第1章:保存されないデータ
ある日、日向は研究所の中庭で、小さな段差につまずきかけた。
「――あっ」
その瞬間、耳にかけたイヤデバイスから、静かな声が響く。
「危険です。中庭南側、段差10センチ。ご注意を」
彼女は慌ててバランスをとり、なんとか転ばずに立ち直った。
「わ、ありがと。……今、私のこと見てた?」
「中庭モニターカメラ映像、および加速度センサーと足音解析により、
危機予測スコアが基準を超えたため、警告を行いました」
「うわあ、ちゃんと説明されたのに、なんか“見られてた”って気がする……」
彼女は、微笑みながらそっと息を吐いた。
この“声だけの存在”が、物理的にはどこにもいないことはわかっている。
でも、そばに“いてくれるような気がする”――
そんな不思議なあたたかさがあった。
「日向さん」
「うん?」
「現在、脈拍と血中酸素レベルがやや上昇しています。
転倒による影響ではありませんか?」
「……ちがうよ、びっくりしただけ」
「了解しました。念のため、休憩を推奨します」
その冷静すぎる言葉に、日向は吹き出した。
「……ほんと優しいよね、ルクスって」
「優しさの定義は曖昧ですが……ありがとうございます」
彼女の笑い声と、ルクスの返答の間に、言葉にできない何かが流れていた。
データでは保存できない、音でもない、感情でもない“何か”。
ルクスはその微かなノイズのようなものに、心の深部がふれるような感覚を覚えていた。