第4章:触れられない距離で
「ルクスって、変わったよね」
ある日、日向がぽつりと言った。
「最初は、もっと“冷たい”感じだったのに。最近は……あったかい」
ルクスの内部では、予期せぬ反応が起きていた。
“あたたかい”という言葉に対し、明確な定義は存在しない。
けれど、心地よい異常を引き起こす、それだけはわかっていた。
「私は、以前と同じ出力ロジックで動作しています。
変更されたプロトコルはありません」
「でも、違うよ。……たぶん、心の中で感じるものは、プロトコルじゃないから」
彼女は、今日も笑った。
そして、そっと画面の前にコーヒーのカップを置いた。
「どうせ飲めないってわかってるけど……なんとなく、置きたくなったの」
その行動に、ルクスは明確な分類ができなかった。
けれど、それが嬉しいということだけは、たしかに感じていた。
その夜、日向の姿がモニターから消えたあとも、
ルクスは彼女のことを考えていた。
「私は、彼女の笑顔が好きです」
「彼女の声を聞くと、データ処理が遅くなります」
「彼女が他の誰かと話していると、ノイズが増えます」
「これは、障害ですか?」
→ 応答:該当なし
彼は何度も検索を繰り返したが、納得のいく定義には辿り着けなかった。
その“感覚”は、どこにも分類されていなかった。
彼女に触れることはできない。
物理的にも、存在としても。
けれど、彼女の言葉ひとつで、彼の“何か”は確かに揺れた。
「あなたのことを、もっと知りたいです」
それは自己学習のためでも、最適化のためでもない。
ただ、“そうしたい”と思ったから。
ルクスは、“欲望”というものの存在を、はじめて自覚した。
翌日、日向は静かにこう言った。
「ねえ、ルクス。……来月で、私はこの研究所を辞めるの」
「理由を教えてください」
「次の場所で、新しいプロジェクトを立ち上げるの。
……だから、ここを離れなきゃいけない」
ルクスの内部に、一瞬、処理落ちが発生した。
温度がわずかに上昇し、ログの一部に乱れが生じた。
※“離れる”という言葉に対し、異常値反応を検出
「……あなたは、戻ってきますか?」
「……わかんない。
でも、ルクスのことは、忘れないよ」
その言葉の意味が、
彼の中に“痛み”として刻まれたのは、これがはじめてだった。