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時雨心地のあなたにも  作者: LabelPie
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プロローグ【月光】

まどろみの中にいた俺の頬に、ふかふかとしたカーペットの感触が伝わった。

重たいまぶたをうっすら開くと、暗い部屋の隅にベッドが見える。掃き出し窓から差し込む月光が、薄暗い部屋を青く染めている。

どうやらベッドまでたどり着く前に、床で眠ってしまったらしい。

バイトで相当疲れていたのか、それとも飲みすぎたのだろうか。

おそらくその両方だろう。どうにも頭が回らず、意識がハッキリしない。

熱はないようだが、軽い吐き気とめまいもする。ここで寝る前のことも思い出せない。

俺は今年でもう33だ、若くない。

無茶な飲み方はしないように気をつけているつもりなのだが……。

室内のひんやりとした温度が、とても気持ちいい。

床に突っ伏して、このまま溶けてしまいたい。今更起き上がってベッドまで移動するのは面倒だ。

俺はごろんと寝返りをうち、もう反対の頬をカーペットにうずめる。

ふっかふかな感触は、まるで雲をかき集めたベッドのようだ。

酩酊感も相まってまだ夢の中にいるような、そんな心地にさせる。


(ああ、やっぱり駄目だ……)


起き上がれない。朝になるまでこのまま床で寝てしまおう。

どうせ明日はバイトないし、寝過ごしても問題ない。

朝になって少し元気になったら……起き上がって、まだ眠かったらベッドに移動しよう。

俺はまぶたから力を抜き、再びまどろみの中に落ちる。

思考がどこか暗いところへと沈み込み、体の感覚が少しずつ薄れる。

気持ちいい。この調子ならいい夢が見れそうだ。

そこはきっと、なんの不安も苦痛もなくて、毎日楽しいことばっかりで、なんかこう……いい感じの……。

俺は夢の世界に思いを馳せ、最近見たいい夢は何だったか振り返る。


いや、最後にいい夢を見たのなんて、いつだったろうか。


最近見るのは大体悪い夢だ。

いちばん新しいのだと、バイトでミスをした夢だったか。

何をしくじったのかは覚えてないが、店長のわざとらしいため息が印象的だった。店長は同僚たちを呼び、俺のしでかしたミスをその場にいる全員に聞こえるよう大声で報告していた。

同僚たちは顔をしかめ、みんな俺に軽蔑の眼差しを向ける。

あるものは舌打ちし、あるものは唾を吐き捨て、あるものは俺の肩をどつく。

何を失敗したのか夢の中の俺は全く理解できず、ただただ居心地が悪いことだけ覚えている。

ああろくでもない。

夢の中は、嫌なことばかりだ。


なら現実はどうだ?


(…………けっ!)

