでしょう!敢えて引いたのよね!?」
リーゼは、自分の予想と違う態度に、苛立ちを隠せない様子。
見目のよいフルニエが、自分に心酔していることを誇りに思っていた。
男が「オリビアとの婚約を解消する」と言い出せば、オリビアがみっともなく抵抗し、醜い女として晒し者になる。
そうなることを、心より期待していたのだ。
とんでもない騎士も、いたものである。
オリビアは、リーゼの言葉に、呆れたような表情を浮かべた。
「リーゼ様。婚約解消は、あなたの望みだったのでは?なのになぜ、あなたがそんなに怒るのですか?矛盾しているように聞こえますが」
まっすぐリーゼの目を見つめて、続けた。
「私のことを嫌いで、フルニエ様と引き離したかった。それは事実でしょう。でも、私はもう、フルニエ様に未練はありません。どうぞ、ご自由に彼をお連れください。無関係の生徒に絡む暇はないと愚考します」
リーゼの胸に突き刺さった。
彼女は、オリビアが自分を憐れんでいるように感じてしまう。
ただの嫉妬深い女だと、オリビアに見透かされている。
「な、何を!私は、単にフルニエ様が真に力を発揮するため、足枷を外しただけよ!重いものから、解放してあげたのっ」
必死に反論すると、少女は静かに首を振った。
「もしそうなら、確かに足枷でしかなかったということですね。であれば、あなたは私を彼から解放してくれた恩人です」
元になった関係の、フルニエに目を向けた。
「ずっと、先ほどから黙っているフルニエ様。あなたは、ご自身の気持ちで婚約を解消されたのですか?それとも、リーゼ様の言葉に従っただけですか?前も答えてもらえなかったですからね」
フルニエは、またもや何も答えられない。
リーゼに認められたい一心で、彼女の言葉に従っただけの、思考回路しかない。
自分の幼稚さを突きつけられ、顔を真っ赤にして俯いた。
リーゼは、オリビアの辛辣な言葉に返す言葉が見つからない。
思惑通りにはならなかった。
オリビアは惨めになるどころか、晴れやかな表情をしている。
「覚えていらっしゃい。あなたは、必ず後悔するわ。フルニエを捨てたことに」
言い捨てると、リーゼはフルニエの手を掴み、その場を立ち去っていった。
手を掴むのは、明らかに友人の域を超えているけれど?
静かに二人を見送った。
(後悔?する?うーん)
オリビアは、自問自答しながら、心の中では、とっくの昔にフルニエの面影は薄れている。
彼女の心を満たすのは、静かで新し自分。
リーゼとフルニエが去った後も、オリビアの心は穏やかだった。
彼女の人生から、長年まとわりついていた重苦しい空気が消え去っただけ。
その日もルイスはいつも通り、オリビアの隣に座ってくれた。
昨日の事の顛末をすべて話す。
話題性が強い。
ルイスは何も言わず、ただ静かに彼女の話に耳を傾けてくれた。
話し終えたオリビアは聞く。
「あの、ですね。ルイス様は、なぜ仲良くしてくださるのですか?」
彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく返す。
「それは、君と一緒にいると、僕も心が安らぐからさ」
「それは、憐れんでくださっているのですか?」
尋ねると、男は静かに首を振る。
「違う。君は、誰かに憐れまれるような人じゃない。ただ、君の優しさに、僕はいつも救われている」
オリビアの心は温かい水に包まれた。
孤独だと思っていたのは、自分だけではなかったのかもしれない。
友人とは、こういうものか。
一方、フルニエはリーゼと行動を共にする日々を送っていた。
腰巾着のように。
しかし、心には以前のような高揚感はなかった。
リーゼは、オリビアとの一件以来、フルニエに冷たい態度を取るようになったのが一因。
「あなたは、まだオリビアに未練があるのね」
しつこく何度も、フルニエを責めた。
彼が自分の言う通りに動くことを、当然だと思っている。
オリビアとの婚約解消で、フルニエが自分の意志を持つ可能性があると気づき、不安になっている。
フルニエは、リーゼに認められたい一心で、必死に彼女の機嫌を取ろうとした。
犬のように。
それがかえって、リーゼを苛立たせることになる。
「あなたは、本当に弱い男ね。使えないし」
リーゼに言われた日、フルニエは一人、学園の広場に座り込む孤独を謳歌していた。
時を同じくして、オリビアはルイスを連れ立って、楽しそうに談笑しながら広場を歩いてる。
フルニエは、丁度その光景を目にして、胸を締め付けられるような痛みを体験。
元婚約者はかつてないほど、キラキラと生き生きとしていた。
横にいるルイスも、オリビアを心から大切にしているのが、誰の目にも明らか。
(彼女をあんな風に、笑わせることはなかった。いつも、がっかりさせてばかりで)
後悔の念に駆られる。
彼女は、ただの付属品ではなかった。
いつもフルニエを気遣い、支えてくれていた、かけがえのない存在だったのだ。
シカシ、そのことに気づいたときには、もう遅かった。
なにもかも、どうしようもなく。
対するオリビアは、フルニエから完全に解放されていた。
隣には、ルイスという風。
後日談になるが、リーゼは父親から学園での婚約者を意図的に引き裂き、遊んだことを知られて騎士団も騎士も辞めさせられることに。
父親は激怒したのだ。
騎士道にあるまじき行為に。
いずれ、噂は出回りまともな縁談も来なくなるだろう未来を与えられる罰を受ける。
フルニエは、静かに二人の後ろ姿を見つめる。
自分がオリビアに与えた、孤独と、諦めの背中があった。
今、孤独を味わっているのは、自分自身だ。
⭐︎の評価をしていただければ幸いです。