プロローグ 私たちの個人的な正義論を話そう
感傷的に消えゆくのではなく、暴力的に死にたいのだ。
──F・スコット・フィッツジェラ
私たちの正義はエゴイズムに満ちている。常々そう考える。そして悩むのだ。正義とエゴイズムはイコールなのではないか、と。
議論していけばそれは違うのだろう。正義は世界の正しさであり、道徳の道しるべだ。しかしエゴイズムは自分の欲求を満たすが故に正義ではない。自己満足だ。自分が良かれと思って行動したことが必ずしも他者に良い影響を与える保証はなく、下手をすれば害悪となることもなる。それでもかまわず遂行して自分に酔っている様は気持ち悪い。マスターベーションと何が違うのでしょう。
だけれど、正義もそんなものなのではないかと思うのですよ。正義は世界の在り方だ。だが、世界は時代によって変わっている。
野蛮な時代から存在する正義は時代の価値観と品格と世論によって形成され、暴力によって正しさが証明される時代においては暴虐が正義となっていたこの世界で。人種と資源と領土の戦争へと突き進み、勝てば官軍、負ければ死でしかなかった命を消費し尽くしたこの世界で。
何が正義だと言えるのでしょうか?
今もなお、暴力と戦争と謀略が渦巻くこの世界で、何を信じて正義と銘打てるのでしょうか?
私にはもうわかりません。国の為に働いてきた私には、もはや正義の区別がつきません。
正義はなく、大儀もなく。
そんな人形のような伽藍洞の心を持っていても。
あの子たちは、ちゃんと持っているのですよ。
正義と称したエゴイズムを。
エゴイズムに扮した正義を持っている。
己の私利私欲だと理解している。好き勝手やっているだけと笑って流す。
それでもあの子たちは、世界に流されることはなく、薄汚い大人に惑わされることもなく、私のような操り人形になることもなく。
エゴに満ちた正義を抱いているのだ。
ああ。なればこそ。
私なんかに付き従うあの子たちの為に、私は私を捨てられるのだ。
正義もエゴも。全てをかなぐり捨ててでも。
あの子たちに、報いる為にも。