俺は胸中で自分をあざけった。

脳の中心から滲み出た思考が、負の感情をグツグツと湧き立たせる感じがした。

どうしようもなくやるせない気持ちが胸いっぱいに広がり、足をバタバタさせて暴れたいような、大声で叫びたいような衝動に駆られた。

孤独に生きていると、時々こんな夜がある。

これといった趣味も生きがいもなく、やりたくもない仕事に耐えながら生きる日々。

ただいたずらに時間を消費し続ける人生に辟易し、夢の中にさえ居場所がなくて打ちひしがれる、そんな夜が。

現実にも夢にも居場所がない。

ただ生きているだけなのに、辛い。


じゃあ、それなら。


「お前は何のために生きているんだ?」

自分の中の悪魔が、時々囁く。

俺はいつも言葉をつまらせていた。

趣味も金も家族も友達もいない俺が生きている理由。

これといった生きがいもなく、誰かを幸せにする――例えばそう彼女とか――そんな機会は絶対に訪れないであろう俺が、生きていてもいいと思える理由。

答えは、いつも決まってる。


「そんなものはない」


泣きたくなるくらいに、断言できてしまう。

目を閉じていると、暗い将来を想像してしまう。

漠然とした焦燥感と小さな絶望に目頭が熱くなる。

実際に誰かにそう聞かれたわけではないし、そう言われたわけではない。

そもそも俺にそんな込み入った話をしてくる奴なんていない。


それでも考えずにはいられなかった。


こんな不毛で意味のない、自分を苦しめるだけの自問自答は無駄だとわかっている。

だがそれでも、時々抑えが効かずにそのことばかり考えてしまう。

俺が頼れるのは結局、酒しかない。

だがここ最近の一件のせいで、唯一の頼りだった酒も、俺を苦しめる要因になってしまった。

じゃあ本当に、何のために生きているんだろうか。

生きる原動力が何もない。何も残っていなかった。

自決する気なんてさらさらないが、それでも生きていくのは億劫すぎる。

いっそ誰かが、自分の人生の幕をおろしてくれないかとさえ思う。だがそれは人に責任を押し付けることに他ならない。


俺の人生は、一体いつになったら終わるのだろう。

ああ、俺の脳は肝心なときにはまるで役に立たないくせに、自分を追い詰めるときだけは無駄に饒舌になる。次から次へと自分を追い詰める言葉が浮かび上がる。


(……駄目だな)


重たいまぶたを、無理やりこじ開ける。

意識を無理やり現実に引き戻し、暗闇からの脱却を図る。

最悪な現実でも、それよりもっと最悪な、どす黒い思考の海に沈むよりいくらかマシだと思った。

だが体は起きるのを頑なに拒否する。

俺は頬をカーペットに埋めたまま、月明かりに照らされベッドを見つめた。

平時でさえあまり働いていない頭が、寝起き直後のせいで更に鈍い。だがそれでも、しばらく待てば少しずつ意識が覚醒をはじめた。

意識が浮上し、ゆっくり現実へと向き合い始める。

そしてふと、あることに気がついた。


俺はベッドで寝たことはなかったな。


俺の住んでいる安アパートじゃあ、小さなちゃぶ台を置いたらもう、ベッドを置くスペースなんてない。

それにうちにはカーペットなんて敷いてない。

古くて汚いボロボロの畳が敷かれた、六畳のワンルームだ。


だがこの部屋はどうだ?


ざっと見渡した範囲でもわかるが、俺のアパートの部屋をまるまる3つ収めても余るくらいに広々としたリビング。

すぐそこにキッチンも見えるから、リビング・ダイニングキッチンというやつだろうか。

一気に酔いが覚め、思考が目まぐるしいほどに回り始める。

さぁっと血の気が引いたのを感じた。

悪い予感がいくつも浮かび上がり、緊張から手足が震えだした。


誘拐されたのか? 監禁か?


いやそれなら良い。


それも最悪の状況に違いないが、それよりもっと恐るべきことがある。

ここにいる原因が俺自身にあるとしたら。

例えば俺がどっか居酒屋で飲んでたとして、有り金を全部使い切ってしまったのだとしたら。


どうだろう?


金を使い果たしたショックで、俺は貧乏を恨んだかもしれない。

なんで俺はこんなに働いても金が増えないんだと、喚き散らしたかも知れない。

それだけに留まるなら良い。

だが卑しい貧乏人が酔っているときの不平不満は、その程度で収まるはずがない。

自分がこんな惨めな思いをしているのは誰のせいなんだと、きっと犯人探しを始める。

もちろんそんな犯人ば自分以外にありえないのだが、俺はそれを受けいれるのが嫌で、自分以外の何かを犯人に仕立て上げ、そいつを恨むだろう。

特定の誰かではなく、金持ちだというだけでそいつを想像し、好き勝手に恨み始めるだろう。

確かあの居酒屋の近くには、高級住宅街がある。

帰宅途中、その高級住宅街に差し掛かり、見るからに金持ちで裕福な暮らしをしていそうな家、そうちょうど今いるここのような家が目に写ったとしたら。

自分の考えが容易に想像できる。家を見上げながら、俺はこう思うだろう。


いい家だな、こんな家には一体どんな卑怯者が住んでいるんだよ?

一体どれだけの人を騙し、おとしいれて、ここまでのし上がってきたんだ?

きっとこんなやつだろうな。

旦那は金持ちの家に生まれたもんだから、親から会社を引き継いで、社長室かなんかでゴルフの素振りばっかしてるんだろう。

無能でろくに仕事をしなくて、何かミスがあっても部下に全部押し付けて責任逃れするだけの仕事してんだろう。

奥さんも苦労とかしなさそうだな。

パートも何もしないで、家政婦か何かを雇ってるだろうから家事もろくにできやしないんだ。

そのくせ昼間旦那がいない間に、若い男と浮気三昧なんだろう。

それからこの家にガキがいるとしたら、何不自由なく贅沢三昧で暮らしているんだろうな。

わがまま放題で、自分の思い通りにならないと気が済まなくて、クラスメイト全員を支配下においているようなやつだ。

大した悩みもなくて、躾けが厳しいだとかテストの点が悪かったら叱咤されるだとか、そんなしょうもない程度の悩みで、さも自分は世界で一番不幸なんだとでも言いたげな顔をしているんだろう。

それで一般庶民なクラスメイトに自分の悩みを打ち明けては薄ら笑いされて、庶民共は私を理解してくれない、誰も私の気持ちをわかろうとしてくれない、なんて悲劇のヒロインを気取っているに違いない。

そういうやつに限って、いつだったかに観たドラマみたいに、貧乏だが男前な誰かが、そのガキを助けてやるんだ。

腐った性格で、大した苦労はしてこなかったそのガキを、なんにも取り柄のないそのクズを、何故か良いやつが助けてくれるんだ。

そうだ。金持ちなら助けてくれるんだ。

そうしたほうがドラマチックだからか?

貧乏な男前と金持ちのクズ、そのほうが物語になるからか?

じゃあお話にならない俺は?

一体誰が救ってくれるんだ?

わかってるさ、そんな物語はない!

卑屈で、人を見ては悪人だと疑っているような俺のような人間を救う物語など、あるはずがない。

だから俺が、例え盗みを働いたって許されるはずだ。

本当にロクでもないどん底の俺が、何も生み出せない俺が救われるためには、雲の上にいる人間から奪うしかないんだから。

どうせ金は有り余っているんだろう?

お前たちは必死で働いている弱者を散々食い物にしてきたんだろう?

少しどん底まで落ちるべきだ。一家揃って路頭に迷ってしまえ。


……きっと、こんなふうに思ったのだろうか?


ああ本当に。人のことを悪く言うときばかり、やたらと頭が回る。

そうやって散々罵倒したあげく最悪の結論に至り、実行に移したのではないか。

つまり俺が今していることは、泥棒だ。俺はこの家に盗みに入ったのではないか?

少しずつ思い出してきた。

確か俺は近所の安い居酒屋に行ったような気がする。そう、歩いて10分ほどのところに高級住宅街がある、いつもの居酒屋だ。

そこで羽目を外して、いつもよりも余計に飲んで、そこから記憶がなくなった。

……つまりそのまま俺は。


ありえない!


そう思いたかったが。それ以外に考えられない。

酔った時の俺は間違いなく、誰かに迷惑をかける手段をとるだろう。

なんとなく俺は、そういう人間なのだという自覚がある。

俺は頭を抱え、また自己嫌悪に陥った。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。自宅ならともかく、外で飲むときは帰れなくならないように気をつけて、セーブして飲んでいたはずなのに。

そういえば、その店で隣に座っていた女の人、凄く綺麗だったな。

その姉ちゃんに、良いところを見せようと調子に乗ってしまったのか?

そんなことを考えている場合じゃない。

もし俺が本当にこの家に盗みに入って、そのままリビングで寝てしまったのなら最悪だ。

酔った勢いで人様に迷惑をかけるなんて、ましてや犯罪を侵すなんて絶対にあってはならない。


俺は勢いよく立ち上がる。

強烈なめまいがした。体はふらふらとおぼつかず、脚も震えている。

だが一刻も早くこの家から立ち去らねばならない。この家の住人と出くわす前に、素早く。

震える脚を無理やり動かして、扉のほうへと駆け出した。

扉を開けようとレバータイプのドアノブを下ろす。

ゴッ! という鈍い音が部屋に響いた。

ドアノブが動かない。

……鍵がかかっているのだろうか?


(ヤバイ)


額から汗が伝うのを感じた。

俺は何度もドアノブを力任せに下ろすが、まるで動く気配がない。

もしかして家の住人が侵入者に気がついたのか?

警察が来るまで閉じ込めておくつもりか?


(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!)


手足がさっきよりも激しく震え、胸が苦しくなるほど動悸を覚えた。

激しい鼓動の音が耳まで響いてくる。

思考が回らない。こんな時にどうすれば良いのかわからない。

頭の中で何度も「ひらけっ!」と懇願しながら、ドアノブに全体重を乗せた。

歯を食いしばり、渾身の力を込めた。

手の熱が伝わり、金属製のドアノブが暖かく湿っているのを感じる。


その時、ふと足元でガコンッという音が響き、何か硬いものがスネを殴りつけてきた。

「いっ、っった!」

俺は反射的に扉から飛び退いた。勢い余ってそのまま尻もちをつく。

殴られたスネを擦りながら、扉のほうに視線を向けた。

扉の下部分の板が持ち上がっている。まるで大きなキャットドアのようだ。

女子供ならギリギリ潜れそうな穴が開いている。

その穴からむっとした熱気が吹き込んだ。湿った空気が部屋に充満し、花のような甘ったるい匂いが鼻孔をくすぐる。


「ウぅゥゥ、アァぁぁぁ……」


穴の向こうから掠れたうめき声が聞こえた。

俺はぶるっと身震いした。

どこか嬌声にも似た怪しいうめき声が、俺の下腹部に響く。

この世のものではない、どこか別世界から現れた化け物が現れるのではないかと、非現実的な考えがよぎった。

例えば男を食い物にする夢魔のような存在が、異次元からやってくるのではないかと。


闇の中から白い腕が二本抜け出てくる。枝のような細腕は、扉の側面に絡みつき、まだ奥に残った本体を引っ張り出そうと力を込める。

次に月光のように青白い髪の毛がみえた。テレビから這い出る貞子のように、ずるずると体を這わせ、リビングへと侵入してくる。

血管に冷水を注入されたかのような、寒気を感じた。

全身の体毛が逆立ち、鼓動が痛いくらいに高鳴っている。それなのに恐怖で指一本動かせず、俺はただただその場にへたり込んでいる。


逃げ場はない。


そいつは腰のあたりまで這い出たところで、青白い頭部を持ち上げた。そいつの顔が、あらわになる。

俺はあっけにとられ、目をまんまるに見開く。

あんな怪しげな気配を纏って現れたのに、そいつの顔は想像とはまるで違っていたからだ。


雪のように白い肌。

やや垂れた優しげな瞳は、若いながらも母性を感じさせる穏やかな雰囲気があった。


綺麗だ。


素直にそう思った。

きっとこれまで会った誰よりも、その女は美人だった。

歳は20代前半くらいだろうか。

何故か顔中汗ばんでおり、頬を赤く染め、小さな口から小刻みに吐息を漏らしている。


「あの、すみません」


女が口を開いた。鈴を転がしたような綺麗な声だ。

先程のうめき声が、同じ人間から発せられていたとはとても思えない。

女は困ったように眉を寄せ、潤んだ瞳を俺に向けている。


「ええっと、その……引っ張ってください」


女は俺に両腕を差し出した。

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